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実際のところ、彼女が私を覚えていないと言った時には少しショックだった。ずっとずっと、彼女を家に迎えられるように必死に仕事をして、のし上がってきた。元より栄えていた家をさらに発展させてきた。
でも私が彼女に一方的に運命を感じているだけで、彼女にとっては昔私にした親切なんて、大したことのない自然なことだったのだろう。
はじめて彼女に出会った日、今の国王の即位式の前のパーティ。彼女は7歳、私は11歳だった。彼女は黒髪だから結構目立っていたけれど、大半は皆彼女の姉の方ばかりに注目していて、彼女はぽつんと会場の隅に立っていた。人の多い場所に慣れないのか、困ったような顔をして。
見てすぐに、話しかけなければと感じた。そして、これが両親や祖父母も、曽祖父も言っていた〝相手が運命の人だと感じる〟という感覚なのだろうと思った。電気が頭の奥を走り抜けるような、不思議な感覚。絶対にそうだ、と確信していた。
一歩一歩、近づいていくたび心臓が跳ねる。
「ねえ!ロイス、あんた飲み物持ってきてよ。私、みんなと話してるんだから」
「はい、お姉様。」
彼女は姉のような少女に命令されるままに、私とは反対方向の机に駆けて行く。特に嫌な顔をするでもなく。私はそれが少し気に食わなかった。人に言われるがままに、主体性のない人間が私は好きじゃなかったのだ。しかもそれが、自分の〝相手〟なのだと感じていたからなおさら。
私は彼女になんとなくガッカリした気持ちになると、会場を少し離れて会場を囲う庭園の中に入った。庭園の中は植物が大人の身長より高いくらいに塀のようになっていて、歩いていると迷路のように、路地裏のように人目に触れない場所に出た。
「おいおい、公爵家の坊っちゃんがこんなとこにいるぜ」
「相変わらず人を見下したようないけ好かない顔だな。」
「挨拶くらいしにこいよ、俺たちは〝年上〟だぞ?」
その時だった。他の伯爵家やら侯爵家の息子が塀の陰から数人でてきて、私の周りを取り囲んだのだ。
このように公爵家の人間に絡むのは下の家の立場として賢くない行動なのだと、大人になった今ならば彼等にも分かるだろう。でも、その息子たちもまだ10歳前後、気に入らなければ公爵家の息子だろうといびろうとするのだった。何もしていないのに突然胸ぐらを掴まれた私は驚いたが、特に抵抗しなかった。
本当に驚いていたし、相手のほうが体格が大きかったし。私はこのころ、かなり身長が低い方だったのだ。ロイスのほうがまだ高かったくらいだ。それに武術も習い始めたばかりの頃だったので、相手に勝てる算段も無かったし。
あと、このまま殴られでもすれば困るのは相手なのでこのままでもいいかとも思ったのだ。すると案の定、私の胸ぐらをつかんだ相手の反対側の拳が飛んできて、私の腹を直撃した。この男は、伯爵家の息子でハンクと言った。こいつは貴族には珍しいほどに、特別暴力的で異常者だったのだ。今となってはその男の家に関わろうとするものは居ないが、このころは子どもだということで、異常性を大人たちは理解していなかった。
「ハハ、こういう時はな、顔じゃなく見えないところを殴るんだよ」
「チビが調子乗ってるからだ、へこへこしてろよ弱虫が」
そう言って、他の数人も便乗して私の体を足で軽く蹴ったりした。それでもここは庭園の少し奥、大人の目には届かない場所だった。
がさり。
その時。また、近くの植物の塀から新たに誰かが出てきた。
「……あ?なんだよお前?男爵家の女じゃねえか」
めちゃくちゃな理屈で意味もなく私に暴力を振るってきた相手は、私の背後を見てそう言った。私が掴まれたまま首だけ後ろを向くと、そこには飲み物を持ったロイスが立っていた。私は驚く。彼女は驚くでも怖がるでもなく、真顔のままで突然こちらに走り出したのだ。
「?!」
「手が滑った!!」
ロイスは、驚いているハンクの顔面に飲み物のグラスを叩きつけると、私の右手を力強く掴んで後ろに引っ張った。グラスが音をたててハンクの額で弾け割れ、地面に落ちる。ハンクはグラスの破片などで顔を切った様子こそなかったものの、服も顔も飲み物がかかって汚れていた。ロイスが運んでいた飲み物はオレンジ色だったので、かなり目立ったのだ。
当然ハンクの顔は怒りでみるみる赤くなっていき、すごい形相になっていく。
「てめえ……」
だが、ハンクが何かを言い出す前にロイスは右拳を振りかぶってハンクの顔面に叩き込んだ。女の子がグーでパンチするなんて、と私はものすごく驚いたが、なんとハンクはその衝撃で鼻血を出してしまったのだ。二発連続で何の説明もなく顔面に攻撃を受けたハンクはしばらくあまりの怒りに何も言えなくなっていたが、ロイスの次の発言により更に激高した。
「さっき、あなたこういう時は顔じゃなくて見えないところを殴るんだと言いましたよね、でも、私はやっぱり顔を殴りたいんですよね。好みの違いというやつでしょうか?」
「てめえ!!何しやがる、殺してやる!!」
そう、にこりともせずに。ロイスはとんでもない二面性を併せ持っていたのだ。
現在の落ち着いた様子の彼女からは、想像もつかないような。彼女は普段から喧嘩をしていたわけではもちろんないだろうし、今の大人になった状態なら、図体のデカいハンクに血が出るほどのダメージを負わせるような力はないだろうと思う。子ども同士だったからそれくらいは抵抗できた、というのは理解していた。
「きゃああー!!!誰か助けて!!」
その時、彼女は突然、彼女らしくもない高い声の悲鳴をあげた。それから、私の手首を掴んで庭園を出口のパーティ会場まで引っ張って走り出した。出口に着くと心配した大人が寄ってくる。
彼女は周囲の大人にどうしたのかと聞かれると、急に仮面をかぶったように〝被害者面〟をして、さぞ怖かったかのように喋り出した。
「向こうに居た男の子に、私が転んで飲み物をかけてしまったんです。そうしたら、謝ったのに急に殴りかかってきて……この男の子が助けてくれたんですが、この子もお腹を殴られたり蹴られたりしてしまって、私、怖くて……」
なんという嘘っぱち、よく一瞬でそんな適当な発言ができるなと私は感心してしまった。大体、私が口裏を合わせなかったらロイスはどんな立場になってしまっていたのだろう。考え無しというか、突っ走りがちというか。大体、他人に対してはこんな演技ができるのに、どうして自分の家族に対しては黙って従うのか不思議でならなかった。
「かわいそうに……ああっ!あなたはエインズワース家のお坊っちゃん!と、とにかくすぐに手当を!彼らに危害を加えたものをすぐに庭園から探し出すんだ!!」
パーティの中で、それはちょっとした騒ぎにまで発展した。私とロイスはその時に一緒に医務室に連れて行かれて、二人きりになった時間があった。とはいっても、ロイスは殴るだけ殴って逃げたので無傷だったが。
「おい!君、こんなことして大丈夫なのか?」
私が慌ててロイスに聞くと、ロイスは自分のドレスの裾のひもがほつれてしまったようで、手で直しながら興味も無さそうに言った。
「怪我は大丈夫ですか?」
「いや、大丈夫だが……」
質問に質問で返され、私は少しとまどう。
「それならよかった。あーあ、飲み物また取ってこなきゃ。私のお姉さま、ちょっと遅いとめちゃくちゃに不機嫌になっちゃうんですよね。参ったなあ」
その様子は、一々回答するのが面倒くさい、礼を言われるのも嫌だと言っているかのような、無関心な話し方だった。彼女はこの時7歳だったのに、あまりに大人びていて、投げやりで、不器用だった。彼女が家族から嫌われて育ったからなのかもしれない、と今ならば分かるが。
「どうして私を助けた?」
「え?だって、お腹を殴られるのって痛そうだったので。悪い人に酷い目に遭わされている人は助けるでしょう、普通。」
「それだけで?!君はあんな大きな体格の男を殴って、復讐される恐れだってあるのに?!」
当たり前のように言った彼女に、私はごく自然に疑問がどんどんでてきた。彼女の発言や行動は、まったくめちゃくちゃで矛盾していて、不可思議だった。
「あー、それですか。びっくりしますよね!まさか鼻血でるほど自分のパンチに力があるとは思わなかったんですけど。私、もう行きますね。姉が待っているので」
「飲み物をか?」
「飲み物をです」
それが彼女と最初に会った日の、最後に交わした言葉だった。
こんなことがあったのに彼女が私を覚えていないのは、全く驚きでしかない。普通こんなこと、大事件として記憶に深く残るものなんじゃないのだろうか?いや、私の背が小さくて弱そうだったので、今の私と過去の私を同一人物と気づいていないだけ、という可能性も高いが。
その後に長時間かけて無駄に丁重な手当を受け会場に戻ると、もうロイスはいなかった。
ついでに、本番の即位式は侯爵家と公爵家のみ招待されたので、当然彼女はいなかった。
それ以降、彼女を見かけることもなければ私から会いに行ったことも無かった。ただ、彼女の名前がロイス=メイリ―であること、家族構成、家の所在だけは調べて記憶にとどめて置いていた。
「アートは結婚とかしないの?好きな子はいるの?」
そうして家族からの言葉に、私はようやく覚悟を決めて、彼女の元に行くことにした。
「いるよ。変わり者で、得体の知れない女の子なんだ。でも、私は彼女のことが好きで好きでたまらないのだと思う。はじめて見た時から、そう感じていた」
この気持ちの正体は、彼女と旅をして見つけていかなければ。どうして私は彼女を好きになるべくしてなったのか?
私は、彼女になぜ自分が好きなのか?と聞かれるたびに少し困ってしまう。どうして私が彼女を好きなのか、その明確な答えが私にすらないのだ。
でも、助けてもらってかっこよかったからでもなければ、家族にいじめられていて可哀想だと思ったからでもない。彼女の性格のもっと根底にある「何か」が、私は好きなのだ。それが何かは、まだ分からない。
「アート?急に立ち止まってどうしたんですか?」
でもロイスに名前を呼ばれると、不思議と嬉しい感じがする。ロイスが嬉しそうにしているのを見ると、自分のことのように嬉しい。
「今日は暖かいな」
「そうですね。光が春の色をしています」
「春の色?」
「暖かい色です。あなたの髪の色みたいな」
「じゃあ、外が寒くなったら私と居れば暖かいかもしれないな」
「意味がわからないですけど、そうかもしれませんね」
ロイスと一緒に居ると、暖かい感じがする。
これはきっと、だから恋なのだ。
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