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パリ=シャルル・ド・ゴール空港から、橘と弁護士はタクシーに乗る。パリに入るには鉄道を利用した方が早いのだが、以前RER(高速鉄道)を利用してパリ東駅に降り立った際、その悪臭に辟易とした経験があり、2度と利用することはないと誓った。
花の都パリの印象しかない日本人には想像できないかもしれないが、パリの地下鉄にはトイレがほとんど設置されていないため、構内での立ち小便が横行しているのだ。
小さい時には良く利用していた駅だが、清潔な日本で育った裕志には耐えがたい体験になった。
以来、空港からはタクシーと決めている。そのままホテルにチェックインし、弁護士と日程を確認する。すでに21時を過ぎているので、明日父の家に向かうことになっている。
無事到着したと遥にLINEを入れたいが、日本時間では朝5時過ぎになるため、止めることにした。到着の連絡をするなどという経験も、今までほとんどなかったので、橘は少し楽しんでいる感がある。
窓辺に移動すれば、階下の道路から酔っ払いと店員たちの大きなどなり声が聞こえてくる。コンクリートとアスファルトに囲まれた日本とは違った、全てが石で造られている街の風景を眺めながら、パリに来たことを実感していた。
仕事でパリに来るまで、いい思い出はまるでなかった橘には、ここに旅行に来たいという人達の気持ちは、全く理解できなかった。
だが、もし遥が一緒にいるのならと考えると、喜ぶだろう場所も想像できるので、このパリを別の見方ができるかもしれないと、今回はそんなことも考えていた。
荷を解き終わり、シャワーを浴びようとしたところでスマホがピンポンと鳴る。
「こっちは、おはよう! だよ。到着しましたか? 寒いですか? 機内食美味しかった?」
思わず、ぷっと笑ってしまう。遥からのLINEだった。寝起きで機内食のことが頭に浮かぶとは、さすが遥ちゃんだ。めったに取らない写真を何枚か撮っておいて、よかったな。
「無事到着しました。思ったより暖かく、雪にならずに済んで助かった。シャンパンがおいしかったかな」
と、画像と一緒に送る。
「なんで、シャンパンとワインの写真ばっかりなの〜。料理は?」
「遥ちゃんのお腹が鳴るといけないので、やめときました」
「逆に気になるでしょ。次回からは、ちゃんと送るよーに」
「了解」
「そっちは寝る時間だよね。寝られる? 頑張って寝てね。お疲れ様。お休み」
最後にハートマークが付いていて、意外と照れる。日本にいる時でも、これはなかった……。
こんな些細なことが楽しいのだから、離れて旅行もたまにはいいのかもしれない。とりあえず「お休み」とだけ返信して、窓から取った夜景の写真を追加しておいた。僕からもハートマークは、ちょっときつい……。
「ほんとにパリにいるんだね〜。寂しいよー」
と泣きスタンプ+パンダの投げキッスのスタンプが返ってきた。空港で別れて、まだ1日経っていない。これではキリがないとスマホを置く。といえば聞こえはいいのだが、実は予想以上に嬉しかったので、変な返しをすることを恐れたというのが、本当のところである。
遥ちゃん……、やっぱり好きだなぁ……。しみじみとシャワーを浴びた。
「リュシー、お元気でしたか?」
久し振りに見た義理の母リュシーは、相変わらず年齢より随分若く見える、美しい人だった。
橘は握手のための右手を出し、ハグはしないと体で拒絶する。相手ももうそんなつもりはないとばかりに、すっと右手を差し出して握手を交わした。
「ミレーヌ、かわいいお子さんですね」
ミレーヌは、リュシーの連れ子である。父がリュシーに恋したときには、もう彼女は前の夫と離婚していたので、連れ子がいる再婚同士のファミリーになる。
フランスでは、よくあるステップファミリーといわれる家族だった。そのミレーヌが5、6歳の女の子を連れていたのだ。裕志にとっては義理の姪になるが、生まれたことも、その子が女の子だったことも、たった今知った。それくらいパリの親族は、遠い存在なのだ。
今日は、父の遺言の確認もあるため、彼女にも同席願っている。
「早速ですが、手続きを済ませてしまいましょう」
そう言うと、弁護士を紹介してリビングに落ち着いた。
フランスに来る前にかなりの事前手続きは済んでいたので、順調に進む。いよいよ遺言書の確認に移る。
「フランスでの所有財産は、全て妻と子に。日本での所有財産は、全て裕志に」
という実に分かりやすい遺言内容で、誰からも異存は出ず、それに基づいてフランスでの相続手続きに入った。
父は再婚の際、「夫婦財産共同契約」を選んだため、結婚前の父の財産は父のものであり、義母の財産は義母のものというフランス特有の財産所有権になっていた。フランスでは、結婚するとこれが無条件に付いて来る。
そのため、遺言がなければ配偶者であるリュシーに、婚前の夫の遺産が渡ることはない。全て子供が引き継ぐことになる。この家は、結婚前に裕志も住んでいた家なので、リュシーには権利が無いのだ。
しかしこの遺言により、無事リュシーも権利を得たことになり、万が一にも、この家から子供に追い出されることはなくなった。リュシーとしても安心しただろう。
日本の弁護士は、この遺言内容を生前本人より通告されていたので、前もって準備をしてきていた。あとは、こちらの公証人との確認手続きが残っている。ただ、「日本の財産」の中に、日本での賃貸不動産からの定期的な収入も入っており、今後それがなくなることで、こちらの生活に破綻を来さないか心配したが、ミレーヌの夫は実業家であり、現在の生活も十分支えていることから、執着することなく異議申し立てはなかった。
無事、裕志のものとなる。また、有価証券については、全て日本の財産とみなされ、こちらも裕志のものとなった。
「今日、ミレーヌの旦那さんは?」
「裕志に会いたがっていましたが、2週間前からイギリスに出張しているため不在です」
ミレーヌの、実に愛想のない返事で会話が終わる。
今回改めて会うにあたって、色々確認していて分かったが、このミレーヌは裕志より2歳年下で、今年33歳になるはずである。
フランスの女性は「若さ」にあまり執着がないため、フランス女性らしい年相応の強さを持った、「マダム」と呼ばれるのにふさわしい女性である。
「ママ、この人は誰?」
ミレーヌの子供が聞いている。
「死んだおじいちゃんの息子さんですよ」
と正確な説明をし、当然「兄」という言葉は出てこない。子供は「ふ〜ん」と答えて遊びに戻った。
その子を何となく眺めているうちに、ふとミレーヌとの記憶が蘇ってきた。彼女と一緒に暮らしたのは、半年くらいだったろうか。その中で1つだけ記憶にある思い出である。
「そういえば、ミレーヌ。ピアノはまだ弾いてるの?」
突然そんな声を掛けられて、ミレーヌも戸惑った。
「ええ……。オレリーにも習わせて、たまに弾いてるわ」
名前が出てきて、この子の名前はオレリーなのかと知る。名前に相応しく綺麗な金髪だった。
「オレリー、弾いて聞かせてくれる」
裕志が優しくお願いすれば、暇を持て余していたオレリーは喜んでピアノの前に座った。何曲かフランスの童謡や練習曲を弾いている。そのうち、裕志も興味のある曲が始まった。キラキラ星である。
まだまだ習いたてなのだろう。小さい手でぎこちなく弾いている。モーツァルトの変奏曲が有名であるが、童謡としてのキラキラ星の方が、日本では親しまれているだろう。
この曲は実は、フランスのシャンソンが元になっている。しかも、恋の歌なのだ。
――人は好きな人がいなくても、生きられるのかしら
という歌詞が出てくる。遥に会う前の裕志なら、難なく「生きていられるさ」と答えただろうが、今となっては「難しいかもしれない」と考え込んでしまう大人の歌詞だ。
それがイギリスから日本に渡ってくる間に、日本人なら誰でも知っている童謡に変わってしまった。しかもそんなことは、ほとんどの日本人は知らないだろう。
一生懸命弾いている左隣に裕志はそっと座り、一緒に弾き始めた。
変奏曲の第3と第4変奏にあたる左手を弾いてあげる。オレリーは、びっくりして一旦止めてしまったが、すぐに理解して何度もキラキラ星を弾き始めた。
「次は、ゆーっくり、弾いて」
と第11変奏の左手を弾いて、終わった。
微笑んでオレリーの方を見れば、もうそれこそキラキラした目をして、まるで裕志に恋でもしているような顔になる。裕志も思わずオレリーの頭をポンポンして、
「上手に弾けたねぇ」
と声を掛けた。ソファで聴いていたミレーヌが、戻ってきた裕志を呆然と眺めている。
「あれは、裕志だったのね……」
「思い出した? 僕も、さっき思い出したよ」
そう、たった一つの思い出は、雨が降っていて外で遊べない退屈な日、ミレーヌが弾き出したキラキラ星に、今日の様に裕志が左手を弾いてあげて、一緒に遊んだのだ。
何度もミレーヌにせがまれて、何度も弾いてあげた。結局最後は、全曲を1人で弾いて(もちろん両手で)、やっとミレーヌが裕志を解放してくれた記憶がある。
ミレーヌの記憶の中の男の子と、裕志が結びつくことはなく、今日まで過ぎたという事だろう。懐かしい空気の中で、裕志はやっぱり遥のことを思い出していた。
僕がギターだけじゃなく、ピアノも弾けるって知ったら、驚くのかな。それとも、怒られるのか……。
「もぉ、そういうことは早く言ってよね。今まで聴いてないなんて、損しちゃったじゃない! 聴かせて、聴かせて〜」
想像しながら、ふっと笑みがこぼれて、それを見逃さなかったミレーヌに追及される。
「裕志は、まだ結婚しないの? 彼女は?」
「結婚したい女性がいるんだけど、簡単じゃなくてね……」
書類の整理をリュシーとしていた弁護士が、一度だけ裕志の方を見た。わざと聞こえるように言ったので、見られるだろうことは分かっていたが、スルーしておいた。
「どんな女性?」
「楽しくて、正義感の強い人です。彼女といると、自分を無理なく出せる。ずっと一緒にいたい女性です」
「あら、日本人もそんな風に言うのねぇ。意外だったわ」
「そう?」
「日本人はもっと恥ずかしがり屋で、あんまりパートナーを褒めないって聞いてたから。まぁパパは、いつもスマートにママを褒めてたけれど。やっばり、親子なのかしらねぇ。顔も似てるし、声なんて、目をつむって聞いてたら、生き返ったと思うくらい。ねぇ、ママ」
「そうねぇ、私もさっき挨拶した時、ビックリしたわ。小さい時の声しか知らなかったから。優治にそっくり」
裕志は、言葉に詰まった。父に似ていると言われることが、初めてだったからだ。誰もそんなことは言わなかった。祖父母も、伯父も……。
「そうですか……」
こんなところで、自分のルーツを確認するとは……。父を恨んでいないと言えばうそになるが、もうそんな感情すら、自分の中には無くなっていると思っていた。それなのに「似ている」というたった一つの言葉が、あっという間に父との時間を巻き戻して、わずかにある思い出と繋ぎ合わせてしまう。父の声が耳に甦った。
――裕志、一緒に釣りに行くか?
自分でも驚いて、瞠目した。自分がいくつの時の記憶なのか、どれ位前の思い出なのか、全く分からない……。皆に気づかれない様に視線を家の外に向ける。
「父の釣りは、続いていたんでしょうか」
「ええ。病気になる前まで、よく一人で行ってました。私もミレーヌも興味がなくて、すぐに一緒に行かなくなってしまったから。ミレーヌに男の子が生まれたら、一緒に行きたいと言ってましたねぇ、独り言のように。叶いませんでしたが……」
「一緒に……」
僕は一緒に行ったのだろうか。母は、姉は……。どんなに考えても、思い出せそうになかった。
役所への書類提出と、銀行での手続き、公証人との協議に3日程掛かる。その間、裕志はほんの少し拘束されるだけなので、残りの時間はフリーとなる。フランス支社に顔を出し、久し振りに日本からの転勤者と顔を合わせた。
現地課長に挨拶をし、持参した「東京ばな奈」を手渡す。日本からのお菓子は大抵喜ばれるので、今回も大丈夫だろう。「白い恋人」などは、ラングドシャーの本場フランスでも、大人気だと聞いていた。
雑談をしていたら、部下にあたるメンバーもどんどん集まって来た。
「お久し振りです、橘課長。噂、聴きましたよ! こちらでも、大騒ぎです」
清水だった。彼はフランス語を第2外国語に選んでいて、当時25歳の独身だったため、すぐに転勤のメンバーに選ばれた。そろそろ3年になる。
もうすぐ、本人が希望すれば、日本に戻れるのではないだろうか。その彼に突然そんなことを言われ、会社ではポーカーフェイスを貫いている橘も、少し意外な顔をした。
「僕の、噂ですか?」
「そうですよ。お付き合いしている人がいるっていう話です!」
「……あぁ」
「あぁ、じゃないですよ。メールが来た日は、日本人仲間でバーで盛り上がったくらいです」
まいったな。こういうゴシップ情報は、簡単に海を越えるわけだ……。が、これ以上の個人情報は仕事には全く関係が無いのだから、ここまでとしよう。
「僕も皆さんと特に何も変わらないので、それくらいにしておいて下さい」
「いや〜、課長も人の子だって分かって、本当になんていうか、ホッとしました」
表情を変えずに対応していたが、さすがに片眉がピクリと動いた。
「ホッと……、ですか?」
「あっ、いいえ、上司に対して失礼致しました。でも、日本の皆も同じようなことを言ってましたので、ついお伝えしたくて……。申し訳ありません」
僕に彼女がいると分かれば、皆がほっとする……。これは、やはりあまり良いチームワークではないと自覚した。どうしたものか……。遥ちゃんなら、どうするかな……。
「謝ることではありません。皆に心配を掛けていたなら、これからは安心してもらえるように努力しますよ」
とにっこり笑った。その笑顔を見て、清水が固まる。課長が……、笑った。これぞ、愛の力というやつでは……! 早速、日本にメールだ!
「あぁでも、この程度のことで、今後はメールのやり取りとかは、よしてくださいね。彼女に笑われますので」
「うっ……、はっ、はい……」
なに〜! 課長のことを笑い飛ばせるのか!? 彼女さん、最強……。えっ、彼女? 彼氏じゃないの? どっちだ!
「か、彼女……ですか?」
「あぁ……、想像におまかせします」
えぇ〜! だ、ダメだ……。衝撃が大きすぎる。これは、報告書レベルだ。最優先事項だ。誰かに今すぐ話さなければ、仕事にならん〜!
「じゃ、これで帰りますが、何か仕事で困っていることはありませんか?」
「大丈夫です。お気をつけて。休暇楽しんでください!」
「ありがとう」
本当に優しい笑顔で言われる。やっ、柔らかくないか、全ての対応が……。今までの無機質な課長とは、明らかに違う。感動だ……。
彼女さんか彼氏さんか知らんが、とにかくありがとー! メルシィー!
「僕に彼女がいること、パリまで知れ渡ってた」
裕志は遥にLINEを送る。
「えぇー!」+爆笑スタンプ
「みんな、ホッとしたらしい」
「裕志さんは、会社ではいったい何者扱いなの〜(笑)」
「わかりません」
「裕志さんが笑うとねぇ、皆んな喜ぶと思うよ」
「どうやら、そうらしい」
「よかったね〜」
何が良かったのかよく分からないが、遥ちゃんにこう言われると、きっと良かったんだなと思えてくるから不思議だな。
「ところで、私はやっぱり彼氏のまま?」
「想像におまかせしといたよ」
「ひゃ〜、楽しいねぇ」
時計を確認すると、日本時間では間もなく23時頃だろう。
「もう、寝る時間だね」
「うん。早く会いたいね」
だから、こういうのは返すのが困るんだって……。
「うん、うん」とうなずいている、動くパンダのスタンプを送る。
「もぉ、照れ屋の裕志。そういうとこだぞ。皆がホッとできないのは」
なるほど……。では、
「愛してるよ」
「きゃ〜、振れ幅が大きすぎます。お休み!」+布団に潜り込むパンダのスタンプ
ふっと笑って「お休み」スタンプを送っておいた。
遥ちゃんだって、照れてるし……。
こんな風に父と母も、愛し合った時があったのだろうか……。
見上げれば、今日のパリは綺麗な青空が広がっていた。ここから見えるノートルダム大聖堂は、春の大火災での跡も生々しく、足場で屋根が覆われていて、とても写真に納める気にはならなかった。
そこで、セーヌ川越しのパリ市庁舎やサン=ジェルヴェ=サン=プロテ教会などを撮影して、送っておいた。
遥ちゃん、もう寝ちゃったかな……。ピンポンと返信が来た。
「写真ありがとう。やっぱり別世界だなぁ」
まだ、起きてたか……。一呼吸置いて、次が来た。
「私も、大好きです」
僕も、早く会いたいよ……、遥ちゃん。
「さと子さん、こんばんはー」
約束していたさと子さんと会える日、裕志の家に会社の帰りに寄った。
「いらっしゃいませ、遥さん」
「アルバムのこと、聞いてらっしゃいますか?」
「はい。ご用意しておきましたよ」
さと子さんから重たいアルバムを手渡された。
さと子さんにお礼を言って、お仕事が終わったらお茶しましょうと誘ったところ、快諾してもらう。その間に、アルバムを見ようと応接間に落ち着いた。
最初にあったのは、この家に来てすぐと思われる頃の裕志の写真だった。後ろに祖父母だろう2人が立っている。想像通り、優しそうなお祖母様だ。裕志は今よりももっと無表情な顔で写っていた。
運動会に、クラスの全体写真、遠足や修学旅行など、小学校の学校行事の写真が並ぶ。
「あれ、これ文化祭? ピアノ弾いてるの、裕志さんじゃない!」
「あぁ、坊ちゃんですね。ギターだけではなくて、ピアノもお上手ですよ」
応接間の掃除に取り掛かったさと子さんが、遥の後ろから覗き込んで教えてくれる。
「えぇ、もぉ裕志さん、何もかも出来過ぎ……」
それに比べて自分は……、と暗澹たる思いで先に進む。
「これで、終わり……?」
裕志の高校の入学式で、写真は終わっている。重いアルバムの、半分にも足りていない。大体、小さい時の写真はどうしたのだろう。さと子さんなら、知っているのだろうか。
「さと子さん、裕志さんの赤ちゃんの頃とかの写真って、ないんですか?」
「えぇ、若奥様達は別の家に住んでらっしゃいましたから」
「そういうことですか。じゃあ、写真がどこにいったかは、分からないんですね?」
「ええ……」
「では、ご両親やお姉様の写真は、1枚も日本にないんですか?」
さと子は、動かしていたハンドモップを止めて、一緒に息も止まった。お姉さんのことを知っている人は、裕志に関わる人間で、親族以外今まで1人もいない。
「あの……、遥さんは坊ちゃんの『お姉さん』のことをご存知なんですか?」
「はい……。裕志さんから聞きました……」
あぁ、奥様……。坊っちゃんが、お姉さんのことを伝えた女性が、やっと現れましたよ。
「遥さん、驚かれたのでは……」
さと子の声が、震えてしまう。
「はい……。裕志さん、とても辛い思いをされたんだと……。パリって裕志さんにとっては、辛い思い出しかない所なんですよね」
さと子は思わず前のめりになった。
「はい、はい。でも、遥さんがそのことを分かってらっしゃるなら、どんなにか心が安らかなのではないでしょうか」
「それなら、いいんですが……。写真、送ってくれるんですよ。パリの」
遥がLINEの写真を何枚か見せてくれる。こんな事は、今まで聞いたことが無い。何度も仕事でフランスには行っているが、写真を撮るなど、全く無かったのではないか。
「……っ! 遥さん、これは?」
「パリのご家族だそうです。この可愛い女の子は、姪御さんになるんですね。えっーと、オレリーちゃんですって」
思わず両手を口に当てて、さと子が泣き出した。
「えっ、どうしたんですか、さと子さん? 具合でも悪い?」
「坊っちゃんが、一緒に写ってるなんて……。笑って……」
「さと子さん……」
立って話していたさと子を、椅子に座らせゆっくり背中を擦ってあげる。遥は心がほっこり暖かくなった。
「裕志さんはこの家で、決して1人ではなかったんですね……」
遥の言葉を聞いて、さと子は何度も頷きながら、涙を止めることができなかった。
パリでの最終日、もう一度父の家に向かった。リュシーに呼ばれたのだ。
「裕志、先日渡すのを忘れていたの、ごめんなさい。病床で、あなたに渡してくれって優治から頼まれてたの」
そういって、少し重い紙袋を渡された。
「本当は、もっと早くに日本に送らなくちゃいけないと思ってたみたいなんだけど、優治も手放すことができなかったみたい。優治、元気な時もこっそり見てたものなのよ。私達には決して見せなかったから、私も深くは追求しなかったの。だから、これは、このまま見ないでおくわ。帰ってから、ゆっくり見て」
なんだろうと思いながら、お礼を言って受け取った。今日は平日なので、オレリーもミレーヌも不在とのことで、よろしくと伝える。
「オレリーが、すっかりあなたのファンになったみたいで、よかったらまた連絡してあげて」
とメールアドレスを渡された。裕志は少し驚いたが、自分のメールアドレスも残してきた。フランスに小さな繋がりを残すことが、以前のように苦痛ではなくなってることに、自分でも不思議な感覚を覚えた。
旅の最後に、今回の一番の目的の1つである、墓参りに向かう。
遥からも、できることならお墓の写真を送って欲しいと言われていて、迷っていた。手元に残るものは、あまり多くないほうがいい……。
送るのが無理なら、せめて遠くからでも一緒にお墓参りしたいから、到着したら教えて欲しいとも言われていた。
途中、セーヌ川の辺を歩く。釣りをするならば、この川だろうと考えたのだが、やはり思い出すことはできなかった。
父母と姉の墓は、広大な墓地の一角にあった。プレートのみのシンプルなものである。姉と母は1つの墓に入っている。父の墓は、少し離れた場所にあった。
お墓の周りには鉢に入った花が何個か置かれている。フランスではこれが一般的だ。裕志は途中手に入れた小さなブーケを墓に置いた。
25年振りに来た。10歳で日本に帰国する少し前に、父に連れられてきたのが最後だ。カソリックでは「死」がタブーのため、フランスの葬儀には中学生以下の子供は参列できない場合が多い。裕志も参列できなかった。
こんなお墓だったのだと、初めて記憶に残すことができる。写真、どうしようか……。そういえば、さっきリュシーから渡されたものは何だったのかと、ふと思い出し、紙袋の中身を確かめた。
それはアルバムだった。裕志は、こんなものを初めて見る。存在すら、知らない……。恐る恐る開いた。
日本の家族の写真が、そこにあった。若かった頃の父母の写真。姉の赤ちゃんの頃、幼稚園でのお遊戯での子豚。裕志の赤ちゃんの時の写真が何枚もあり、姉とまだオムツの裕志が庭のプールで遊んでいる。
小さい裕志が父に肩車されて、姉は母に手を繋がれて、東京ディズニーランドでの写真まである。パリのエッフェル塔をバックに4人が写り、裕志は母におんぶされて、はしゃいでいる。皆、笑顔の写真ばかりだ……。
その中の1枚に裕志の目が留まる。セーヌ川を背に、裕志と父が釣竿を持って写っていた。裕志は5歳くらいか。2人とも楽しそうに大笑いしている。母が撮ったのだろうか……。それから、次は、次は……。写真が滲んで、見られなくなった。
体の奥から突き上げるように、何かの塊が押し寄せてくる。堪えなくてはならないのに、止める事ができない。とうとう、嗚咽となって外に出てしまった。
そしてそれは大きな激流となって裕志の体を駆け巡る。あぁ、あぁ、母さん……。姉さん……。父さん……。今まで、本当に長いこと封印していた思いが、こんなにもあったのだと初めて気が付いて、裕志はその場に立っていられなくなった。
遥ちゃん……。君に、知らせたい。僕にも小さい頃の写真があったこと。少し落ち着いた裕志は、迷い無く遥にLINEを送る。
「遥ちゃん、お墓についたよ」
すると、電話が鳴った。
「ありがとう、連絡くれて」
「うん……」
遥は、裕志の声がいつもと違うことに、すぐ気がついた。
「裕志さん、何かあった? 大丈夫?」
遥ちゃん……。
「僕のアルバム、見た?」
「うん。さと子さんが見せてくれたよ」
「赤ちゃんの写真、なかったでしょ」
「……うん。あっ、でも、違うお家で暮らしてたからだって、さと子さんが」
「あったよ」
「えっ……」
「パリに、あった。父さんが、ずっと手元に置いてた」
「裕志さん……、よかった! よかった!」
「ちょっと待って。今、送る」
裕志は写真をスマホで何枚か撮って、遥に送った。
「裕志さん、こんなに可愛い。みんな笑って……。ほんとに、よかった。ちゃんと、愛されてたよ!」
その言葉を聞いて、また、気持ちが逆巻く。
「遥……ちゃん……」
小さく名前を呼べば、嗚咽も一緒に出てしまう。息を止めて、整えた。
「うん、うん。ほんと、よかった」
「日本に帰ったら、見せるよ」
「うん。楽しみにしてるね。……あのね」
遥の声が改まった。
「ん……」
「私、お父様にお礼が言いたいの」
「何?」
何だろう……。裕志は見当がつかない。
「私ね、裕志さんに会わせてくれたのは、お父様だと思ってるの」
裕志が、小さく息を吸う。……そうか。遥に初めて会ったのは、父の死を聞いて、飲みすぎて意識がなくなったからだ……。
「遥ちゃん……」
「だから、お礼が言いたかったの。スマホ、お父さんのお墓に向けて」
言われた通り、スピーカーにして、お墓にスマホを向ける。
「お父さん、裕志さんに会わせてくれて、ありがとうございました。皆さんが愛した裕志さんを、私も大切にします。安らかに、お眠り下さい」
小さく聞こえてくる遥の声に、裕志は言葉が出てこなかった。
「裕志さん」
遥の呼ぶ声に、スマホを耳に戻した。
「ありがとう。ちゃんと挨拶できて、よかった」
「……遥ちゃん、ありがとう」
電話を切って、また溢れる涙に、裕志は身を任せた。