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身体検査

「香坂さん、裕志さんに変わりはありませんか?」

 橘家本家の当主、橘晴彦の秘書からの連絡である。

 裕志の血筋は4代前に別れた分家になるので、晴彦は「伯父」ではないのだが、年代的には伯父の世代に当たるため、どの分家の者達も、裕志と世代が同じなら「本家の伯父」と呼んでいた。


「はい。元気にされています。仕事も変わりはないようです」

「フランスに一度行って、色々整理をする必要がありますので、相談のために一度お会いする予定なのですが、ついでに話し合うべき事項はありませんね?」

「……はい、現時点では」

「分かりました」


 香坂は電話を切って、大きくため息をついた。

 香坂の会社は、東京の橘家の依頼を長年に渡り引き受けている。そして香坂は、裕志の担当リーダーという立場にある。

「やっばり、よくなかったな……」

 遥に気持ちが傾いたことを、今更ながら後悔している。仕事に私情を挟む事は、もちろん今までなかった。今後もそれはないと思っている。

 しかし、裕志はそれを信じるだろうか。香坂の仕事は、結果を全面的に信用してもらえてこそ成り立つ仕事だ。その交互信頼を壊してしまったのは、紛れもなく自分だと分かっていた。


 あの駅でのキスの10日後、遥から電話をもらった。香坂から、何度か電話をしたのだが、いつも留守電で、そのことが遥の答えだとは分かっていた。

「香坂さん、本当は会ってお話すべきなんですが、電話でごめんなさい」

「いいよ。電話くれただけで、ありがたいくらいだ」

「香坂さん、ちゃんと考えましたが、ごめんなさい……」

「橘さん?」

「……はい」

「橘さんは、君の気持ちを受け入れると?」

「……はい」

「そう。分かった。彼に、しっかり甘えるといい。遥ちゃんは、今まで頑張って来たから」

「……香坂さん。ありがとうございました」

 本来、このことはすぐに依頼主である晴彦に、先程の秘書を通して報告すべきことだった。しかし、躊躇した。心のどこかに、遥をまだ守りたいとの想いがある。

 いやそんな私情なんかより、しっかりとした現実が待っている。今までの経験から得た、否定しきれない事実。

「いずれ、いやでも報告する時が来る」ということだ。せめてそれまで、ゆっくり甘えさせてやりたかった。

「君が傷つくところを見るのは、少しでも遅い方がいい……」

 香坂は、小さく顔を歪めた。


「遥ちゃん、今月末に僕、フランスに行くことになったから、少し会えなくなる」

 今日は会社帰りに、夕食を一緒にした。遥の「エビチリが食べたい」というリクエストに、中華に連れて行ってもらった。やはりと言うべきか、回転テーブルがあるちゃんとした個室で面食らう。

「もう少し、カジュアルなお店だと緊張しないんですが」と言ってみたが、「ここのエビチリ美味しいから」とのことで、今後のエビチリは、近所のラーメン屋さんで1人で食べようと密かに考えた。

 まぁ、もちろん「ここのエビチリ」は絶品で、密かな決心はすぐに揺らぐことになったのだが……。


 食事も終わり、帰るために駅に向かっている時に、フランス行きを言われた。

「お仕事ですか?」

「いや、父の相続の手続きで、行くことが決まってた」

 橘の父の命日は、遥が橘を助けた日なのだが、その後一度も日本から出国した気配はなかった。もちろん、1泊2日の強行軍で行っていれば別だか、実父を送るのにそんなことはしない。

「……そういえば、お葬式に行ってないですよね?」

「ああ。向こうにはちゃんと家族がいるから」

 あなたも、その家族の一員なのに……。

「……そうですか。向こうは寒いでしょうね」

「川から湯気が上がる季節だね」

「それって、川の水の方が温かいってこと?」

「そう。フランスの冬はどんよりした曇りの日が多いし、東京より寒い」

「風邪引かないでね。あったかくして行って下さいね」

 それを聞いて、橘はくすっと笑う。

「遥ちゃん、まるでさと子さんみたいだよ」

「……だって、待ってる者が言えるのは、それくらいだから」

 待ってる……か。遥ちゃんに言われると、特別な気がするな。

「はい。ちゃんと、暖かくして行ってきます」

 ポンポンと、遥の頭に手を乗せる。

「出発は平日ですか?」

「いや、土曜日」

「じゃ、見送りに行ってもいい?」

「……」

「あっ、ダメならちゃんと言って下さい。一緒に行かれる人がいるんでしょ、きっと」

「いや、来てくれると嬉しいけど、遠いから、面倒でしょ」

「迷惑……ですか?」

「……」

 今回は、橘家の弁護士も同行する。どうしようか……。

「あっ、やっぱり止めときます。そろそろ、美容院行きたかったから、橘さんに会えない日に予約するつもりだったんだ。忘れてました」

 と、にっこり笑った。


 遥ちゃんは、ちょっと気が回りすぎる。一瞬の躊躇も見逃さない。

「遥ちゃん、僕にも考える時間、頂戴。見送り、来て下さい」

「でも、美容院行かないと……」

「遥ちゃん」

 ほんの少し改まった声を出し、足を止めて真面目に目を見る。

「遥ちゃんには、ちゃんと話すっていったでしょ。だから、遥ちゃんも少し僕に気を使わないで欲しいな。じゃなきゃ、その敬語みたいに、いつまでたっても距離が縮まらない」

「……敬語、自然に出ちゃうんだもん。橘さん自覚してないだろうけど、オーラが……」

「……」

 オーラって、何? もう一度歩き出して、念を押す。

「とりあえず、見送り来てくれると、うれしいよ。6日は会えないからね」

「長い……ね。LINEは、しても大丈夫?」

「いいよ。ただ、時差があるのと、ヨーロッパって割とLINE入らない場所が多いから、返信ズレるからね。それだけ知ってて」

「へぇ、そうなんだ。やっぱり遠いんだね、フランス。お見送り、行くね」

「うん。そうやって、敬語じゃないのいいよ。なんなら、『橘さん』も止める?」

「えっ……、無理」

 何て呼ぶのか想像しているのだろう。横顔が、ほんのり赤い。

「何で? はい、何事も練習です。言ってみて」

「……、ひ……ろしさん」

「もう1回」

「ひろし……さん」

「よし、フランス行ってる間に練習しといてね。あと……、ベッドの中では、必ずそう呼んで」

 後の言葉は、耳元まで顔を近づけて、小さい声で言う。

「ひぇっ……」

 へんな声を出しながら、耳まで赤くなった。ほんとに、面白い。打てば響くとは、こういうことを言うのだろうな。


 あれから遥は、2回橘の家に泊まっている。何度その肌に触れても、新しい悦びがある。何より、心が同化することを確認できる、最高の一瞬でもあるのだということを、橘も初めて知った。

 しかし、弁護士に会うことになるのだから、遥には伝えておかなければならないことがある。どう、切り出すか……。


「遥ちゃん、今度の週末、映画でも行こうか」

「あっ、はい。何見ますか……、じゃなくて、何見る?」

「ふっ……、何か見たいものある?」

 遥が急に挑発的な目になる。ん、これは、何か企んでるな……。

「う〜ん、ホラーとか、ど〜お?」

 ほら、やっぱり。では、乗ってみようか。

「……いいよ。僕好きだから」

「えっ……!」

「確か今、ハリウッドで何年ぶりかにリメイクされたのもあったし、有名監督の新作ものとかもあったよね? 『それが見えたら、終わり』

とか?」

「いっ、いや、それもいいけど、いやいや、それは混んでるといけないから、他のにしよう。うん、SFで話題になってるのがあったと思うから、そっちに、しよう」

 くっくっと笑う橘に、遥は気が付く。

「わっ、今のわざとだ……」

「だって遥ちゃん、分かりやすすぎ」

 橘は拳を口に当てて、静かに笑いを堪えている。

「僕がホラー苦手だと思った?」

「……だって、ひ……ろしさんには、似合わない……よ」

「だめだなぁ。ごまかす時、顔引きつってたよ」

「ほんとに好きなの?」

 恐ろしいことを確認するかのように、聞いてくる。

「ううん、苦手」

「うわ〜、いじわるだぁ。怖がらせようと思ったのにぃ〜」

 声を出して笑ったところで、駅に到着した。まっ、名前で呼べたし、敬語じゃなかったし、合格点にしてあげよう。


 シネコンの1番奥の扉から出て、遥の顔を横目で確認する。遥ちゃん、目が真っ赤です。手放しで、泣いたな……。

「よかったねぇ、この映画にして」

「うん。初めて見る女優さんだったけど、よかったね」

「カップルシートも、初めてだった。ありがとう」

「あれは楽でいいね。ずっと遥ちゃんに触れていられるし。……よく、映画館来るの?」

「うん。1人で来たりする。結構多いんだよ、女性の1人。裕志さんは?」

「ほとんどレンタルとか、配信かな」

「寝室のテレビ、大きいもんね。確か、スピーカーもこっち側にあった」

「よく、気がついたね。サラウンドシテムにしてあるから、割と臨場感はあるよ」

「今までで、1番好きな映画は何?」

「うーん、難しいな。あんまり、覚えてないし……。遥ちゃんは」

「昔の映画だと、『誰がために鐘は鳴る』とか、メジャーなところでは、『ローマの休日』とか。そこまで古くないけど、『フィールド・オブ・ドリームズ』も好き」

「ケビン・コスナーね」

「見た?」

「うん。いい映画だった。最後が良かったね。ずっと、車のヘッドライトが行列になってるシーン」

「やだぁ、あの映画、知ってる人少ないの! 私もあのシーンで泣いた。分かってもらえて嬉しい〜。やっぱり裕志さん最高―! だ〜い好き!」

 遥ちゃんは、簡単にこういうこと言うから参る。嬉しさを取り繕う暇がない……。照れるだろ。

「他には?」

「『セント・オブ・ウーマン』とか、『恋のためらい』とか」

「アル・パチーノ?」

「うん。こっちも分かる?」

「『セント・オブ・ウーマン』はね。あれは、僕も好きだよ。タンゴのシーン、すごかった」

「そうそう。かっこいいの。『恋のためらい』もアル・パチーノだよ」

「……遥ちゃんって、オジ専?」

「いやだー、バレちゃった!?」

 うーん、だから香坂さんだったわけ……? って、さすがに聞けないな。

「じゃ僕も、カッコよく年取らないとな」

「……裕志さんはそのままで、OKです。充分カッコいいので……」

 ……! ほらまた。小さい声で言われても、照れることには変わりない。

「遥ちゃん、あんまり誉めないの」

 とまた、いつものように頭に手を置いた。「は〜い」と笑いながら、こちらの様子を楽しんでいるのだから、タチが悪い。まぁ、そのうち馴れるかな。……馴れるか?

「ランチ、どうする?」

「パスタのいいお店がこの近くにあるらしいの。行ってみない?」

「いいね、行こう」


 その店はビルの2階にあり、窓際の席からは、街行く人々の姿を見下ろすことができた。

 今日は割りと暖かな日差しがあるが、やはり外を歩く人達は、ダウンコートやファーつきのコート、マフラーに手袋など、完全装備が目に付いた。

 それでも、女子高生はミニスカートなんだから、同じ女性としても大した根性だと、遥は感心したりしていた。


「遥ちゃん、今度見送りに来てくれる時、橘家の顧問弁護士が一緒にいるんだけど」

 少し橘から視線が外れていたので、いつもと違う雰囲気になっていることに気付くのが遅れた。遥も慌てて気持ちを整える。

「はい」

「僕と付き合ってるって分かるだろうから、伯父に連絡が行くんだ」

「……はい」

「それは、女性に限らず男性でも連絡が行く。そうすると、その人の身辺調査が始まる」

「えっ……」

「すまない。僕も本当にイヤなんだけど、僕では止められない。それに、その調査で救われたことも何度かあって……」

 遥は改めて、香坂の言葉を思い出した。


 ――橘さんの資産、いくらか知ってる? とても君には抱えられない。聡明な君なら、分かるだろう。


 お金目当てに、全ての人が近づくわけではないだろう。でも、時としてそのことに心が傾くことも当然ありえる。私だって、この先どう変わっていくか、分かったもんじゃない。

 やっぱり、お金ってありすぎても人の心を歪めるんだ……。


「いつもそうやって、調査があること、相手に知らせてるんですか?」

「いや、それでは本来の意味を成さないから……」

「じゃ、私にも言っちゃダメじゃないですか」

 遥が寂しそうに笑った。

 その顔を見て、橘は小さく眉を歪める。やはり、無理なのか……。

「遥ちゃんが嫌な思い、少しでもしないようにしたいんだ。僕の所は分家だが、代々当主になるべき人間は、全て同じルールの下にあって、僕だけ特別扱いはしてもらえない。このことで、君が……、君が離れていっても、仕方がないほどのことだと分かってる」

「……」

「でも、遥ちゃんにはそばにいて欲しいから……、ルールはどうでもいい……」

「私の調査結果次第では、裕志さんの方が離れていくことだって、あるよね……」

「……ああ。僕の気持ちは審判の外にある。いつも、力ずくだ……」


 ――君が傷付くのは、見たくない


 こういうことだったのね……。

「じゃ、私が弁護士さんに会わないように、見送りをやめればいいとか……」

「いずれ、分かることだから。普通ならとっくに分かってたはずなんだが……。多分、香坂さんが報告をしていない……」

「えっ……、それは香坂さんの役目なの」

「ああ……」


 2人の間に沈黙が落ちる。2人共、同じことを考えていた。きっと香坂は、遥のためにそうしたのだろうということ……。

「1つだけ約束してくれる?」

 まだ不安を拭いきれない目をして、遥が沈黙を破る。橘は、ゆっくりと頷いた。

「もし私が相応しくないなら、ちゃんと裕志さんの口から聞きたい。他の人に言わせないで欲しい。」

「遥ちゃん、じゃあ……」

「結果が出るまででもいいから、そばにいたい……」

 橘は大きく息を吐いた。まずは1つ、クリアーだ。遥ちゃん、君は強い。

 テーブルの上で手を取って、強く握った。遥が、いつものいたずらっぽい目になった。

「ここ、抹茶パフェも美味しいらしいんだけど」

 その言葉に、橘は小さく目を開く。抹茶パフェ……。

「どうぞ……、召し上がれ……」

 これで許してあげると言わんばかりの笑顔で見つめられ、橘は胸の灯りが大きくなった。自然と笑顔が込み上げる。

「遥ちゃん、ありがとう」

「いいえ。裕志さんにも、一口あげるね。あっ、一口だけだよ」

 了解です。足らなければ、ストロベリーパフェも召し上がれ。

 

 遥は空港の出国ロビーで、大きく手を振った。橘も小さく手を上げる。さっきの感触が体に残っていたから、もう一度戻って抱きしめたい衝動を押さえ込んでいた。

 

「さと子さんって、裕志さんがいない日は来ない?」

「いや、旅行中に1度来てもらうように頼んであるよ」

「じゃその日、私遊びに行ってもいい?」

「……、何か用だった?」

「この間の石狩鍋のレシピ、教えてもらおうと思って。あと、できれば裕志さんのアルバム見せてもらえたらなぁって。この間、どこにあるか、さと子さんじゃなきゃ分からないって言ってたでしょ」

「アルバムなんて、あんまり写真ないよ」

「いいの、いいの。きっと、入学式とか卒業式くらいは撮ったでしょ。見たいです!」

 ふっと柔らかい笑顔になって、釘を刺す。

「じゃ、帰って来たら遥ちゃんのも見せてよ。さと子さんに連絡しとくよ」

「やった。私の写真、驚かないでよ〜。お猿さんみたいだから」

 と声を出して笑う。よかった、君は小さい頃の写真があって……。

「じゃ、そろそろ時間だから」

 (くだん)の弁護士は、少し離れた場所で、スマホを見ている。それを確認しつつ、遥はさっと橘の首に手を伸ばししがみつく。

「早く帰って来てね。待ってます」

 それだけ言うと、すぐまた離れて元の位置に戻った。遥ちゃん……。


 昨夜ベッドの中で、遥はいつもと違って自分から積極的に動いた。

 橘は、夕食の際飲んだワインのせいで、遥が酔っているのかと思ったのだが、途中、遥の体重を受け止めながら「会えないと寂しい」と言われ、それでなのかと納得した。

 そんな遥に煽られる形で、何度も彼女を頂点に導いた。その素肌の感触も生々しいままの別れで、橘も珍しく感傷的になっている。

「うん。よかったら、迎えに来て」

「いいの!? 来る、来る。LINEで教えてね」

「分かった。お土産、何がいい?」

「う〜ん。パリといえば、焼きたてのフランスパン」

「ははっ。それは無理だから、何か美味しいもの買ってくるよ」

「何でもいいよ。裕志さんさえ無事なら」

 今まで、こうやって見送ってもらったことがなかったことに改めて気が付いて、もう、弁護士はどうでもいいからと、遥を抱きしめた。

「じゃ、行ってくるよ」

「うん。行ってらっしゃい」


「随分と、お気に入りのようですが……」

「ええ」

 飛行機に乗り込む前に、弁護士に言われる。

「京都からは、報告を受けておりませんが……」

「そうですか? そのうち行くでしょう」

「……」

 香坂が叱責されることになるのは目に見えていたが、どうしてやることもできない。とにかく無事「身体検査」だけは済ませたい。

 まるで、どこかの総理の任命責任を問われているかのような心地になる。彼女に関して、これ以上の会話は必要ない。


「向こうでの手続きは、スムーズに行きそうですか?」

「はい。粗方は奥様に書面でお知らせして、手続きも済んでいますので」

「そう、よろしくお願いします」

 そう言って、ファーストクラスの椅子に体を預けた。昨夜、遥をなかなか手放せなかったので、あまり寝られなかったから、これからゆっくり寝ることにしよう。12時間半のフライトはまだまだ始まったばかりである。


「香坂ー! お前、何やらかした!?」

 樋口探偵事務所に、所長の怒声が響き渡る。

「はぁ、何でしょう?」

「今、橘家の晴彦氏直々に電話が入った。裕志さんの新しい彼女、香坂は知らなかったのか!?」

 やはり、来たか……。

「名前は、分かりますか?」

「お前が、聞くな! 久留宮遥だ」

「1度、人探しの依頼を受けた人物ですね」

「知ってるんじゃないか。……はぁ、ちゃんと事後の調査もしとけよ。年間契約なんだから、手落ちは許されないよ」

「すみません」

「晴彦氏、かなりのご立腹で、香坂に弁護士と彼女との面会に、立ち会えってさ」

「……」

「あれ、嫌なんだよなぁ。大体女性が泣くからなぁ。でも、それが契約継続の条件だからな。ちゃんと、行けよ」

「分かりました」

「うちの大口なんだから、よろしく頼むよ〜」

 香坂は所長の前を辞しながら、ひとりごちる。

「ふぅ、まいったな」

 晴彦氏は、しっかり分かっている。香坂が故意に報告を遅らせたことを。

 

 身辺調査は直ぐに開始された。普通1ヶ月は掛かる調査を、6日で終わらせなければならない。これも、晴彦氏による指示だった。

 遥本人はもちろん、実家の経済状態、犯罪履歴、勤め先の経営状態まで、ことごとく精査される。

 女性にとって不快なところは、過去の男性遍歴や病歴も調べられることだ。子孫繁栄の視点で行けば、やむを得ない調査ではある。


 今やSNSがあるので、男性遍歴などは調べやすくなっているのだが、幸か不幸か、遥はツイッターやフェイスブックなどを利用していなかったため、元彼情報は世間に出回っていなかった。これは、好条件である。どんな繋がりや流れによって、橘家に悪影響があるか分からないからだ。せめてこれだけでもと、香坂は胸を撫で下ろす。がしかし、調査をする上では、情報がない分大変になるので、部下に手配して調べ上げた。

 上がってくる報告を見ていくと、遥が丸裸になっていくようで、やはり興味よりは、可哀想だとの感情の方が先に立つ。しかし、そこはプロとして粛々とこなしていった。


 遥は、いわゆるサラリーマンの家に生まれた、普通の女性である。実家の負債についても、家や車のローンがあるだけで、あとはクレジットカードの使用も適切な範疇である。

 負債率は平均より下回っているし、祖父母の履歴にも問題はなかった。弟が1人、先天性の心臓疾患で亡くなっているが、これがどう判断されるかは分からない。ただ、香坂には1つ分かっていることがあった。

 

 遥は、通らない。

 

 もう、何度かこの身体検査を調査してきた香坂にとって、結果は目に見えていたのだ。サラリーマンの家庭の女性が、この検査を通ったことは過去ない。

 期限である裕志が帰国する日が、着々と近づいてきていた。

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