ギター
「遥さん、蟹クリームコロッケ好き?」
突然、こんなLINEが橘から送られてきた。
何、この的を絞った攻め方は……。しかも、すっかり的を射ている。これ「好き」だと返せば、必ず食事に誘われるよね……。どうしよう。う~ん……、と唸っていたら、連投が来た。
「毎年、この時期にしか食べられない絶品のお店があるんだけど、今日用意ができると、お店から連絡が入ったので、どうですか?」
うぅ……。く、苦しい……。心を鷲掴みだ……。
「僕1人でも行くつもりでしたので、無理しなくていいですよ」
1人でも行く……。ま、負けました……。こんな誘い文句に抗える女子がいるのだろうか……。
「あの、ドレスコードがあるお店だと、今日は無理です」
とうとう返してしまった。それ、すごく美味しい? ほっぺ落ちる?
「大丈夫。逆に、狭いところだから驚かないでよ」
ダメだ~。橘さんは、女性の扱いを心得てる……。
というわけで、自称、食い意地の張った遥としては、その面目を保つため、待ち合わせの駅に降り立った。
「お待たせ」
後ろから声を掛けられた。割りと近くからだったため、心臓がドクンと音を立てた。そう、やはり橘の声は、心臓に、いや脳に、直接響く……。
「あの……」
「突然で悪かったね。仕事は大丈夫だった?」
「あっ、はい。月末ではないので、大丈夫です」
「そう。遥さんは月末は忙しいんだね。了解」
ぅわっ、自ら情報提供してしまった。橘さん、どんだけ~。
「あの、お誘いいただいて、ありがとうございます」
遥の様子を上から下まで眺め、橘は言葉にする。
「ドレスコードがあっても、大丈夫じゃない。きちんとしてる」
もぉ、何この誉め方。キュンキュンするな、私!
「えっと、誉めすぎです」
「いや、素敵ですよ。この間もそうだったけど、よく自分に似合うもの、分かってる」
はぁ、分かりました。降参です。今日は敗北者の立場を弁え、お供いたします。
「橘さんには、参りました。ありがとうございます。お供させて頂きます。行きましょう、コロッケが待ってます」
小さく声を出して笑った橘に、すっと腰に手を当ててエスコートされた。
何なのでしょう……、三十路女が、すっかり20代に逆戻りしている。こういうのは、ほとんど日本では経験したことがない。せいぜい、前の男性がドアを開けてくれるぐらいだからなぁ。
レディーファーストを体験できて、嬉しゅうございます。ドキドキしてるのに、エスコートのお陰で自然に横に並んで歩くことができた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
「待ってましたよ、橘さん。今年初めてだからね、まずは橘さんに」
「やっとこの季節になりましたね。今日は、喜びを分かち合おうと1人同伴願ったのですが、大丈夫?」
「たっぷり作ってあるから、大丈夫ですよ。美味しい物は、一緒に食べる人がいると、もっと美味しくなるからねぇ。いつもの焼酎でいいかい?」
「遥さん、お酒飲める?」
「はい……」
「あぁ、でも、今日は食べようか。オヤジさん、ノンアルコールでいいや」
「本気で食べるつもりだね。そちらのお嬢さんも、同じでいいかい」
「あっ、はい」
そこは小さな居酒屋だった。縄暖簾の掛かった、間口が2間の古い店だ。
カウンターに何とか4人座れるだろうか。その後ろに、小さなテーブルが2つある。椅子も1番シンプルなもので、背もたれのない縄で座面ができているものだ。少し大きな人だと、後ろの人と背中がぶつかってしまうだろう。遥達は奥のテーブルに落ち着いた。本当に狭い。
「橘さん、よくいらっしゃるんですか? こちらには」
「ああ。割と長いよ」
「へぇ、意外……」
「……そうだったね。僕は確か、庶民の味は知らなかったんだっけ?」
笑いながら、ノンアルコールを注いでくれる。
「だって、最初があんまりだったから……。どうぞ」
遥も橘にお酌して、グラスを合わせた。
すぐに出てきたお通しを「いただきます」と口にする。
「ん……、おいしっ」
「よかった。大丈夫だとは思ってたけど、ここ、美味しいもの以外、出てこないから」
また笑った橘の顔が、急に小さな子供のように見えて、遥は一瞬動きを止めた。
「ん……、どうしたの? これも美味しいよ」
橘はお刺身を頬張っている。また表情のない仮面に戻ってしまうといけないので、そんな顔も持ってるんですね、とは言葉にしなかった。
「これ、マグロ……ですよね」
「驚くでしょ。やっばり」
「はい」
まるで、もっちりとした羊羹を食べたときのような食感がする。いつも食べているマグロは、これに比べれば随分つるっとしている。
「これが本当の赤身らしい。ねぇ、オヤジさん」
「そうなんだが、なかなか今こういう赤身を出す店が減りましたねぇ」
小さい店だから、2人の会話は余程内緒話をしない限り、筒抜けになる。こういう店によくあるテレビも置いてないから、尚更よく聞こえているだろう。
でも、こちらから話さない限り、きっとこの店主は声を掛けてくることはないと思われた。
「コロッケが出る前に、もう一品お勧め」
橘が次に頼んだのが、イカのお造りだった。
出てきたものは、生のものだけではなく、湯通ししてあるものもある。飾り包丁が綺麗に花を咲かせている。
「どうぞ、召し上がれ」
まずは遥に食べろという。生の方を口に入れて思わず声が出た。
「甘~い」
「じゃ、次はこっち食べて」
言われた通り、素直に湯通しされたものも頬張る。
「ぅわっ、もっと甘い……。おいし~」
顔がとろける。美味しい。イカって、こんなに美味しかったっけ。
「これでその顔ってことは……、コロッケが楽しみだな」
「えぇー、もっと美味しいんですか? 今、ハードル上げちゃいましたよ~」
「はは、そうか。こりゃ、マズッたかな」
そう言いつつも、余裕の笑みの気がする……。
店の壁に、「今日のお勧め」が黒板に書かれているのだが、「マグロ」にしても「イカ」にしても、どれも他の居酒屋で良く見るメニューばかりだ。特に変わった名前のものはない。
でもそれが、普通の味ではないとが、この刺身を食べればさすがに分かる。やっぱり、上流階級の皆様は、美味しいものを知っているんだなぁとしみじみとしてしまった。
少し大人しくなった遥を見て、橘が小さく声を掛ける。
「狭くて、驚いてる?」
「いいえ。やっばり、美味しいもの知ってるんだなぁって、感動してたんです」
「……やっぱりって?」
「だってここ、きっとネットには出てないでしょ。つまり、人づてってことですよね。そういうのって、お顔の広さが出ます」
「……会社関係で知ったわけでは、ないよ」
「あら、そうなんですか?」
「僕も、あんまり会社の人間とは、一緒に食事をしないから……」
僕も……? 「も」って……。あぁ……、そっか。
「そうでしたね。聞かれちゃってたな、飲み会断った理由……」
――みなさん、私がいてもそんなに楽しくないと思うので……
初めて会った時のことを思い出していた。
「仕事、キツイ?」
「ううん。仕事自体は、ルーティーンだから大変ではないんです。もう8年以上のベテランですから……。ふふ、お局さんも間近ですよ」
「そうか。まだ、お局さんにはなれてないんだ。なれば、それはそれで楽みたいだけど」
「そうですかねぇ。私はダメじゃないかな。あんまり、人に自分の価値観を押し付けるのは、慣れてません。難しい……、人間関係って」
「……まぁ、会社なんて大してどこも変わらない。人が多くても少なくても、身の回りに起こることは、きっとそんなに大きな違いはないと思ってるよ」
「課長さんのように偉くても、ですか?」
「偉くないよ。僕は、僕だから……。皆んなね、大概は自分以外のことは、どうでもいいんだよ。1番自分が大事だから……。だから、そんないい加減な他人の意見に苦しむ必要はないと思う。遥ちゃんは、遥ちゃんのままで十分だ」
「橘さん……」
目が熱くなって、思わず俯いた。
ダメだ。このまま今の言葉噛み締めてたら、涙になっちゃう……。
「遥ちゃん、って……、もう私30です」
「あっ、ごめん、つい……。セクハラ?」
「ウチの課長なら、訴えてますよ。でも、イカに免じて特別に許可します」
「そりゃ、助かった。では、『遥ちゃん』でいこう。その方が、話し易い」
照れながらも、小学生依頼の呼び方に少し嬉しくて、頬が緩んでしまう。やっぱり、セクハラって相手次第なのよねぇ。
そのままお刺身を楽しんでいるところで、遥が急に箸を止めた。
「ん……、どうした?」
「橘さん、このお店って『有線』ですか?」
「あぁ、そう。珍しいでしょ、クラシック」
流れている曲を遥が聴いている。途中から目を閉じて、少し眉間にしわまで寄せている。線の細い音がしていた。他の客も入り始めていたから、聞き逃しそうな繊細な音。
「これ、今流れてる曲、誰の演奏だか調べたいので、ごめんなさい。食事中だけどスマホ見てもいいですか?」
「……、これなら、分かるよ」
「えっ……」
「アナ・ヴィドヴィチだよ。アランフェス協奏曲」
「……」
もう、目が点になるとは、こういうことを言うのだと、体現させてくれる。どれだけ橘さんは、私を驚かせたら気が済むのだろう。
息を30秒程止めた後、やっと肩の力を抜くことができた。
「何なんですか、橘さん! 息が止まるじゃないですか~」
「何で!?」
橘は、遥の言葉に笑い出していた。
「だって、音だけで分からないでしょ、普通」
「CDを持ってるんだ、これ」
「はぁ~!? もぅ、何~!?」
橘は眉を寄せて、笑いながら困った顔をしている。
「何って言われても……、彼女いい音だから……」
「アナ……なんでしたっけ? 女性なの!? それもビックリ! もう、もう、頭がパニック」
「遥ちゃん、面白いねぇ。まずは、落ち着いて。ほら、コロッケが来た」
思わず振り向いて、店主と目が合った。
「楽しんでるね、橘さん。お待たせ」
途端に遥が静かになった。何をどう整理したらいいのか訳が分からないが、うん。今の1番の最優先は、これを味わうことであります。
それを見た橘が、くっくっと笑いながら新しい取り皿を渡してくれる。
橘は、黙って遥の様子を眺めることにした。
箸で割れば、中からベシャメルソースがふんわりと湯気を上げる。流れ出すほどの柔らかさではないが、このまま放っておいたら、すぐに形が崩れてしまう固さ。ふぅふぅと何度か冷まして、頬張った。
「……」
遥の顔が崩れていく。息を吸いながら目が大きくなって、次には目を閉じる。何度か租借して、もう口の中には何もない。
「ふぅんーーーーー……」
長い長い溜息をついて、更に残りを口に頬張る。僕のほうを一度も見ない。きっと、今、彼女の周りには、誰も入る余地はないな……。
残りも食べたところで、初めて僕の目を見た。そのままお皿をこちらに突き出して、
「はぁ……、橘さん。もう1個、下さい」
それ以外の言葉はないという顔で、要求してきた。
はっはっはっと、声を出して笑ってしまった。まだ4個もあるから、安心して。何なら僕の分も、全部あげるよ。黙ってもう一個遥の取り皿に載せて上げて、もう一度遥の顔を楽しんだ。
「そんなに美味しいなら、僕の分も食べていいよ」
「やだぁ~、もぅ、これほんとに美味しいぃ。一緒に食べましょー。これ、誰かと分かち合わないと、収まりません!」
……なるほど、そういうものだったか。もう、同じ思いなんて、随分長いこと忘れてた。
橘もコロッケを口に入れる。蟹の芳醇な香りと、ベシャメルソースの旨みと、何度食べても美味しい。
「美味しいですねぇ~」
僕が食べ終わるのを待って、遥がこぼれそうな笑みで同意を求める。その顔が……、なんとも幸せそうだ。うんと頷いて、笑いかけた。
僕の笑顔に応えるかのように、もう一度遥も笑顔になる。あぁ、笑顔というのは、こうやって誰かと一緒になれば、倍々と大きくなっていくものなんだな……。初めて、知った。
「よかった……」
君と一緒に食べられて……。もう1つ、コロッケを頬張った。
「ごちそうさま。本当に美味しかったです。人生で1番美味しい蟹クリームコロッケでした」
「そうだね。美味しかった」
いつもより、ずっと……。
ここからはもう一度電車に乗り、いつもの駅に向かう。その後は、遥はバスに乗り換え、橘は歩いて帰る。
「さっきの……」
電車に揺られながら、橘が話し掛ける。
「ええと……、コロッケ?」
「いやいや……」
ほんとに楽しいな。それしか、もう今日は記憶になさそうだ。
「CD」
「あっ、そうだった」
「今から、家に寄らない。貸してあげるよ。今日、飲まなかったから、後は車で遥ちゃんの家まで送ってあげられるよ」
「えっ、いいんですか!? 是非、貸してください」
即答だな……。もう少し男の家に行くことは、躊躇すべきだぞ……。まぁ、そうやって見られてないってことかな……。
「あっ、でもご迷惑ですね。家になんか伺ったら……」
気が付いたか……。
「大丈夫だよ。大して近所づきあいがあるわけでもない」
「でも……」
「聴きたくない? あのCD」
「聴きたい! う~ん、でも……」
CDを貸せば、返してもらうためにまた会うことができる。迷っていた遥を、強引にバスに乗せずに歩かせた。
駅から15分程歩く。割と坂が多いので、遥はキョロキョロしながら歩いた。
「立派なお宅ばかりですねぇ。しかも、静かです」
「そうかな。ずっとここだから、他を知らない。そういえば、遥ちゃん、実家はどちら?」
「横浜です。山手ではないですよ」
「そう。1人暮らしは快適?」
「最初は寂しかったけど、慣れました。ウチ、女が4人もいるから、いつも姦しくて。お父さんは慣れてたけど、おじいちゃんはうるさいと、こっそり隣のお家に逃げてました」
「はは、それはお気の毒。お隣とも仲がいいの?」
「はい。戦後の混乱を共に乗り越えた同士らしくて。ウチのおじいちゃんの為にも、お隣のおじいちゃんには長生きしてもらいたいです」
普通に育ったんだな。皆に囲まれて、愛情を受けて……。だから、あの笑顔ができるのか……。
橘は、到着した家の玄関を開け、遥を中に誘った。
「わぁ、広い」
「そう? 無駄に広い感じがするけどね。さぁ、上がって」
玄関を上がり、ロビーに佇む。
この間は真っ暗で分からなかったが、ロビーには小さなシャンデリアが下がっていた。手の込んだ彫刻が施された手摺の階段が、右手側から2階に伸びている。下は絨毯になっている。柄がたっぷり入っていて、ふわりとした感触があった。入ってすぐ左側の部屋に案内される。応接間と思われた。
「CD探してくるから、ちょっと待ってて。寒くない?」
「大丈夫です」
「座ってて」
そう言って、橘は部屋を出て行った。
改めて部屋を見渡した。部屋の広さにも驚くが、それよりも天井の高さが「本物」を語る。こちらにもアンティークと思われるガラスのシャンデリアが下がっていた。玄関のものよりも、かなり大きい。
ソファの1つに腰掛ける。暖炉にバーカウンター……。ため息をつきつつ眺めていたら、バーカウンターに隠すかのように置かれている、黒いものを見つけた。吸い寄せられるようにそれを確かめに行く。
ギターケースだった。更にカウンターの奥には譜面台があり、その譜面台には楽譜が開かれた状態で置かれていた。
「お待たせして、CD結構多くて……」
橘が部屋に戻ってきた。ギターの前にいる遥を見つけて顔が一瞬強張ったが、すぐに元に戻り近くにやってくる。
「はい、これ」
「ありがとうございます。わぁ、アナって、綺麗な人~。遠慮なくお借りします」
手に取ったCDを、遥は一旦バーカウンターに置いてしまった。
なぜ、そこに置く……? その行動を目で追っていた橘が、遥の顔に目を戻した時には、遥はこの上もなく嬉しそうな顔をして橘を見ていた。
「橘さん、手、見せて」
手? 突然何を言い出すのか……。
遥は両手を揃え、手の平を上に向けて前に突き出した。
「何?」
「いいから」
遥がもう一度手を揃える。仕方がないので、彼女の掌に、橘は両手を乗せた。それを見て、彼女の顔が更にほころぶ。すぐに手を離し、ギターケースの隣に移動して聞いてきた。
「これ、弦、緩めちゃってます?」
「いや……」
あまりに自然な質問だったため、正直に答えていた。
「やっぱりね! 聴かせてください。なんでもいいから。橘さんのギター聴きたい!」
遥は浮足立つ素振りで、そのままカウンターの椅子に腰掛けた。
さぁ、いつでもどうぞ! と期待を込めた笑顔で構えている。
「いや、聞かせられるようなもんじゃないよ。随分弾いてないし、無理だから……」
その言葉を聞いた遥は、自分の右手を顔の横まで上げ、その爪を左手で指差し、トントンとしながら続ける。
「右の爪は2、3mm残して揃えてあって、人差し指から薬指までの3本は補強のアロンアルファまでしてある。そして、左手の爪は綺麗に全部切り揃えてあって、しかも弦は張ったまま……。毎日弾いてますよね。その言い訳は通用しませんよ」
「……」
橘は驚いた。さっき手を見たのは、爪を確認していたのか……。
弦は、確かに緩めるとチューニングが面倒なので、張ったままだ。楽器に余分なテンションが掛かるので本当は良くないのだが、毎日のことなので滅多に緩めることはなかった。
「遥ちゃん……」
「さぁ、何弾いてくれるんですか? その楽譜の、ヴェネズエラ・ワルツの3番、私大好きです!」
諦めた様子は、まるでなかった。
君は分かっているのか!? そんな顔をされて、期待に応えようとしない男は、世の中にいないんだぞ、まったく。
「あとで、いろいろ聞かせてもらうから!」
そう言い放つと、橘はギターを用意しだした。
いくらなんでも、すぐにこの曲は無理だ。指慣らしで、バッハの無伴奏を弾く。弾きながら、微妙にズレているチューニングも直していく。遥の顔が、喜びと驚きで上気していくのが分かった。
全てが整ったところで遥の目を見た。緊張した顔で、遥も息を止める。始めるぞ。
弦が少し固めの音で鳴る。この曲は、最初のフレーズから既に難しい。単音によるメロディーなのだが、音が飛んでいるため正確な音を押さえづらい。すぐにハイポジションになるため、音そのものも出しづらいのだ。
右手とタイミングが合わなくても、きちんと音がしない。しかも途中、変調を繰り返し移動する小節がもっと大変で、素人は大抵ここで挫折する。
軽やかに始まったリズムそのままに全曲通すのが難しいのだ。3分弱の短い曲なのだが、見た目以上に技術が必要な人気の曲である。
しかし、橘はまるでそんなことを感じさせずに、楽譜も見ず、弾きこなす。メランコリックなメロディが、小さな1音で終わった。
「すごい、すごい、橘さん、すごい!」
手を叩きながら遥は心臓がバクバクする。本当に、スゴイ!
「……遥ちゃん、ギター好きなの?」
何度も頷きながら、橘から目が離せない。
「お願い、もう1曲。もう1曲でいいから」
何年振りに人に聴かせたのだろう。もう、数えることもなくなった。しかも、こんなに喜んで……。
――裕志君、すごいわねぇ。お祖母ちゃん、自慢の孫だわぁ
――ねぇ、いつもの弾いてちょうだい。お祖母ちゃんが一番好きな曲
「あと1曲だよ」
始めた途端、遥が「あっ」と小さい声を出した。橘は弾きながら、彼女はこの曲が分かるんだなと思った。
「大聖堂」バリオスの曲だ。クラシックギター曲の中でも、正統派の名曲である。3楽章からなり、作曲された当時は第2と第3のみの2楽章だった。そこに加筆され、現在の形になっている。
ハイポジションから始まる第1楽章で、聴く者をあっという間にその世界に引きずり込む。そして最終章アレグロは、1度聴けば誰もが忘れられないメロディである。トレモロがずっと続き、波のように聴く者に迫ってくる。短調のメロディがいつまでも惹き付けて止まない……。
最後の和音が終わった。余韻が、辺りにふわりと残った。
「すごいなぁ、橘さん。完璧だ……」
遥は、夢を見るような目で、橘を見ていた。何でも持っている人は、本当に何でも持っているんだ……。
「久し振りにこの曲弾いたから、あちこち抜けたよ。練習不足」
「ううん。完璧。何もかも……」
ふーっ、と溜息をつきながら遥が答えた。やっぱり橘さんは、遠い存在だ。
「お祖母ちゃんがね……、好きな曲だった」
「えっ……」
「祖母」ではなく、「お祖母ちゃん」という呼び方に、遥は、遠いと思っていた橘が、いきなり近くに引っ越してきたお兄さんのように感じる。
「そうだったんだ……」
「ん……」
ギターをケースに片付けながら、優しい顔だった。
「さっ、遅くなったから、送るよ」
「あっ、はい。すみません。よろしくお願いします」
車内に戻っても、しんみりした空気は変わらなかった。
「お祖母さんは、いつお亡くなりに?」
「もう13回忌は終えてるよ。それからは、数えなくなった」
「そうですか……」
「遥ちゃん、ギターどうしてそんなに詳しいの? クラシックの中でも、割とマイナーな楽器だよ」
そう、なんでそんなにギターに詳しい? 元彼でも弾いてたか!? しかも、クラシックギターだと、ケースを開ける前から分かっていた。
「繊細な音ですもんねぇ。コンチェルトにもなりづらいですよね」
ほら、そんなことも分かってる。なぜ?
「叔父が、母方なんですけど、クラシックギターが好きだったんです」
「そうなんだ」
元彼では、ないらしい……。
「私が小学校に上がってすぐの頃、20年以上前ですね。コンサートに連れて行ってくれて。私、叔父が大好きだったので、よく色んな所に連れてってくれたんです。2人だけで出掛けるから、妹がいつも焼き餅妬いてたなぁ。東京文化会館でのリサイタルで、イギリスから来た……」
「ジョン・ウィリアムズ」「ジョン・ウィリアムズ」
声が重なった。
「えっ?」
「僕も、行った」
「……うそ」
「……ほんと」
「えぇ、うっそー!」
思わず橘の顔を見た。橘も嬉しそうに遥の顔を見る。
「中学生になったばっかりだったな。どの辺の席?」
「よく覚えてないんだけど、手がね、指使いが見えたのを覚えてるから、前のほうだったと思うの。一体、どうやってこの音出してるんだろうって、必死で見てたから。見てても全然分からなかったけど……」
「僕は、前から3番目。中央より、少し下手寄り」
「えぇー。じゃ、もしかしたら、近くにいたの?」
「そうかもねぇ。びっくりだ」
2人で一緒に笑った。遥は何となく胸の辺りがほんわかとしてきた。それからね……
「それから、私がハマっちゃって。CDを叔父さんから借りてずっと聴いてたんです。小学生のくせに、渋いでしょ。高校生の時、その叔父が亡くなって、遺言でCDとギターが私の手元に来ました」
「……そう」
「テサーノス・ペレスっていう名前のギターで」
「へぇ。随分高いのを持ってたんだね。叔父さん」
「……え、そうなの?」
「うん。当時で200万近くしてたんじゃないかな。それテサーノスとペレスっていう2人の名前なの。2人で作った工房。今はもう別々の工房で作ってるから、新作としては2度と世には出てこない名前だよ」
「えぇ! ウッソ! 叔父さん、困るわ! そんなの知らなかった。フツーに、押入れにしまってあるよ。ダメじゃん。もぉ……」
「身近に置いてるんだ。結構、場所取るでしょ」
「うん。でも、実家に置いておいても、誰も見ないし。CD聴きながらたまに開けて見てるとね、思い出すから……」
「そっか……」
「だから、さっきのアナ・ヴィドヴィッチ。楽器の音がウィリアムズと随分違うから、新鮮だった。私のギターの情報は、ウィリアムズで止まってる」
「ちょっと、スペインっぽい音がするよね。彼女が使ってるのは、実はオーストラリアの最新技術で作られた楽器なんだよ。大きな音が出る。コンサート向けだよね。まぁ、ちょっとシャカシャカしてるけど……。だから、同じオーストラリアの楽器でも、昔ながらの製法で作られたウィリアムズのトーレスタイプのギターとは、違う音がする」
「あぁ、スペインっぽいって、そうかぁ。そうだね。叔父さんのテサーノスも少し硬質な音がするの。そう、シャカシャカ? キラキラ?」
「あぁ、キラキラ……ね」
共通の話題が増えて、橘は嬉しさよりも違った感情が沸いていた。
親近感……かな。近くにいても苦しさがなくなっていく。久し振りの感覚だ……。まさか、こんな話ができるとは思ってもみなかった。
「今度良かったら、叔父さんのギター弾かせてくれない」
「はい、是非! 音鳴らさないと、どんどん悪くなるんでしょ。弦も新品があるの。ただ、ちょっとテンションが高めらしくて、弾きづらいかも……」
「でもその弦が1番合ってるって、叔父さんが選んだんだよね?」
「そう。色々試してた……」
「じゃ、それでいい。きっと、結局それが一番弾きやすいんだよ」
「あぁ、そうなるんだ……。ぜひ弾いてあげて下さい。叔父さん、喜びます」
「うん。楽しみにしてるよ」
遥のアパートに到着し、遥は車から降りた。窓から中を覗き込んで橘に挨拶をする。
「ありがとうございました。CDお返しするの、また、ご連絡しますね」
「遥ちゃん、今度コンサートがあったら、一緒にどう?」
「ええ、是非。でも、ウィリアムズはもう演奏旅行は引退しちゃったんですよね」
「うん、もう74歳だからね。でも、若い人でいい人いっぱいいるから、その時は誘うよ」
「はい。楽しみにしてますね。じゃ、お気をつけて。お休みなさい」
「お休み」
いつものように、車が見えなくなるまで見送る遥をバックミラーで確認しながら、橘は思う。
姉さんが生きていたら、どんなギタリストになっていたんだろう……。
橘は日本で生まれたが、3歳から10歳になるまで、フランスで暮らした。父が四葉ケミカルのフランス支社に転勤になり、一緒について行ったからだ。
母は、好奇心旺盛な女性で、日本で父を待つことを選ばず、単身赴任はさせなかった。音楽が好きな人で、自分はピアノを小さいときから弾いていて、子供にも是非とも音楽をと色々習わされた。
裕志には3歳離れた姉がいた。風香という名前だった。
彼女は活発な女の子で、どちらかと言うと外で遊ぶことの方が好きで、本当は音楽なんかよりバレエがしたいといつもぐずっていた。
そんな彼女が1番興味を持ったのが、ギターだった。パリにもジプシーがかなりいて、教会の前や広場などで、夜になるとよくギターを弾いたり、フラメンコを踊っていたりして、子供心にもその音楽や激しい体の動きにドキドキしたものだ。
そんなギターに、姉は魅了された。
フラメンコをするにしても、まずは基礎だと母はクラシックを彼女に勉強させた。姉はその好奇心を目一杯ギターに注ぎ込み、9歳の時、ジェニアクラスの区の大会で、1位を取った。そのほんの小さな賞が、母の人生を飲み込んでいってしまった。
「風香、何してるの! 早く練習しなさい!」
「隣の区の1位になった子は、1日10時間練習してるのよ。ぐずぐずしてたら、風香もすぐに追い抜かれてしまう……!」
「勉強なんかいいから、ギターを鳴らしなさい!」
「どうしてその手首の角度になるの! それじゃ、アルアレイでしか弾けないでしょ、何度言ったら分かるの!」
「何、その音。いつからそんなにヘタになったの! そんな音、猫でも弾けるわ!」
「何度そこ弾いたら、覚えるの! もうこれで、3回も弾いてるのよ! 1回で覚えなさい! 情けないわ……」
「どうしてできないの! ママの子なら、できるはずよ! 風香!」
その声を聴くたび、裕志は耳を塞いだ。聞いているだけで、気持ちが悪くなった。階段の下の物置に隠れて、じっと嵐が止むのを待っていた。
母にとっては、もう裕志のことなど眼中になく、裕志が見当たらなくても、探そうともしない。だから、ずっと物置に隠れていた。
ある晩父が、姿が見えない裕志を探して大騒ぎになり、物置から見つかったときには、裕志は意識がなかった。真夏の38゜を越える酷暑の日で、裕志はその場所に5時間以上隠れていたのだ。
その当時まだメジャーではなかった「熱中症」だった。幸い命は助かり、それからは裕志は物置に隠れられなくなった。鍵を掛けられてしまったからだ。
仕方がないので、今度はベッドの下に隠れて、母の声から逃げていた。そんな毎日が続いたある日、母の悲鳴で裕志は隣の姉の部屋を、恐る恐る覗いた。
「起きなさい、風香! いつまで寝てるの! ……風香? 風香!? 風香、風香ー!」
姉は11歳の夏、手首を切って自殺した。ベッドが血に染まっていた。
後で大人たちが話しているのを、裕志は覚えている。母が姉に全てのエネルギーを注ぎ出した少し前から、父が仕事場のフランス人女性と、恋に落ちていたらしい。
そしてそれを、母は知っていたとのことだった。でもそんなことは、裕志にとってはどうもいいことだった。
姉の死により、母の心は完全に壊れてしまった。もう、前のように裕志を抱きしめてくれることもなく、ただぼぅっと裕志の顔を眺めるだけで、名前すら覚えていないらしかった。
けれど、そんな悲しみよりも、もうあの母の声を聞かなくて済むのだと、裕志はやっとベッドの上で寝られるようになった。その安心感の方が強くて、周りが心配するほど、悲しくなかった。
父は罪悪感からか、母を病院に入院させ、手厚い看病をするようになった。裕志のことは、お手伝いのフランス人にまかせていたが、結局最後は、裕志だけを日本に帰す事にした。父の実家である現在の家だ。そこにはまだ祖父も祖母も健在で、2人だけでのんびりとした毎日を過ごしていた。
「あら、裕志君覚えてる? おばあちゃんです。こーんな小さいときに別れたっきりだから、忘れちゃったわねぇ。大丈夫よ、これから、毎日楽しく過ごしましょうね」
初めて祖母に会ったとき、マリア様かと思ったのを鮮明に覚えている。祖父は物静かな人で、よく本を読んでいた。書斎には壁ぎっしりに本があり、裕志が入っていっても叱られることはなかった。
並んでいる本は当然日本語ばかりなので、フランスでは家の中でしか使っていなかった程度の日本語の知識では、とうてい祖父の本など読むことはできず、でも、その部屋にじっといるだけで、心が落ち着いていった。今でも本の臭いを嗅ぐと、心がスッと落ち着きを取り戻す。
ただ、家では本当に心穏やかに生活できたのだが、問題は学校の方にあった。日本語がついていけなかったのだ。その頃から整った顔をしていた裕志は、片言の日本語で話すたびに、女の子からはキャーキャー言われたのだが、かえってそれが男の子の癪にさわったようで、当然の如くいじめに合うようになった。
何かあると、すぐに殴られ、仲間に入れてもらえず、1人にされた。裕志はそんな学校がイヤで、すぐに行かなくなった。そこで祖父が動いてくれた。
「無理に学校なんぞ、行かなくてもいい。勉強は家でもできる。ただ、大学までは行くことを勧める。日本では、学歴は大きな武器になる。お前にはきっと、強い武器が必要になるはずだから、勉強することだ」
裕志は、祖父の言う通りにした。すぐに家庭教師をつけてくれて、必死に日本語を勉強した。学校も小中高大一貫校の私学の小学校に転校した。
高校まで通い、そのまま大学まで行ってもよかったのだが、一旦閉じられた心の扉はなかなか開くことが難しく、かなり自由で仲間意識の強いその大学は馴染めそうになく、国立大を受験し合格した。
後は、祖父も勧めていた四葉グループの会社に入社し、現在に至っている。
Audiを車庫に入れ、そのまま部屋に繋がる扉を開ける。車庫からも直接建物に入れる造りになっている。
橘は自分の部屋に戻る前に、応接間に寄った。さっきまで遥がいたカウンターの椅子に、そっと腰掛けた。大きくひとつ、ふーっと息を吐く。
今日も、ほんの一瞬だったが、遥の顔を見て泣きそうな時があった。あの笑顔を見るたび、心に火が灯る。小さい小さい灯だが、そこに行けば、暖かいのではないかと思われる灯だった。そのことを、本能が自覚するのだ。
その瞬間、ぐっと目頭が熱くなる。これまで、遥とは何度か会ってきたが、いつもその瞬間がある。遥には分からないようにしているが、いつか涙が流れてしまうのではないかと、そんな不安を止められないでいる。
もっと、会いたい。君に会って、あの瞬間のぬくもりを、もっと手にしたいと思うようになっている。
どうしたら、いい……。誰かに会いたいなんて……。
君はどんどん僕の中に居場所を作っていく。そうやって、誰かに僕の一部を委ねたことなど、今まで1度もないんだ。誰にも迷惑掛けないように、いつ死んでもいいように、ずっと1人で生きてきた。だから……、僕は今の自分が、怖い……。
静かに席を立ち、そのまま2階に上がっていった。