恩を仇で返す
遥は今日は残業をせずに会社を出た。香坂と18時に待ち合わせていたからだ。
「ほんとに、いいんだけどなぁ……」
と、今日何度目かの溜息をついた。お金だったら、とっとと受け取って終わりにしようかと考えるが、それじゃあ恩を回したことにならないしなぁと思い直したりしている。どちらにしろ、受け取るだけ受け取って終わりにすればいいかと、腹を括って会社の前の公園に向かった。
いつもランチをするベンチに香坂を見つけた。ん……? 1人じゃない?
「香坂さん、お待たせしました」
そう声を掛けると、2人が同時に立った。あっ、彼……だ。
上質そうなスーツを着て、身長は180cm前後くらいか。余分な肉が付いていない体格をしており、30代後半と思われる。一昨日はまるで分からなかったが、香坂までとはいかないが、かなり鋭い目をしているにもかかわらず、ウチの会社なら2、3番手くらいのイケメンだと見定めた。うん、近づかない方がいいカテゴリーだ。
「その節は、大変お世話になりました。橘裕志です」
そう頭を下げる橘を前に、遥は香坂に少し苦情の顔を向け、口を尖らせた。話が違いますが……! その顔を見て、香坂は少し笑いながら目だけで詫びていた。
「いいえ、こちらこそ。お手間をお掛けしてしまって。久留宮遥です。あぁ、やっぱり痣になっちゃいましたねぇ」
遥は無意識に、橘の顔に手を伸ばしていた。とっさに橘が身を反らして離れたため、我に返る。
「ああ、すみません。あんまり、痛そうで……。触りませんよ、ご安心ください」
一歩下がって見ていた香坂が、思わず口に拳を当てて、顔を伏せた。笑ったらしい……。
「……。状況は香坂さんから聞きましたが、直接お話をお聞かせ願いたいので、この後お食事でもいかがですか?」
「いいえ、いいえ、とんでもありません。ほんとにどうか、お忘れください」
遥は両手を前で小さく振りながら、全身で断る意思を伝える。
「そうは言っても、代行に余分にお金も払われたようですし、少なくとも、僕の家に寄るために遠回りして頂いてるんですから、お礼はさせていただきたい」
「う〜ん……」
遥はホトホト困りながら、香坂にお助け要請の視線を向けた。
桜岡は、課の営業事務の花井と2人で会社を出た。
今日はプレモアムフライデーなので、課の仲間で飲み会をすることになっており、これからその店に合流する予定だ。まぁ、プレミアムといっても、世間でももうほとんど死後になりつつあるし、当初から我が社が15時に終業するなどということはなかったのだが、一応早く帰ることを推奨しているため、皆で集まりやすい日にはなっている。
ところが急な注文変更があり、桜岡と花井は、少し会社を出るのが遅くなった。会社の前の公園を横切って、会場に向かうことにする。その方が断然早い。公園に足を踏み入れた途端、その光景が目に飛び込んできた。
遥が2人の男性と何やら揉めている……。よく見れば、1人は黒のスーツに黒のネクタイで、就活中の学生とは程遠い鋭い目をした男性で、その筋の人かと思われる。
そして今、遥の目の前で話をしているのは、目の周りに殴られたような痣を作った、更に背の高い男性で、こちらもなにやら人を寄せ付けないオーラを放っており、見ようによっては、組の若頭と子分とも取れる2人組だ。
今時の「反社会的勢力」の方々はインテリな方が多いので、顔の作りに騙されてはいけない……。
「久留宮さん、どうしたの? 何か、困りごと?」
そう言いながら、桜岡が小走りでこちらにやって来る。後ろにいるのは、ゲッ、桜岡を第1推しメンと世に憚らず宣言している花井ではないか……! 何、何、何しに来た!? お願いだから、私に話し掛けないで! 来週、大変なことになる……。
狼狽える遥の前に、桜岡は彼女を後ろ手にして、スッと立った。橘と遥の間に割って入った形になった。
「久留宮さん、こちら、お知り合い? 警察呼ぶ?」
そう問う桜岡を、橘は突然の闖入者のごとく見ていたが、状況を把握したところで、目を据えてグッと睨んだ。
「『お知り合い』ですので、警察は結構です。今、お食事に誘っていたところですが、あなたはどなたでしょう」
凄みの効いた声に、遥の方が驚いた。
「会社で同じ課で働いている者ですが!」
はぁ〜、何だぁ、食事だと〜、冗談じゃない! こっちは飲み会欠席されて、ガッカリしてるんだ。ふざけるな! 桜岡もぐっと拳を握り、躊躇することなく答えた。
「久留宮さんに確認いただければ、誤解は解けると思いますが、いかがですか?」
そう柔らかい口調で間に入ったのは、それでも桜岡を冷ややかな目で睨みつけている香坂だった。
「……」「……」「……」
3人が睨み合う形で、緊張の空気が流れる。
遥の声が、その空気を破った。
「ちょっ、ちょっと待って下さい、桜岡さん。あの、大丈夫です。ちゃんと『知り合い』ですので、通報は必要ありません。ただ、食事に行くこともあませんので、誤解しないでください。課の飲み会を断ったのは、こちらの方々のせいではありません。えーと、どうしたらこの状況を解決できるのでしょうか……」
以外にも、花井が糸口をくれた。
「桜岡さ〜ん、早く行きましょうよ! みんな待ってますよ。久留宮先輩、いいって言ってるんだから、ほっときましょうよ。早く、離れて下さい」
と遥から遠ざけるべく、桜岡の腕を引っ張る。おぉ、グッジョブです、花井さん! 緊張が途切れた3人が、自然にそれぞれの間合いを広めた。
「本当に大丈夫なんだね、久留宮さん」
振り向いて、桜岡が遥に確認する。
「はい。ご心配頂いて、ありがとうございました。どうぞ、飲み会に行ってください。皆さん待ってらっしゃいますよ。よろしくお伝えください」
「ほんとに来ない? 1人増えても、こっちは全然大丈夫だよ」
やっと笑顔が戻った遥は、コクコクと頷きながらバイバイと手を振る。そしてこちらをさっきからずっと睨み続けている花井に向かって、1つ頷いた。
それを機に、花井はもう一度桜岡の腕を引っ張った。やっと2人は飲み会に向かってくれて、遥もホッと2人を見送る。
「どうして断られたんですか? 飲み会」
香坂に静かに聞かれて、2人を見送った視線のまま呟いていた。
「皆さん、私がいてもそんなに楽しくないと思うので……」
「では、何か予定があって断られた訳ではないんですね?」
続けて、橘の冷静な声で聞かれていた。
「あっ……」
しまった……、と気が付いてももう遅い。予定があるという嘘を、いい訳にはできなくなってしまった。
「う〜ん、正直に言います……。さすがに、初対面の方とのお食事は少し勇気がいります。私は一方的に助けただけですし、香坂さんとも昨日お会いしたばかりですし……」
橘は、一瞬衝撃を受けた顔をした。確かに、その事には思いが至らなかった。今まで、女性を食事に誘って、断られることはほとんどなかったからだ。
「2人が、怖いということですか……?」
確認のため聞いたが、目の前の女性は躊躇しながらも、しっかりと頷いた。
「僕1人なら、大丈夫……ですか?」
少し笑いながら、尚も彼女は小さく首を横に振る。
「それは橘さん、いくらなんでも私に失礼ですよ」
笑いながら香坂が間に入ってくれた。遥もにっこり笑った。
その顔を確認し、香坂が遥に提案する。
「じゃ、どうでしょう。どなたかまだ会社に残っていらっしゃる方はいませんか? その方と一緒なら不安もなくなるような方、お誘いできませんか?」
香坂さんって、さすが大人の余裕だわね……。どっちかっていうと、橘さんより香坂さんの方が信用できる感じなんだけど、でもどっちにしても1人では行けないわよね……。
「分かりました。少し待っていただけますか」
スマホを手に取って、電話を掛ける。
「淳子? まだ会社にいる? あぁ、よかった。今から食事に行かない? 私ご馳走するから。……うん、……うん。前の公園。……じゃ、待ってるね」
「ご馳走は、僕がしますので」
橘がすかさず、電話を終えた遥に話し掛ける。
「そんな、いいです。無関係の人ですし。彼女とはいつも、ご馳走したり、されたりの仲なんです。ご心配なく」
「いえ、全てこちらの勝手な都合ですので。どうか、恩返しだと思って、受けていただきたい」
「そうですよ、久留宮さん。これで、貸し借りが無しになります」
なるほど……。魅力的で現実的な香坂の提案に、遥はやっと折れた。
「では、ご馳走になります。……その、香坂さんもご一緒されるんですよね」
「いえ、私はもうこれで失礼しようかと……」
それを聞いて不安そうな顔をする遥を見て、香坂は小さく胸がザワついたが、これ以上は探偵の仕事ではない。
「大丈夫です。香坂さんも、一緒に行きますから」
何故だか少しムッとしながらも、そう橘が言ってくれたので、遥は少しホッとした。それを聞いた香坂が、少し驚いていた。
しばらくして、淳子が公園に現れた。遥1人ではないことに驚きつつ、それでも軽く事情を話せば、喜んで付いてきてくれた。頼もしい同僚である。
店には車で移動した。車がaudiのA7だったので、さすがに遥も淳子も驚く。橘は一体何者? と淳子に目で聞かれるが、全く情報ありませんと、遥も目で答えておいた。
しかも、到着したお店がまた2人の目を見開かせる。見るからに高級そうなイタリアンレストランで、今度は来ていた洋服が心配になり、遥と淳子は顔を見合わせた。香坂は急な参加になったにも関わらず別段驚いていなかったので、きっと橘と付き合いが長いのだと感じた。
「どうぞ、好きなものを選んでください」
メニューを見ながら橘に言われるが、さすがにそれは憚られる値段設定のお店だった。何となく香坂の方を見てしまい、その視線を受けて香坂の顔がゆっくり微笑んだ。この人、こんな風に笑えるんだと、遥は認識を新たにした。
「コースにしてはどうですか、橘さん。私ではとても、選べない」
それを聞いた遥が、思わずウンウンと追随の頷きを繰り返す。
それを見て、また少しムッとした橘は、同じコースを4人前頼んだ。ワインもどうかと勧められ、遥はまた香坂を見る。すると香坂は
「私が運転をしますので、橘さんも飲まれたらどうですか」
と見事に流れを作り、遥達は無事スパークリングを口にすることができた。ほんとに、香坂さんが来てくれてよかった……。
「さて、やっと本題に入れますね。あの日のことを教えて頂けますか? 僕はなぜあなたにお世話になることになったのでしょう」
「はぁ?」
なぜ? の意味が広すぎて分からない。こっちが聞きたい。なぜあなたはあそこで倒れたのですか……。
「私が把握している状況説明、ということで、いいですか?」
「? ええ、はい」
遥は香坂にした話を、もう一度繰り返した。報告は受けたと思うんだけどな……。
「……」
説明が終わったところで、橘が黙ってしまった。少し顔を歪めている様な気がする。遥は香坂に目を向ける。今度ばかりは香坂も助け船を出してくれそうにない。
「あの、何か疑問に感じられることでもありますか?」
逆に質問した。こんなご馳走を頂く以上、少しは彼が得るものが必要であろうと、ビジネス思考が働いてしまったのだが……。
「僕は、なぜあの公園にいたのでしょう……」
遥は驚いた。そういうことか……。残念だが、それは私では答えられない。淳子も心配そうに遥の顔を覗き込んでいた。
「それは……」
と言いつつ、香坂を見る。私の知るところではなく……。
「私は、依頼を受けていないので……」
遥の視線を的確に受け止め、香坂が小さく頭を横に振った。香坂も調べていないから分からないという事か……。
「どうしてあんなに飲まれたのですか? せめてそれは分かってらっしゃるんですよね?」
「……」
なぜだか遥は、グッと橘に睨まれた。
遥も少し眉を寄せ、橘の目を見つめ返す。そんな目を、他人に向けるものではない。と喉まで出掛かり、しっかりと目を逸らさずに見つめ続けた。
「あの日、大丈夫かと声をお掛けした時、あなたはひと言だけ答えられました」
思い出したことを、橘の目を見たまま伝えた。
「『ほっといてくれ』と……」
それを聞いて、橘は悔しそうに目を逸らした。
「本当にほっといてくれれば、よかったんだ……」
いい声だった。あの時も思った。そうだ。橘は遥のドストライクな声の持ち主なのに、どうしてこんなに醜い言葉を吐くのだろう。遥が思わず席を立った。
「遥……!」
淳子の声で、我に返る。怒りに我を忘れるところだった。
そんな遥の腕に、そっと触れる手があった。香坂だった。彼はじっと遥の目を見つめ、席に着いてと促していた。そのまま、彼は橘に声を掛ける。
「もしかしてあの日、パリから連絡がありましたか?」
「……」
橘は答えない。それはつまり、そうだとの答えなのだろう。静かに香坂は続けた。
「橘さん、命は大切にするものです……」
衝撃が、遥の体の力を奪う。崩れるように椅子に座った。
香坂さん、今、なんて言った? それではまるで、橘さんが死にたがっているように聞こえる。
「私は……、余計なことをしたのでしょうか」
遥は思わず呟いていた。その言葉に、橘がはじかれたように遥を見た。
さっきとは違い、その目には悲しみが溢れていて、遥は目が外せなかった。伝染するようにその悲しみが伝わってきて、自然と涙がこみあげてくる。
知らずと一筋涙が頬を伝った。ほんの数秒のできごとで、遥も制御できなかった。
その涙を見て、今度は橘が瞠目する。
「なんで、泣いてる……」
聞かれても困る。それはしごく単純なことだったからだ。
「橘さんが、悲しんでるからです……」
「……」
香坂はドクンと自分の心臓が動いたのが分かった。ゆっくりと、遥の方を見て、もう一度ドクンと心臓を波立たせた。一筋涙を流している遥から、目が離せなくなった。
全ての静寂を破るように、橘が席を立った。そして、踵を返して部屋を出て行ってしまった。
「橘さん!」
「ちょっと待ってて」と遥達に告げて、香坂が後を追う。もうどうしていいか、遥には分からなくなってしまった。さすがの淳子も、残った料理に手が付けられない。
しばらくして、香坂が戻ってきた。
「あなた達を送り届けて欲しいと、依頼されました。仕事になりましたので、無事お送りしますよ。橘さんはタクシーで帰られました」
そう言って、元の席に香坂は座った。
「さあ、いただきましょう。ちゃんと、会計も済ませていかれましたから。安心して召し上がれ」
そう明るく説明し、自分も食事を再開した。
淳子は安心したのか、早速料理に手を付ける。遥は気持ちがまだ戻ってきていなかった。
「さあ久留宮さんも、食べましょう。せっかくの料理です。無駄にしては、シェフに申し訳がないですよ」
と、残ったスパーリングを注いでくれながら、優しい笑顔で促された。やっばり、今日は香坂さんが来てくれて助かった……。
香坂は先程のことなどまるでなかったかのように、探偵事務所の仕事のことを、楽しく話して聞かせてくれた。
お陰で、遥も心が平常な場所に戻っていった。
「浮気調査の次に多いのが、意外にもペット探しなんですよ。名前を呼びながら、探し回るわけです。ユキちゃ〜ん、ってね」
この強面でかと想像し、淳子と顔を見合わせて笑った。
「今、この強面でって、思ったでしょ?」
と追い打ちを掛けられ、また2人で大笑いした。そんな遥を見て、香坂はまた心臓が音を立てたのを自覚する。ちょっと、まいったな……と、こめかみをポリポリした。
「あの……、パリって……」
笑いが収まったところで突然、遥が思い出したように香坂の目を見た。
香坂は、一瞬目に影を宿す。それを見て取った遥は視線を落としながら呟いた。
「ごめんなさい。忘れます……」
ひと呼吸間を置いて、香坂は静かに語り掛ける。
「久留宮さんは、聡明な方だ……」
その聡明さが、逆に君を傷つける……。生きづらいだろうに……。
――嫌な想い、させるといけませんし……
――私がいてもそんなに楽しくないと思うので……
3人は、最後のエスプレッソまでしっかり楽しんで、店を後にした。
まず淳子を自宅まで送り、その後、橘の家に近い遥を送り届けてくれるという。車内でも2人が飽きないよう、他の会社の暴露話なども教えてくれて、後味が悪くならない大人の対応に終始してくれた。
淳子を降ろしてから2人になって、少し沈黙の時間があった。遥は香坂の後ろの席に乗っていたので、あまりその沈黙も気にならないでいた。その沈黙を香坂が破る。
「今日は、申し訳ありませんでした」
「えっ、何がですか……」
「橘さんをお連れすること、黙ってましたので」
「あぁ……、もう、済んだことです。お陰で、美味しい料理を頂くことができました」
「お疲れでしょう?」
「まぁ……。でもそれは、香坂さんも一緒ではないんですか? とても気を使っていただきました。ありがとうございました」
「……久留宮さんは、少し人の気持ちに敏感すぎる」
ぼぉっと窓の外を眺めていた遥は、虚をつかれた様にバックミラーに目を向けた。そこには、まっすぐ遥を見つめる香坂の目が映っていた。言葉が……、出なかった。
「もう少し、自分中心に生きても、いいと思いますよ」
香坂はやさしくミラーの中で微笑んで、すぐに視線を前に戻した。
「……」
遥はもう目を合わせない香坂の顔を、ミラー越しに見つめた。しばらくそうして、最後に呟いた。
「香坂さんは、優しい方なんですね……」
それからは、もう2人共話すこともなく、遥の家に到着する。車から降りようとしたところで、香坂に引き止められた。
「橘さんが、君に連絡をするかもしれない。携帯番号はもう報告してあるから。これ、彼の名刺です。渡すように言われました。応えるかどうかは、もう君の判断で構わないから、携帯に登録はしておいてもらえますか」
「分かりました……。1つだけ教えていただけますか?」
「何でしょう」
「彼は、あの大きなお家に、1人で住んでらっしゃるのでしょうか?」
最後の質問が、これとは……。
「そうです」
「……分かりました。本当に今日は色々とありがとうございました。お仕事、頑張ってくださいね。とても楽しかったです。お気をつけて……、お元気で」
「……お休み」
車を発進させながら、いつまでも見送っている遥を、サイドミラーで確認しつつ呟いた。
「やはり君は、聡明すぎる……」
夜2時過ぎ、香坂はベッドで身を起こした。
「タクシー呼んだから、タクシー代のお支払い、お願いできる?」
香坂は財布からいつものようにお金を出し、彼女に手渡す。
「鍵はポストに入れていってくれ」
香坂はそのまま、ベッドに横になった。
「せめて玄関まで、送ってくれないの?」
と甘えた声で答えながら、彼女はバッグを肩に掛けた。
「悪いな。ちょっと疲れてる」
「コウさん、当分ウチの店には来ないでね。いくら水商売の女だからって、他の女のこと考えながら抱かれるのは、傷つくのよ。コウさんに抱かれるとほっとするからいつも来てたけど、その彼女のことが忘れられるまで、もう顔出さないでね」
と香坂の頬に手を当て、彼女は話した。……分かってたか。
「……すまなかった。しばらく、行かないよ……」
「じゃあね」
そのまま彼女は部屋を出て行き、ポストに鍵が落ちる音がした。
香坂は遥を送った後、車を橘の家に戻した。鍵を渡すためにチャイムを押したが、橘が出てくる気配はなかった。仕方がないので、車のキーをポストに入れ、携帯の留守電にその旨連絡を入れた。
そのまま歩いて大通りまで出て、タクシーを拾い行きつけのスナックに落ちついた。そして、そこのママを自宅に連れて帰ってきた。いつものことだった。
しかし、ベッドでは遥の顔が頭をかすめ、彼女のことで気持ちが一杯になっていた。
文句を言いたそうに唇を少し突き出して怒った顔や、不安そうに見つめてくる瞳や、安心して笑ってくれた顔、そして涙……。次々に思い出されて、体が止められない。
最後も、ママの顔を見ない様に後ろからの姿勢で果てた。確かに、身勝手だったな……。だが、そうしてもまだ、遥の顔が頭から消えない。
ふぅーと大きく溜息をついて、ベッドから起き出した。冷えたビールを飲みながら、窓の外の夜景をいつまでも眺めていた。