ままならない
「『上善』もらえますか」
「1合でよろしいですか?」
「はい」
初めて入ったお店だった。久留宮遥はお通しに箸を付けながら、冷酒が出てくるのを待つ。その間、どうしても昼間のことが頭に甦ってきて、思わず両手で顔を覆っていた。息を整えながら、気持ちを静めていく。
こんなことは、もうずっと何年も前から続いていることだ。仕事をしていれば、どうしたって自分の思い通りにならないことは沢山ある。その不満を会社にぶつけてみたところで、こちらの心証が悪くなるばかりで、要求がそのまま通ることは決してない。分かっていたことだが、久し振りに要求をして、やっぱり見事に玉砕し、また自分の人望のなさをしみじみと確認することになり、どうにもやり切れずにこの店に入った。
前から気になってはいた。原木を裁断したままの白木にニスが施されていて、黒字で大きく「沙羅亭」と彫り込まれている看板。入り口には麻の暖簾が掛かり、右下端に「双樹」と黒字で染められていた。店の向かって右側は細い格子で覆われていて、下から照明が当てられている。左側には黒竹が植えてあり、屋外用の置き形の照明が3個置いてあった。半年ほど前に、開業した店だと記憶している。いつも車やバスで前を通るだけなので、寄ることはなかったのだが、今日は気が付いたら駐車場に車を止めていた。
「お待たせしました」
「ありがとう」
擦りガラスのお猪口に「上善」を注ぐ。少し舐めて味を確認し、一気に呷った。喉から胃にかけて、くぅと熱くなる。けれど、さっぱりとしたお酒なので後味はすっと引いていった。「上善、水の如し」とは、よく言ったものだ。
本来この言葉は老子の言葉としてあったものだ。最高の善、つまりよき行いは、水の如くその器に従い形を変え、自らは低い場所に身をおくという水に喩えた言葉だと言われている。
「さしずめ私は、『下善、岩の如し』だな」
そんな言葉が口から出た。笑い飛ばそうと言ってはみたが、自己嫌悪にまた情けない気持ちが沸き起こってくる。もう一杯、一気に呷った。大きな溜息が口から漏れた。
「今日はマコモダケとワカメの煮物がお勧めですが、いかがですか」
50代だろうか。今時珍しく、和服でカウンターに入っている。奥に厨房があるらしいが、このカウンターで盛り付けや飲み物を作れるようになっているらしい。白い割烹着が元々のスタイルの良さを隠してしまっているが、後姿を見れば、均整の取れたスタイルの人だと分かる。母親のような空気感のある女将さんだ。
「それ、お願いします」
にっこり笑って、用意し始めた。改めて、店内を見渡す。やはり新しい店なので、カウンターも椅子も壁も、全て綺麗だった。しかも店内禁煙との張り紙があるから、汚れる要素は少ないように思う。お客さんはカップルが多い。まぁ、大抵の居酒屋はカップルが多いからそれ程珍しいことでもないだろう。女1人と見ると見境なく声を掛けてくる酔っ払いがいる気配もなく、内心ホッとしながらお猪口にお酒を注いだ。
遥はお酒は強くはない。直ぐに頭が痛くなるか、眠くなるかのどちらかで、ビールも大瓶1本も開ければもう限界と感じるほどだ。それでも、今日は無理やり流し込んでいた。食べてこれをすると後が大変なので、もう食べるつもりはない。だから、出された「マコモダケ」も手を付けることはないだろう。だが、お酒だけ飲んで帰るほど、このお店は馴染みではない。つまみを注文することは、礼儀だ。「マコモダケ」なら、肉や揚げ物のように香りが強いわけではないから、お酒の邪魔をすることはないと注文した。
「いらっしゃい」
新しい客が、結構入ってくる。よく見れば、壁際に名前の書かれた焼酎のビンが、ズラッと並んでいた。この女将さんは、どこかの料理店から独立してこの店を開いたか、或いは、どこかから店ごと移転してきたのではないかと思った。お客さんがこんなに付いているのは、開店半年にしては珍しいと思う。あっと言う間に、満席になった。
あまり長居しないほうがいいと考える。次のお客さんに譲ろうと、少し飲むピッチを早めた。それが、いけなかった。悪酔いする予感に襲われ、慌てて水を流し込む。案の定、頭を締め付けられる痛みが始まった。たった1合なのに、情けない……。今日は、結局、こういう日なのだと、また溜息をついた。
「すみません。代行呼んでもらえますか」
「あら、もうお帰りですか?」
「はい。次に行くところがあって……」
嘘をつく。なかなか、自分の居場所を新しく作るのは、難しい。
「直ぐ呼びますね」
と電話を掛けてくれた。しばらくして、代行が到着し、
「またゆっくり寄させてもらいます」
と店を出た。
いい季節だ。暑さもすっかり影をひそめ、虫の音が涼やかに鳴っている。こんな都会の中にあっても、虫の音がするなんてと思い周りを見れば、ああ、そうだった。目の前に小さな公園があったんだ、と眺めた。
代行に乗り込もうとして、視界の隅にその公園の中で、人がふわりと倒れていく様子が捉えられた。
「えっ……」
一旦動きが止まり、車に半分入れていた体を、ゆっくり外に戻した。そのまま、顔を公園に向けて目を凝らす。やっぱり、人が倒れている。ビックリして、代行の運転手さんに声を掛け、一緒に公園に入った。
公園の中の砂場の横に藤棚がつくってあり、その下にベンチがあった。その前にその人は倒れていた。スーツを着て、ビジネスバッグがベンチにある。
「大丈夫ですか!」
そう声を掛けるが、反応がない。呼吸は確認できるが、完全に意識がない。アルコールの臭いが、強くした。慌てて救急を呼ぼうとスマホを手に取った。
「んっ……」
小さな呻き声が、その人からした。よかった……、生きてる。あっいや、生きてるのは分かってたけど……。
「大丈夫ですか!?」
もう一度声を掛ける。彼は顔を歪め、本当に小さい声で呻いた。
「ほっといて……、くれ……」
「……」
いい声だった。低すぎず、でも男性らしい低音の響きのある、いい声……。って、そんなこと言ってる場合では、ないな……。
「どうしましょう……」
代行の運転手が聞いてくる。どうしましょうって言われても……。
常識的に考えれれば、救急車と警察という事になるのだろうが、どちらもその後が大変面倒なことになる。時間は取られるし、説明を何度もすることになるだろ。もしかしたら、病院に付き合わなければならなくなるかも知れない……。
遥はズキズキに変わってきた頭痛を抱えて、大きな溜息をついた。
「本当に、今日って日はっ……!」
結局、そのまま放っておくわけにもいかず、皆で助けることになった。まずは、住所を確認すべく免許証を探す。
「財布の中に手をつけてないって、ちゃんと見てて下さいね」
と運転手に見せながら、財布から免許証を取り出し、運転手に確認した。
「この住所は、近いんですか?」
「ああ、ちょうどお客さんの帰り道方向ですね……」
「う〜ん。じゃあ、しょうがないですね。彼を車に乗せましょう」
「えっ、いいんですか?」
「いいですよ。今日は、私、大凶の日らしいんで。これで、厄払いです!」
「はぁ……」
不承不承といった体で、もう1人の運転手と共に、車に乗せた。あぁこれで、運転手にチップまで渡す羽目になる……。眼鏡を掛けていたらしく、割れて落ちていたのを拾い、胸ポケットに突っ込む。無抵抗に転んでいたなら、きっと眼鏡で顔に痣ができるな……と、実際に痣を作ったことがあった元彼のことを思い出しながら、彼のカバンを手に遥も車に乗り込んだ。
住所の場所に到着した。で、驚いた。立派な一戸建ての住居がそこにあった。鉄筋コンクリート造りの建坪300坪は軽く超えると思われる2階建てである。
「まいったなぁ……」
家を見上げながら、腰に両手を当てて呟いていた。考えようによっては、オートロックのマンションだともっと手間が掛かっただろうから、こっちでよかったのかもしれない。
「どうします?」
運転手もどうしたものか困りつつ、私に判断を仰いでくる。
「チャイム鳴らすしかないでしょう……」
そういって、「橘」とある門扉のチャイムを押した。反応が、ない。もう一度押す。30秒程待っても、誰も反応しなかった。
「しょうがない。玄関まで連れていきましょう」
「はぁ……」
運転手達も溜息が止まらない。
門扉の脇にある人専用と思われる扉を開けるために、今度はカバンの中を、運転手に見てもらいつつ探り、革のキーケースを探し出した。いくつもある鍵を合わせて、なんとか開けることができた。そのまま玄関まで、2人に担いでいってもらう。車寄せがあるような大きな家なので、玄関までも遠い。なるべく靴を引きずらないように頑張っているのだが、いかんせんほとんど気絶状態なので、多少靴が傷付くのは勘弁してもらおう。
先程の見つけたキーケースから玄関の鍵も見つけ、無事玄関を開けることができた。
真っ暗なその玄関に彼を入れ、上がり框の先の床にそのまま置いた。
「ここまですれば、もういいわよねぇ」
「充分だと思いますよ」
「よし、帰りましょう」
遥は自分のカバンからメモを取り出し、玄関と門扉の鍵はポストに入れた旨のみ書き込んで、彼の目の付くところに置いた。これで、厄払いは終了である。とっとと、退散いたしましょう。
「ご苦労様でした。後は私の家まで、お願いします」
遥は運転手達に3千円余分に払い、それでも「少なくてゴメンなさいね」と言い添えて、無事自分の部屋に到着した。
全く、こんなことは2度と起こらないようにと、神様仏様にお願いしつつ、ぐったりと眠りに付いた。
「おはよう。昨日、またバトルしたって?」
同期の淳子が席に着いた早々やって来た。
「はい。見事玉砕です……」
思い出したくもないと、顔を歪める。
「どうして遥は、そう厄介ごとを引き受けちゃうのかなぁ。後輩達の困りごとなんか、見て見ぬ振りで良かったのに」
「魔が差したの……。私だってギリギリ我慢して、3週間は黙ってたんだから……」
同じ課の後輩の竹内が、ずっと困っていた。大切な会議の資料作成を頼まれていたのだが、その資料の元となる資料の作成を、バカ上司が……、失礼、ウチの上司が一向に作成しないため、遅々として進んでいなかったのだ。その会議が来週に迫っていて、もう首が回らない状態になっていた。見かねて「その」上司に談判した。
「資料がなくて、先に進めずにいるようなのですが、どうしたらよいかと思いまして……」
遥的には、最大限下手に出たつもりだったのだが、案の定上司はキレた。
「明日から掛かろうと思ってたんだよ。何だよ、君には関係のない案件だろ! いつもしゃしゃり出て来て、何様のつもりなんだよ!」
「……申し訳ありません」
女も30歳を越えると、途端に会社での扱いはぞんざいになる。特に遥は、自分で言うのも何だが、正義感が強すぎて、幾度となく上司や会社の総務部門とバトルを繰り広げてきたお陰で、すっかり会社からの信頼はなくなっていた。「わがままな女」のレッテルはもう剥がしようもなく、遥も今となっては大人しくしているのが1番いいのだと、やっと悟るようになっていた。その矢先のことで、そりゃ淳子も呆れるってもんだわね。
「また、粛清生活に戻ります。大人しくOLを続けられるよう、鋭意努力を重ねる所存でございます」
そう言って、椅子に座ったまま深々と頭を下げた。
「まぁ、竹内さんは助かっただろうから、よかったんじゃない。あの課長は『天網恢恢』よ。その内、天罰が下る……。遥は、まぁ、いい事もあるでしょ」
とチョコを2個机に置いて、淳子は去っていった。いつも、ご馳走様です。
「久留宮さん、この間の提案書、ちょっと手を加えたいんだけど、いいかな?」
そう言いながらやって来たのは、1つ年上の我が課の営業、桜岡だった。
「はい。どうしますか?」
「ここに、このグラフと説明加えたいんだけど」
と横から遥のパソコンの画面を操作し出す。少し近くて、いや、かなり近すぎて、遥は椅子ごと後ろに下がった。
「このグラフ、もう少し分かり易くできないかな。久留宮さんならいいアイデアありそうだと……、あれっ? なんでそんな後ろにいるの」
「……、グラフ2種類を重ねましょうか。あと立体グラフを取りやめて、普通の二次元のグラフの方が逆に見やすいと思いますよ。その代わり、ちょっと色の配置を初期値から変更して……」
といいながら、椅子に座ったまま足で漕いで机まで戻り、チョイチョイと操作する。
「これで、どうですか?」
「うん。いいねぇ、見やすくなった。これでいくよ。いつも、ありがとさん」
と、にっこり微笑んでいかれる。
この桜岡、会社で3、4番手くらいのイケメンで、女子社員の受けが誠によろしく、遥としてはめったに近寄ってはいけない人物のカテゴリーに分類している。遥は、女子同士のいざこざが、めっぽう嫌いなのだ。できれば一切参加したくないのだが、彼が同じ課というだけで何かと巻き込まれて、いい加減迷惑している。はぁ〜。
今日も今日とて、さっきの微笑みはきっと誰かがチェックを怠らず監視していたに違いないので、また遥は陰でグチグチ言われるのだ。近づかないで欲しい……。はぁ、溜息がとまらない。これもOLを続けるための試練である。鋭意努力を続けよう。
ランチの時間、淳子と一緒に社外に出た。ここはオフィス街なので、12時と同時に一斉に人が動き出す。昨日の二日酔いがまだままならず、コンビニでクロワッサンを購入し、近くの公園に繰り出した。淳子はフードトラックからタコライスを購入してきて、横に座った。
「へぇ、そんな殊勝なことしたんだ。大変だったね」
昨晩の酔いどれの話をおかずに、淳子に愚痴をこぼしていた。
「あの辺り、結構立派なお宅が多くて、部外者は入りにくいんだよねぇ。初めて足を踏み入れた」
「確かねぇ、営業2課の佐々木さんのお宅も、あの辺りだったと思うよ」
「佐々木さんって、あのお父さんが本社の専務だか何だかのお坊ちゃま?」
「そうそう。『社会勉強』でウチの会社にいる、お坊ちゃま」
「ふわぁ〜。やっぱり、あの辺りは足を踏み入れてはいけない場所なのね。よかった、無事帰還できて」
「よく何にも起こらずに家に入れたわね。セコム飛んでこなかった?」
「大丈夫だったよ。だって、彼の鍵を使ってるんだから、大丈夫でしよう」
「そ〜お? まぁ、厄落としだったなら、早く忘れるに越したことはないわね」
「そう! もう二度と会うこともないから、早く忘れま〜す」
と、そういう訳にもいかなかった……。
「失礼ですが、昨日『橘家』にいらした、久留宮遥さんでいらっしゃいますか?」
残業を1時間して、午後7時に会社を出たところで、いきなり声を掛けられた。
「……」
見たこともない人だった。黒のスーツに黒のネクタイ。見るからにキツイ目をした、その筋の人かと思うほどのオーラをまとった、40代半ばくらいの男性だった。
「あの……」
さすがに怯んで、バッグを抱え込み、2歩程後退る。誰、これ? 何で私の名前、知ってるの?
「どちら……様、ですか?」
「橘様から依頼を受けて、あなたをお探ししていた、樋口探偵事務所の香坂といいます」
と、名刺を差し出す。恐る恐る受け取り、会社名を確認した。
「探偵事務所……」
そんなもの、映画かテレビでしか見たことも聞いたこともない。探偵って本当にいるのね。
「昨夜、橘様のお宅に、酔っ払いを1人送り届けられませんでしたか?」
「あっ……」
そこで初めて「橘」という名前に行き着く。そういえば、そんな名前の表札だったっけ。
「あの……、そうですが、決して何かを取ったりとかはしてません……。 生まれて30年、善良な市民を通してきました……。悪いことは、してません……」
声が小さくなっていく。もう2歩後退って、香坂と名乗った人物と間合いを取っていく。逃げ切れるだろうか……。会社の中に逃げれば、きっと大丈夫……。
「いやいや、落ち着いてください。お話をさせていただきたくて参りました。決して、危害を加えるとか、賠償を迫るとか、そういったことではないので、ご安心ください」
と、強面の割りに優しい口調で説明され、少し聞く気が起きる。
「ちょっと私、この顔なので、皆さんに怖がられるのですが……」
香坂が、少しバツが悪そうにこめかみをポリポリする。そのしぐさが妙に可愛らしく、遥はやっと普通に息をすることができた。確かに……、怖い。
「あの、ではご用件はなんでしょう?」
「橘様が、昨夜のお礼をしたいと探しておられまして、どんな状況だったかも心配しておられます」
「はぁ〜、そういうことですか〜。びっくりさせないで下さい」
心から安堵の溜息を漏らす。その様子に、香坂はクスッと小さく笑った。
「お礼はいりません。何かのご縁だったのでしょうから。ご心配なく。それより、よくこの短時間で私のことが分かりましたね。プロといえば、そうでしょうが……」
「防犯カメラがあったのは、お気づきでしたか?」
「……いいえ。なるほど、それにしても、何が映っててこんなに早く見つかったのでしょう?」
「代行運転の車です。しっかり映ってましたから。……といっても、本来なら、お客さんの情報はなかなか開示してくれないのですが、そこはこちらも、色々手段がありますので……」
お金ね……。まぁ、あの運転手さんたちにも迷惑掛けたんだから、ちょうど良かったかもしれない。私からのお礼も少なかったし……。
「なるほど。でも、私の勤め先はどうやって……」
「色々、手段はあります……」
「企業秘密ってことですか……。一般市民にプライバシーって、本当にないんですね……」
昨今、SNSにネットに動画に、あらゆる情報が垂れ流しで、しかも、本人が自らしているのだから、それは止めようもない情報の流出なのだろう。
「お気に障ったらお許しください。違法なことはしておりませんが、確かにプライバシーはないかもしれませんね」
香坂の言葉に、遥は視線を落として一旦思考がここから遠ざかるが、すぐに我に返り微笑んだ。
「でも、お陰で面白い体験ができました。知らない人に探されるなんて、今後一生ないでしょうから、貴重な経験です。ありがとうございました」
「あ、いえ。あの……、橘様は、直にお会いしたいと言ってらっしゃるのですが……」
「本当に、もう気にしないで下さいとお伝えください。って……、それじゃ香坂さんが困るんですね」
「はい。正直申しますと……」
「じゃ、スマホ貸して頂けます? それと状況については、ご説明しておきますね」
遥は「沙羅亭」の帰りに、その前の公園で橘が倒れたところを偶然見て、確認のため近寄ったことを話す。そして、アルコールの臭いが強くしたのと、一応本人の応答があったので、送り届けることにしたと説明した。
ひとまず状況を理解したらしい香坂に、その後、動画を撮るようにお願いする。
「こんにちは。久留宮と申します。お礼のためにわざわざ探していただいて、ご厚意感謝いたします。お気持ちは受け取らせていただきましたので、これでどうぞ、お忘れください。きっとなにかのご縁だったのでしょうから」
ここまで言って、でもまぁ確かに、私が相手の立場だったとしても、お礼はしたいと思うかな……。と思い直し、言葉を繋げた。
「どうしても気に掛かる、とのことでしたら、今後橘さんの前で誰か困った方がいらっしゃった時に、その方を助けてあげてください。それできっと、ご恩は回りますので。私は橘さんを送り届けた時点で、誰かからもらったご恩をひとつ、無事返せたと思っています。お陰様で、ありがとうございました」
と頭を下げた。ふと、頭によぎったことを口にする。
「そういえば、メガネで顔にお怪我はされませんでしたか? もしアザができたなら、お気の毒ですが少し長引きますよ。これに懲りて、お酒はほどほどになさって下さいね。……あっ、余計なこと言っちゃった」
調子に乗った自分に呆れながら、指先を口に当てて、笑ってごまかした。
「最後に、私が無理を言って、香坂さんにはこの動画でお引き取り頂くようにお願いしました。香坂さんは丁寧にご説明下さいましたから、決してお攻めになりません様、よろしくお願いします。ではこれで。ごきげんよう、さようなら」
最後に、手を振って録画を終えた。
スマホをしまいながら、香坂は声を掛ける。
「久留宮さん……、本当にいいんですか?」
「はい、十分です。あんまり、私に関わらない方がいいです。嫌な想い、させるといけませんし……」
そういって伏せた目が、先程の動画の表情とは少し違い、香坂はオヤッと、心に引っ掛かりを覚えた……。
「ちょっと楽しかったので、ありがとうございました。気を付けてお帰り下さいね。じゃ」
小さく会釈をして、遥は後腐れなく離れて行ってしまった。
香坂は橘との契約のことを考えながら、困ったと頭を傾ける。なんとか納得してもらうしかないか……。そう考えながら、報告のため橘の家に足を向けた。
「香坂さんにしては、随分中途半端な仕事ですね」
動画を見終わりながら、橘は鋭い視線を送りつつ言葉を放つ。
「申し訳ありません。しかしながら……」
「何です」
視線を外すことなく、強めに相づちが来る。
「お礼を受けることは、強制するものでもないかと……」
「……。恩は回すものなのですか? 返すものでしょう。初めて聞きましたが」
「いや、いつだったか私も聞いたことがあります。『情けは人の為ならず』とも、申しますし……」
「このアザでは、直接会いに行けないと思ってましたが、長引くなら治るのは待ってられませんね」
橘は自身の顔に、そっと手を添える。
確かに、右目の瞼の上からぐるりと半周、アザができていた。倒れたことを全く記憶していないので、なんの受け身も取らず倒れたのだろう。割れたメガネの枠は、かなりぐにゃりと曲がっていた。
「どうしても、会いに行かれますか?」
「ええ。僕はやはり、恩は返しておきたい」
橘の家の応接間だった。50畳程のフローリングに30人以上が座れるソファがあり、それら全てが稼働できるように独立している。東側には暖炉が切られていて、その反対の西側には、バーカウンターが作られている。ソファの前には、ローテーブルが置かれていて、それらもいくつかのパーツに分けられるようになっている。
そのソファに座り、橘は小さくため息をついた。
昨日、いや正確に言えば今朝だが、目が覚めると自分は玄関ロビーで寝ていて、しかもスーツのままだった。昨夜の記憶は……、行きつけのバーを3店回ったまでは覚えているが、その先が全く思い出せない。体を起こそうとして顔面が痛いことに気付き、右腕にも鈍い痛みがあった。アルコールがまだ十分に体に残っていて、頭がはっきりせず思考がままならない。とにかくシャワーを浴びようと、上半身を起こしたところで、寝ていた横に何やら四角い紙片があるのを見つけた。
「ポストに、鍵……?」
慌ててポストを確認すれば、確かに鍵があり、ならば……と、財布やビジネスバッグの中身を確認した。無くなっているものはなく、取り敢えず安堵したが、では、一体何がどうしてこうなったのか、全く状況がつかめず困惑することになった。
「明日、金曜日ですから、食事に誘います。会えるように、手配お願いします」
香坂にそう依頼すると、もう用事は済んだと言わんばかりに、スタスタと自室に戻って行ってしまった。
「ふーっ、彼女には気の毒だが、しょうがないか……」
香坂は、スマホに手を掛けながら、橘家を後にした。
「久留宮様ですか、香坂です。橘様からお預かりしたものがありますので、明日お会いできませんか? ……はい、そうお伝えしたのですが、やはり恩は返したいとおっしゃって……。……はい。……はい。今日の場所で結構ですが……。あぁ、公園ですね、助かります。では、明日」