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異動

「遥ちゃん、仕事どう?」

 金曜の夕方、香坂から電話が掛かった。

「香坂さん……。ご心配頂いて。新しい課は人が少ないので、煩わしいことも少なくて、意外と快適です」

「今日少し時間があるんだけど、夕飯でもどう?」

 遥は少し戸惑った。この間のキスで、香坂にはこれ以上会ってはいけないという思いがある。けれど、実は異動前、同じ課の桜岡から意外なことを聞かされていたのだ。


 桜岡からは、私がいなくなると色々困るよと言ってもらって、少しホッコリした。まぁ、あまり話しているとまた驚異のチェック機能が発動するので、すぐに離れたのだが、何故だか桜岡に引き留められて、もう少し話をすることになった。

「あのさ、前、そのスジの2人組に絡まれてた時のことだけど」

「えっ、そのスジの2人組?」

「公園で……」

「……! あぁ、はい。やだ、そのスジではないですよ。確かに強面ですが」

「えっ、でも、若頭(かしら)って……」

若頭(かしら)!?  あの時、誰かそう呼んでましたっけ?」

「いや、この間来たんだよ」

「は? 来た? 誰が、どこに?」

「黒いスーツ着てた方の人が、僕に会いに……」

「いつ、ですか……」

「久留宮さんの異動が分かった、すぐ後だよ」

「……」

「心配してたから、どういう関係かと……」

「いっ、いやだ……。どういうも、こういうも、ホントに知り合いです」

「ははっ。そうだよねぇ、よかったよ。安心した。じゃ、頑張ってよ。会社辞めんなよ」

「えっ……」

「じゃ」

 急に眼が熱くなった。やだ、少し泣けてきた。皆んな、結構やさしい……。


「香坂さんにはお世話になったので、お礼を言いたいと思ってました。どちらに行けば、いいですか?」

「焼き鳥でも、いい?」

「はい、大好物です」

「じゃ、7時に」

 遥の方が早く、待ち合わせの駅に着いた。待つ間、今までの香坂のことを考える。

 香坂さんって、きっともてるんだろうなぁ。あの強引さと手の早さは、女性を扱うのに慣れてるもんなぁ。今日は、香坂のペースに巻き込まれない様にしなければ!


「うん、30cm交際だな」

 ひとりごちる。遥が通っていた高校で、ダンスの女性教師に入学直後に言われた言葉だ。

「男と女の間には、常に30cm以上開けること。それ以下になったら、何があっても不思議ではないからね。校則だから、守るようにー!」

「よしっ!」

 と決意を新たにする。


 香坂のことが頭から離れると、自然に橘のことを考えていた。駅には冷たい風が入り込んでいて、マフラーに顔を埋める。

 過呼吸って、やっぱりストレスとか疲労とかが引き金になるんだよね。仕事で疲れていたのか、それとも、あの店でなにかあったのか……。食事している間は、大丈夫だった。トイレに行ってる間に何かあったのだろうか。知り合いにでも会った? 嫌な客と揉めたとか? それはないよねぇ。誰かと争うタイプではない。他には……。


「遥ちゃん、お待たせ」

 香坂の声で、目の前に駅の雑踏が戻ってきた。

 今日の香坂は、黒のスーツではなかった。カーキ色のブルゾンに、黒のカーゴパンツをはいている。中には黒のハイネックセーターを着て、首にターターンチェックの大き目のマフラーを合わせている。ゆったりと巻かれているので、強面をカバーして、イケオジ手前まで(あくまで、手前である)センスアップしている。

 確かに良く見れば、この眼光の鋭ささえなければ、個性俳優的なイケオジであると、今更ながら遥は気付いた。


「遥ちゃんは、いつも可愛いね。洋服のセンスもいい」

 遥を上から下までサッと眺めて、そんなことを言う。ひぇっ、いきなり香坂のペースに引きずられそうになり、自分にイエローカードを出す。

「何にも、出ませんよ〜。まだお給料前ですし。今日は割り勘でお願いしますね」

 おっ、と香坂が体を少しのけぞらせながら、驚いて見せる。

「いいよ。ちゃんとご馳走します。っていうほど、金の掛かる店でもないけど」

 とニッコリ笑った。あれ、香坂さんって、探偵やってなければ、割と営業向きかもしれないなぁ。笑うと、強面とのギャップで、結構こちらの緊張が解ける。

「今日は、夜のお仕事はないんですか?」

「あぁ、4つ重なってた俺の案件が、昨日一旦全て片付いた。また、明日から忙しくなるから、今日は奇跡の1日だ」

「そんな大事な日に、私が相手じゃ申し訳ないですね。出直しますか?」

「いや、だから君を誘った」

 そう言って、いきなり遥の左手を取って引っ張るように歩く。香坂の言葉に、少し胸がドキンとした。あれっ、まずいよ。

「さぁ、行こう。あそこの焼き鳥は、ビールに合うよ。今日は、しっかり飲もう」

 ちょっ、ちょ……。30cm交際だってばー。


 黒い看板に白地の屋号で、店内の内装は全て黒。ダウンライトが主な照明で、あとはテーブルの上の近くまで下がったスポット照明が料理を照らすという、焼鳥屋と言うよりは洒落たカウンターバーのようなお店だった。

 ただし、バーではないことは、店内中に充満している白い煙ですぐに分かる。


「ごめんね。ここ美味しいんだけど、服に匂いが必ず付くんだ。あと、髪にもね」

「いえ、すごく混んでますね。きっと、美味しいんですね」

「まあね。炭火焼で素材がいい。全部ここで仕込んでるから、美味いよ」

「香坂さんって、夕飯はいつもこういうところで食べてるんですか?」

「いや、ここは休みの時だけ。あんまり匂いが体に着くものは、仕事の時は食べられないんだよ。匂いは、記憶に残りやすい。俺達は、記憶に残っちゃいけないことが多いんでね」

「大変ですね……、忍者みたい。確か『くノ一』は匂いで分かるからダメだって、何かで読んだ覚えが……」

「まぁ、400年前なら同業者だな」


 遥が笑った。やっぱり、この笑顔だな……。

 ぶっちゃけ、もっと若くて可愛い女の子はいっぱいいるんだが、どうしても惹き付けられてしまう。きっとみんな、この笑顔にやられてる。橘や桜岡と、自分との共通点を探しても特にあるわけでもなく、ならば、万国共通の男落としの笑顔かと、不思議に思いつつ観察してしまう。……いかんな、職業病だな。


「あの、香坂さん。色々ご心配頂いたみたいで、ありがとうございました」

 ビールで乾杯してから、まずはせせりを頬張っているときに、遥からお礼を言われた。

「特にお礼を言われるようなことは、何もしてないけど」

「桜岡さんに会いに来たのって、香坂さんですよね」

 なんだ、あいつ。口止めしないと、しゃべっちゃうタイプだったか。

「何か言われた?」

「香坂さん、あれはいけません」

「あれ?」

若頭(かしら)

「あぁ、あれ。だって俺のこと思い出してもらうには、1番早そうだったからさ」

 遥が大笑いする。「どんだけ強面なんですか」と言われ、「それを言われても」とこめかみをポリポリした。

 前の様に元気になったみたいで、香坂は少しホッとした。


「新しい部署、人が少ないって言ってたね」

「昔で言う、窓際じゃないですかね。のんびり仕事できます」

「ルーティーンの仕事は、ないの?」

「少しはありますよ。それに、古いデータの統計取ったり、ソフトの新規機能でのマクロ移行やマニュアル作ったりって、性に合ってるみたいで、サクサク仕事進んでます。ちゃんと適性を見て、異動されたようです」


 ビールをちびりとやりながら、遥も焼き鳥を楽しんでいる。つくねに掛かった生卵をこぼさない様に慎重に口に入れて、入れた途端、まるでテレビのグルメレポーターの様に目を大きく開けて、親指を立てて喜んでいる。

「ほいひ〜」

 全部飲み込んでから、しゃべりなさい。と思いつつも、その笑顔に香坂も頬が緩む。

「香坂さん、そうやって笑ってたら、全然強面じゃないのに」

 と反応に困る言葉を言われて、思わずビールを飲む手が止まる。

「遥ちゃんさぁ、あんまり40半ばのおじさんをイジメないでくれる」

「香坂さんって、40半ばなの?」

「そうだよ」

「探偵さんって、年齢不詳だと思ってたけど、やっぱり不詳ねぇ……」

「って、それどっちの意味? 意外と若い? それともおじさん?」

「気になります?」

 いや、別に。でも、君がどう思ったかは、知りたいな。

「なるよ、そりゃ」

「ふふっ。答えは、どっちもってことですよ」

「ん?」

「どっちの顔にもなれるってことです。50って言われても不思議じゃないし、35って言われても見えなくもない。まぁ、20代は無理ですけど」

「ふん、なるほど。20代は無理なわけね」

 また、遥は声を上げて笑う。


 本当に何だろうな。きみは唐突にキスをしたくなる笑い方をする。ここが俺の家なら、間違いなくキスしてる。で、そのままベッド行きだ。俺がサカっているのか、彼女が無意識に誘っているのか……。危ないな、引き込まれる。無理矢理にでも、自分のものにしたくなる。


「課長のことは、恨んでる?」

「えぇ!? 随分ストレートに聞きますねぇ。……恨んでませんよ。離れることが出来たので、楽になりましたから」

 淳子の言っていた通りだと感心する。さすがに同僚だけあり、良く見ている。楽になったことはよいが、やはり気持ちには何かしらの強い思いがあったのだろう。つまり、恨んでいないという言葉の前に、「今は」という条件が付くということだ。


「じゃ、話すけど」

「はい?」

「あの課長ね、父親を自宅介護してるんだよ。しかも、どうやら奥さんが嫌がったみたいで、父親が1人で住んでいる家に、毎日仕事帰りに通って、泊り込みで面倒見てる」

「えっ……!」

 遥は驚いて香坂の顔を見つめた。その目には、恐怖すら浮かんでいるように見える。

「もう、5年位になるらしい。最近、痴呆が始まってしまって、何回か徘徊もあって、警察にも世話になっているらしくてね。それも、1人で探し回ったりして、大変だったらしい」

 遥は右手を口まで持っていき、視点の定まらない顔になる。香坂の言葉は続いた。

「もちろん、だからって、君に怒りをぶつけるのは間違ってるし、言い訳にはならない。君が彼に嫌悪の感情を持つことは、しごく当たり前で当然だと思うし、君がそのことで自分を責めるようなことでもないよ」

 遥は、かろうじて息を吸った。

「それにさ、自宅介護にならない方法はいくらでもあるんだし、奥さんに嫌がられたことも、きっと奥さんにも言い分があるだろうから、自業自得だとは思うけれどね」

「……」


 遥は今聞いた事実を、腹に落とすのに時間が掛かった。そして、意識がこの場所に戻ってきて、改めて香坂の顔を見た。

「香坂さん……、わざわざ調べてくださったんですか」

 返事をする代わりに、香坂は遥の目をじっと見つめた。遥も、その視線を外せない。

「遥ちゃん、俺と付き合わない」

「……」

 すぐには答えてもらえないか……。

「今すぐ返事はいらないけどね。俺はそのつもりで君に会ってるから」

「香坂さん……」

「さ、真面目な話はここまで。食べよう」

 そう言って、香坂はビールを飲んだ。遥は返す言葉が出ない。


 香坂さんは大人だ。30の自分より、全然大人だ。きっとそれは、ただ単に年齢だけのことではないのだろう。香坂の人生や仕事や性格や、きっと全てが私より大人なのだろう。この人なら、私が困った時、迷った時、きっとすぐに手を差し伸べてくれる。


 課長のことだって、色んな方向から、私が納得できる様に話してくれた。落とし所を、与えてくれる。

 課長には、課長の苦しみがあると知ることで、一方的な憎しみの気持ちは適切ではないと教えてくれた。1人で悩んでいては、けっしてたどり着けなかった場所に、引っ張り上げてくれた。

 甘えてしまえば、きっと楽だろうな……。

「考えて、みます……」


 遥の返事に、香坂もグラスを置き、遥の頭に手を載せて、「よろしくお願いします」と髪をクシャクシャした。真剣な目であることが、遥の胸に沁みた。その後は、さすがにはしゃぐことも出来ず、遥はいつもより多くアルコールを飲んだ。


 香坂は、いつも遥がバスに乗り換える駅まで送ってくれた。家まで送ると言われたが、香坂の家が反対方向だと知り、固辞した。バスの出発時間まで、付き合ってくれるという。

「遥ちゃん、お酒あんまり強くないんだね」

「はい……」

「大丈夫か? バス立ってられる」

「大丈夫ですよ……」

「危なっかしいなぁ」

 こんな事なら、俺のアパートまで連れて帰ればよかった……。

 香坂は、遥の体を抱きしめるように支える。これ以上触れていては、俺だって抑制が効かなくなるんだが……。

 だが、少しでも触れていたいことも誤魔化し切れず、離す事もできない。このまま遥の家まで行くか。

「遥ちゃん、やっぱりタクシー拾って送るよ」

「ふー、大丈夫です。1人で帰れますから……。香坂さん、離してください」

 遥は踏ん張って、香坂の体から離れようとするが、香坂が離してくれない。

「香坂さん……、離して」


 バス乗り場から、電車の改札口は視界の中だ。香坂は今、その中に橘の姿を認めていた。ふっ、俺は運が良いのか、悪いのか……。


 電車を下りて改札に向かう橘は、自分の目を一瞬疑った。香坂と、その胸に抱かれている女性……、あれはどう見ても遥だ。何で……。

 いきなり、鼓動が早くなる。雑踏の中、足が止まってしまった。後ろから来た人にぶつかられ、「すみません……」と、上の空で声を出す。

 このまま2人に近づいては、いけないのか……。その刹那、遥が一生懸命離れようとしているのを見る。あれは、香坂が力づくで離さないんだ! 途端に、2人に向かって走っていた。

 

 香坂はこちらに向かってくる橘を、ずっと見据えていた。そのまま、遥に声を掛ける。

「遥ちゃんは、橘さんの資産、いくらか知ってる?」

「なっ、なんですか、急に。そんなこと、知りません」

「とても君には抱えられない。聡明な君なら、分かるだろう。俺だったら、君を真正面から受け止められる」

「……」

 遥は、両腕に込めていた力が抜けてしまう。

「俺にしとけよ。君が傷付くのは、見たくない」

「香坂さ……」

 見上げるように香坂を見た遥の唇を、そのまま奪う。それを見た橘は、頭に血が上ることが止められなかった。

「何するんだっ」

「いい声」が遥の耳に届く。だがその声には、いつもの静けさではなく怒りが含まれていて、その怒りを無理やり押さえ込んだかのような、低い声だった。

「橘さん……」

 遥は、橘に腕を掴まれやっと力が抜けた香坂から、弾かれるように離れた。やだ、どうしてここに橘さんがいるの! やだ……。やだっ!

「遥ちゃん!」


 遥は、走り出していた。後ろで、橘の声がした。バスにも乗らず、ふらつきながら、それでも走らずにはいられなかった。

「橘さん」

 今度は香坂が、橘の腕を掴む。それで、橘も遥を追うことができず、香坂と睨み合う事になった。

「今、彼女は嫌がってましたよね」

 怒りを隠そうともせず、橘が唸る。

「さぁ、それはどうかな」

「な……にっ……!」

「橘さん、あなた彼女をどうするつもりです」

「……」

「少なくとも彼女は、俺の気持ちは拒まなかった」

 香坂の言葉が、橘の胸に衝撃を走らせる。

「俺は、彼女が傷つくのを、黙って見ているつもりはありませんよ」


 香坂は、今まで何度か橘の女性関係のことで仕事を請け負ってきた。その中には女性が「傷つく」ことは、何度もあったのだ。橘からすれば、それは避けられなかったことであり、決していい加減な気持ちからそうなったわけではないのだが、事実だけを見れば香坂の言っていることは、間違ってはいなかった。


 橘は香坂の仕事の仕方を知っている。徹底的に下準備をし、対象者を追い詰める前に、打てる手は全て打ってから動く。それは冷酷なほどで、だからこそ橘も香坂を信頼していた。

「彼女を、今までの様に追い詰めるつもりか」

 冷静でしかし気迫のこもった声に、香坂は腕を掴んでいた手を放した。

「香坂さんのやり方で、彼女の心が掴めるとは、思えない」

「……」


 橘は香坂とのやり取りを、終わらせた。一刻も早く、遥の後を追いたかった。すでに、行方を見失っている。遥の走っていった方向に、橘も向かった。香坂は、それ以上追っては来なかった。


 ――少なくとも彼女は、俺の気持ちは拒まなかった


 橘は香坂の言葉を反芻していた。もし彼女が香坂を選んだら、僕は二度と彼女に会えない。そのことを想像して、ゾッとする。何だ、この恐怖感は……。恐怖なんて、今まで感じたことがない。


 あの母が姉を罵倒する声も、気持ちが悪くなることはあっても、恐怖と感じたことはなかった。姉の血に染まったベッドを見ても、その後、母が自分の存在を忘れてしまっても、恐怖は感じなかった。日本に来て、学校でいじめられても、不快ではあったが怖くはなかった。

 何だ、この恐怖は……。


 いや、1度だけ、この感覚を味わったことを思い出した。祖母の葬儀の際、火葬場で遺骨を拾った時だ。あの優しかった祖母が、真っ白な骨になったのを見た時、心にねじ込むように恐怖が押し寄せてきて、震えが止まらなかった。

 骨を親戚の箸から受け取ることが、難しかったのを思い出す。もう、会えない……かもしれない!? あの時と、同じ恐怖が足元からせり上がってくる。


 遥ちゃん、どっちに行った? 橘は、帰省本能に掛ける。バス通りの道を選んだ。この辺りはカーブが多く前方が見通せないが、もう少し行けば真っ直ぐな道になるから、前の方にいれば分かる筈だ。いなければ、戻るしかない。橘は不安をかき消すように、走った。


 いた! 200m程前方を、フラつきながら歩いている。もう走ってはいないから、追いつける!

「遥ちゃん!」

 あと少しで追いつけるというところで、叫んだ。その声が届いたのだろう、遥の足が止まった。恐れるように後ろを振り向いて、顔が歪んでいく。そのまま、その場に崩れ落ちた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「遥……ちゃん」

「私、避けられなかった。香坂さんのこと。もっと、力を入れて、離れればよかった。お酒、こんなに飲んで……、ちゃんとしなきゃ、いけなかったのに……。あんなに急に……。私、私……、橘さんがいるなんて……、見られるなんて……、ごめんなさい」


 遥は泣き崩れた。それを見て、橘は立ち尽くした。どうしたらいいのか、分からない。目の前でこんなに泣きじゃくる女性を相手にしたこともなかったし、ごめんなさいといわれて、許すとか許さないとか、そういう感情でもなかったからだ。でも、体の底から沸き上がってくる「気持ち」があった。ゆっくりと、それに添う。

「遥ちゃん、飲みすぎ! ダメでしょ!」

 橘は遥を叱った。遥は、驚きと共に顔を上げた。

「お酒弱いんだから、走ったらもっと酔っ払う。何で、走るの!」

 キョトンとした顔で、涙が止まっていく。

「追いつくの、大変でしょ。はーっ、久々に、全力で走らされた」

「橘さん……」

「追いついて、良かった……」

 そう、君を失わずにすんでよかった。今の君の言葉を聞けば、君とはまた会えるのだと分かった。恐怖の代わりに、安堵が全身を包んでいく……。


 橘は、座り込んでいる遥の両手を取って立たせた。彼女の足に付いた汚れを、パタパタと払う。痛いところはないかと聞けば、遥は顔を横に振った。

 橘は、安心をもう一度その手で確認するために、遥の背中にゆっくりと手を回し包み込んだ。君を失わずに済むなら、それでいい。君は、君のままだ。だから、2度とこんな思いはさせないで……。


「帰ろう」

 橘が耳元でそっと囁いた。遥は全身の力が抜けていく。そのひと言だけで、全て許されていることが分かった。

 香坂とのキスを見られたことだけではない。キスをさせてしまった自分の優柔不断さをも、橘に許されている気がした。

 誰よりも見られたくなかった人だと気が付いて、私は、橘さんが好きなのだと、嫌と言うほど自覚した。

 遥は小さく頷いて、手を繋いで歩き出した。


「一旦僕の家に行って、車で送るよ。もう少しだけ、歩ける?」

「はい」

 バス通りなのだから、もう少し行けばバス停がある。それに乗れば、遥は帰ることができる。でも2人共、今は離れたくなかった。手を離したくなかった。黙って、黙々と歩いた。


 橘は改めて、遥は小さいのだと感じていた。身長も160cmにきっと届いていない。肩も細くて、手も大きいわけではない。歩幅だって大きくない。この間紅葉を見た時、随分一緒に歩いたはずなのに、あの時はそんな風に思わなかった。今までもう少し大きい感じがしていたことが、不思議だった。こんなに小さいのに……。

 

 唐突に、橘は気がついた。あの恐怖の本当の正体……。こんなに小さな君の存在が、今の僕の、全てを支えている……。全てだ……。全身が、泡立つ……。

 橘は歩いていた足をゆっくり止めた。

「遥ちゃん……」

「はい」

 隣で遥もゆっくり止まった。

「ごめん、僕……、遥ちゃんが好きだ」

 言葉が、溢れてしまう。涙が出そうになり、繋いだ手を離して、目を覆った。

「どうすれば……、いい」

 苦しかった息を、1つ吐く。そうして、やっと君の顔を見ることができた。


「……っ!」

 まただ。また君は、そんなこと言われると思わなかった、という顔をする。そうだ、今までもずっとそうだった。

 君にとって僕は、ただの「友達」なのか? 食事をして、会話を楽しんで、「お休み」と挨拶するだけの、友達……。君の中に、僕の居場所はないのか……。だから、香坂さんの気持ちを、拒まなかったのか……。

 僕の顔を見続けているだけの君を、もう僕はどうしたらいいか分からない。今の言葉をそのままにしておいては、君を失ってしまう。

「すまなかった。忘れて……」

 もう一度歩き出そうとする橘を、遥は慌てて引き止めた。

「やだ、待って!」

 遥は橘の腕をかろうじて掴んで、前に回り込みまっすぐに顔を見た。

「私も、橘さんが好きです」

 お酒でほんのり赤かった顔が、更にみるみる赤くなる。それでも、橘の瞳から目を背けなかった。

「さっき、はっきり分かりました」

「遥ちゃん……」

「それに、そうじゃなきゃ、お食事何度もご一緒したり、ドライブに行ったりしません」

「……」


 そう……じゃない。そういうことじゃない。そんなことじゃ……。

 きっと君は、僕の「好き」の意味が分かってはいない。

 それは、僕の存在を掛けての「好き」だ。もし拒まれたら、僕の何かが確実に砕ける「好き」だ。「好きでなくなる」ことが許されない「好き」なんだよ。だから、そんなに簡単に受け入れてはいけない。なのに……

「遥ちゃん、僕は……」

「でも、橘さんは住む世界が違う人だから、好きになっちゃいけないと思ってました。香坂さんにも言われて、分からなくなったの。どうすればいい? って、こっちのセリフです」

 えっ……、住む世界って……。そんなことを、君は思っていたのか……。

 遥はさっきまで繋いでいた手を、そっと両手で包み込んだ。その手を見ながら、ポツリと呟く。

「諦めなくても、いいんですね……」

「遥ちゃん……」

 橘は改めて、遥の手を強く握り直す。

「諦めなくて、いい」

 諦めなくて、いい。何度も心で繰り返す。諦めないでくれ。

 遥は、本当に安心したかのように笑った。あぁ、この笑顔……。

「橘さん。私、橘さんのこと何にも知らない。だから教えて欲しいの。私、もっと知りたいんです……」

 あなたは、どうやって1人で生きてきたの。寂しくはないの。どうしたら、あなたと一緒にいられるの。


「……遥ちゃん」

 僕を、この存在を、受け止めてくれようとしている…のか。

 握った手に頭を垂れ、おでこに当てて、生まれて初めて神に祈る。

「ありがとう」

 存在を掛けるということは、自分の生き方を手放すことになるのかもしれない。でも、君の笑顔に託してみる。どのみち、もう僕は後戻りができない。

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