香坂
「僕ら、先行きます」
(ここでの尾行は、これで次の組に交代します)
「頼むわ~」
「本人割と僕のこと覚えてるっぽいので、僕ももう帰ります」
(対象者に接触したため、本日は離脱します)
「了解」
「次の店、着いてるんでそこで会おうか」
(待ち合わせの店に到着している。そこで、次の組と交代する)
「分かりました」
香坂はスマホを置いてグラスを手にした。
今は浮気調査の真っ最中である。今回「本人」こと対象者を追っているのは3班。尾行中だが、1班の片割れが対象者が飲んでいるところに声掛けし、次の予定を簡単に聞き出したため、香坂は先回りして到着している。
尾行は、気付かれないのが鉄則だ。もちろん、対象者にもだが、全く関係のない赤の他人にも、尾行だとバレてはいけない。どんな空気の流れで、本人にそれが伝わるか分からないからだ。
そして昨今の尾行は、1対1など決してありえない。尾行する人間は、大抵2人組で、今回のように3組が関わることもザラである。
それらの人間が、尾行途中であっという間に入れ替わる。それは、通りの1本で変わることもあれば、電車の1駅で交代することもある。昔の映画やドラマの探偵は、もう過去の遺物なのだ。
LINEで連絡を取りつつ、どんどん写真を集めていく。対象者が電車に乗れば、1人は電車に同行し、残りの1人は車で先回りする。今日のように本人に接触した場合は、面が割れているため、もうその人間が追う事はない。
後は、ホテルに2人で入る写真を撮り、出てきたら今度は女性を追う。そして自宅を確かめ、身元の確認をし、動かぬ証拠としていくのみだ。
今回は、事前調査がかなり順調に進んだので、相手の女性の動きも分かっている。今、香坂がいるバーは、2人が待ち合わせに使っている何件かの内の1件である。先程仲間が接触した際、こちら方面に行くと言ったとの報告が来て、先回りしている。
「いらっしゃい」
新しい客が入ってきた。対象者の女性である。彼女が席に着く前に、香坂は席を立ち店を出た。それでも顔を見られた可能性は捨て切れないので、香坂もここで離脱することになる。女の確認をすることまでが、当初からの香坂の予定だった。
店を外から確認できる、別のビルの2階にある飲み屋に入り、しばらく待って、男性を追っている組の1人を遠くに確認する。
「会えたから、俺も帰るわ~。まだ中にいるから」
(3班を確認済み。女性はまだ店から出ていない)
「了解」
そんなやり取りで、今日は終了した。後は、他の組が引き継いで動く予定になっている。
「皆んな、お盛んなことで」
香坂は1人ごちた。「結婚」という儀式でわざわざ「この人」と決めて、更に別の人と新しく始める。まったく面倒なことを……。
香坂も1度、結婚はしている。29歳の時だ。大手保険会社に勤めるサラリーマンだった。だが、結婚して6年経った頃、リーマンショックで会社が立ち行かなくなった。なし崩しのように倒産、失業した。
幸い子供がいなかったので、直ぐに元妻が働きに出てくれたが、もともと体が強いほうではなかった彼女が体調を崩し、実家に戻った。それを機に、2人の仲は急速に冷え込んでいった。
香坂は、なかなか元の収入に戻ることができず、元妻は1人娘だったこともあり、そんな香坂の元で苦労する必要はないと、あっけなく離婚に至った。
あの6年で築いた信頼関係はなんだったのかと、随分荒れた時期もあったが、結局香坂は縛られるものもなくなり、再就職していたサラリーマンを止めた。
その後、大学の先輩の誘いに乗り、探偵という仕事に就いた。元保険会社の調査員の経験を生かすことになった。もう、8年になる。
結構、性に合っていると思っている。探偵の仕事は、夜活動することが多い。特に浮気調査ではそうなる。元々夜型であったし、臨機応変に物事を判断する能力には長けていた。人に使われるストレスより、自由な動きができる今の仕事で満足している。ただ、この仕事のお陰で、随分女性には縁遠くなった。
もちろん、体を持て余すほど不自由はしない程度に、相手はいる。体の欲求は処理できているが、香坂の心の方が、動かされなくなっていったのだ。女性の別の顔を、見過ぎたというべきだろうか。
ごく普通の主婦が、清楚で純真なOLが、真面目で成績優秀な女子高生が、ことごとく「対象者」になっていく。真実は、闇である。人の移ろいゆく姿を達観して見られるほど、まだ熟練していないのだろう。
ここを越えれば、「人は皆、愛しいもんだよ」と、所長の様に言えるまでになるらしい……。
そんな日々の中で、遥の存在は、香坂にとっては少し変わったものになった。
「人を探して欲しいのですが」
得意先である橘から連絡が入ったのが、正午前だった。目の周りの内出血は、もう目立っていて、喧嘩でもしたのかと随分驚いたものだ。既に病院には行ったとのことで、眼底出血や頭蓋骨への影響はないとのことで、まずは安心した。
ただ、どうしてこうなったのか、本人に全く記憶がないということで、香坂に依頼が入ったのだ。対象者が男性なのか女性なのかも、全く分からなかった。防犯カメラに代行運転の会社名がはっきり映っていたことで、いっきに解決に向かったが、遥がなぜ橘を助けたのか、そこが最終の疑問として残った。
「お客さんは、『厄落とし』とか、言ってましたかねぇ」
代行の運転手は、そう証言した。「厄落とし」とは、また随分「人助け」とはかけ離れたワードが出てきたものである。
ただ、財布の扱いやカバンの扱い方に、いわゆる悪意がないことから、本当に善意で助けたのではないかと思われた。そもそも、住所を見ても、全くどの方向なのかも分からなかった様子だし、橘の家に到着した際も、「まいったなぁ」と呟いていたとのことで、下心があって助けたわけではないとの心証を受けた。
「身辺調査をしますか?」
一番の核となる質問に、さしもの橘も口ごもる。今迄の経験から、純粋に女性を信じることは難しくなっている橘は、それでも慎重に言葉を選んだ。
「香坂さんが直に会って、見てきてもらえませんか?」
その結果、あの遥の会社前でのやり取りとなった。
遥は実に一般人の代表だった。まずは、強面の自分を恐れ、次に身の潔白を証言する。そして最後は、返礼を辞退した。あまりにあっけなくことが終わり、逆に香坂の方が虚を突かれる形になった。
「そうだよな。これが善良な一般市民だよな」
余りに貪欲な「対象者」ばかりを見てきたため、少し麻痺していた自分に気付かされた。そしてあのイタリアンレストランでの涙に繋がっていったのだ。
香坂は、まだ純粋に人を信じることができていた時の自分を、思い出すことになった。そして、そのきっかけになった遥の顔が、何かの拍子にふと頭に浮かんできてしまうのだ。
――その彼女のことが忘れられるまで、もう顔出さないでね
まだあのスナックには、行けないでいる。
遥に会おうと思えば、いつでも会いに行くことができる。会社も自宅も分かっている。ただ、その手段を使ってしまっては、「卑怯」な気がするのだ。いや、そう遥に思われるという気がする。そして、どう理由をつけて会えばいいのか、そんなことにも戸惑っている。
「どうやって、声掛けてたんだっけな……」
ずっと昔、大学生だった頃や、元妻に出会った頃、俺は女性にどうやって会いたいと伝えていたんだろう。
あの後、橘は遥に連絡を取ったのだろうか。遥はそれに応えたのだろうか。それすらも確認できないでいる自分が、可笑しくもあった。
「こういうの、なんていうんだったか……。老いらくの恋……だよな。いやいや、俺、まだ45だぞ。せめて60越えるまでは、現役バリバリだ」
と笑い飛ばすのが、精一杯だった。
そして今日、あれこれ考えた挙句、遥のアパートのすぐ前にある公園に足を向けた。迷子の猫探しと偽る魂胆である。こんな近くに偶然にも依頼があるはずはないが、そんなことはその後の会話で、なんとでもできるだろうとやって来た。臨機応変には自信がある。
そして図らずも、遥と再会することになった。公園のベンチに遥はいた。
「もしかして、久留宮さん?」
「……樋口探偵事務所の、香坂さん、ですか……?」
「橘さんの件では、どうも。元気でした?」
「どうしたんです? お仕事……では、ないですよね……」
「迷い猫……、っていうのは嘘で、ちょっと近くまで来たので、元気にしてるかなぁと思って、寄ってみたんだけど」
「あら、私ですか? それとも、橘さん?」
いやいや、橘さんに会うなら、わざわざここには来ないでしょ。
「何飲んでるの?」
「あっ……、梅酒を……」
「こんな外で、もう寒いのに……、どうした? 何かあった?」
「……お隣が、夫婦喧嘩始めちゃって。いつもなの。すぐ収まるんだけど……」
「部屋に、いたくなかった?」
「……」
「俺、お邪魔?」
「……いえ。月が綺麗でしょ。だから、外で飲もうかなって……」
「で、部屋着のまま、何にも羽織らずに?」
香坂は、自分の着ている薄手のコートを脱ぎ、遥の肩に着せる。
「ダメですよ。私はお酒飲んでるから、大丈夫。香坂さん、風邪引いちゃいます」
「じゃ、こうしよう」
と言って、遥の肩を引き寄せ、2人でコートを共有する。体が触れ合うため、温かさが倍になる。
「……あったかいですね」
「仕事で、何かあった?」
「……どうして、そう思います? やっぱり私、仕事できなさそうですか?」
「随分、自虐的だな。女性が1人で辛そうに酒飲んでるなんて、仕事か恋愛のことぐらいだ」
「……さすが、探偵さん」
「で、何があったの」
「……何でもありません。大したことない」
「久留宮さん、いつもそうなの?」
「そうって……?」
「全部、ため込んじゃう」
「……」
「ふーっ、まぁいい。頑張り屋さんってことだな」
そういって、遥の頭を何度か撫でた。そんなに、優しくしないで……。
「探偵って、お給料いいですか?」
「何? 急に」
「私でも、なれます? 1人暮らし続けられるくらい、稼げますか?」
「仕事、そんなに辛い?」
「……」
「久留宮さんはまだ若いから、どうしても苦しかったら転職すればいい。どの会社でも、前職の給与は、ちゃんと考慮してもらえるはずだから」
「……はい」
これでは、一生話してもらえそうにないな。話題を変えるか……。
「そういえば、橘さんの件の時ね……」
「はい」
「『厄落とし』って言ってたって聞いたんだけど、何だった?」
それを聞いた途端、遥の顔が一変した。さっきまでまだ柔らかく笑いながら、自分のことを他人事のように話していたのに、みるみる苦痛に歪んでいく。どうした……。
「わ……たし、ホント、人望なくて……」
「……」
「上司にことごとく嫌われて」
「……」
「可愛くないんです。口答えするし、理屈こねるし、シビアに間違い指摘するし……」
それは、確かに可愛くないかな……。
「でも、派遣さんとなんて、口もきいたことないのに、喫茶コーナーでたまたま一緒になるくらいで、挨拶するぐらいなのに……」
ん……、派遣さん?
「一度に辞めたのは、私のせいじゃない……。私、何にも言ってない……」
とうとう涙が溢れてしまった。「うっ」と一度声になってしまって、慌てて両手で口を塞ぐ。後は体を揺らして嗚咽するのみの遥を、香坂は抱えるように抱き締めた。
「遥ちゃん、泣くなら、ちゃんと泣いて」
「もう、私、無理だ……。もう、無理……」
遥の頭を抱え込んで、ずっと髪を撫で続けてくれる香坂の胸は、とても暖かかった。
「どうして、そういうことになったの」
香坂は落ち着いてきた遥の頭を胸に抱いたまま、聞いた。
「今日、今月一杯でウチの派遣さんが3人辞めることになったって、朝礼で」
「うん」
「みんな、どうしたんだろうって……」
「うん」
「10時の休憩時間になって、喫煙室で課長と営業さんが話してて」
「うん」
「課長が、『どうせあの久留宮がなんか言って、いじめたんだろうよ』って」
「……」
「私、知らない。仕事も一緒じゃないし、種類も違う……」
「……うん」
「なのに、私、異動だって。来月から。でも、私、みんなに、会社にそう思われてるんなら、仕方ないなって。迷惑掛けてるなら、しょうがない……。でも……」
また、肩が震えだして、もう一度香坂は抱き締め直した。
「遥ちゃん、無理なら、1度手放すのも手だよ。それは、負けじゃない。人生はね、勝ち負けだけで出来てるわけじゃない……」
勝ち負け……、そうだ。ここで我慢できなければ、負けるような気がして、悔しくて、悲しくて……。
「はい……」
「それにね、遥ちゃんは関わってないってことを、きっと分かってる人もいるから。君は1人じゃないから」
「……そうかな」
「あぁ、間違いない。人はね、ちゃんと見てる。遥ちゃんのいいところ、ちゃんと見てくれてるから」
遥はやっと落ち着いて、ゆっくり香坂から体を離した。
「すみません……。みっともないとこ、見せちゃって……」
「いや、人生の岐路だよ、遥ちゃんは今。ゆっくり考えればいい」
「はい。そうします。……あの、香坂さんまで、遥ちゃんって……。私もう30です」
「俺……まで?」
「橘さんも……」
先、越されてたか。やっぱりあの涙は、さすがの彼の心にも響いちゃった訳だ。香坂はこめかみをポリポリした。
「やっばり、連絡あった?」
「はい。お食事行きました」
「そう」
「あの、橘さんのご両親って……」
「それは、俺に聞くことじゃない」
「でも、お2人はお付き合いが長いんですよね」
「守秘義務」
キッパリと断られた遥は、大きくため息をついた。
いつまでもしょげている遥に、香坂は声を掛ける。
「そんなに、知りたい?」
「どうして今、ひとりなんですか? 食事や身の回りのこと、どうしてるんですか? 友達はいないの?」
突然、遥は香坂に口を塞がれた。彼の唇で……。
「他の男の話は、聞きたくないよ」
「……香坂さん」
思わず遥は香坂から離れて、立った。確認するように人差し指をそっと唇に当てた。
「遥ちゃん。俺は相談に乗るだけの、優しいおじさんじゃない。わざわざ君に会いに来た。それは知っておいてもらいたい」
「えっ……」
「って、ちょっと急いだかな。橘さんのこと聞かされて」
「……」
「よし、仕切り直し。まずは、遥ちゃんの仕事のことを優先しよう。きっと、この1~2週間が一番つらいから、ここをどう乗り切るかだな。大丈夫?」
「わかり……ません」
「心配だから、連絡はしても、いいね」
「……はい」
「じゃ、今日は帰るよ。風邪引かない様に、すぐ部屋に戻って。さあ」
「あの……」
「ここで見送るから」
「……ありがとうございました」
「ん。また今度、食事でもしよう。1人で、悩まないで」
「はい。お休みなさい」
「お休み」
建物に入っていく遥を、香坂はコートを着ながら見守った。
「まったく、ペース乱れ過ぎだな……」
ふっと笑いながら車のエンジンを掛ける。明日から少し、忙しくなる。
「淳子さん、お久しぶりです」
「えっと、探偵さん?」
香坂は遥の会社の近くで、あの食事で一緒になった淳子が出てくるのを、張り込んだ。もちろん不審者に扱われないよう、そこはプロなので抜かりはない。
「少し久留宮さんのことで聞きたい事があるんですが、お時間頂けませんか?」
「何ですか? 遥のことって、変でしょ。もう、この間のことは終わったんですよね」
「今度、異動になったとか」
「えっ、どうしてそんなこと知ってるんです? 誰の依頼です」
「う~ん、ここではゆっくり話せないので、美味しいパスタかガッツリお肉か、どちらがお好みですか?」
「……お肉で」
「ということは、本当にその課長の言葉で、会社がその人事を下したと?」
「まぁ、そういうことです。遥、よく我慢したと思いますよ。あの課長、ホント、バカ課長で。あの人の言うことを鵜呑みにしちゃう、上も上だし。遥も、結構上にもバンバン噛みついてたから、上も信じちゃったんでしょうね。『隔離』ですね」
「それ、パワハラですよね。今時、珍しい」
「結局ね、上は遥が怖いんですよ。遥が物申したことで、結構ウチの会社のシステムが変わってるんです。遥は当たり前だと思ってるかもしれないけど、会社にしてみれば正当なこと言われるから、逃げ場がない訳です。遥のお陰で、労務士も付いたし、コンサルまで出入りするようになった。目の上のコブですよね」
「なるほど。遥さんが会社に入るまで、身内経営の延長だったわけですか……」
「ちょうど、私達が入ったころから、急に大きくなったので、上の人間は付いていけなかった。そこに、正義感も強く弁も立つ遥の存在が重なって、完全に彼女は上層部を敵に回したってことです」
「遥さんは、自覚してる?」
「あの課長ですから、自覚せざるを得ません。今は随分大人しくなりました」
「派遣がまとめて辞めた理由は、淳子さんはご存じですか?」
「あぁ、想像はできます」
「なんです?」
「ウチの会社、社長が女性なんですけど、一代で大きくした会社なんです。北欧の雑貨に、30年以上前に惚れこんで扱うようになって。その社長が、病気になったんですよ。これ、会社の信用が落ちるのを恐れて、実は極秘情報ってことになってるんですけど、社員で知らない人はいません。ただ、さすがに派遣会社さんまではまだ漏れてなくて、問題もなかったんですが、どうやらバレたみたいで。そしたら、一気に不安が広がってしまって……」
「実際に売り上げが落ちたんですか?」
「いいえ。ただ、売り上げが伸びてないのも事実なんです。ウチの派遣さんは、紹介派遣が多くて、1年経てば社員になれるんですが、こんな不安な会社の社員にはならない、ということなんだと思いますよ。実際辞めた3人も、2か月後に正社員になる予定の子達ばかりでしたから。若い子たちは、変わり身が早いんです。派遣に見限られる会社って、どうかと思いますよ、まったく!」
淳子は最後のステーキ肉を、パクリと口に入れた。200g6千円の肉である。
「なるほどねぇ」
「……香坂さん、遥に惚れました?」
「……」
「まぁ、別にいいですけど。これ、自腹ですよね。経費で落ちないでしょ?」
「ええ、まぁ」
「ご馳走様でした。遥には内緒にしときますね。私も、可哀そうだとは思ってるんですけど、逆に、あの課長と離れられるから、少し良かったかもって思ってるんです」
「そうですか。ありがとう、お話聞かせていただいて」
「香坂さん、結婚してないでしょうね」
「……今は」
「それなら、いいです。あの子、あんまり恋愛体質じゃないから、香坂さんくらいの人の方が、いいかもね」
「……おじさん、ってことですか?」
「そういうことです。じゃ、これで帰ります」
さっぱりとした女性と言えば聞こえはいいが、随分はっきりものを言われて、香坂も「おじさん」を改めて自覚する。
「まだ45だ」
小さく反論するが、その独り言が随分空しく自分に響いた。
次に、桜岡を捕まえる。
「な、なんですか」
どうやら、こちらのことを覚えてないらしい。
「久留宮さんの『知り合い』です」
「は?」
「今日は若頭はいませんが」
「あっ……」
ゆっくりと2歩さがった。それを見て、香坂は内心クスッと笑いながら、更に追い詰める。
「あんた、何やってる。彼女が異動になって、送別会の声も掛けてないのか」
ちょっとカマを掛ける。
「えっ、あっ、それは……」
「確か、同じ課で働いてたんだよなぁ。このままだと、辞めるぞ。いいのか」
「それは……、困る」
「慰めてやれ。お前しかいないんだぞ。慰められるのは」
「わ、分かってますよ」
「どう分かってる?」
「頑張ってって、言いますよ。こっちだって、実際色々分かってる彼女がいなくなるのは困るんだ。派遣じゃ、代わりにならない」
香坂は内心、ほくそ笑む。顔を近くまで持っていって、凄む。
「今の、そのまま伝えろ。いいか、頑張れより、困るの方だぞ」
「えっ」
香坂はそのまま、桜岡の前から離れた。
「あとは、疑惑の課長だな」
香坂は課長を尾行した。1対1ではあるが、証拠を撮影しなければならないわけでもなく、今日失敗しても明日も明後日もある。彼の1日を確認するために、後をつける。何が彼をそんなにイラつかせているのか、それが知りたかった。
それはきっと1つの事柄ではなく、幾重にも重なって、自分でも訳が分からない苛立ちに、がんじがらめになっているのかもしれない。
いつか遥に伝えることになるだろう課長の色々が、分かってくる。歳を取れば、様々なしがらみを自分から引き剥がせなくなる。
人生80年と言われるようになって久しい。今では、100年とまで言い出す始末だ。我々は、「長生き」にこだわり過ぎた。「長生き」の人達が増えたことで、「長生き」の現実を見せつけられることになった。
「子供に迷惑を掛けたくない」という人々は多い。では、敢えて問うならば、今「迷惑」を掛けている年寄りは、掛けたいと思って掛けているのか……。
つまり、「迷惑」を掛けずに年を取るということは、不可能だということだ。
更に、年を取れば「楽しい」ことはどんどん減っていく。それは、年寄りから「生きる意味」を奪っていくことに繋がっていく。
香坂は思う。夢の「長生き」時代は、終わりを迎えた。
団塊の世代はきっとこのまま「長生き」の人口を増やしていくだろう。しかし、その面倒を直接見る世代は、明らかに人手も資金も足りない。香坂の周りでも、無条件に「長生き」したいという人々は、本当に少なくなった。元気で年を取るなんてことは、「夢のまた夢」だと知った。
江戸時代の寿命で十分だという人までいる。きっとそれが、「人間」としての限界なのではないかというのである。さすがにこれは、あまりに極端な意見だが、香坂も漠然と「長生き」に執着する愚かさに、気づき始めている。
「このまま1人なら、俺も孤独死だな」
電車の中から流れる景色を見ながら、人には聞こえない声で呟く。
だからなのかもしれない。残りの人生を誰かと一緒に過ごすのなら、あの笑顔がいいと思ってしまう。
遥ちゃん、君は俺が手に入れられるものなのか……。手に入れてもいいものなのか……。