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暖炉

「課長、フランス支社から、法的手続きについて確認のメールが来てるんですが、ちょっと私では判断ができず、目を通していただけませんか?」

 橘の席は、課長なので独立している。目の前に課のメンバーの机が6席3ブロックあるのだが、その1人から声を掛けられた。

「メール、こっちに飛ばしてくれる。菱川課長にもCC付けておいて」

「分かりました。よろしくお願いします」


 菱川は、2つ下の橘の部下である。正式な肩書きは「課長補佐」なのだが、わが社の通例で「課長」と呼ばれている。

 法学部出身で、海外の法律のことも勉強と実績を積んできているため、その分野にとても明るく、いずれ課長になるだろう優秀な人材だ。

 橘も一目置いている。いずれ自分を抜いて、上に上がっていくだろう。橘にとっては、どうでもよかった。メールに目を通し、その菱川に内線を掛けた。

「菱川課長、今送られてきたメールの確認済んだら、僕の席まで来てくれるかな。ちょっと、これは判断に迷う」

「分かりました」

 5分後、菱川がやってきた。

「これは、現地の清水さんが言っている通り、契約違反を追及できると思われますが、経営的視点での判断は難しいところです。課長にお任せします」

「そうだな。1度、数字にしてみるか。ありがとう。いつも助かるよ」

「課長、少し休憩しませんか」

「ん……。16時過ぎてるな。今なら空いてるか。7階でいい?」

「はい。ありがとうございます」


 7階には、眺めのいい窓に沿って、15人程が座れるカウンターが設置してある。自販機も置かれているので、軽い打ち合わせや休憩場所として皆が使っている。

 他のフロアにも、何ヶ所か同じような空間が作られているが、7階が一番眺めがよく、人気の場所だった。

「今度の連休、僕、フランスに旅行に行くことになりまして、色々教えていただきたいなと思ってたんです」

「あれ? 確かフランス支社は、何度か行ってるよね」

「はい。ただ、仕事ばかりだったので、観光地はあまり行ってなくて。彼女が初めてだっていうんで、色々案内してあげたいかなと。穴場とかあれば」

「彼女と一緒か……。いいなぁ」


 菱川は、驚いた。橘課長はポーカーフェイスで、あまり感情を表に出さない。怒ったところはもちろん、笑ったところも見たことがなかった。

 元々、資産家のお坊っちゃまというのは有名で、父親も祖父も四葉グループに勤めていたと聞いている。


 ただ、その私生活は謎に包まれていて、皆に知られていなかった。

 接待などの仕事が絡まなければ、お酒の席に出席することも少なかった。

 唯一、独身であることだけは分かっているので、玉の輿を狙っているのか、近づきたいと野望を抱いている女子社員は両手に余るのだが、本人が女性を寄せ付けないオーラを出しており、もしかして相手は男性なのではないかと、(まこと)しやかに囁かれている。


 その課長が今の呟きをしたと知ったら、社内がかなり騒然とするのではないだろうか。

「課長は、彼女いるんですか?」

 ええぃ、答えてもらえなくてもダメ元だ。菱川は思い切って聞いてみた。

「……いるよ」

「えっ、えぇー!」

 菱川は、周りにいた何人かが振り向くほどの声を出した。

 橘は、驚かれたことに驚く。そんな他人の事、気になるのかな……。

「驚くことかな」

「驚くことですよ! 今年一番驚いた」

「今年って、もう年末だよ」

「課長、彼女ですよね? 彼氏じゃなくて」

「……」

 あっ、まずい。思わず聞いてしまった。が、後に引けない菱川である。

「ぷっ、僕は社内では、そういう事になってるわけね」

 わ、笑った。橘課長が、笑った。どうした……!

「では、菱川課長。先程の話はオフレコでお願いします。皆の期待を裏切っては、申し訳ない」

「……課長。ちょっと、僕、……衝撃が大きすぎる。フランスの話は、また今度教えて下さい。失礼します」

 あれっ、もう行っちゃうの。コーヒー、まだ飲んでないけど……。まぁ、どちらでもいいか。

 今度遥ちゃんに、教えてあげよう。ひとりで笑いながら、コーヒーをゆっくり飲んだ。


「こんにちはー」

 ドアホンのモニターに、遥の姿が映し出される。門扉のロックを、手元の操作で外した。

「今行くよ」

 橘は玄関で出迎え、ギターケースを受け取る。以前約束していた、叔父のギターを持ってきたのだ。

「おじゃまします」


 土曜日の昼下がり、橘の家の応接間に入る。今日は随分冷え込んでいるので、暖炉に火が入っていた。あったか〜い。

「この暖炉の火って、薪を燃やしてるんですか?」

「それね、ガス。僕が子供の頃は本当の薪を燃やしてたんだけど、手間もかかるしメンテナンスも大変でね。煙突からの煙も臭うから、ガスに変えたの。薪の様に見えるのは、セラミックの作り物だよ。本物みたいでしょ。まぁ、火だけは本物だから温かいけどね」

「へぇ〜、面白いのねぇ。そっか、煙の臭いとかって、確かにこれだけの住宅街だと、そんな問題もあるんですね」

「暖炉のそばで、弦、張り直そうか。あと、何か飲む」

「今は大丈夫です。作業始めて下さい」


 遥は、暖炉の前に敷かれたマットの上に陣取った。クッションもいくつか置いてあり、暖炉を囲むように直置きタイプの背もたれが並べてある。

「このギター、塗装がすごくきれいだけど、遥ちゃんメンテナンスしてるの?」

「あぁ、それね。日本のギター工房で1回塗装し直してもらってるの」

「やっぱりね。外国のギターって、塗装が荒いのが多いんだ。その点、日本の塗装は綺麗だからね」

「工房を探して、私一緒についていったんです。1ヶ月くらい掛かったかな。フレット板だとか、全部綺麗に調整してもらったみたい。叔父さん、喜んでた」

「そう」

 話を聞きながら、どんどん弦を外していく。橘の作業はとても丁寧だった。


「橘さん、丁寧ですね」

「そう?」

「叔父さんなんか、弦を外す時は、ハサミでバチバチバチって切ってましたよ」

「ははっ。それでも全然問題ないけどね」

 全て外したところで、ヘッドやネック部分を丁寧に拭く。

「そんな濡れタオルで拭いていいの?」

「これぐらいの、オシボリくらいの湿り気なら大丈夫。ネックはどうしても汚れるから、弦外したときに綺麗にしないとね」

「なるほど〜」

 掃除が終われば、後は新しい弦を張っていくだけだ。ブリッジから止めていく。ここからの作業は意外と手間と労力がかかる。その間遥は、別のギター奏者のCDを聴きたいとお願いした。


「スペインの若手。ちょっと、音の線が細いんだけど、面白いよ」

 確かに、たっぷりとまんべんなく全ての音を鳴らす弾き方ではなかった。しかし、逆にそのことで、独特の色気の様なものが出る。これは、好き嫌いが分かれるのではないだろうか。

「スペインの酒場で聞いてるようなギターですね。行ったことないけど」

「上手いこと言うなぁ。タンゴの伴奏みたいでしょ。バンドネオンの音が聴こえてきそうな」

「あれ? 実際に入ってますよね。バンドネオン」

 CDの解説書を見ながら聞く。ほら、今聴こえた。

「あっ、ほんとだ。このCDピアソラが入ってたか。タンゴ・グレリオだね」

「リベルタンゴもいいですよねぇ。大好き」

「それなら、デルウォート知ってる? ロシアの。ベルリンフィルとの演奏が凄いんだよ。動画、見る?」

「見る、見る♪」

 ノートパソコンを持ってきてくれて、一緒に見る。CDは一時停止である。


 ギターのソロのアドリブ演奏から始まるその動画は、通常のテンポの倍と思われる演奏で息を呑む。バンドネオンの代わりに、アコーディオンが使われている。こちらのアドリブも素晴らしい。アドリブし放題といえども、ちゃんとオケの指揮者がいるので、何かしら合図になる決まったフレーズはあるのだろう。でなければ、指揮者が音楽に入れない。


 クラシック奏者がジャズ演奏をすると、全然面白くないとよく言われる。クラシックは基本的には再現音楽なので、楽譜に忠実に、1音の狂いもなく演奏しなくてはならない。そのための訓練を延々とする。

 その結果、自由な演奏からどんどん離れて行ってしまうのだ。だから、即興が真髄のジャズをさせると面白くない。

 ところがどうだ。このベルリンフィルのノリのいいこと。1984年、小澤征爾がサイトウキネンオーケストラを初めて振った時の興奮さながらである。

 こちらも動画で見たが、あの時のオーケストラのメンバーも、実にエネルギッシュだった。


 演奏が終わったと同時に、観客の爆発するような拍手と歓声が、更に興奮を伝える。

「わぁ! 凄い、何これ! ブラボ!」

 遥はパソコンに向かって拍手していた。

「すっごいね、これ。ギターも凄いけど、オケもアコーディオンも、全部凄い」

「いいでしょ」

 目をまん丸にして喜んでいる遥の頭を、クシャッとして橘はギターに戻った。

「うふぉっ」

 と遥が小さく叫んで、クシャッとされた頭に自分の手を置いている。照れているらしい。可愛いな……。


 そうだ、そういえば、

「昨日さ、会社で驚かれたよ」

 引き続きパソコンでデルウォートの動画を聴き始めた遥は、画面を見ながら返事をする。

「何を?」

「彼女がいるのかって聞かれたから、いるよって言ったら」

「えっ……!」

「『彼女ですよね? 彼氏じゃなくて』だって。笑ったよ」

「……」

「皆の期待を裏切っては申し訳ないから、遥ちゃんはウチの会社では、男性ってことになってるよ」

「……」

 あれ、無反応? 何、その物言いたげな目は。

「やだ、橘さん。私、彼女?」

 えっ、そこ?

「うん。違った?」

「ううん。違わない……。うれし」

 肩をすぼめて嬉しそうに笑う。へへっ、と言いながら、ニヤニヤしていて、何度も小さく笑う。反芻してる?

 それを見ながら橘は、呆れつつも楽しんでいた。やっぱり、遥ちゃんは面白くて可愛い。君は、ちゃんと僕の彼女です。


「よし、できた」

 小1時間程掛かって、完成した。弦を張った直後は、どんどん弦が伸びるので、音が安定しない。正確には1〜2週間ほど怪しいらしいが、まずは試し弾きである。


 橘がシャランと音を鳴らした。

 始まったのはソルの曲だった。叔父さんも良く弾いていた曲……。

「懐かしい、この音」

 そう呟いた遥の顔を見て、橘が弾きながらニッコリ笑う。途中、何度か弦をチューニングし直しながら、最後まで弾いてくれた。

「いい音だよ、このギター」

「ほんと!?」

「うん。全ての弦が良く鳴る。遥ちゃんがちゃんと保管してたのも、きっと良かったんだと思うよ」

 誉められて、子供のように笑う。この笑顔が、1番好きだ。


 橘はギターを脇に置きながら、遥の頬に手を伸ばした。そのまま顔を寄せていく……。その唇が触れたとき、ギターも床にコトリと音を立てた。

 ゆっくりと唇を覆う。暖かく柔らかな感触が、橘の頭の芯に直接伝わる。その柔らかさを確かめるように、離れそうになればもう一度、更に離れそうになればもう一度、何度も触れ続ける……。触れているだけなのに、なんて気持ちがいい……。


「思った通り、君の唇は柔らかい……」

 すぐ近くで囁かれ、遥は初めてのキスに酔いしれる。

「やっぱり、いい声……」

「ん? そうだった。1番最初に、遥ちゃんに気に入られたところだ」

 耳の近くでまた囁かれた。そのまま耳にもキスをされる。

「んぅっ……、ダ……メ……」

「ダメは、ダメ……」

 そう言って、また唇を合わせる。今度は深く絡ませるキス。自然に体が火照ってくる。ダメ、橘さん……、すごく上手……。

「……遥ちゃんに触れてると、止められなくなる。もうすぐ、さと子さん来るから、ここまで……」

 そう言うと、名残惜しそうに遥の唇を指でそっとなぞって、橘は遥から離れた。


「え……、サトコさんが、来る?」

「お手伝いさんだよ。週に2日通ってもらってるんだ」

「私、ここにいていいの……?」

「何で? 他にどこ行くの」

「だって、お手伝いさんなんて、本物初めて見る」

「ははっ。僕にとっては親戚みたいなもんだよ。お祖母ちゃんの代から、もう30年くらい来てもらってるから。遥ちゃんこの間、お鍋食べたいって言ってたでしょ。だから、今日の夕飯に作ってもらうよう、頼んだんだ。さと子さんの鍋は、なかなか美味しいから」

「あっ、覚えていてくれて、ありがとうございます。私、挨拶してもいい?」

「いいよ、もちろん。ただちょっとお節介だから、覚悟してよ」


 本当に30分もしない頃、さと子さんはやってきた。勝手口から入ってきたらしく、玄関のチャイムは鳴らなかったので、キッチンまで2人で向かった。

「さと子さん、こちら久留宮遥さん。こちらが、お手伝いのさと子さんだよ」

 70代になろうかという、少しふっくらした体型の女性だ。さすがにお手伝いさんだけあって、動きに無駄はない。ただ、物腰は柔らかく、一緒にいても苦痛を感じにくいタイプだと思わせる。何十年も同じ家に雇われているということに、遥は納得した。


「始めまして。久留宮と申します。よろしくお願いします」

「あら、可愛らしいお嬢さんですねぇ、坊っちゃん」

「……坊っちゃん」

 ドラマみたいだ。思わず声に出して、遥も呼んでしまった。

「だから、その呼び方、止めてっていってるでしょ。こうやって皆んな、引くんだから」

 橘は困った顔で遥を見ているが、さと子は意にも介さず

「今更変える事はできませんよ、坊っちゃん。今日は腕によりを掛けて、美味しいものを作りましょうね。久々のお客様ですから。あと、ワインはどうしましょう?」

 とにっこり笑いかけられて、遥は楽しそうに橘を見た。

「任せるよ。料理に合うので」

「分かりました」

「さと子さん、先にコーヒーだけ淹れてくれる。2つ」

「はい。暖炉までお持ちします」

 2人は話を再開させながら、キッチンを出て行った。


「そういえばさっき、すっごく面白い話を聞き逃した気がするんだけど、もう一度話して」

「何の話だっけ?」

「えっとね、会社で笑ったっていう話」

「あぁ」


 遥の明るい笑い声と共に、橘の笑い声も聞こえてくる。何年ぶりに、坊っちゃんのあんな楽しそうな声を聞いたのだろう。キッチンで準備を始めながら、さと子も微笑んでいた。


 ――私がいなくなったら、さと子さん、あの子をよろしくね。ううん、何にもしなくて良いから、ただ見ててあげて欲しいの。あの子はきっと、また1人になってしまうから……。

 

 奥様、坊っちゃんが可愛いお嬢さんを連れてきましたよ。優しそうな人だから、今度はずっと坊ちゃんのそばにいてくれるかもしれません。どうか奥様も、空から見守ってくださいね。

 

「坊ちゃん、今日は石狩鍋にしました。ワインは白にしましたが、後で赤を飲まれるようでしたら、おっしゃってください」

「分かった」

「わぁ、美味しそう。さと子さん、いただきます」

 さと子はニッコリ笑って、キッチンに下がっていった。


 食事用のダイニングも、絨毯が敷き詰められている。こぼしたら大変だよねぇと、遥は内心思いつつ、ワインを注いでもらう。

「私も、注ぐよ」

「大丈夫。冷たいからね」

 と自分で注いで、氷がたっぷり入ったワインクーラーに戻す。グラスを合わせて一口飲んだ。少し辛口かな。それでも飲みやすく、余り強くない遥にも爽やかな喉越しだと分かる。

「おいしい……」

「ちょうど、いい頃だね。さと子さんはね、ソムリエの資格ももってるんだよ」

「えぇ! もう、驚くことだらけ。ねぇ、今度から『驚かないでね』って言ってから、教えてくれる?」

「それは難しいな……。遥ちゃんが何に驚くのか、まだ僕には分からない」

「はぁ〜、そうだった……。次は、このお鍋ですね。いいですよ、もうこれは驚く準備はできてます」

「では、驚いてください。どうぞ、召し上がれ」

 鍋から裕志の分も取り分け、遥はその白く濁ったスープを口に含む。

「なに、このお鍋。おいし〜。酒粕? 甘みと旨みと、始めて食べました」

「僕が好きなのを、作ってくれたらしい……。鍋は、1人では食べられないからね。久し振りだ……」

「そうなんだ。橘さん、これ好きなのね。これは、好きになるよね」

「白菜じゃなくて、キャベツや玉ねぎが入ってるの、珍しいでしょ。北海道の鍋なんだけど、やっぱり北海道の食材が合うんだって、さと子さん言ってたなぁ」

「ねえ、ワインもほんとに良く合う。食べてから飲んだほうが、美味しいよ。マリアージュ?」

「うん、そうだね。酒粕の甘みと鮭の油に、この辛口のワインが良く合う。さすがだね」

「さと子さん、恐るべし。ファンになっちゃう」

「よかった、口に合って。遥ちゃんはお酒弱いから、少しにしたほうが良いね。食べるほうに専念してください」

「は〜い。そういえば橘さんって、お酒すごく強い?」

「さぁ、どうでしょう」

「わ、出た。橘節。手強いやつ」

「ははっ、そうか、前にもそう言われたな。大丈夫。遥ちゃんになら、なんでも話すから」

 そう言って、テーブルの上に掌を乗せる。遥は照れながらもその手に自分の手を載せて、ぎゅっとしてもらい、嬉しそうに笑った。

「お酒が強いかどうかは、本当に分からないよ。比較対象によるから。遥ちゃんよりは、随分強いと思うよ」

「ワイン1本空けちゃう?」

「そういう時も、あるかな」

「今日はダメだよ。これ1人では食べきれないから、ちゃんと飲んでばっかりいないで、一緒に食べてね」

「そうだな。一緒に食べよう」


 食事も終わり、遥はおねだりしてギターを弾いてもらった。叔父もそうだったが、飲んだ後は難しい曲は無理だというので、初心者向けの曲ばかりが並んだ。それでも、テサーノスの音を久し振りに聞けて、遥は大満足だった。

「さと子さん、帰った?」

「ん、多分。お客さんがいる時は、挨拶しないで帰るんだ。いつも9時頃にはいないから」


 9時少し前、キッチンでの音が止んだので、橘に確認した。できれば、もう一度挨拶したかったのだが、お手伝いさんにはそんなに気を使わないものだと教えてもらう。

「橘さん、ギターありがとうございました。ごめんね、飲んだ後に無理言って」

「いいよ。じゃ、今度は僕からのリクエスト」

「はい」

「もう少し、飲もう。ギター弾いたら酔いが少し冷めちゃった。赤ワインあるっていってたから、暖炉の前で飲もう」

「何かと思ったら、いいですよー。飲もう、飲もう♪」

 直置きの背もたれに半分体を預け、片膝を立てて橘が赤ワインを飲みだした。部屋のシャンデリアを消し、天井のダウンライトが暖炉の周りに光を落とす。炎の明かりが顔を照らし、橘の綺麗な顔立ちが際立って見えた。


「遥ちゃんがこの間言ってたこと……、僕の何が知りたいの?」

 遥はグラスを置いて、1番聞きたかったことを口にする。

「橘さんは、どうして1人でいるの?」

 案の定、橘は暗い目を遥に向ける。分かっていた。それは、本当に話したくないことなのだろう。でも、だからこそ、それを聞かなければ、遥は橘の中に入っていけないと思っていた。


 橘の心の中で葛藤している様子が、はっきりと分かる時間の沈黙が続く。それでも、遥はじっと待って、その瞳を見つめ続けた。

「母は、僕が10歳の時、パリで亡くなった。父は、遥ちゃんと初めて会ったあの日、パリで亡くなったと連絡が入った」

 遥は言葉が出なかった。だから、あんなに飲んでいたのか。1人になったから、あの香坂の言葉になったのか。


 ――命は大切にするものです……


「イタリアンレストランで、君の涙を見た時、初めて気が付いた。僕は父が死んで、悲しかったんだなって……」

 そう言って、遥の目を見つめた。長いこと遥はその瞳を見つめ返していたが、黙ったまま視線を外した。

「私に妹がいるって、話しましたよね」

「ああ、前に」

「実はもうひとり、弟がいたんです……」

 遥は橘の方に向けていた体を暖炉に戻し、グラスを手に取る。

「いた?」遥のこんな顔は、初めて見る。何だろう、この既視感……。


「私が小学3年生の時に生まれたんです。年が離れているから、生まれたときは本当に可愛くて、お人形さんみたいで。でも、すぐに会えなくなったの」

 突然話し出した遥の声に、橘は耳を傾ける。

「心臓に欠陥が見つかって、肺動脈が本来と違うところから始まってるっていう難病指定されてる病気だったの。すぐに手術して、上手くいったんだけど……」

 暖炉のガスの音だけが、部屋に響いていた。

「それからが大変だった。母は弟に付きっ切りになって、私や妹のことはほとんど面倒が見られなくなった。父も忙しい年齢だったんでしょうね。ほとんど家にいなくて……」

 遥はじっと暖炉の火を見つめながら、話を続ける。

「まだその頃は、祖父母と別々に暮らしていたから、祖父母の家に預けられることが多くなって、それでもやっぱり、私はなんとなく母親代わりで妹の面倒を見たし、妹はまだ幼稚園だから、訳も分からずによく泣いてて……。本当は私も一緒に泣きたいのになぁって思ってたことだけは、今でも覚えてる」


 橘は自分の空いたグラスにワインを注ぎ、ついでに遥のグラスにもワインを注ごうとする。残り少なくなっていたグラスを飲み干し、注いで貰った。

「半年後に無事退院して、やっとこれで母が家に居てくれると安心したら、感染症を起こして、また入院しちゃって。結局、2年半入退院を繰り返して……。母はずっと付きっ切りで、私たち姉妹は、祖父母と暮らして……。私が小学5年生になった年に、肺炎であっけなく死んじゃったの」

「……」

「でもね……、その時私、全然悲しくなくて……。逆にホッとしたの。もう、母親の代わりをしなくていいんだなって。母は今度こそ私達のそばに居てくれるって……。酷いよね、私」


 あぁ、さっきの既視感は、あの後パリで、いつも鏡の中に写っていた自分の顔なのだと思い出した。橘は、遥の手にあったグラスを取り上げ、テーブルに置いた。

 そして、遥を胸に抱き寄せ、髪を何度も何度も撫でた。

「遥ちゃんは、酷くなんてない。よく我慢したよ。誰が誉めてくれなくても、僕はよく分かる……。僕も一緒だったから」

 遥は、弾かれたように橘の顔を見上げる。「一緒?」と目だけで問いかける、その訝しげな顔に微笑みかけ、橘は遥から体を離した。

「母が死んだのはね、パリの精神病院だったんだ」

「……」


 橘は、姉が死ぬまでの経緯と、母がその後病院で亡くなったことを静かに話した。遥は途中から、橘の手を握り締めて聞いていた。

「父はね、母が亡くなって半年後に再婚した。恋に落ちたそのフランスの女性とね。彼女にも連れ子がいてね、僕と割と歳が近かったと思うんだけど、もうほとんど覚えていない。ぼくは結局、父にも新しい母にも心を開くことはなかったから……。きっと、そんな僕を持て余したんだろうね、僕だけ日本の祖父母の家に来ることになったんだよ。それが、この家」


 悲痛に顔を歪めて、遥が橘を見つめていた。

「日本に来て、本当に幸せだったよ。君なら、分かるんじゃないかな。きっとお母さんが戻ってきた後は、愛してもらったと思うから」

「うん……」

「でも、その幸せには、いつも小さな罪悪感が潜んでいた……。違う?」

 小さく頷いたかと思ったら、その目にはあっという間に涙が溢れてくる。

「僕も、同じだよ……」

 遥はもう堪らず、橘の胸に崩れ落ちる。泣きじゃくる遥の髪を、ずっと擦ってくれていた。

「遥ちゃん、今日はもう、帰らなくていいから」

 そう言って、唇をそっと合わせた。


「おいで」

 橘に手を引かれて、寝室に入る。そこも広い部屋だった。キングサイズのベッドに座れば、橘が抱え込むようにして横にしてくれる。上から見つめる橘の頬に、遥は手を伸ばす。

 こんなつもりじゃなかった。ただギターを渡して、お話をして、帰るつもりだった。でももう今は、あなたのキスが欲しい……。


 弟のことは、私のことをよく知っている人ならば、存在は知っている。でも、心のありようは誰にも話したことはなかった。一生、言葉にすることはないと思っていた。

 なのに、自分が悲しんでいることに気づかなかったと語る彼の瞳を見て、弟のことを話したいと思った。分かってもらえると、期待したわけではない。ただ、話したかった。


「同じだ」と言われて、何の抵抗もなく受け入れられた。きっと同じではない。あなたの方が辛かったに違いない。それなのに、あなたはただ黙ってキスをくれた……。

 もう、私達が1つになることに、何の理由もいらない。今の私にとっては、あなたを受け入れることが、何よりも自然なことだと心が求めている。分かってくれる人に会えた。離れたくない……。

「遥ちゃん……」「橘さ……ん……」

 吐息に交じって何度も交わされる名前のたびに、快感が体を駆け巡る。あなたの手が、唇が、指が、私の全てを確認するように優しく愛撫していく。そして……。


 あぁ、これが、あなた……。これで、ひとつ……。

 心を許しあえるというのが、いかに体を容易く結びつけていくのか、遥は悦びと共に知る。

 そんな幸福に満たされた遥の顔を見ながら、橘も今までに感じたことが無い深い幸福感を味わっていた。

 君を……、手に入れた。


 体中の力が抜けた時、あなたの力強い腕の中だった。しがみつくように背中に回した手を、いつまでも離したくなかった。そして自然に言葉になった。

「大好き」

「僕もだ」

 やっぱりあなたの声は、いい声……。

 そのままゆっくり、眠りに落ちていった。

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