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奮闘

「夏江叔母さん、お久し振りです」

「まぁ、すっかり見違えちゃって……。何年ぶりかしら」

「最後にお会いしたのが祖母の葬儀の時ですから、20年になります」

「本当に、よく来てくれたわ。コーヒーでいいかしら」

 夏江は、お手伝いさんに伝えた。

「お構いなく」


 この叔母は母の妹だ。裕志の父と母は元々見合いで結婚している。だから当然、橘家に嫁いでも問題ない家柄だ。

 母の家系は、明治時代に名古屋市に於いて繊維問屋として創業し、後に光学機器や医薬品分野に進出した大手グループ企業の一族である。現在はホテル業や放送機器関連にまで手を広げている。


 財閥である橘家とは違い、地方の商業系の資産家であるが、嫁としては充分であったらしい。母と叔母の他に1人弟がいて、家業はその弟が後を継いでいる。

 叔母の嫁ぎ先は実業家で、2人の男子を儲けている。その2人も独立し、今、この名古屋の家には夫婦2人きりとのことだ。


 先日フランスに行った際、母の墓を写真に収めたので、そんな報告も済ます。叔母は写真を欲しいといい、画像を送れば、とても懐しそうにスマホの画面を撫でていた。母の葬儀の際、叔母がわざわざパリまで来たのを思い出した。


「それで、今日はどういったお話だったかしら?」

「突然なんですが、僕が結婚したい女性を、養女として迎えていただけないかと思いまして」

「……はい?」


 裕志は、遥が自分にとっては特別な女性であり、何としても結婚したいのだが、「身体検査」が通らなかったこと、しかし、何か方法はあるはずだと模索していることなどを、丁寧に説明した。

「それで、養女? また随分と、突飛な発想ね……」

「……無茶なことは分かってます。でも、少しでも可能性のあることは、全てやってみようと決めたんです」

「……そう」


 無事結婚できれば、すぐに相続放棄の手続きをするとまでいう。真剣な顔でそう話す裕志を、叔母は眩しいものでも見るように、微笑みながら眺めていた。

「本当に、あんな小さかった裕志ちゃんが、こんな立派になったのねぇ。お姉さんがいたら、きっと一生懸命相談に乗って、あらゆる手助けをしてたでしょうねぇ」

「……」

 そう言われ、裕志は久々に「母」の存在を間近に感じた。


 あの夏以来、母は「母」ではなくなった。もう母は自分の人生に関わることはなく、その母が自分のために何かしてくれるかもしれないなどとは、想像することすら許されない存在だった。

「母は……」

 そこまで口にして、いったい僕は何を聞きたいのかと、言葉を止めた。ほんの数秒の沈黙が、叔母に昔話を語らせるきっかけを作ってしまったらしい。


「お姉さんはね、あなたを、それは目に入れても痛くない程、可愛がっていたのよ」

「……」

「裕志ちゃんは日本にいた頃、本当によく熱を出して、大変だったの」

「叔母さん……」

「もちろん、お手伝いさんもベビーシッターさんもいたから、お姉さんが24時間ついてなくてもいい環境だったのだけれど、それでもあなたの側から離れなくてね。お義兄さんがいつも心配していたわ。お前の方が心配だってね……」

「……止めて、ください」

 裕志は小さな声で叔母を制止した。なのに、叔母は何の戸惑いもなく話を続ける。


「お姉さんったら、やっぱり父親は女の子で、母親は男の子を本能的に大切にするものなのかしらねぇなんて、(はばか)ることなく言ったりして。あなたの小さな手を、それは愛おしそ……」

「叔母さん!」

 裕志の大きな声で、初めて夏江は気が付く。裕志が苦痛に顔を歪めていることに……。

「裕志ちゃん……」


 写真をパリで見つけた時は、母への愛情が(ほとばし)るように溢れてきて、愛されていたことに喜びを見つけることができた。しかし、叔母のこの思い出話は、裕志には生々し過ぎて受け止めることができない。

 2次元の世界が、生きている人の口から語られることにより、3次元になってしまったかのような現実感が、裕志を訳の分からない感情に走らせていた。


「……裕志ちゃんは、お母さんを恨んでいるの?」

 恨んでいないと言えば嘘になる。だがその感情すらも、つい最近まではないものとしてきたのだ。やはり、叔母の話を聴き続けることは、今の裕志にはできなかった。

「いえ、恨むほどの記憶もありませんから……」

「……」

 夏江は大きくひとつため息をついた。

「その彼女さんは……」

「遥です」

「……、その遥さんは、風香ちゃんやお姉さんのことは知っているのかしら」

「はい。話しました」

「彼女は、何て?」

「何も。ただ、黙って受け入れてくれました。そして、パリで小さい頃の写真を見つけた時に、『ちゃんと愛されてたよ』と言ってくれて……」

「そう……」


 遥のことを「特別」だという裕志の想いに、夏江は胸の痛みを覚える。

 だから、何年も音信不通だった自分に、無茶なお願いをしてくるほどの行動を起こさせているのか……。それは言い換えれば、それほど愛情に飢えていたのだということなのだが、本人は気づいていない……。

 初めて手にしたその愛情を、もう二度と手放したくないと、もがいているようにしか見えない。私はこの溺れている青年を、ちゃんとレスキューできるのだろうか。


「裕志ちゃん、分かったわ。主人にも相談してみます。……けれどね、多分難しいと思うのよ。養子にするということは、結婚相手を選ぶことと同じくらい大変なことだから」

「はい」

 真剣な目で夏江を見つめ直した。

「養子は難しいけれど、私が保証人になるという手もあるんじゃないかしら。いわゆる、後ろ盾ね」

「あぁ、なるほど」

「それとね、京都の伯父様に一度きちんと話をしてみるというのも、大切なことだと思うのよ。最終目的を達成するには、歩み寄りも大切だわ。裕志さんを(かたく)なにしてしまうことは、伯父様にとっても不利益なことだと思わせなきゃ」

「はい……」

 裕志の返事を聞いて、夏江がパッと明るい表情になった。


「裕志ちゃんのその素直なところ、ちっとも変ってない」

「……そう、ですか?」

「そうですよ。お姉さんもいつも言ってたもの。『あの子は、本当に私の子かと思うくらい素直で、可愛くてしょうがないのよ』って。今の裕志ちゃんをお姉さんが見たら、きっとこれでもかっていうくらい自慢されると思うわ」

「叔母さん……」

「裕志ちゃん、その遥さんと幸せになって。そうしたら、きっとお姉さんのことも違う見方ができるようになると思うのよ。私がお姉さんのことを話せるのは、もう、あなたしかいないの……」

 そう寂しそうな顔をした夏江を見て、裕志は胸を突かれた。


 母のことは、橘の家ではタブーだったように、この叔母にとってもタブーだったのだと、改めて気付く。

 母が父に嫁ぐまでの間、この叔母にとっては、かけがえのない姉だったのだ。一緒に過ごした時間は、裕志のそれよりもうんと長い。その姉を、まるでいなかった人の様に扱わなければならなかったことは、きっと辛いことだったのだろう。そんなことは、今まで考えもしなかった。

「はい……。いつか笑って母の話を聞けるようになりたいと、僕も思います」

「ええ」

 優しく笑った叔母の顔を、裕志は胸に刻んだ。母が繋いでくれた「縁」なのだと。


 帰り際に、夏江が面白いことを言った。

「裕志ちゃん知ってる? 今はね、男女の相性までDNAで判断できるんだそうよ。相性にはね、子供のできる確率とか、離婚しないで添い遂げられるかどうかの判断まで数値に出るそうなのよ。結果次第では、京都の伯父様の説得に使えるかもしれないわ」

 裕志は名古屋を後にした。


「遥ちゃん、会えるかな」

 LINEでやり取りを始める。

「はい。どうすればいいですか」

「君の家に行く。香坂さんの張り込みの日、教えてもらったから。違う人の時は、行けない」

「えっ、私、張り込みされてたの?」

「あと少しの間続くから、すまない」

「謝らないで。でも、さすがプロだなぁ。感心しちゃう。あっ、それとも私が鈍いだけ?」

 う~ん、と考えるスタンプ

「そうとも、言う」

「ひどいなぁ。じゃ、待ってますね」


 玄関に入った途端、遥は裕志から熱いキスを受ける。それは、待ちきれなかったと言っているように何度も繰り返され、最後に遥は「はぁ……」と甘いため息をついた。

「遥ちゃん、そんな声出しちゃ、ダメ。止められなくなる……」

「だって、これ、気持ちいいから……」

 と裕志の唇を、指でなぞる。止められないのは、やっぱり君が悪い……。

「遥……」

 また、唇を重ねる。裕志の手が背中のホックに行きそうになるのを察知して、遥は何とか裕志の手から離れた。

「……ケチ」

 裕志の言葉に思わず笑った遥は、

「まずは、お話聞かせて下さい」


「でね、これが鑑定キット。検査、受けてみる?」

「すごいねぇ、現代科学って。でも、相性が悪かったらどうするの?」

「悪くないと思うよ」

「もし、よ。もし……」

「その時は、別にこのデータを伯父に伝えなければいいだけだよ」

「なるほど、そうだね。面白そ~」

 遥はキットを手に取って、楽しそうに眺めた。2人共、口の中を綿棒で擦って、キットに収めた。


「前に、女性は遺伝子の遠い男性を『嗅ぎ分けられる』って聞いたことがあったけど」

「嗅ぎ分ける?」

「相手の匂いで分かるんだよ」

「遥ちゃんは、いい匂いだよ」

「……残念でした。それができるのは女性だけなの」

「へぇ、ずごいな。女性」

「匂いでね、自分と違う遺伝子を多く持っている人が分かるんだって。その方が、生まれた子供の免疫が強くなるらしい。より多い種類の免疫遺伝子を持つことになるから」

「子を宿す本能か……」

「そうみたい……」

「で、僕は?」

「……聞きたい?」

「うん」

「……内緒~」

 また、いつものいたずらっ子が登場している。こんな緊迫した状況でも、遥ちゃんは変わらない笑顔でホッとする。


「じゃ、いい。体に聞きます」

 そう言うと、遥をベットに運んでしまう。裕志もネクタイを外したところで、遥が裕志のシャツのボタンに手を掛けた。

 外してあげている間に、遥もすっかりホックを外され、白い肌が露わになった。すぐに愛撫される快感が始まった。

「遥の会社の制服って、リボンある?」

「ある……よ。なーに?」

「じゃ、ここでも大丈夫だね」

 裕志はそう言うと、首の付け根にキスをして強く吸った。

「あっ……、もう。そんなギリギリのところ、気になるでしょ」

「だからだよ。ずっと、僕のこと感じていて欲しいから」

「そんなのなくたって……、いつも感じてる」

「遥……」


 今日は少し違う愛し方をされる。枕を腰の下に置かれたその姿勢は、今までとは違った強い快感が遥を包んだ。

「これ、いい? 僕も、すごくいい」

 そんなことを言われながら、裕志の思う通りに愛され続ける。会える頻度が減って、遥ももっともっと愛して欲しいと口にした。


「もう、一緒に全部、溶けちゃいたい……」

 その途端、裕志が更に深く激しくなる。

「遥、もっと、どうして欲しいか、言って……」

「言わ……なくて……も、ちゃんと、全部、分かっ……て、くれて……る……」

 裕志は本当に遥の言葉を聞くたびに、体が熱くなる。こんなに女性を激しく愛したことは、ないよ。遥……、君もそうだと、いい!

「あっ……」

 遥の何度目かの頂点で、裕志も一緒に昇りつめた。愛しさが全身を駆け巡る。

「遥……」

 まどろみかけた裕志の耳元で、遥はそっと呟いた。

「裕志さんは、最初からとってもいい匂いがしたよ」


「15分しか、時間はありませんので」

 晴彦の秘書が、静かな声で伝える。裕志は、社長室と書かれた扉を開けた。

「久し振りだな。仕事はどうだ。問題ないか」

 直接会ったのは、3年ぶりだろうか。いつまでも変わらない。この年齢で変わらないということは、若くなっているということだ。

 晴彦の、相変わらずの強い眼光に、裕志は近寄りがたい圧を感じていた。しかし、今日だけはそれを割って中に押し入る。


「お久し振りです。四葉商事は、僕の知る限りでは問題ありません」

 そう、いくら裕志でも、課長という立場を超えた情報は、余程のことがない限り提供されない。

 逆にそういう場合は、京都から直接連絡がくる。この伯父が知らないはずはない。


「晴彦伯父さん、僕の結婚のことについて、話に来ました」

「その話は、もう終わっているはずだが」

「……僕は、久留宮遥との結婚を望みます」

「お前も1人でいるのは寂しいだろう。見合いの話を何件か見繕ったはずだが、どうした」

「彼女との結婚以外、受け入れるつもりはありません」

「気に入らなかったか。また、別のを送らせる」

「伯父さん、その見合いの相手は、僕の母や姉、父のことはどこまで知っていますか?」

「そんなものは、知る必要はない」

「僕はそんなことも知らない相手と、人生を共にするのでしょうか」

「……それくらいできないで、どうする」

「僕の根源が詰まっているその事実を、僕は見合いの席で必ず相手に伝えるつもりです。それでも応じる相手など、逆にどんな裏……」

「お前は、私を脅しているのか。……立場を(わきま)えろ」

 裕志の言葉を最後まで言わせず、晴彦は声を凄ませた。


 前の僕なら、今の言葉で怯んで身を引いていた。だが……、遥の顔を思い出す。

「僕には、自殺する血も、気がふれる血も、妻を死に追いやった関係の女性と、生涯を共にした血も流れている。それを、そのまま引き継ぐには、リスクが大きすぎると思いませんか」

「……」

「彼女とのDNA診断結果です。一応科学的根拠に基づいた診断です。彼女となら、非常に健康な子供が生まれるらしい。それだけでも、今の橘家にとっては、彼女に価値があると思いますが」

 裕志は、診断結果を晴彦の机に置いた。晴彦は、見向きもしない。ただ裕志の顔を、じっと見ていた。

「あと叔母の佐和夏江が、遥の保証人になってくれると申しております。必要ならば、手続きを進めます」

「……」

 そのまま「失礼します」と部屋を出る。これでダメでも、何度でも来る。裕志は気持ちを引き締め直した。

 

「まぁ、欲がない裕志さんが、自分の意見を言わはるなんて、楽しいこと」

 晴彦は夕食を自宅で取っていた。こう笑ったのは妻の美栄子だ。

「まったく、結婚ごときで騒ぐとは」

「弁護士に聞いたんですけど、その相手、誓約書を破り捨てたとか。ちょっとした武勇伝ですねぇ」

「それだから、育ちは大切なんだ」

「あら、でも面白そうですけど……。それに、違う血ぃを入れるいうことは、大切なことですよ。裕志さんが男子を儲けられないと、もうあちらの家系はジリ貧ですわね。どうやら、本人もそのことを自覚されはったようですし」

「優治がいかんのだ。全く、好き勝手に生きよって。息子も同じになる」

「これ面白そうだから、私もやろうかしら。あなた、一緒にやって下さる?」

 そう言ってDAN鑑定結果を眺める。

「バカバカしい」

「総合判断91%ですって。これはあきまへんなぁ。妊娠の相性も94%では、自信を持たはったやろなぁ、裕志さん。これを超える縁談相手、準備できますの?」

「……そんなものは、遊びだ」

「これ、ご商売に使えません? 流行りますえ」

「そんなことは、我が社がやることではない。それこそ、佐和家にでも任せとけばいい」

「夏江さんを担ぎ出さはるとはねぇ。懐かしい名前を聞けて、こちらも楽しいですねぇ」

「……お前は気楽でいいな。雅彦には話すなよ。面倒が増える」

「あら、そうですか。では、気を付けます」


「雅彦さん、裕志さんのこと聞きました?」

「母さんの所まで、いった?」

「ええ、昨日。面白いのよ。DNA鑑定ですって。母さんもやってみたいわ」

 今更、誰と鑑定したいのやら……。

「で、父さんはなんて言ってるの?」

「あなたには話すなって。面倒なことになるかららしいわ」

「なるほどね。もう、知ってたけどね」

「そうよねー」

「さぁ、どうするかな、裕志君は。ご馳走してもらったから、少し動くか」

「あら、どうするの?」

「先輩として、最終の詰めをね」


 遥の今いる部署は、前いた部署とフロアだけではなく、棟も違う。前の部署の皆とは、ほとんど顔をあわせることはなかった。

「遥、元気?」

「淳子、何、どうしたの? 忙しくないの」

 珍しく淳子が遥の課にやって来た。一応書類らしきものを持っているが、淳子の部署の書類は、遥の課にはほとんど必要がない。

「ちょっと、休憩がてらね……」

「随分遠くまでの、休憩だねぇ」

「いいのよ。コーヒー飲まない」

 上司の係長が不在なのをいいことに、無理を言う。まぁ、いっか。2人で自販機コーナーに向かった。


「遥にお願いがあって」

「何?」

「あの探偵さんの電話番号、教えてくれない?」

「香坂さん? どうしたの、何かあった?」

「遥……、付き合ってる?」

「……誰と?」

 言わずもがなでしょ~という顔で、ニンマリ顔を見せられて、思わず遥は否定する。

「付き合ってないよ、香坂さんとは」

「え~、なーんだ。てっきり付き合ってるかと思った。最近さ、遥が綺麗になったって、ちょっとこっちでも噂になってる」

「え……、やだ。ちゃんとこっちで引っ込んでるよ。どこで皆んな見てるの……」

「輝いてる女は、自然と目立つんだって」

「……ん~、さては淳子、何かあるな?」


 あまりに称賛され、淳子の下心に気づく。この淳子、同僚を手放しで褒めるなど、そんな軟な女子ではない。

「へへっ、バレたか」

「ほんとに、何?」

「実はさー、私の彼氏、どうやら二股掛けてるらしい」

「えっ、『このまま結婚かも~』って言ってた、彼?」

「そうよ! 証拠写真撮ってやる。だからー」

 と片手を出す。香坂さんの電話番号ね。

「遥が付き合ってるなら、料金値引きしてもらおうと思ってたんだけどねぇ」

「そんなに追い詰めて、いいの? 元に戻れなくなるよ。別れたいわけじゃないんだよね?」

「相手の女を確かめたいのよ。できれば、別れさせたい」

「……淳子。好きなの? まだ」

「まあね……。でもさ、きっと若い子なんだよ、私らよりさ……」

 淳子が一瞬でもこんな顔をするのは、やっぱり寂しい。香坂の電話番号をLINEで送る。その画面を確認しながら、淳子が遥に詰め寄った。


「さっきさ、『香坂さんとは』って言ったよね。『とは』って何、『とは』って!? 彼氏、紹介しなさいよ~」

 これだから、女友達は油断ならない。ほんの一言のミスを、見逃さない。

「……淳子も、知ってる人」

 むっ? と淳子が遥の顔を見つめ思案している。そして、瞠目した。

「えぇーーー! あの、Audiのイタリアン!?」

 う~ん、それはもはや、人ではないな……。小さく頷いた。

「はぁ~、そりゃ綺麗にもなるわさー。何がどうして、そうなった?」

「あの後、恩返しのやり直しをしたいって言われて……」

「はぁ~ん、それで」

「異動が決まった時、元気になる様にって、ドライブ連れてってくれて……」

「ふんふん……、ん?」

「それから、何度か食事に行くようになって……」

「ちょっと、待った! その間に、遥、香坂さんに何か言われてない?」

「……」

 遥が固まっている。


「何で知ってるのって顔だわね。……そうか。香坂さん……、そうか……」

 何が「そう」なのか良く分からない遥だが、今も見逃してくれている香坂への伝言を頼む。

「ねぇ淳子……。香坂さんに会ったら、私がお礼を言ってたって、伝えて……」

「なんだかなぁ、訳アリっぽいなぁ。聞くよ。辛いことはないの?」

「うん。辛くないよ。今2人で頑張ってるんだよ」

「何頑張るんだか……。頑張らないといけない恋愛って、長続きするの?」

「……うん。もう、彼を1人にしたくないから。頑張れるところまで頑張るよ」

「ふ~ん。まぁ、そんな顔で言われたら、こっちも応援するけどねぇ。あんまり、幸せ満喫してます顔は、止めた方がいいと思うよ。遥、ダダ漏れしてるよ」

「うっ……」

 遥は思わず頬を両手で包んで、顔を隠す。桜岡が、気の毒だわねぇ。最近、ため息の数が半端ないんだわ、あのイケメン。

「こっちも、アラサーの意地で、年下女をガッツリやっつけるよ。応援してて」

「はい、コーヒーどうぞ。奢ります」

「安くない? 応援……」

 ははっ、淳子がんばれ。私も頑張るよ。


「会長、また1人漂流者を救っていただけないかと」

「おぅおぅ。久し振りに顔を見たが、元気そうだな、雅彦」

 雅彦は祖父である四葉電機株式会社の会長、橘宣彦に会いに来ていた。

「はい、お陰様で。妻といつも話しております。会長には足を向けて寝られません」

「そうか、そうか。玄孫(やしゃご)の顔は、まだ見れないかね」

「まだです。申し訳ありません。もう少し勉強させませんと」

「彰彦はまだ大学生だったかな。茜はどうしている。結婚はまだかね」

「会長、茜はまだ高校生です。一番父親から離れる時期で……、寂しいものです」

「ははっ、雅彦も一人前に娘に嫌われるようになったか。まぁ、一時的なものだから目をつむってあげなさい。あれは、DNAがそうさせるらしいからのぉ」

「ほぉ、会長もDNAですか」

「うむ……。その漂流者もかね? 一体、どの海で、もがいておる」

「『家族』という海で……」

「……裕志か」

「はい」

「……聞かせてくれ」


「裕志君、この間はご馳走さま」

 雅彦は、電話で裕志に繋ぎを取る。

「いいえ、こちらこそ。色々助言頂いてありがとうございました。あの後、あれこれ模索しているのですが、なかなか進展に至っていなくて……。情けないですね」

「いやぁ、噂は聞いてるよ。それでね、君が頑張っていることを見込んで、祖父が会いたいと言っている」

「えっ……。会長が、ですか?」

「そうだ。しかも、君ではなく、彼女の方にね」

「……それは……」

「大丈夫だ、取って食ったりしない。いいか、祖父のひと言があれば、全てを超越した決定事項になる。OKならば、父や弁護士らは承諾せざるを得ない。が、もしNGとなれば、もう何をしても覆ることはない。チャンスは1度だ。最終判断だと腹を括れ。どうする? 会わせるか、諦めるか」

 ゴクリと喉が無意識に鳴り、心臓の音が耳まで達する。

「……、1日だけ待っていただけますか」

「あぁ、よく相談するといい」

「ありがとうございます」


「えっ、私1人で会うの?」

 今日裕志は遥をスカイツリーに呼び出した。

 夜ならば少しは混雑が解消されているかと思ったが、やはり人気の観光スポットは、そう簡単には静かにならないらしい。外国人もかなり多くいた。


 今日の張り込みも香坂と分かっていたので、会うことができた。

 夜景を眺めながら説明していた裕志は、遥の方に向き直り、両の手をそっと自分の手に取る。

「君なら、大丈夫だ。その正義感と強い心と笑顔と、会長なら、必ず僕に必要な人だと判断してくれる」

「でも……」

「遥、聞いて。このまま今まで通り、少しずつ歩みを進めていく方法もある。ゆっくり、丁寧にって、僕も思ってた。今、一気に片を付ける必要はないかもしれない。だけど、僕はこのチャンスを生かしたいと思う」

「……」

「このままでは、僕達はいつまで経っても犯罪者扱いだ。自由に会うこともままならない。それだけでも君にどんなに辛い思いをさせてるか、よく分かってるつもりだ。ぼくが「橘」でなければ、こんな思いをしなくて済んでる。だからこそ、雅彦さんが作ってくれたチャンスを、ものにしたい」

 静かに言い含めるように言われ、それでも遥は不安の方が先に立つ。

「……無理」

 消え入るような声で呟いた。

「遥……」


 遥は裕志の手から逃れて、人を掻き分けるようにして、展望台の反対側まで移動した。

 こちら側からは荒川と、その先に海が見える。昼ならばきっとキラキラと輝いているだろうそれは、今はただ漆黒の闇として、海岸の眩い光だけが、その存在を証明している。まるで自分の心の様だと目を細めた。


 後ろから裕志がゆっくり追いつく。横に立って、もう一度遥の手を握った。

「私、怖い……。この間みたいに、また失敗したら、今度こそもう裕志さんに会えなくなる。本当に、また1人にさせてしまう……」

「遥、大丈夫。今度ダメなら、僕が「橘」を捨てればいいだけだ」

 遥は驚いて裕志の顔を見た。裕志はにっこり笑って、遥を見ていた。そして、なんの躊躇(とまど)いもないかの様に、夜景に目を移している。


 この人は、分かっていない。確かに家族との縁は薄かったけれど、経済的には小さい時から何不自由なく暮らしてきたから、お金や家柄の力を実感したことがないのだ。

 それはきっと体の一部であり、空気のようなものなのだろう。なくなってしまえば、あっという間に窒息してしまう。それに比べれば嫁取りなど、食事の好き嫌い程度の問題にしかならない……。

 この人を、窒息させるわけにはいかない。


 遥の丹田に、力が入った。

「分かりました。お会いします」

 遥の手を握っていた裕志の手に、グッと力が入る。

「そう来ると、思ったよ」

 裕志は遥の頭を横から引き寄せ、体ごと後ろから抱え込んだ。そのまま夜景を見続ける。

「よろしく、お願いします」

 裕志のいい声が、遥の耳元で響いた。

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