ドライブ
「遥ちゃん」
バスに乗り換えるため改札を出て、大きな柱の前を通り過ぎようとしたところで、香坂に呼び止められた。
「香坂さん……、どうしたんですか? こんなところで」
「待ち伏せ。どう? 仕事休まず、行けてる」
「あの……、はい。お陰様で」
そんな目をして、お陰様も何もないな……。
「まだまだっぽいな」
香坂は遥の頬に、そっと手を添えた。
「香坂さん……」
「んー、ゆっくり話したいけど、俺今から仕事でね。心配で顔見ときたくてね」
そう言うと、頬に当てた手の親指で遥の唇をそっとなぞった。微かに遥の顔が緊張する。それがかえって香坂をゾクゾクさせる。このままこの間の様に、唇に触れたいと瞳を見つめた時、声がした。
「遥ちゃん!」
橘がこちらに向かってやってきた。今まで向けられたことがない目で、香坂は睨まれていた。
「待たせたね、遥ちゃん」
「いえ……」
遥は香坂の手から逃れるように、後ろに下がった。その前に、スッと橘が割って入った。
「香坂さん、どうしました。彼女に何か用でも?」
香坂は片眉を上げて、橘を見た。
「待ち合わせでしたか。それは良かった。今、あんまり彼女を1人にしたくなかったのでね」
その言葉を聞いて、橘は眉間にしわを寄せる。
「これから、私は仕事なので失礼します。じゃ、遥ちゃん、あんまり我慢しないで」
そう言い残して、何事もなかったかのように去っていった。
「香坂さんと、連絡取ってたの?」
橘は、静かに遥に問いただした。
「あの……、この間家の近くに来たからって、会いにいらして……。ちょっと仕事のことで、お話聞いてもらったから……。今日も偶然会って……。心配お掛けしてたみたいで……」
会いに来た……!? では、今日も偶然ではないな。香坂が、ここで待ってたか。
「遥ちゃんから、連絡を取ったわけではないんだね」
「あっ、はい」
そうだな。今日は2人で約束していたんだから、彼女から連絡を取ったなら、こうはならない。どうなってる……。
「よし、じゃあご飯食べに行こう」
遥は気まずそうな顔をやっと引っ込めて、笑顔になった。
「はい」
「アナ、いいですね。聴きやすい。ありがとうございました」
店に着き、席に座って早々、遥は借りたCDを返した。そのCDと入れ替えに、別のCDを橘が遥の手に乗せる。
「はい。もう2枚CDあったから、どうぞ。この間、見つけきれなかった」
「わぁ、ありがとうございます。お家に一杯ありそうですね、CD」
「数えたことないけど、かなりあって」
「ギターばかりですか?」
「いや、祖父がね、クラシック好きで。CDよりレコードの数の方が多い」
「もぉ、期待を裏切りませんね。橘さんって」
そう言われた橘は、微笑んだかと思うと焼酎を一口飲んで、ゆっくり遥の顔を見た。
「仕事のことって、僕も聞いちゃいけない?」
責めるふうでもなく、優しく聞かれる。やっぱり気になってるよね。橘さんに誤解はされたくないんだけど、でも……、
「恥ずかしいことなので、できれば橘さんには知られたくなかったんだけど……」
そう言われても、香坂さんは知ってるんだよね。それは、僕としては、歯がゆい。
「呆れずに聞いてくださいね」
よかった、聞かせてくれるらしい。遥は話し出した。
「それは、辛かったね。いつの話」
「1週間になります。今は、引継ぎをしているところで」
「遥ちゃんの課の営業は、困るだろうね」
「誰でもできる仕事ですから、大して困りませんよ。若い女の子に担当が変わるから、きっとモチベーション上がるんじゃないかな」
と笑う。
「いや、仕事って生活と似てるから、今まで君がフォロしてきた営業は困ると思うよ。連れ添った女房、失う様なもんだから。ほら、靴下の場所が分からないとか、食べ物の好き嫌いを分かってくれないとか、そんな感じ?」
すると遥がじっと橘の顔を見て、コテッと顔を傾けた。
「橘さんにも、そんな女性社員さんがいるんですか? 秘書さんとか?」
「いないよ。課長程度に、秘書はつかない」
「……よかった」
ニッコリ笑って、煮物に手を伸ばした。
「橘さんは、身の回りのこと、どうしてるんですか?」
「自分のことは自分でしている」
「これ以上聞いたら、怒りますか?」
「怒らないけど……」
「いい気分じゃない?」
「……」
「知りたいんだけどなぁ……」
「遥ちゃんは、面白いな。そんなこと知って、楽しい?」
「楽しい! 橘さんのこと知るのは、楽しいですよ」
「……」
ちょっと赤くなって、照れている橘を見て、遥は楽しくてしょうがない。
「例えば、どんなことが知りたいの?」
「休みの日は、どんな服きてるのかなぁとか、朝ごはんは、なに食べてるのかなぁとか?」
ニコニコして、少しいたずらっぽい顔にも見える。橘は、さすがに困った。
「内緒」
遥がプーと、頬を膨らます。それを見て、思わず橘が笑った。
「遥ちゃん、はい、これ食べて。ここの鴨の鍋焼き美味しいから。熱いうちに、どうぞ」
先程、熱々の鉄鍋に鴨肉が載せられて運ばれてきた。鴨肉のほかには、水菜と葱が入っていて、まさに「鴨葱」状態だ。その上から、ここの店主自ら「飛ぶから気をつけて」と言いながら、熱々のスープを注ぎ入れた。
遥達は少しテーブルから体を離して、その様子を見ていた。焼けた鉄に流し込まれた醤油ベースのスープが、音を立てていい香りを辺りに放つ。その鍋を橘は勧めてくれた。
「う〜ん、美味しそう。鴨って、こんな風に食べるの初めて。ふぉ、美味しぃぃ。水菜最高」
「この季節だけだから、これも楽しみの1つだよ」
「これ、最後は雑炊になる?」
「当たり」
遥が小さくガッツポーズを取った。少しでも仕事のこと、和らぐといいけど……。
「朝ごはんはね、食べないよ。コーヒーだけ」
「えっ、あっ、ありがとうございます。そうなんだ、お腹空きませんか?」
「空かないよ。ずっと昔からだからね。あと、休みの日どんな服着てるかは、見れば分かるよ。今度の日曜日、一緒に出掛けようか」
遥の驚く顔は、慣れない。そんなに驚くことかな……。
「い、いいんですか? 忙しいんじゃ……」
「少し仕事のこと、忘れた方がいい。どこか行きたいとこ、ある?」
うぉ……。なんだか、我慢したご褒美みたいだ。
「あの、ドライブ、ダメですか?」
「ん、じゃ、紅葉でも見ようか」
「いいです。OKです。楽しみです!」
こんなに喜んだ顔も、まだ少し慣れない……。
「やっばり長距離乗っても、高級車は疲れませんねぇ」
「遥ちゃん、何乗ってるんだっけ」
「コンパクトカーです。小回りが利いて、私にはちょうどいい車です」
「高速だから、運転してみる? 右ハンドルだから、同じだよ」
「うぅ……、そんな緊張すること言わないで下さい。ムリムリムリムリ!」
「ははっ、僕が疲れたら交代してもらおうと思ったのに」
「えっ、あんまり運転好きじゃないんですか……? 良かったんですか、ドライブで」
いちいちまともに受け取るから、遥ちゃんにはあんまり冗談言っちゃいけないかな。
「冗談だよ。好きじゃなきゃ、この車は買わない」
「これクーペですよね。かっこいい」
「1人で走るのに、大きな車は要らないからね」
「1人でもよく遠出されるんですか?」
「そうだな……、割とするよ。首都高飛ばす時だけのこともあるけどね……」
「ユーミンだ」
「中央フリーウェイ?」
「ちゃんとポップスも分かるんですね。安心した」
「有名過ぎるでしょ。一般常識に近いよ、それ」
「なるほど〜」
たわいもない会話が続く。それが、遥には気持ちがよかった。そしてそれは、橘にとっても気持ちが解れていくことに変わりはなく、あっという間に目的地に着く。
「ゴンドラ乗って、上まで行こう」
「は〜い。行こう、行こう」
4人〜6人程乗れるだろうか、シーズンでもあり、意外と込んでいる。座れるように座席はあるが、最後に乗り込んだので席は空いていなかった。
やはり定年過ぎた団塊の世代の皆様が、圧倒的に多い。装いも本格的で、山ガールならぬ山ミドル達が同乗していた。出発して直ぐに視界が開け、紅葉の色とりどりが目に飛び込んでくる。
「きれいねぇ〜」と、同乗者の皆が口々に感嘆していたのだが、何やらゴショゴショと遥が小さな声で橘に話し掛けてきた。
「あの……、橘さんって、高いとこ平気?」
「えっ、遥ちゃん苦手?」
「ううん。バーンジージャンプとかしてたくらいだから、平気なはずなんだけど……」
よく見ると、ゴンドラ内のバーをしっかり握り、「しがみついている」と言った方がいいような力の入れ様である。
ゴンドラ自体が支柱に差し掛かると、少しガタンガタンと揺れるのだが、その度に強く目を閉じている。
「大丈夫じゃ、ないっぽいね……」
返事の変わりに、顔一杯に「困った」を表現している。いつもの変幻自在だ。橘は、遥の空いているほうの手を、そっと握った。
はじかれるように遥が顔を向ける。
「これで、少しは大丈夫?」
と小さく問えば、遥はコクンと頷いた。
可愛いな……。しかも、コンドラが小さく揺れる度に握り締めてくるから、僕としてはラッキーかな……。君は、そんなことを考えている余裕はなさそうだけれど。ははっ。
無事山頂近くに到着し、遥は1番で降りた。ミドル組みにちゃんと先を譲らなきゃダメでしょって、まぁ、無理か。……面白い。
「ひゃ〜、怖かった〜。どうしたんだろう? 辺にフワフワするからかなぁ」
「歳と共に、高い所がダメになる人って、いるらしいよ」
一息ついている遥を横目で見ながら、橘が返す。
「わっ、今、私のことデスリました?」
「いいえ。一般論を申し上げました」
「う〜ん、もぉ」
声を上げて笑いながら、橘はもう一度手を繋いで、遊歩道を歩き出した。木製の巾木できちんと整備してあるから、スニーカーでも歩きやすい。今日は晴れてよかった。
「はぁ〜、久し振りだ、ここ来るの。やっぱり気持ちいい」
山頂に着いて、展望台で橘が大きく伸びをしながら言葉にした。
「来たことあるんですか? 小さい時ですか、前来たの」
「高校の時だよ。友達と2人で来た」
「お友達?」
「そう。彼もフランスからの帰国子女でね」
「あの、橘さんってフランスにいたんですか?」
「あぁ。10歳までだけど」
「そうなんだ……。かっこいいですねぇ。イメージぴったり。んー、10歳じゃ、日本語大変でした? あっ、話せてましたか。家では日本語だった?」
「片言だった。だから、日本語勉強したよ。ちょっとの間はね……。まぁ、子供だから直ぐに覚えたけど」
「あっ、それで海外事業部? フランス担当とか」
「そう。よく分かるね」
「だって~、英語ならともかく、フランス語って珍しい。クルステルとか中谷美紀とか?」
「お、も、て、な、し」
テレビのフレーズを手振りまで真似て再現してくれる。遥は手をたたいて大喜びだ。
「今でもそのお友達と、会ってますか?」
「日本にいないんだ。アメリカに行ってる。向こうが気に入ったらしい」
「そうなんだ……。寂しいですね」
「……」
寂しいなんて、ずっと前に忘れてしまった感情のような気がして、すぐに答えられなかった。
「遥ちゃんは、友達と会えないと、寂しい?」
「寂しいんだけど、皆んな子供がいたり、旦那さんいたりで、ちょっと会話が合わなくなってきちゃって……。このまま、会わなくなってっちゃうのかなぁって」
「そう……」
「だから、新しいお友達が増えて、嬉しいです」
ニコニコと真正面から喜びを表現されて、また少しくすぐったい。橘もにっこり笑って、それでも「僕も」とは答えられなかった。
「今年の紅葉って、下から上まで一気に来たらしいですよ、急に寒くなったから。ここに来る遊歩道でね、後ろのおばさん達が話してた」
「あぁ、だから麓のゴンドラ乗り場も、ここも、こんなに真っ赤なんだね」
「よかったね〜」
またニコニコと同意を求める。橘は少しだけ無理をして、言葉にした。
「うん。よかった」
すると、自分でもビックリするほど、よかったという感情が心に沁みつく。少し、瞬きしてしまったほどだ。
遥ちゃん、君は、僕に新しい感情をどんどん教えてくれる。決して押し付けがましくなく、自然で心地よい。なんだろう、この感覚……。
「ねぇ、橘さん。写真、撮ってもいい」
「そうだね、誰かに撮ってもらおうか」
「やった!」
2人並んで、紅葉をバックに写真を撮る。LINEで送って、共有する。橘は久し振りに、新しくアルバムに追加することになった。遥は自分のスマホを眺めつつ呟く。
「もっと、写真増やしたいな……」
「ん。今度、またどこか行こうか」
わっ。大きな声で言ったわけじゃなかったのに、橘さん、ちゃんと拾ってくれて嬉しい。
「はい! 是非! ありがとうございます。えっと、メルシィ ボク(Merci Beaucoup)」
「ドゥ リヤン(De rien)」
「わぁ、かっこいい〜」
橘は無条件に誉められて、思わず遥の頭に手を置いてしまった。
「あんまり、誉めないの。恥ずかしいでしょ」
「わーい、橘さんが照れてるの、楽し〜」
まったく、遥ちゃんには敵わないな。ほっこりとした塊が、胸の奥に出来上がる。
「さぁ、少し遅くなったけど、お昼何食べよう。確か下に下りれば、とろろ料理のお店があったと思うよ」
「やだぁ〜、大好物!」
「……遥ちゃんって、嫌いなものないでしょ」
「何だか失礼ですね。……ないけど」
また声を上げて笑ってしまう。本当に君といると楽しいよ。ではまた、恐怖のゴンドラで、下に下りるとしよう。
帰りのゴンドラは2人きりになった。ロープーウェイと違い、少人数をどんどん運ぶので、効率よく人が捌けているのだろう。遥は、気合を入れて、ゴンドラに乗り込んで座った。と、ゴンドラが揺れた。
「やだっ! 今、わざと揺らしたでしょ!」
「そんなこと、してないよ」
はい、少し揺らしました。はは。可哀想だから、ここまでにしとくか。
「写真撮ろうか? そしたら、気が紛れるんじゃない?」
そう言われて、眉間にしわを寄せて大いに迷っている。このまま恐怖に打ち震えているか、果敢に挑むか……。ではこちらから、強硬手段。
「はい、スマホ貸して」
そう言って、自撮りモードにする。頬が触れそうなほど近づけて、写真を撮った。
「どう?」
少し引き攣った自分の顔を確認した遥が
「も、もう一枚、お願いします」
と懇願してきた。ははっ、どうやら綺麗に撮ることの方を選択したらしい。遥は何とか笑顔を作り、写真に納まった。橘は久々に写真の中で笑っていた。
「また1枚増えました。ありが……」
突然、ガタンッと大きな音がしたかと思ったら、ゴンドラが止まった。
「どうした」
橘が緊張した声を出す。麓まであと少しの場所だ。上の方を振り返って、「あぁ」とあまりいい状況とは思えない声を出した。
「すごい風だ。見て」
言われて、遥も振り向いた。頂上近くのゴンドラが、大きく揺れていた。ゴンドラって、ワイヤーから外れたりしないのか? 思わず心配になるほどの揺れ方だ。
幸い、遥達が乗ったゴンドラは麓に近いため、風の影響をあまり受けていない。少し揺れる程度だった。
「遥ちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。止まってると、少し大丈夫……」
ゆっくり動き出した。と、また止まる。止まる度に、揺れる。遥は手に冷や汗が滲んできた。
「ごめん、多分こうしたほうがいい」
橘はそう言うと、遥の頭を胸にグッと抱き寄せた。頭を抱えられて、外の景色を見なくてすんで、少し楽になる。あと、体が少し固定されて、安定する。
やはり、高いところがダメなのではなく、地に足が着いていないフワフワ感がダメなのだと、確信した。
それより何より、橘の胸に収まっていることの方にドキドキして、他の要因はどこかに行ってしまった……。我ながら、高校生でもあるまいにと思うのだが、1度波立った鼓動は、なかなか治まってくれそうにない。
「楽です……。ありがとうございます」
「ん、よかった」
動く、止まるを何度か繰り返し、あと1〜2分という場所だった所から、10分ほど掛かって到着した。飛び降りるように、遥はゴンドラから降りた。
「お客さん、申し訳なかったねぇ。風が急に強く吹いて、とりあえず無事到着してよかった。まだ上は大変だ……」
係員も青ざめている。どうやらゴンドラというのは、ロープから外れることはないらしい。が、生きた心地がしなかった。とにかく、よかった……。
Audiに乗り込んで、遥は大きく溜息をついた。
「はぁ、落ち着いたぁ」
橘は暖かいお茶を、自動販売機で購入してくれている。後から乗ってきて、ペットボトルを渡してくれた。それを飲んで、人心地つく。
お腹が暖かくなったら、気持ちも楽になってきて、遥はふつふつと可笑しさが込み上げてきた。隣で橘が申し訳なさそうに言う。
「大変だったね。紅葉じゃないほうがよかったかな……、遥ちゃん?」
「ふっ、ふっ……」
遥が小さく笑い出した。
「やだ、私ったら、可笑しかったね」
体を揺らして笑い出した。
「風が吹いて、怖かったし……」
まだ、笑っている。スマホを取り出して、写真を確認しながら
「顔、引き攣ってるし~」
もう笑いが止まらないらしい。少し涙ぐんでいる。
それを見ている間に、後ろ向きになりかけていた橘の心に、平常心が戻ってきた。
「今日のこと、きっと一生忘れないよ~、面白かったね~」
やっと橘の顔を見て、もうひとしきり笑った。
君と一緒にいると、本当に心が楽でいられる。君は、とてもいい香りがしたよ……。
「はぁ、お腹すいた! 橘さん、とろろ料理に向かって出発進行―」
「うん。行こう」
そのお店には、「自然薯−やわらぎ−」と、墨ででかでかと書かれた古びた看板が掲げられていた。
「大きなお店だね」
「そう。間口は狭いんだけど、奥が深いんだ。ここも、懐かしい」
「えっ、お友達と来た時も、この店あったの?」
「うん、そう。もう、世代交代してると思うけどね。建物も、少し新しくなってる」
そろそろ午後2時になる時間なのに、けっこう混んでいる。1階は空いてなくて、2階に通された。大きな座敷に、4人〜6人掛けのテーブルが30はありそうな広さだ。
「メニュー、ほとんど変わってないような気がするなぁ。お腹が空いてるなら、この満腹コースはお勧めだよ」
「じゃあ、それ!」
遥は「まんぷく、まんぷく♪」と鼻歌にしている。オーダーをしてやっと落ち着いた。
「これから寒くなるから、ドライブは大変になる?」
「大丈夫。ただドライブもいいけど、鉄道使うのもありかな。遥ちゃんは、雪は嫌い? 僕は、日本の雪が好きで、見るのも好きなんだけど」
「東京って、ほとんど雪は降らないでしょう。好きなのって、東京の雪?」
「いや、そうだよね。東京はダメだ。一度に都市機能が麻痺してしまう。京都の雪だよ、好きなのは」
「へぇ、ご親戚とかがいるの? 京都」
「……本家の伯父がね」
「じゃ、遊びに行ったときに雪が降ったりしたんだね。京都は、寒いでしょ」
「そうなんだ。京都っていっても、日本海に近い街だったから、海が見えるんだ。雪が降ると海も荒れて。あの景色を見てるとね、時間が止まる……」
どんよりとした低い雲に覆われた空は、まるでそれがその下の海を波立たせているかのような重みを持っていて、風に舞った雪が、切る風の音と共に降り積もる。
日本庭園越しに見えた海は、まるで人間を拒否するかのような荒々しさに満ちていた。
「冷たい、海?」
「……」
返事が返ってこない橘を見ると、遠くを見る目になっていた。そして、周りに誰もいないかのような空気が出来上がっていく。遥は慌てて橘を呼んだ。
「橘さん……」
はっと、遥の顔を見る。一度瞬きをして、どうやらこの空間に戻って来たらしい。
「今は、ここに、いて下さい」
ひと言ひと言、ゆっくり言って、そっと微笑んだ。
その遥の顔を見て、もう一度瞬きをした橘は、「ごめん……」と小さく呟いた。
話を戻そうと、遥は口にしてみる。
「京都の雪と海、見てみたいなぁ」
「うん……」
途端に橘から、沈み込むような返事が返ってきて、遥はもう一度慌てた。
ダメだ、橘さん。すぐどこかに行っちゃう。ダメダメ。京都の話は、今日は止めにしよう。またいつか、話して下さい……。
「私は、冬はやっぱり、お鍋です! 白菜と豚肉の薄切りをミルフィーユにしたお鍋、たまりませんっ」
遥の元気な声で、お腹が空いていた事を、やっと橘も思い出した。
「やっぱり遥ちゃんは、とにかく美味しく食べたいんだね」
「そうです。牡蠣鍋も美味しいですよね。芋煮も、大好きです。すき焼きなんて、天にも昇る……」
「……分かりました。今度は、お鍋食べに行こう」
「よっし!」
また、ガッツポーズだ。次も、その次も、一緒に食べに行きたいと、冷えた橘の胸に、また火が灯った。
橘が元の様子に戻ったのを確認して、遥はガッツポーズの手を下ろした。そして、その手を膝に揃えて、改めてちゃんと頭を下げた。
「橘さん、今日は連れてきてくれて、ありがとうございました」
「いいよ……」
ハプニングもあったけど、これで、少しは仕事頑張れるかな。なんとか、乗り切れたらいいんだが……。
「お待ち同様ー」
湯気を立てた麦飯のお櫃が、テーブルに置かれた。麦飯はお代わりができるらしい。
「わぁ、来ましたよ。満腹とろろ〜♪」
「さぁ、食べよう」
「いっただっきまーす」「いただきます」
「ちょっと、トイレ行ってきますね」
食事も終え、食後の休憩も終わる頃、遥は席を立った。
結局、遥は麦飯を一膳しか食べられなかった。名前の通りの満腹コースで、刺身からてんぷら、とろろはもちろん、とろろの椀そばまで付いていて、もう無理だとのことだ。悔しがっていて、笑ってしまった。
橘は会計をすべく、1階へと下りた。
突然、大きな声が橘の耳に届いた。
「何やってるの! ちゃんと、座って食べなさい!」
「どうして、こぼすの! 茶碗持って食べないからでしょ!」
パシンとおでこを叩かれている。声の主は、1階の客席の家族連れだった。母親が10歳くらいの女の子を怒鳴り散らしている。父親は見て見ぬ振りで、弟と思われる小学生は声を聞く度に、ビクッと震えていた。
「もう、あんたは食べなくていい! そのまま座ってて!」
ずっと罵倒し続けた挙句、そう言って母親は自分の分を食べ続けた。叱られた女の子は無表情に箸を置いて、そこに座っていた。
吐き気がした。橘は会計を済ませ、外に出る。客のために外に用意されていた椅子に座り、遥を待った。外に出たにもかかわらず、店のドアが客の出入りで開け閉めされる度に、あの母親の声が聞こえてきた。
「いつまで、食べてるの! ハルキ、あんたも早く食べなさい!」
「何やってるの! ほんっと、イライラする!」
橘は、耳を塞いだ。息が浅くなっていく。ハァハァと息を何度も何度も吸っているのに、どんどん苦しくなってくる。ダメだ! このままだと、息が吸えなくなる。慌てて、車に乗るために席を立つ。
ふらふらしながら、それでもなんとか車までたどり着いて、ドアを開け、後部座席に倒れこんだ。車のコンソールに入れてある袋を探す。い、息が……、できない!
「橘さんっ!」
遥が橘の後ろから、大声で叫ぶ。頼む……。大きな声を出さないで……。
「どうしたんですか! 苦しいの! 何……? 袋?」
橘が小さく呻いて探している物を、コンソールから見つけて手渡す。
「救急車、呼びます!」
「いい……」
遥のスマホを上から押え、止める。袋を口に当て、何度も息を吸った。ダメだ……。
「……ま、さか、過呼吸ですか!?」
遥の声が遠くで聞こえて、橘は小さく頷いた。
「ゆっくり、吐いて下さい。私が数えるのに合わせて。1、2、3……10」
橘は遥の声を頼りに、息を吐く。何度も吐く。
「大丈夫、大丈夫です。すぐよくなります。もう一回、1、2、3……10。吸って。息、止めて」
少しずつ、少しずつ、楽になってくる。
「もう一度、1、2、3……10」
どれだけ経ったのか、やっと、苦しくなくなってきた。
「息、吸えますか?」
遥の顔が真上にあって、優しく僕を見下ろしていた。小さく、何度も頷いた。後部座席に座った遥に膝枕をされ、無理やり横になっていた。ゆっくり体を起こす。
「よかった……」
グッタリと座席に体を沈める。橘は大きく息を吐いた。時計は16時近くになっていた。
「移動しても、大丈夫ですか? 私、運転します」
「すまない……。こんなことになって……」
「何言ってるんですか、まだ苦しいなら、もっとゆっくりしますよ。無理しないで」
「いや、帰ろう。運転、お願いできるなら」
「はい。任せてください。ゴールド免許ですから」
引き攣った顔でそういいながら、車の装備を点検する。
ウィンカーやワイパー、バックブレーキにハザードランプ、最後はパワーウィンドーまで確認して、そろりと出発した。
「遥ちゃん……、肩の力ぬいて……」
ガチガチになって運転している遥を後ろから眺めつつ、声を掛ける。
「うぅ……、話掛けないで下さい。じ、事故りますから……」
ふっ。こんな時でも、君は可愛いな……。
しかし、まさか今日、過呼吸が出るとは思わなかった。あの声を聞いていて、8歳の自分が甦った。いつも母の声から逃れて、耳を塞いでベッドの下に隠れていた、あの日々……。随分この発作は出ていなかったのだが、聞いている時間が少し長かった。いつもなら、すぐにその場を離れて、回避できていたのだが……。
「遥ちゃん、過呼吸の処置の仕方、どうやって覚えたの?」
テキパキと指示をしてくれた遥の声を思い出し、気になっていたことを聞いた。
「会社の後輩が、1度発作を起こしたことがあったんです。その時は初めてだったから、ビックリして何にもできなくて、救急車を呼びました」
「そう……」
「でも、救急車が来た頃には治ってて、彼女、すごく申し訳ないって随分落ち込んで……。それから、皆で少し勉強会をしたんです。彼女のためにも、私達のためにもなることだからって」
「それでか……」
「まさかこんなところで役に立つとは思わなかったけど、私ごときの言葉にも、橘さん素直に従ってくれて……、よかったです」
「……すごく助かった。ありがとう」
「はい」
それきり言葉は途切れた。それが、橘にはありがたかった。どうして発作が起きたのか、何が起こったのか、きっと聞きたいことは沢山あるだろうに、君は聞かない……。車内にはギター曲が流れ、遥の運転もスムーズだった。
「やっぱり、アナいいですね」
「ん……。楽器は違うけど、音楽はウィリアムズを継承してる。正統派だ」
「うん。本当に日本に来てくれないかなぁ。そしたら、一緒に行きましょうね」
バックミラー越しに笑顔で話す。こんな僕にも、自然に変わらず接してくれて、先の約束までしようとする。遥ちゃん、また……。どんどん君の存在が、大きくなっていく……。
「君の家まで行って。そこからは自分で運転して帰るから」
途中休憩に寄ったSAで、打ち合わせをした。
「大丈夫ですか? 私はいいですよ。どんな手段でも帰れます。……心配です」
初めて不安そうな顔をした。心配されることで、心が揺れる。やはり、不安だったんだよな。君は素振りも見せなかった……。
「もう、大丈夫だから。せめて、遥ちゃんを送らせて」
「う〜ん、はい……」
遥のアパートに到着し、運転を交代する。橘は直ぐに運転席には乗らず、下りる遥を待った。
「本当に大丈夫ですか?」
「うん。ゆっくりさせてもらった。今日は、ありがとう。遥ちゃんもゆっくり休んで。きっと肩ガチガチだよ」
「ふーっ、そうします。……私、お返しできてよかったです」
「お返し?」
「はい。ゴンドラのお返し。助けてもらいましたから。楽しかったです」
どこまで僕に気を使わせないようにするつもりなのか……。
昼間浮かんだ母の顔が、君の笑顔で跡形もなく無くなっていく。できることなら、今、君を抱きしめたい。
「また今度、一緒にどこか行くって約束、まだ有効かな?」
「もちろんです。今度は私、もう少し元気になってますから。仕事なんとか頑張ります。また連れてって下さい。楽しみにしてます」
本当に、抱きしめたい……。
「ん……。じゃ、ね。また今度」
「あっ、家に着いたら連絡ください。できれば、明日もLINEでいいので、連絡下さい。そうしてもらえると、安心します」
「分かった。必ずするよ」
そのまま車に乗り込んで、帰路に着く。まだ油断はダメだな。ちゃんと帰宅して、連絡するから、きっと待ってて。
「昨日はありがとう。お陰でゆっくり休めました」
昨日、帰宅の連絡はすぐにあったのに、今日は夜になってやっとLINEが来た。遅いー! 遥は直ぐに返事を返す。
「今、電話してもいいですか?」
「いいよ」
何だろう……。橘は廊下に移動しようと席を立った。電話が鳴る。
「橘さん、ちゃんと会社にいけたんですか? 大丈夫ですか?」
ずっと待っていてくれたと分かる声で、瞬時に申し訳ないと思った。
少し走りながら移動する。橘が走っているところなど、滅多に見ない部下たちは、少し驚いていた。
「ごめん。心配掛けたんだね。ちゃんと、仕事できてるよ。もう体は全く問題ないから、安心して」
「はぁー、そうなんですね、よかった……。声、元気そうで良かったです。安心しました〜」
橘は、温かい思いがじわじわと胸に広がっていく。
「うん。遥ちゃんも、まだ仕事?」
「いいえ、もう引継ぎも終わりに近いので、定時で帰れました。今は、自宅でくつろぎ中です。梅酒飲んでま〜す」
「いいなぁ、そりゃ」
「橘さんも早く帰って、ゆっくりしてね。じゃ、お邪魔しちゃうので、切りますね。残りのお仕事頑張ってください」
「うん。また、食事行こう。連絡するよ」
「はい。待ってます」
亡くなる半年ほど前の、祖母の顔が浮かんだ。
――お祖母ちゃんね、裕志君のことだけが心配……。1人は寂しいから。
人に心配してもらうのは、お祖母ちゃんがいなくなってから、久し振りだよ。それが、こんなに暖かいことだとは、知らなかった。当たり前じゃないことだと、ちゃんと気が付けて良かった。
大切にしようと思ってるよ。
廊下の突き当たりの全面FIX窓から夜景を眺めつつ、天に語る。「よかったねぇ」と言われた気がした。