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帰国

「遥ちゃん」

 今日は裕志が帰国する日だ。美容院を出たところで、香坂に声を掛けられた。

「香坂さん……。どうしたんですか?」

 強面のなかにも、いつもどこか小さな優しさが顔を覗かせているはずの香坂の顔が、無表情に遥を見ていた。

「橘家からの依頼で来ました。今から、橘家の弁護士事務所に来てもらえますか」

「……」

 そこに断る選択肢はないと思わせる、油断のない声で言われる。目を見つめても、何の説明もしてもらえない。

「今日、裕志さんを迎えに行く予定なんですが、間に合いますか?」

「私では、分かりません」

「俺」ではなく「私」と言っている時点で、仕事モードなのだと遥は諦めた。

「……分かりました」

 とだけ答えて、香坂の車に乗った。

 

 到着したのは、大きなビルに入った「橘法律事務所」だった。エレベーターを降りれば、まるでドラマの撮影場所にでもなりそうな、ガラス張りの事務所が目に飛び込んできた。

 廊下にも光が差し込んでいて、前からMJでも歩いてきそうだ。

 遥は、椅子が6客、テーブルが1つの小さ目の部屋に通される。そこに、弁護士らしい40代の男性が入ってきた。廊下側のブラインドを全て下ろした。


「始めまして、弁護士の黒田と申します」

 と名刺を差し出し、椅子に座る。遥は名前のみ名乗り、席に座った。

 香坂は、入り口付近に立ったままだったが、退室する様子はなく、このまま同席するらしい。

「早速ですが、久留宮さんは今、橘裕志さんとお付き合いしてらっしゃる、ということで間違いありませんか?」

「……はい」

「大変失礼とは存じますが、久留宮さんのことを色々調べさせていただきました」

「……」

「その結果、橘さんとのお付き合いは許可できないとの決断に至りました」

「……」

 遥の心臓がドクンと大きく波打つ。

「今後、橘氏とお会いになることは、控えていただけますか。万が一、約束が守っていただけない場合は、こちらと致しましては、ストーカーとして訴えることも辞さないつもりです」

「……」

「ご質問があるようでしたら、お受けいたしますが」


 質問をしようとして、遥は自分の手が小さく震えていることに気が付いた。このまま声を出せば、声まで震えるに違いない。そんなみっともないことは、できない。大きく1つ、深呼吸をした。


「具体的に、許可できない理由は、教えていただけるのでしょうか」

 ふん、とでも言いたげに黒田はメガネのブリッジを上げながら、書類に目を落とした。

「総合的な判断ですのでお答えはできませんが、判断基準に満たなかった点でしたら何点かお答えできます。それで、よろしいですか?」

 遥は黙って頷いた。


「まずは、資産です。貴方ご自信の固定資産は0。ですので、実家をお調べいたしました。お父様名義の固定資産は、土地が約4100万円。建物はまだ建て替えられたばかりですね。減価償却をして3200万円。これに対しては、ローンが26年残っています。いずれは、貴方と妹さんで引き継ぐことになりますね」

 ここで一旦、書類が変わるため話が止まる。


「次に、貴方ご自信の流動資産として、貯蓄が先月末時点で約324万円。会社にお勤めの収入が年約450万円。これに対して、車のローンの残高が約156万円。家賃と共益費、駐車代を合わせて月12万5千円。クレジットの支払いが、光熱費も含め……」

 たまらず遥は黒田の声を遮った。息をするのも、苦しい……。

「もう、結構です。要は、お付き合いするには、家柄が違いすぎるということですね」

 そうだと顔に書いてあるその口で、白々しくも黒田は答える。

「そうは申しておりません。あくまで、判断基準に満たなかった点の1つです。ちなみに、基準に達している点もいくつかございました。まずは、ご自身の男性関係。現在は、フリー。過去付き合った男性は2人。どちらも、主な原因は性格の不一致と思われ、特に金銭のトラブルも無く別れて……」

「本当に! ……結構です」


 遥は先程より強く、相手の言葉を遮った。悔しさをグッと堪える。

 これは調査という名の元の「人権侵害」だ。どうしてそこまでする必要があるのだろう。しかも、相手が確実に嫌がると分かっている事柄を、わざと言葉にする。


 相手の怒りを引き出し、冷静な判断を奪う。裁判に於いては、常套手段だろうが、駆け引きの必要が無い一個人に向かって、するべき行動ではない。

 遥には理解できない。お金持ちのすることは、常人の常識を超えることをしても、何もかも許されるのだろうか。

 香坂を見る。まるで能面のようなその表情からは、香坂の心を推し量ることはできない。しかし、これを調べ上げたのは彼の事務所であり、こうなることも分かっていたから、私を引き止めてくれたのだと思い出す。

 

 ――俺だったら、君を真正面から受け止められる。俺にしとけよ。

 

 またあの時の言葉が甦る。彼の愛情に感謝こそすれ、責める道理はまるでない。私も辛いが、きっと彼も辛いのではないだろうか。

 そして、今ここに至って一番辛いのは、裕志だ。今まで何度愛した女性をこうやって諦めさせられたのだろう。

 

 ――僕の気持ちは審判の外にある。いつも、力ずくだ……

 

 今の裕志は、そうやって出来上がったのだ。やはり、それが1番辛い。1人でいる理由は、こんなところにも隠れていた。

 

 黒田の左手の薬指に指輪があることを確認し、俯いていた顔をやっと彼に向けた。

「弁護士さんに、お尋ねしたいことがあります」

「何でしょう?」

「弁護士さんは、今朝家を出られる時、なにか声を掛けて出られましたか?」

 急に意外な質問をされて、一瞬の躊躇を見せたものの、すぐに答えを口にする。

「……行ってきます、と」

「では、夕飯を自宅で召し上がる時は?」

「いただきます、ですが……」

「では、弁護士さんが誰かに微笑み掛けた時、何も言わずに微笑み返してくれる人は、何人いますか?」

「……何です?」

 さすがに(いぶか)しげに黒田は眉を寄せる。遥はその視線に応えずに、香坂を見た。彼はこの部屋に入って始めて、遥の顔を見ていた。その表情に、初めて感情が見て取れる。

「何を言おうとしている?」と、その顔に書いてあった。視線を黒田に戻す。

「今お伺いしたことは、すべて相手がいるからできることです。裕志さんは、それのどれもできない。……もう、ずっとです。きっと、もし今、彼が死を宣告されても、何の未練も無く死ぬことができるのではないかと、私は思います」


 静寂が部屋を包む。香坂は、何かを無理やり呑み込まされたかのように、息を詰めた。

「その相手に、あなたがなっていたとでも?」

「私のことは、もうどうでもいい……。早くその相手を見つけてあげてください。取り上げるばかりではなく……」

「……そのつもりです」

 弁護士は、苦し紛れの返答をする。

「『そのつもり』で、どうしてここまで、彼は1人だったんですか!」

 初めて遥が声を張った。


 8歳で全てを失くし、やっと手にした日本でのささやかな幸せの担い手であったお祖母さんを亡くしてから20年、ずっと1人だったのだ。笑いかけるどころか、話しかける相手すら、いなかった。そのことが、その現実が、貴方達に分かるはずがない!


 これ以上の怒りも反論も無駄だと悟り、切り上げるために席を立った。

「今日までは、彼と会ってもいいんですよね」

「……ええ」

「迎えに行く約束をしているんです。もう、行きます。よろしいですか?」

「では、ここにサインを」

 そこには、明日から裕志との一切の接触を禁じた文言が記してあった。こんなもの!

「こんなものに頼らなくても、私は約束を守ります」

 誰がサインなどするものか! これは、法的強制力も、執行義務も全く発生しない、いわば脅しのための書類だ。屈するものか……。30女を、舐めてもらっては困る。


「それでは、サインをしていただけるよう別の手段として……」

 弁護士の、更なる脅し文句を最後まで聞かずに、目の前の書類を手に取り、破り捨てた。どうせ、もう一度プリントアウトすれば済む程度の書類だ。少しはこちらの気分を晴らさせてもらう。

 あっけにとられた弁護士の視線を背に、香坂の前を素通りして部屋を出た。


 ――可愛くないんです。口答えするし、理屈こねるし、シビアに間違い指摘するし……

 

 香坂は以前遥が言っていた、自己分析の言葉を思い出す。

「なるほどな……」

 弁護士の見えないところで、小さく微笑んだ。


 空港の出国ロビーで裕志を待つ。ここまで、遥は自分の車を飛ばしてきた。裕志の荷物を運びたかったし、少しでも早く2人っきりになりたかったから、当初からそのつもりだった。

 だが、途中危なかった。溢れ出てくる涙で、何度も前が霞んだ。これで、会えるのは最後になるのだ。

 最後になるから、美容院に行ったわけではない。最後になるから、洋服を新しく買ったわけではない。最後になるから、下着を初めてメイド・イン・イタリアにしたわけではない。

 早すぎるよ、香坂さん! もう少し、もう少しだけ、幸せなままでいたかった……! 裕志さんのそばに、いたかった!

 

「遥ちゃん、ただいま」

「お帰りなさい」

 遥は裕志の右手を両手で握って、精一杯微笑んだ。握った手をブンブン振って、おどけて見せた。そして堪えきれずに、裕志に抱きついた。脇のところを両腕で抱えこむ。裕志は、遥の気が済むまでそうさせてくれて、頭をずっと撫でてくれていた。

「元気そうで、何よりです!」

「うん。遥ちゃんは、変わりない? こっちも、凄く寒かったって、機内の新聞で読んだよ」

「大丈夫。お酒飲まずに、規則正しい生活してたから」

「そっか。なら、よかった。一緒に帰ろう」

「うん」

 同行した弁護士と別れて、2人で遥の車に乗る。出発しようとシートベルトに手を掛けたところで、グッと首を引き寄せられた。

「遥ちゃん、会いたかった」

 そう言って、裕志は唇を求める。それは軽いものではない。まるで何年も会えなかった恋人がするかのような、とても熱いキスだった。

「僕のそばに、ずっといて欲しい」

 遥の目が、あっという間に涙に覆われてしまう。あぁ、どんなにこの言葉が苦しいか。嘘だけは、つきたくなかった……。

「うん、うん」

 何度も頷いて、言葉にした。

「愛してる、裕志さん」

「僕もだよ」


「さと子さん、ただいまー」

 玄関に入るなり、遥は奥に向かって、明るく声を掛けた。

「お帰りなさいませ。坊ちゃん、遥さん」

「ただいま。さと子さんにもお土産あるから、持って帰って」

「まぁ、坊ちゃん。ありがどうございます。私なんぞにお土産など……」

「遥ちゃんがね、買ってこないと怒るっていうんでね」

「まぁまぁ、遥さん、ありがとうございます」

「いいえ〜。今まで買ってきてないことが、いけないんですよ。よかったです、忘れなくて」

「そうなの?」

「そうです」

 2人の掛け合いを見ながら、微笑ましい笑顔を浮かべ、さと子はダイニングに向かう。

「坊ちゃん、かけ蕎麦用意してありますから、召し上がってください」

「あぁ、食べたかったんだよね。鰹だしのもの」

「よかったねぇ〜」

「遥さんも、一緒にどうぞ」

「わぁ、私の分もあるんですか!? ありがとうございます」

「一緒に、頂こうか」

「は〜い」


「ちょ、っと、どこいくの?」

「もう帰ろうかと思って」

 遥へのお土産は、ちゃんとフーシェのチョコレートを選んでくれていて、食後にさと子も一緒に楽しんだ。裕志はチョコにはワインとばかりにスパークリングを開けて楽しんでいる。

 先程さと子は帰り、それでも話が途切れないまま、時計を見れば21時を過ぎていて、遥は慌てて席を立っていた。

「だって、12時間のフライト疲れたでしょ。ゆっくり、休んで下さい」

「嘘だろ……」

 そう言うと同時に、遥の腕を引っ張って、自分の膝に座らせた。

「今日は、泊まっていくんだよ」

 うん、そのつもりだったけど、もうできないんだよ……。

「でも……」

「まだ、写真も見せてない」

 あっ、そうだ。それだけは、見たかった。

「じゃ、写真だけ……」

「どうした? 何か、明日用事でもあるの」

「うん……。写真、見せて。すごく、見たかったの」

「遥」

 逃げるように膝からすり抜けて写真を取りに行こうとする遥を、裕志は逃がさない。初めて呼び捨てにされて、遥は胸が高鳴る。と同時に、痛みが走った。


「本当に、どうした? おかしいよ……。ずっと我慢してたんだから、そんなイジワル言わないの。もう、このままベッドに連れて行きます」

 そう言うと、膝の上の遥を「うんしょ」と言いながら抱きかかえて立つ。

「ちょっ、ちょっ、下ろして。危ないよ」

「じゃ、泊まってく?」

「……はい。写真、見たいです」

 手を引かれて寝室に向かった。ベッドに入り、一緒にアルバムを開く。最初のページを開いただけで、遥は泣き出してしまう。泣きながら、ページをめくっていった。

「裕志……さん、これ、みんな笑ってる……」

「うん……」

「お父さんと、こんなに笑って……、楽しかったんだねぇ、釣り……。こっちは、お姉さんとお母さんが料理してるの?」

「そうらしい……」

「もう……ほんとうに……みんな幸せそうで……」

 この後、この家族を襲う悲劇を、誰が想像できただろう……。

「もうそれ以上、泣かないで……」


 裕志はそっと遥の頬に唇をあてる。そっと、そっと、瞼に、唇に、首筋に、デコルテに……。遥はそのやさしい愛撫に、涙が止まらない。これが、最後。もう、2度と触れることができない。この裕志を、また一人にしてしまう。

「裕志さん、ごめんなさい……」

「ん……?」

 結局、私ではあなたを守り切れなかった。

「あなたを、こんなに好きになってしまって、……ほんとに、ごめんなさい……」

「遥ちゃん……」

 こんなことを言われて、裕志は胸が詰まる。その気持ちを吐き出すかのように、胸の柔らかい場所を小さく噛んだ。

 君に僕の印を残す。もう、誰にも渡さない。触れさせない。僕のものだから……。


「暖っかい。君の素肌は、柔らかくて滑らかで……。もっと、欲しい」

「私も、欲しい……」

 しっとりとしてきた遥の体を愛おしんでいた裕志を、その言葉が煽っていく。

 じゃ、もっと、感じて! 更に深く沈み込ませる。あぁ、君が感じていることが、体中に伝わってくる。遥ちゃん、離したくない。

「遥……。もう僕は……君がいなきゃ……」

 長旅の疲れが、逆に感覚を鈍らせ、いつまでも達せずに快感が続く。遥は、本当にこれ以上愛されたことはないというほど、何度も頂点に昇った。

「裕志……さん……。もう……いっ……」


 いつもより、長い痺れが全身を覆う。2人共抱きしめている力が、いつまでも緩められない。今までで、1番密度が濃い逢瀬だったと思う。

 遥は、もう思い残すことはないと思った。これで、離れられると思った。


 遥は、静まり返った応接間に入った。叔父のテサーノスのギターケースを手に持ち、CDをカウンターに置いた。

 裕志は2階のベッドで、もうぐっすり眠っている。時計は23時48分。あと少しで、今日が終わる……。

「お休み……」

 玄関を開ければ。凍えるような冷気が遥の体を包んだ。オートロックの玄関を締めて、家を出た。


 翌朝、目が覚めた裕志は遥が隣にいない事に気付いた。ベッドの遥がいた場所はすっかり冷えていて、いなくなって随分経っていることが分かった。


 嫌な、予感がする……。


 1階に下りていき、応接間を探す。遥のギターがないことに気付き、カウンターまで急いだ。そこに書き置きと、以前貸したアナのCDが2枚あった。


「裕志さん、私では身辺調査、通過できませんでした。ごめんなさい。

 ギター持って行きます。CDありがとうございました。

 裕志さんと過ごした時間は、一生忘れません。

 必ず、必ず、幸せになって下さい。 遥」


 応接間から、裕志の咆哮と、CDケースが割れる音が響いた。

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