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結婚式

 遥の花嫁修業は始まったばかりだ。

 会長の「鶴の一声」により、裕志と遥は無事公認の仲になった。

 結婚式は、遥の希望で少し先延ばしにしてもらった。裕志はかなりゴネたが、遥も会社を円満退社したいし、何より橘家のすごさをあちこちで見せつけられたため、せめてさと子さんの修行を、初期段階でも終えなければ、居場所がないと考えた。裕志はなんとか聞き入れてくれて、日曜日の今日も、さと子さんの手ほどきを受けている。


「遥さん、それは水拭きではダメです。表面の蒔が取れてしまいます」

「はい。すみません……」

「メモはダメですよ。頭に入れて下さい。何でできているかを、見る目を養ってください」

「……はい」

 泣けてきた。さと子さん、これ、新入社員の教育より厳しい……。

「ただいま」

 裕志は今日、商談の相手がフランス人なので、どうしても自分が会わなければいけないと、休日出勤していた。

「おかえりなさい。お疲れ様」

「あれ、なんか遥、凹んでる。ははっ、またやられてるな」

 そう言いながら応接間に足を踏み入れる。

「さと子さん、少し手加減してやって。遥がへばってる」

「ダメですよ、坊ちゃん。甘やかしては」

「ははっ、ゆっくりでいいよ、さと子さん。そう簡単には、引退させないから」

「坊ちゃん……」

 遥は今にも泣きそうなさと子を見て、ああそうか、と思う。全てを私が引き継いでしまっては、さと子さんはここにいられなくなってしまう……。あらためて、裕志の優しさにほっこりした。


「そういえば今日、香坂さんと約束しててね。あと1時間くらいで来るはずだから」

「はい。何? お仕事の話?」

「いや、僕も分からない。何か話があるらしい」

 仕事の報告書等、残務整理のため、裕志は書斎にしばし籠る。遥もさと子の訓練を引き続き受けていた。

 そんな中、玄関のチャイムが鳴る。さと子が出迎えに向かった。

「遥さん、お客様がいらっしゃいました。お茶をお出ししますので、遥さんも応接間へどうぞ」

「あら、私も同席していいの? お仕事の話じゃないの?」

「坊ちゃんが、同席して欲しいとのことでしたよ」


「淳子!」

「遥! どうしてここにいるの!?」

「それは、こっちのセリフ……」

 香坂と淳子が並んで座っていた。裕志の顔を見れば、何やらニコニコ笑っている。

「遥、驚くなよ」

 裕志の隣に座る。裕志に促され、香坂が話し始めた。

「この度、俺達、結婚することになりまして」

「ええー! 何それ!」

 遥はこの数ヶ月、いかに自分のことで精一杯だったのか、改めて気付かされる。こんな淳子の大切なこと、会社で唯一の理解者だったのに、全く気が付かなかった。


「詳しく、教えてよぉ……。頭がついていかない」

「私、遥に電話番号教えてもらって、すぐ香ちゃんのところに相談しに行ったの」

「香ちゃん……」

 この強面に、香ちゃん……。笑う前にあっけにとられ、どうやらそれは裕志も同じだったらしく、2人で顔を見合わせた。そのまま淳子の話は続く。

「やっぱり彼氏、二股掛けてて……。なにがショックって、相手が私より年上で、しかも大して美人でもなかったこと!」

 今更ながら、その事を知った時の怒りが再燃したようで、目が怒りに覆われている。

「はいはい、淳ちゃん。もう済んだことだから、落ち着いて」

 こっちは、淳ちゃんか……。香坂が淳子の話を、先に進めさせる。すっかりこの「手強い」淳子の手綱を握っている。

「それで、香ちゃんにやけ酒に付き合ってもらってるうちに、こうなっちゃって……」

 と照れながら、香坂の顔を見ている。更に、今度は香坂が話を引き継いだ。

「そういう訳で、結婚式にご出席いただけないかと伺いました」

「もちろん、喜んで」

 裕志が言えば、淳子が遥に問いかける。

「遥にもちゃんと招待状出すつもりだったんだけど、手間が省けちゃった。来てくれる?」

「もちろん。で、式はいつ?」

「早くしたかったんだけど、思ったよりつわりが酷くて、もう少し安定期に入ってからにしようってことになったから、4ヶ月後を予定してるの」

「えっ、つわり……。じゃ……」

「うん。赤ちゃんがいるの」

「ええ!? はぁ? もうなんだか、端折り感が半端ない……」

「まぁ、もういいかなと思いましてね……。彼女と一緒に人生歩むなら、俺は少し急がないとって……。橘さんを見ていたら、そんな気になりました。誰かと一緒になるために、人はここまで情熱的になれるのかってね……。少し感化されたかな」

 そう少し恥ずかしそうに話す香坂に、遥はほんのちょっぴり寂しさを覚える。

 人は我がままだ。自分を好きでいてくれた人には、いつまでも好きでいて欲しいと、贅沢な思いが残る。

 それを分かってか分からずか、遥の手の上に、裕志がそっと手を置いた。遥はその手に、ほんの少しの香坂への未練を捨て去った。


「おめでとう、香坂さん、淳子さん。僕達2人は、香坂さんのお陰で今があるようなものです。一緒に出席させてもらいます」

「本当に、おめでとうございます。香坂さんには、感謝してもしきれません。淳子をどうか幸せにしてあげて下さい。幸せになってね、淳子」

 香坂と淳子は嬉しそうに、2人顔を見合わせて笑っていた。


「ところで遥、あなたこそのんびりしてていいの?」

「のんびりって……。只今、花嫁修業中で……。これがなかなか厳しい……」

「でも、遥、35歳までに子供出来ないと、干されちゃうんでしょ?」

「干されちゃうって、何、それ?」

「あぁ、それは、遥なら大丈夫だと思ってますよ」

 急に横から裕志に言われ、遥は2度見してしまう。

「どういう、こと?」

「まだ話してなかったっけ。橘家の婚前契約のことでね、その中にある項目の1つだよ」

「何、婚前契約? その中の1つ?」

 急に焦りが全身を包む。ちょっ、何事が起きてるー!?

「妻が35歳までに妊娠しない場合、離婚することに合意しなければならない」

 香坂が条文でも読み上げるように、語る。

「あれ、誰でもするんじゃないの? 婚前契約」

 裕志はその場を凍らせるようなことを、軽々と言ってのける。

「はぁ〜!? もぉ、何言っちゃってるの〜!? 裕志さん、ちゃんと教えてー!」


 それからは、ちょっとした嵐が巻き起こり、遥は何度か倒れそうになりながら、夕方にやっと落ち着いて、香坂達を送り出した。

「ごめんごめん、遥。やっぱり僕、世間の常識を遥に教えてもらわないといけないらしい」

 そう笑って話す裕志を、遥はもう達観した釈迦にでもなったかのように眺めていた。

「いえ、橘家を甘く見ていた私が悪い……。私、35で✕1の可能性があるのね。はぁ、それもしょうがないか……」

「遥! もういい加減、分かってよ……。遥とは離れないから。離婚のことだって、夫が望めばっていう前提が、ちゃんとあるんだから。それに何てったって、僕らは94%でしょ。全然、心配してないよ」

「そうだね……。先のこと心配しても、しょうがないね。私は裕志さんと出会うなんて奇跡、予想もしてなかったんだもん。何が起こるかなんて、決めつけちゃいけないね」

「そうだよ。なんなら、今から子作りする?」

「もぉ、ほんと飽きないなぁ、そのパターン。どうせ、橘家のことだから、できちゃった婚もダメなんじゃないの?」

「あっ、確かそんなこと、雅彦さん言ってた……。忘れてた」

 と言いながら、遥の体を抱き寄せ、手をサマーセーターの下から忍ばせる。

「こら、もう言ってるそばからなんだから。さと子さんの美味しい夕食が先ですよ」

「遥が先の方が、いいなぁって、さと子さんいるからダメか」

「そうよ。それに、いい匂いしてるし〜。ワインも飲もう」

 嬉しそうにコーヒーカップを片付け始めた遥を見ながら、裕志が聞いた。

「遥、今、幸せ? 後悔、してない?」


 瞬きを何度かしたかと思ったら、遥は笑顔を弾けさせた。それが答えだと、分かっている。だからこそ、確かめたい。

 手を伸ばせば、遥はそばまで来てくれた。そのまま君の唇にキスをして、膝に抱き抱えてぬくもりを確かめ続ける。

 きっと君は、いつまでもこれをさせてくれない。でもだからこそ僕は、ずっと君に触れていたいんだ……。


 幸せであることは、当たり前ではない。そのことを、僕も君もよく分かっている。だからきっと2人なら、他の人達よりそれを大切にできるはずだ。

 今は全く想像できないが、もし子供ができた時、自分に向けられるだろう無垢で無条件の愛を、受け止める自信が僕にはない。

 でも、君が一緒なら、その方法もきっと教えてくれるに違いない。

 だから、ずっと僕の傍にいて。そのためなら、なんでもするから。


「裕志さんは、今、幸せ? 後悔、してない?」

「未来永劫、幸せです。君がいる限り……」

 照れた遥は、キスの代わりに、人差し指で裕志の鼻にトンと触れ、微笑んだ。

「じゃ、夕飯食べよ〜。まずは、目の前の幸せを手に入れよう!」

 拳を上げる遥と手を繋いで、一緒にダイニングに向かった。


「さと子さん、今日の夕飯は何? 遥のお腹が、そろそろ鳴り出しそうだ」

「今日はすき焼きですよ。ワインはローヌの赤をご用意しました」

「そりゃ、美味しそうだ。遥、一緒に食べよう」

「はーい。さと子さん、いただきまーす」

 2人の乾杯の声が、窓の外にも微かに漏れる。

 短かった空梅雨がそろそろ終わりを告げ、暑い夏がまた始まる。でもそれは、今までとはまるで違う、愛しい人が隣にいる夏である。

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