3 死亡動機X-14
「……罪悪感から逃げ出すだめの行為だったのかも知れません」
相川さんは、事の経緯を語ってくれた。なるほど、だから相川さんは、崎森君が僕の事を殴ったのを、逆恨みだと言ったのか。
「そして私は、それから、間違いを犯してしまったんです……。今から言うのは、私の懺悔です」
相川さんは、そう言うと、田村さんを見た。田村さんは瞳を振るわせながら、それを見返す。
一体、相川さんは彼女に何をしたんだろう? 僕は疑問に思った。
相川さんは、泣き出しそうな声で言う。
「私は田村さんに、伝えたんです。兄達の関係の事を全部。そして、その事が原因で、天野さんが自殺し、そしてまた崎森君が事故を起こしてしまったとも伝えたんです。直接には、崎森君の事故は私の所為であったのかもしれないのに………」
相川さんは、哀しい顔をする。それで浅野刑事や木下先生を見た。
「だから、その所為なんです。田村さんが、兄の事を恨んだのは。もし、兄が刺された事で、田村さんが捕まってしまうのなら、私が悪いんです。だから……」
相川さんはそう言いながら、泣き出してしまって、語尾の発音をうまく言えないようだった。
そんな相川さんに、哀れむような視線を送りつつ、木下先生が言う。
「相川さん、あなた、どうしてそんな事をしたの?」
相川さんは、泣きながらそれに答える。
「私は…、兄が…、憎かったんです」
「えっ!?」
僕は、思わず驚きの声を上げた。
「なんで…」
あの優しい水島君を、なんで憎まなくちゃいけないのかが不思議だったんだ。
相川さんは、涙を止めると、少し興奮気味に続きを語り出した。
「もちろん、兄が、故意でないにせよ、天野さんを自殺させてしまった事での憤りもありました。でも、それ以上に、私は、みんなから好かれている兄が、私と同じ生い立ちを背負っているのに、明るい性格で仕合せそうに暮らしている兄が、羨ましかったんです。それに…、」
相川さんは何故か話の途中で、急に僕を見た。そして、
「深田君。兄はあなたからも好かれていた……」
と、悲しそうに目を伏せて、そう言った。
僕には、その行動と言葉の意味が、分からなかった、けど…。でも、まさか……。
相川さんは、更に続きを語る。
「同じ双子だというのに、私には呪いの噂話まであって、私はクラス中、いえ、学校中から疎まれていました。しかも、天野さんの自殺まで、私の呪いの所為であるような事を言われていたんです。だから、あの病院での待合室に居る時、田村さんが崎森君の事故が呪いの所為だと言った時、私は誰か一人でいいから誤解を解きたいと、そう願ったんです。そして、その誤解を解く相手は、田村さんが良いと思いました。田村さんなら、私と一緒に、兄を憎んでくれる。そう、思ったからです……」
相川さんは、全部吐き出すと、また泣いた。
すると木垣さんが、その姿を見つめながら、優しく言った。
「でも、大丈夫よ。相川さんに罪はない。相川さんは、田村に話してしまった事を、水島君に伝えてるんだから。それに、水島君が田村に呼び出しを受けたって聞いて、行かない方がいいって、忠告までしてる。相川さんは悪くないよ…」
その話を聞いて、浅野刑事は幸村先生に尋ねた。
「先生。今の話は、本当ですか?」
「ええ、安心してください。本当です。今回の事件で、本当に罪のある人間などいませんよ、浅野刑事」
浅野刑事は、その先生の言葉を聞きくと、神妙な顔をして何かを考え込みだした。そして、再度、今度は相川さんに尋ねた。
「相川さん、本当なのか?君は何故、そんな行動を執ったんだ?」
「はい、本当です。私は、兄の事を憎んではいましたけど、好きでしたから、その明るさも人柄も、尊敬していたんです。……だから、直ぐに後悔して、私は兄に懺悔したんです。私が懺悔する相手は、兄しかいませんでしたから…。学校で、もちろん教室でなんか話はできないから、人気のない場所で話しました。そうしたら、兄は『その所為か』って微笑んで言ったんです。何の事かと思いました。詳しく聞いたら、田村さんに呼び出されているという話を私にしたんです。私は、兄を止めたんですが、兄は『罪滅ぼしだから』と言って、聞いてくれませんでした。それで、私は兄を説得する事を諦め、田村さんの方をなんとかしようと思ったんです。昼休みが始まってすぐに、私は田村さんの教室へと向かいました。ところが、田村さんは既に教室にはいなくって、その時、私は悪い予感を覚えたんです。早く、兄達を見つけなくては、と思い、そのまま生徒会室へと向かいました。生徒会室が一番、二人が居る可能性が高いと思ったからです。そうして私は、兄と田村さんが怪我をしているのを発見したんです」
そうか、僕が完全に自失状態に陥る前に聞いた『兄さん』、という声は、相川さんのモノだったのか…。
僕は思い出していた。
そうして、相川さんは語り終えた。これで、大体の事件の謎は、明らかになったはずだ。ところが、その話を聞き終えると、浅野刑事は訝しげに声を上げたのだった。
「なるほど、大体の事件の流れは分かりました。しかし、それでも僕には分からない事がある。何故、水島君はそれと分かっていながら、田村さんにわざと刺されたのですか?それに、田村さんはどうして相川さんの話をすべて信じられたのです?普通なら、こんな常識から外れた内容は、すぐには信じられないでしょう。それに信じられたとして、どうして水島君の事をそんなに、ナイフで刺してしまおうと考えるほど憎んだのですか?僕には分からない」
否、違うな。
僕は、それを聞いて思った。
浅野さんは、実感できていないだけだ。この事件の内容が、あまりに常識から外れているために、この現実を実感できていないだけなんだ。
だから、そんな疑問を、この場に向けてぶつけたんだ。少し考えれば、そんな事、ちっとも謎なんかじゃないのに…。
そして、その疑問の声にまず初めに応えたのは、田村さんだった。
田村さんは、言う。
「刑事さん。そうですね、確かに一般常識で考えれば、そんな事をすぐに信じられるなんて、おかしいかも知れません。でも、私のいた立場は、普通じゃなかったんです。私のいた立場は、一般常識からは外れていました。なぜなら、私はその水島君達の恋愛関係に加わっていたからです。いえ、正確には、私はただ、崎森君に横恋慕していただけなのですが、それでも同じ生徒会役員で、注意深く崎森君達を見ていた私には、相川さんの話を聞く前から、おかしいと感じられる事はいっぱいあったんです。それに、私は天子…、木垣さんから、深田君の証言の内容を聞いていて、半ばそうではないかと予想すらもしていたんです」
田村さんの言葉を聞いて、浅野さんは木垣さんを見た。木垣さんは、その視線を受けて答える。
「私は天野さんが自殺した事が不思議で、自殺した理由を知りたかったんです。ですから、天野さんの自殺を目撃した深田君に、その事を尋ね、深田君の体験した事を知っていました。その事を、田村にも話していたんです」
木垣さんはそう言うと、今度は田村さんを見て言った。
「あの時、だから田村は何かを考え込んでいたのね…、私にも教えてくれれば良かったのに……。そうすれば、私はあんな…」
木垣さんは、そこで疲れたような顔をした。そして、相川さんを見る。
彼女達にも何かあったんだ。僕はそのやり取りを見て、そう思った。
田村さんは、それに応える。
「ごめんね、天子。私があの時に考えていたのは、天野さんの自殺の事じゃなくて、崎森君達の事だったの。それに、言っても信じてくれそうになかったし、そんなに人に話すような事でもないと思ったのよ。天野さんが自殺しちゃったのは、そりゃあ悲しいけど、その原因を知ったって、どうにもならないし、私には興味がなかったの…。私には、生きていくこれからの事の方が重要だったのよ…」
「でも、あなたはあの時、崎森君が事故を起こした時、呪いの所為だって、泣いてたじゃない…」
田村さんの発言に途中で割り込み、それを訊いたのは、木下先生だった。
田村さんは、そんな質問をされても落ち着いていて、冷静にそれに答えた。
そうだ、彼女はいつの間にか平静に戻っている。泣き出しそうな表情は、今はもうなかった。
「あの時、私は錯乱していたんです。それに天子が、崎森君は自殺したんじゃないかって言って、私はまた分からなくなっていたんです、天野さんの自殺の原因や崎森君達の関係の事が…。恋愛の勝利者の崎森君が自殺しちゃうのはおかしいでしょう。だから、それで、何かの所為にしたくって、私は呪いの所為だなんて言ったんです。本当は、そんな事ないって分かってたのに…」
「それで、その後に亜美から、事の真相を聞いたんだね。崎森君が事故に遭った悲しみと共に……。僕を恨んで当然だよ。全部、僕の所為だ。君は悪くない」
それを言ったのは水島君だった。しばらくの間、黙って皆の言うのをただ聞いていた水島君は、悲しく自嘲的に、微かな笑いを浮かべている。
それを聞いて、慌てて田村さんは言った。
「それは違うわ、水島君。私があなたの事を刺したのは、単なる嫉妬心から。復讐だとか、そんなのじゃないの。嫉妬心の言い訳として、責任を追及するような事を言っただけなの…。今は、それが自分でもよく分かります。天野さんの自殺の時だって、私はその原因なんかに興味はなかった。事故に遭ったのが、崎森君で、そしてやっぱり、崎森君が好きなのが水島君だって知ったから、私はあなたを妬み、憎んだの……。だから、やっぱり罰を受けるべきなのは私なんです。水島君じゃない。幸村先生、だから、かばってくれなくてもいいんです」
田村さんは必死だった。
ところが、幸村先生はそれを聞くと、笑いながら
「いや、やっぱり君は、罰を受ける必要なんてないよ」
と、そう言った。
「何でですか?」
田村さんは、驚いてそう言う。
幸村先生は、それにゆっくりと優しく答えた。
「君は、ちゃんと自省できてるじゃないか。だから、もう充分なんだ。よく一人だけで、そこまで考えられたね。偉いよ」
ところが、幸村先生のその言葉を聞いて、田村さんはまだ不思議そうな顔をしている。見れば、ここに居るほとんどの人は、それと同じ顔をしていた。
そして、その皆の疑問の目に気付いて、幸村先生は、再び口を開いた。講義が始まったんだ。
「いいかい?田村さん。罪や罰という概念を創り出したのは、人間なんだ。だから、それはそもそも絶対的なモノじゃあないんだよ。僕達は、その事を考慮して罪や罰を捉えなければならないんだ。人間は何かしらの"必要"があって、罪や罰を創ったのだと考えるべきだと思う。そして、どうして必要だったのかといえば、それは、規則を守らせるため、秩序を保つため、極論でいえば社会を継続させるために必要なんだろう。だからね、田村さん、君にはもう罰なんて必要ないんだ。なぜなら、君は既に社会に害を及ぼす人間じゃなくなっているからね。"社会"という視点からみれば罰は、更正のための手段なんだよ。この事は、簡単に証明できる。例えば、自首すると罪が軽くなるのは何故だ?もし、罪が絶対的なモノならこれはおかしい。しかし、既に更正が進んでいるから自首をした、だから罪がその分だけ必要ない、と解釈すれば納得できる。他にも精神的な病がその人物の犯罪の原因であった場合、罪は認められない。これは、その人物の更正が刑務所の範疇外で、本来の目的である社会規則を守らせる為には、罰する事ではなく病気を治療する事が必要だからだよ。罪や罰の出る幕じゃないんだ。もちろん、これは罪や罰のある一面だけを抜き取って考えた場合の結論ではあるけどね」
その先生の説明に、田村さんは感動しているようだった。
「分かったかな?」
幸村先生はそう言った。
「はい。つまり"これから"が大事なんですね。ただ、罰を受けても仕方がないんだ」
田村さんは、そう言って納得したみたいだった。でも、果たして浅野刑事はこれに納得して、田村さんの罪を見逃してくれるだろうか?そう、僕が疑問に思った瞬間、誰かが疑問の声を上げた。
「そんなのおかしいです!」
しかし、その声の主は、浅野刑事ではなかった。
「なぜだい?水島君」
幸村先生は尋ねる。
その声の主は、なんと水島君だった。
何でだ?彼は、田村さんが罰を受けるのを嫌がっていたんじゃないのか。
水島君は答える。
「だって、なら、本来なら罰を受けるべきじゃなくて罰を受けている人は、いっぱいいるし、罰を受けるべきなのに罰を受けていない人も、いっぱいいます。罪がそれだけのモノだなんて、それじゃあ納得できません。それに、それに…、それなら……」
それに?それなら?次に出る言葉は、一体どんな言葉なんだ。僕は息を飲んだ。しかし、それを水島君が言う前に、幸村先生が、
「この胸の苦しみは何なんだ?そう言いたいのかい、水島君」
と、その続きを言ってしまった。
幸村先生は、にっこりと笑っている。
水島君は、目を大きく見開いて、それに驚いていた。
「その疑問に答えよう、水島君。原因は幾つか考えられる。まずは、人間が完璧な生き物ではなく、また、罪を犯してしまった人間が更正しているかどうかを見極めるのが、極めて難しい作業であるという点だ。だから、裁判は時間がかかるし、費用もかかる。そして次に、その犯した罪が、実際に社会にとって害になっているかどうか、という点が上げられる。つまり、仕方なく犯した罪や、法律自体が間違っている場合だ。これには、時折、情状酌量の処置がとられる場合があるね。正当防衛による殺人を考えれば、分かりやすいかな」
ここまでを説明して、幸村先生は一端切ると、
「そして最後だ、水島君。多分、君が一番、疑問に感じてる事の答え、そして君の苦しみの理由を、僕は今から言う」
そう言って、また説明をし始めた。
「僕がね、今まで語ってきた罪と罰は、"社会"を視点とした場合の、見方なんだ。しかしそれとは別に、"個人"を視点とした場合の罪や罰も、しっかりと存在する。個人の中にも罪や罰はあるんだ、個人の中の秩序、アイデンティティーの保持をするためにね。そして、この個人単位での罪や罰は、社会単位での罪や罰と混同して扱われる場合が多く、実際に共通している部分もあるんだろうがしかし、完全に同じモノ、という訳でもない、だから、その混同が混乱を生む場合がある。先の僕の考えに、納得できない人がいるのもこの所為だろう。社会、否、文化の中で形成された罪や罰といったモノを、そのまま自分の中の罪や罰にしてしまってるんだ。しかもそれは、"社会正義"というものが普遍である、と信じた上で成り立っているから、そういう人は、必死に、社会正義を守るつもりで、実際は自分自身を守るために、理論的事実を認めないんだ」
幸村先生がそう言い終わると、水島君は、
「それじゃあ、僕が感じているこの、罪悪感は…」
と言って、救いを求める様に幸村先生を見た。
幸村先生は、その視線を受けて応える。
「うん。個人の、君の為だけにある罪と罰の所為だ。君の内にあるね。だから外からは、誰も君の事を罰してくれはしないんだ、それを求めても無理なんだよ。しかしもちろん、君の中に罪の意識があるのは、悪い事じゃあない。君が、しっかりとした人格を持っている証拠だからね。でもね、水島君。それは自殺という手段によって、償われるべきものじゃない。罪とは飽くまで、活きる人間のために必要なモノだ。そして個人にとって死とは、安易な逃避のための手段でしかない。噛み合わないよ、本末転倒が起きている。君は、"活きる"ために"死のう"としていた事になるのだから…」
幸村先生の、そのカウンセリングの様な弁が終わると、水島君は直ぐに反応した。
彼は先生の話を聞いて、幾分かは、さっきよりも落ち着きを取り戻したみたいだった。哀しい視線で、宙を見ながら、渇いた口調で語り始める。
「そうですね、先生。死は逃避の手段です。本当は、僕も分かっていたのかもしれない。いえ、きっと僕はそれが分かっていて、死のうとしていたんです。もちろん、先生が仰った事も僕の中にはありました。でも、僕は、この人生から早く解放されたかった。天野さんが自殺しているのを発見した時、僕が一番に感じたのは、僕の体の秘密が皆に知られるかもしれない、という恐怖だった。天野さんが死んでしまったという悲しみよりも、それを強烈に感じていた。周りの目が恐かったんです。だから、亜美の事も助けられなかった。亜美が学校で、悪い噂に苦しんでいたのに、僕は見て見ぬ振りをしていたんです。そればかりか、天野さんの自殺までも亜美の所為にされていたのに、何も言わなかった。僕は、恐怖と罪の意識との間で苦しみ、そしてまた、罪を告白できない自分自身を嫌っていた。だから、こんな自分を壊したかった。醜い体と醜い心を持った、こんな僕を壊したかったんです」
水島君の告白が終わった。
僕は驚いていた。
水島君も内に苦しみを抱えこんだ人間だったんだ、僕と同じ様に。彼みたいな、素晴らしい人物でも、過ちも犯すし、苦しみもある。当たり前だけど、僕は驚いていた。
そして、僕と同じ様に、その告白に驚いている人間が、もう一人いた。
「兄さんも、苦しんでいたの?」
相川さんだ。
「ああ、僕は怯えていたんだ。だから、無理をして明るい自分を演じていたんだ。よく笑っていたのは、その為だよ。周囲の目が恐くって、誤魔化してたんだ」
彼女は、泣き出しそうな顔になる。
「兄さん。ごめんなさい」
「何で、謝るんだ。謝るのは、僕の方だろう?僕は自分の身を守るために、亜美の事を見殺しにしていたんだから…」
「でも、私は全然、兄さんの事を分かっていなかった。兄さんが、苦しんでいた何て!私は、兄さんの事を憎んでいたわ」
「憎まれて当然だよ…。気にする事はない」
相川さんはそれを聞くと、ワナワナと震え、木垣さんを見た。そして、
「木垣さん。私、もう自殺なんてしない。自分一人だけ、苦しんでいる訳じゃないんだから!」
と言った。
それを聞いて、恐らく、幸村先生や木垣さん以外の全員が驚いた。
「良かったね」
木垣さんは感動したのか、少し涙ぐみながらそう言った。
幸村先生が、その皆の驚きの目に応えるように、説明をする。
「実は、相川さんも、自殺をしようとしていたんだよ。ここに居る木垣さんがそれを止めてね……。僕はその後に色々と相川さんから、この事件の事について聞いたんだ」
「亜美が、自殺を…」
水島君はそう呟いた。
そして、その呟きに反応してか、相川さんは口を開く。
「でも、兄さんが今告白してくれたおかげで、そんな厭な気分は吹っ飛んじゃった。もう、大丈夫。安心して」
多分、水島君に気を使ってるんだ。
水島君は、
「ああ、分かってる。亜美こそ心配なんかしなくていいよ。僕は、亜美に比べれば全然仕合せなんだから。亜美ほど強くはないけど、がんばれるよ。それに僕は、今この場で告白だけはできた。醜い自分を隠してる、厭な自分だけは吹き飛ばす事ができたんだ。死ぬ理由がなくなったよ」
と、言って、少し笑った。
その笑顔には、悲しみはなかった。少し疲れてはいたけど、作り笑いでもなかった。その笑顔は、久しぶりに見る水島君の本当の笑顔だった。
「さてと」
それが終わると、幸村先生は、大きな声でそう言った。
皆、我に返ったような顔をして、先生に注目する。
先生は、言う。
「これでもまだ田村さんを逮捕しますか?浅野刑事。水島君が普通の状態だったなら、田村さんは罪を犯さずに済んだんですよ。何故なら、水島君は興奮状態にあり、しかも自分の中の罪と社会での罪を混同していた。だから、自分を殺せば田村さんが犯罪者になってしまうというところまで、考えが及ばなかったんだ。そうだろう?水島君」
「はい。だから事件の後、冷静になって考えて、事故だと言い張ったんです。もし、田村さんが捕まってしまうような事になったら、僕の中の罪は更に大きくなってしまう。僕は、更に苦しむ事になってしまうんです。それだけは、避けなければいけなかった」
水島君はそう答えた。
幸村先生は、更に言う。
「そういう訳ですよ、浅野刑事。もし、田村さんが捕まれば、不幸になるのは田村さんだけじゃない。被害者の水島君も、相川さんも、木垣さんも、ほぼここに居る全員が不幸になるんです。否、もっと不幸になる人はいるかもしれません。先ほど僕が言いましたよね。罪は、社会の為に必要なモノだと、そして、人間が目指すべきなのは、人が仕合せになれる社会を創る事です。だから、如何なるルールも、人が仕合せになる事を超えて存在してはいけないんだ。浅野さん、悪い結果しかもたらさない決定は、どうかしないで下さい」
浅野刑事はそれを聞くと、溜め息をつき、そして呆れたような顔をし、言った。
「分かりましたよ、幸村先生。幸い、この事を知ってる警察関係者は僕だけだ。闇に伏せておきましょう。これでも融通は利く方だと、自分では思ってますから。それにしても、奇妙な事件でしたね、加害者を逮捕すると、被害者が不幸になるなんて、否、両方、加害者で被害者なのかな?この場合」
その浅野さんの言葉を聞いた途端、皆がホッとした表情になり、その場の雰囲気は一気に明るくなった。
浅野さんが悩んでるのを見て、幸村先生は、笑いながら言う。
「違いますよ、浅野さん。この事件には最初から加害者などいないんです。言ったじゃないですか、罪のある人間なんかいないって。この事件は、単に不幸な偶然の巡り合わせですよ」
そして、皆に視線を巡らせると、
「敢えて、加害者がいるというなら、この場の人間関係全体が加害者ですかね。この事件を生み出した背景そのものが加害者だ。なら、僕もその一因子だ、僕の所為でもある。僕も加害者の一人かな」
と言った。
変だ。
どういう意図で先生がそれを言ったのか分からなかったけど、それは、何でもない事を言った様にも思えるけど、瞬間、幸村先生はとても苦しそうな顔をした。
幸村先生は、まだ何か隠してるのかな?
僕は、その時、この場の陰鬱な雰囲気が明けていく中で、そう思った。
その先生の言葉が、単にこの事件に関する感想を述べたモノというより、もっと意味深なモノとして僕に響いたからだ。
みんな、今回のこの事件では、意志の方向性が奇妙に不幸な方へと流れていた。そんな個人の視点ではどうにもならないような、環境の流動が、この事件の本当に恐ろしい点だったんだ。
皆、自分の見える範囲でしか行動していない。
その事実を突きつけられた感じだ。
僕は、先生のその言葉に、そんな恐怖に近いナニカを感じていた。そして、それは同時に、罪の告白である様にも感じられたんだ。
皆が笑顔になる。
僕も楽しくなる。笑う。
環境が、笑っていたからだ。
これは、僕の意志なのか?
思わず、そう考え込んだ。