本家の従兄
「もしもし、雅彦さん……ですか? あぁ、ご無沙汰しております」
本家の伯父の長男である雅彦から、裕志に電話が掛かってきた。もう何年も会っていない。雅彦は裕志より10歳ほど上ではなかっただろうか。歳の離れた従兄のような存在である。
裕志が日本に来たばかりの頃、正月などに祖父母に連れられて、京都の橘の本家に行った際、よく遊んでもらった。その頃にはもう大学生だったろうから、相手にしてもらえる歳でもなかったのだが、雅彦は子供好きだったのか、きちんと遊んでもらった記憶がある。
今は父晴彦の跡継ぎとして、四葉電機の部長になっている。間もなく、専務取締役を経て副社長に就任するだろう。
男女1人ずつ子供がいると聞いているが、その子達に裕志は会ったことはなかった。橘家の本家男子の倣い通り、「彦」が名前に付いている。
「ちょっと東京に仕事で来てね、裕志君元気にしてるかと思って。今夜、飲まない?」
「はい、大丈夫です。ホテルはどちらですか? ……はい。では、7時に伺います」
「やぁ、久し振り」
「お久し振りです」
ホテルの食事は飽きたと言うので、雅彦の行きつけの鮨店に移動した。
ここは四葉グループの経営陣が通う店として、裕志も名前だけは知っていたが、課長程度では足が踏み入れられない店だった。
店内は一枚板のカウンターのみの7席。桧の総白木造りの店内は明るく、つけ場にいる店主の後ろには違い棚の設えがある。そこに、有田焼の花器と、蒔絵が見事な飾り皿が置いてあった。
椅子に座れば、カウンターには木製のネタケースがあり、氷による冷蔵なので新鮮な海の幸が曇ることなく目に飛び込んでくる。つけ台も広めで、たっぷりとした空間が個人に与えられている。
雅彦は店主の前に、その左側に裕志が座る。座ると同時に、漆塗りのゲタが、つけ台に用意された。裕志は腕時計を外した。
「ここ、来たことは?」
「初めてです」
「大叔父さんに連れて来てもらったことは、ないの?」
「祖父には、会社関係の店には、めったに連れて行かれたことはなかったので……」
「大叔父さんらしいな。大叔母さんの手料理、好きだったもんなぁ。裕志君が幾つの時だったっけ、亡くなったの」
「14歳の時です」
「そうかぁ。それからすぐだったっけ? 大叔母さん亡くなったの」
「はい。1年後に……」
「じゃあ、それからずっとあの家で1人?」
「はい」
そこで酒と、肴として鯛の造りが出された。しっとりとした舌触りが、鯛の旨みを更に引き出し、この端麗で辛口な日本酒が程よく喉に通っていく。つまみ付きの「おまかせ」で頼んだので、裕志は出てくるものをいただくだけである。
裕志は食べ物の好き嫌いは無い。日本に来るまで、本格的な鮨は食べたことが無かったが、すぐに大好きになった。雅彦の言う通り、祖母は料理が得意で何でも美味しく作ってくれた。今はそれを家政婦のさと子が引き継いでいる。
フランスでは、ほとんど母の料理の記憶が無いので、裕志の舌は、祖母の料理で培われたといっていい。やはり、日本食が中心だった。
「フランスは、どうだった? この間、行ってきたんだよね」
「はい。皆の墓参りができました」
「こっちのお墓には、分骨しないの?」
「皆、土葬でしたから」
「あぁ、そうか……。25年前では、さすがのパリでも、まだ火葬は少なかったんだな」
「そのようですね……」
「優治叔父さんも、土葬にしたんだ」
「奥さんの希望で」
「そうか……」
ほとんどの人が火葬になる日本とは違い、カソリック教徒の多いフランスでは、基本的には土葬で葬られる。
キリスト教において「死」は永遠の眠りであり、この世が神により終わりを迎えた際、その使いである天使が吹く「ラッパ」の音により全ての死者が甦り、その後天国に行くか地獄に行くか「最後の審判」が下るとされている。その「復活」の為に、「肉体」は必要なのである。
魂と体が別々に存在し、死により魂が体から抜け出るという、日本人のよくある死生観とは、全く違ったヨーロッパのそれである。
しかし近年フランスでも若者の宗教離れは著しく、土葬のための土地もパリの中では「満室」に近い。フランスでは墓地は自治体が管理する公用地であるため、その1区画を借りる形になる。日本のように「購入」はできない。しかも、新しい墓地の借入は、かなり高価になっている。
ちなみに、墓は地下室構造になっており、1つの墓に2〜4つの棺が収容できるが、フランスでは家族墓よりも個人の墓の方が多いため、日本より多くの土地が必要になるのだ。
また借入であるが故に、契約期間が設けられている。15年以下、30年、50年、永代とあり、選択できる。その期間が過ぎた遺体は掘り起こされて合同墓地へ埋葬される。それでやっと、1区画空きができる。それではやはり、大幅に足らない。
そんな事情もあり、パリでは現在50%程の人が火葬されるまでになった。火葬の場合、遺骨は粉砕され遺灰として火葬専用墓地に納骨するか、散骨するか、または自宅に持ち帰ることになる。
更には条例により、その遺灰の一部持ち出しも禁止されているため、結局分骨はできないのだ。父も、もし火葬にしたとしても、パリで家族に見守られることになっただろう。裕志の元に遺すことはできない。
雅彦は裕志に酌をされながら、日本酒を飲んだ。自分の家族のことなのに、他人事のように話す裕志に、憐憫の情までは抱かないが、やはり寂しさを感じずにはいられなかった。
裕志の仕事のことや社会情勢、雅彦の子供たちの事などを肴に、食事は進んでいく。途中、握りの合間に供された鰤の照り焼きや、あん肝なども当然美味しく、握りに至っては、どれ一つとして同じ食感や味のものはなく、鮨の奥深さを思い知らされるメニューとなっている。
巻物が出てきたので、そろそろメニューも終わりに近い。おもむろに、雅彦は尋ねた。
「幾つになった?」
「35です」
「もうそろそろ、いいんじゃないか? 独身生活を謳歌するのは」
裕志は手の中の盃を見つめながら、ふっと笑みをこぼす。
「……あきらめが肝心、ですかね」
「そうそう」
「雅彦さんって、お見合いでしたか?」
「いやいや」
「じゃあ、身体検査きちんと通過したってことですね」
「いやいや」
「えっ……」
裕志は思わず雅彦の方に、体ごと向ける。
「どういう……ことですか」
手の中の杯をカウンターに置きながら、独り言のように雅彦が笑う。
「ははっ、やっぱりいるか、彼女」
「……雅彦さん!」
裕志は、身を乗り出して、強い口調で問い質す。
「必死な感じ、いいねぇ」
こちらが身を乗り出した分、雅彦は避けるように椅子の上で身を反らせた。その姿勢で、からかう様に言われ、裕志は逆に肩の力が抜けた……。
大きく1つため息をついて、正面に向き直した。
「もう、会えないんです……」
「今の反応は、諦めた様には見えないけどなぁ……。忘れられないんだろ?」
「……彼女は、……特別だった」
「身体検査は、どうだったの? 何が問題だった?」
「分かりません」
「えっ、弁護士に確認しなかったのか?」
「確認して、なんとかなりますか!? ならないでしょ……」
「ふ〜ん。さっぱりしてるなぁ」
「もう、いいんです……」
「そうやってさ、自分は何にもしないんだ」
今度は雅彦が体ごと裕志の方に向いた。目には軽蔑の色が少し混じっている。裕志はもう一度、雅彦の顔を見つめた。
「彼女に身体検査受ける前に、話した?」
「……はい」
「やっぱりな。僕もそうしたからな。彼女は、それを承諾してくれたんだろ」
「はい。それでも、一緒にいたいと言ってくれたんですが……」
「彼女は甘んじて身体検査を受けた。で、通らなかった。それで君は、何をした?」
「……それは」
「辛い思いをしているのは、自分だけだと? 通らなかった彼女が悪いのか?」
奥歯をグッと噛みしめて、裕志は雅彦を睨んだ。
「おいおい。これから色々教えてやろうっていう先輩に、その目はダメだな」
はっと視線を緩めて、裕志は素直に詫びた。
「すみません……」
小さくうな垂れる裕志を見つめ、一呼吸雅彦が言葉を止めた。
「裕志君は、小さい時から素直だったな。思い出したよ……。だから、周りの大人のやることも、全て甘んじて受け入れてきたんだろうな」
雅彦は冷めてしまった盃の酒を、ぐっと呷る。
「だがな……」
声が、冷ややかだった。
「もう君は、子供じゃないだろ」
「……」
「いいか、仕事として考えれば、すぐ答えが出るんじゃないか?」
「仕事?」
「問題解決には、まず原因の解明」
「あぁ、そういう……」
「なぜ、ここまでして当主の結婚相手にこだわるのか」
「それは、橘家の資産の無駄な減少を避け、子孫繁栄のためでは?」
「そうだ。で、今、当主となるべき橘家の男子の数が、減少の一途を辿ってるって知ってるか?」
「……そうなんですか!?」
「天皇家と一緒だ。男子直系にこだわり過ぎた結果だ。男子直系なんて、一夫多妻制だから成り立つ制度だよ」
「……そうか」
「そして君は、貴重な男子」
「はい」
「その君が、このまま結婚せずに、子孫を残さないなんて許されない」
「……そこが抜け道になる、ということですね」
「理解が早いな。さすがに、四葉商事の課長さんだ。……あぁ、だが、あれはダメだ」
「あれ?」
「出来ちゃった婚とか、養子になるとか」
「……」
「ははっ、頭に浮かんだだろ。それは先輩達が、ことごとく撃沈している。最悪、子供だけ取られて、嫁さんはお払い箱だ」
「そんな……」
「別の角度から責めないとな。彼女とも協力してな」
「でも、まず会えないんです。僕に会ったら、ストーカーとして訴えると脅したらしい」
「おっ、強い味方がいるじゃないか。その情報、僕は知るまでに1ヶ月掛かった」
「僕担当の探偵事務所の人が、教えてくれました」
「香坂君か? それは、彼も随分危険を冒してるな。下手すると、即刻お役御免だ。事務所ごとな」
「……なぜ、香坂さんを知ってるんですか!?」
「分からないか?」
そう目を見て言われて、裕志は考える。可能性は……、まさか!?
「そうだよ。君に会う様に僕に頼んできたのは、彼だよ」
「……」
彼も、彼女を愛しているのだと言葉にはできなかった。自分で彼女を幸せにしたいはずだ。僕がいなくなればそれができる。なぜ、僕を助けてくれる……?
「いいかい、何でもいい。味方なら利用することだ。そこに、余分な遠慮もプライドも必要ない。君は、解決するためのリサーチも全然足りないだろ。してれば、自然に僕に行き着いたはずだ」
「……はい。諦めるところでした」
「身体検査を通過しなかった相手と結婚したのは、僕意外にも結構いるんだよ」
「皆、同じ方法ですか?」
「いいや、それぞれ、自分で努力して掴み取ったというべき方法だよ」
「……はい」
覚悟が、橘の中に芽生える。
「よし、その調子だな。いい顔だ。じゃ、ここは君のおごりだな」
「えっ……」
「僕が払うと思ってただろ。僕は年上だし、誘ったのは僕だからな。裕志君は、固定観念が強すぎるな。やっぱり奥さんには、見合いより身体検査通過しなかったぐらいの人の方が、いいぞ。世間の常識を、僕は未だに奥さんに教えてもらってる」
そういって朗らかに笑う雅彦は、自慢の様に奥さんの話をする。裕志は遥の顔を、笑い声を、怒ったしぐさを思い出して、今すぐにでも会いたいと思った。
「彼女に、会いたくなってきた……」
「行っちゃえば」
「でも、ストーカーって訴えられるのは、彼女だ」
「君が見張られてるの?」
「いえ。多分、彼女の方だと……」
「では、その彼女を見張ってるのは、今、誰?」
「……っ! 香坂さん……」
「ほらな。いくらでも、方法はあるんだよ。待ってると思うぞ、彼女」
裕志は居ても立ってもいられず、席を立った。あぁ、支払いを……。慌ててカウンターの中の親方に声を掛ける。
「いいよ。僕が払っとくから。早く行って」
そう雅彦が笑っている。
「すみません!」
そのまま店を走り出る。後ろから、雅彦の声が追っかけて来た。
「ちゃんと、請求書回しとくぞー」
タクシーの中で、香坂に電話をする。
「香坂さん、先程、雅彦さんと会いました」
「……そうですか」
「今、彼女のアパートの前ですか?」
「仕事の内容は、お伝え出来ません」
「では今、香坂さんは別の仕事でアパートの前にはいない」
「……」
「僕がどこに行こうと、香坂さんとは今日は出会わないということですね」
「……」
「香坂さん、彼女を幸せにできるかどうかは分からない。でも、諦めることはやめました。それが、香坂さんに対する一番の恩返しかと……」
「これ以上傷つけたら、俺が動く」
「……分かりました。覚えておきます。もちろん、彼女は渡しませんけどね」
ふっと香坂は笑った。電話を切って、大きく1つ息を吐く。そのまま、遥のアパートの前から離れた。
裕志は、遥の部屋のチャイムを押す。息が苦しいほどの緊張が、全身を包む。彼女は僕を受け入れてくれるのか……。
「はい……」
久し振りに聞く遥の声。心臓が弾けそうだ……。
「僕です。橘です」
慌ててチェーンを外す音がして、扉が開く。そこには、もう涙で溢れそうな目を一杯に開いて、遥がいた。
「どうして……」
「会いたかった」
裕志は扉の中に入り、そのまま遥を抱きしめた。その後ろで、扉がガチャンと小さく音を立てて閉まった。
遥は裕志の腕の中で小さく震えて、何度も何かを言おうと口を開きかけるのだが、涙が止まらず言葉にならない。裕志は遥の背をゆっくり擦って、そっと言葉を掛ける。
「もう、諦めないことにした。君と一緒にいること……」
せっかく収まりかけていた涙が、また遥の言葉を留めてしまう。
「急がないよ。ゆっくり、丁寧に、時間を使って、君と一緒にいられるようにするから」
裕志の腕の中で、遥は何度も頷く。
「遥ちゃん、顔見せて」
そう言って遥の顔を両手で上に向ける。また、真っ赤な目だ。涙を親指で拭う。
「泣き虫になっちゃったなぁ。遥ちゃんも、これからはもう少し強くなってくれないと。一緒にいるためには、2人で頑張らないといけないんだから。正義感の強い、遥ちゃんに戻って。いい?」
「うん。うん。うん。……っぱり」
喉がからんで、声にならない。
「何?」
「やっぱり、いい声」
喉に絡まったままの声で、そう笑った。裕志は目を見開く。遥ちゃん、やっぱり君だ。
「ははっ、この声でよかったって、今、心から思うよ」
そう笑って、遥の唇をそのまま覆う。あぁ、よかった。本当に君は待っていてくれた。唇を離して、改めて抱き締める。あんまり強く抱きしめていたから、遥が小さく唸った。
「苦しい……」
「あっ、ごめん」
慌てて離すと、今度は遥が裕志の胸に抱き付いた。その背に手を回して、しっかり確認する。
「夢じゃない……」
裕志はくすぐったい気持ちで頷いた。
「うん……」
遥の頭を今度はそっと抱えて、やっと少し現実が戻ってきた。
「ねぇ、遥ちゃん。そういえば、遥ちゃんの部屋に来たの、僕、初めてだ」
「やだ、ほんと……。散らかってるけど、上がって下さい」
「お邪魔しま……、おっと」
「頭ぶつけそうだねぇ、ふふっ」
リビングのドアの上部に圧迫感を感じるのだろう、少し屈んで入る。遥は裕志の両手を掴んで、フローリングに敷いたセンターラグに座らせる。
「元気だった? 病気してない? お仕事は順調?」
遥が笑顔になる。もう、君の笑顔を二度と見られないと思ってたんだぞ! 元気な訳、ない!
「……。んー、そのまま君に、その言葉を返す」
裕志は遥をラグの上に押し倒して、上から顔を覗いた。髪をかき上げて梳くように弄ぶ。
「遥ちゃんは、元気だったの」
遥はにっこり笑って、裕志の頬に手を伸ばす。
「今、元気になったよ」
「一緒だよ……」
やっとだ。やっと自分の一部が戻ってきた。あの日、もがれてしまった心の一部……。自分の存在を掛けると決めた君。
ゆっくりと遥に覆いかぶさる。そうだ、この唇だ……。何度も繰り返されるキスは、今までのどのキスよりもずっとずっと心地よい。伯父はこれを、どうやって引き剥がすつもりなのか……!
「裕志……さん……、話……、聞かせて」
「ダメ。こっちが、先」
「あっ……」
遥ちゃんのこんな声を、もう一度聞けるなんて……!
遥は、いつもより声を小さく裕志の名前を呼ぶ。それで裕志もやっと気付いた。
そうか、音が隣や下の階に聞こえちゃうんだな……。
だけど、君の体は僕の思う通り反応してるから、止められないよ……。ゆっくり、君を味わう……。
だから、声、頑張って我慢して。
「綺麗だ……。遥ちゃん……」
「電気、消……して」
「……見ていたい」
「恥ずかしいから……」
言葉で君を責めるのは、僕の愛し方じゃない。でも、ほんとに綺麗だから……。
「遥ちゃんの、ベッドはダメ?」
「狭いよ。きっと、足が出ちゃう……」
「それでも、いい」
まるで昨日のことのように、君が感じるところは、ちゃんと覚えてる。この指も、僕の体も。
君の体がうっすらと汗を纏いだし、吐息と共に、何度も僕の名前を呼び始める。これを、この1ヶ月、夢にまで見たんだよ……。
「遥、遥……愛してる」
初めて直接言葉にした。すると、君の体が小さく反応した。君の奥……。
「私も、愛してる……」
君の体が更に強く応えて、僕ももうこれ以上我慢はできない。言葉が溶けて2人の体中をぴったりと取り囲む。感覚が集中していく……。
うっ、遥っ……!
2人で一緒に体中の緊張が解けた時、遥はまた涙を溜めていた。その顔を見て、もう一度橘はゾクっとする。エネルギーの塊が、体に戻ってくる。
「まだ。このまま。もう一度……」
そう言って、裕志はピリッと小さく封を切った。
深夜1時になっていた。タクシーが着いたと、運転手から裕志の携帯に連絡が入る。
「じゃ、遥ちゃん、帰るよ」
「うん。泊まっては、いけないね……」
「今は、まだ無理かな……。今日も、香坂さんに見逃してもらってる」
「えっ……」
「いい、遥ちゃん。今後は、とことん香坂さんを利用させてもらう。それだけは、遥ちゃんも腹を括って欲しい」
そう、君を想う香坂さんの気持ちを利用する。それを、香坂さんは承諾した。無駄にはしない。
「……はい」
テーブルの上の書類が、玄関に向かおうとする裕志の目に止まった。
「これ、何? ……住宅情報誌!?」
「会社辞めて、引っ越そうかと思ってたの……。横浜に帰ろうかって……」
「遥ちゃん……」
そこまで……。間に合って、よかった。
「でも、もう必要ない……よね」
確かめるように、不安げに遥が問う。
「大丈夫……。ちゃんと話すのは、今度。そうだ、LINEのブロック外してくれる。連絡取りたい」
「はい」
「できることは何でもやってみようと思う。また、待たせるかもしれないけど……」
裕志の視線が少し不安で揺らぐ。それを、遥の強い視線が受け止めた。その目を見て、裕志も心が定まる。やっぱり、遥ちゃんがいるとブレがなくなるな……。
「信じてる」
遥にしっかりと目を見つめられて、裕志も自然に頷いた。
「じゃ、お休み」
「お休みなさい」