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小鳥の声が、小さく聞こえている。
誰かが窓を開けたのか、まぶたを透かして外からの光が広がってくる。暖かくて、布団がふわふわしていて、起きたがりたくない。
「ねえ、早く起きて!ロイス!」
眠たくて目を少し右袖でこする。ぼんやりとした景色がだんだん明るくなっていき、開け放した窓の前に立っている人物の顔にようやく焦点が合った。
「……シャー、ロッ……ト」
……そう、この女の子はシャーロットというんだった。たしか、そうだったと思う。綺麗なふわふわの金髪に、青い……いや、金色だろうか。綺麗な瞳の色をしている。優しそうな笑顔で、明るくて、誰にでも……親切な、良い子だ。
「おはよう!ぼーっとしてどうしたの?」
「ううん、なんだか眠たくて」
「ダメダメ、もうお母様たちが食事するの待ってるんだから!」
「待ってる……?一緒に食べるの?みんなで?」
私が尋ねると、シャーロットが不思議そうな顔をする。
「当たり前じゃない!私たち、家族なんだから!」
そう言ってシャーロットが微笑み、私が身を起こすのを手伝ってくれる。なんだか、妙に体が重いのだ。居心地が良くって、一歩も歩きたくないような気になる。ベッドから降りて立ち上がると、シャーロットの後ろについて部屋から出た。
「今日の食事は、珍しくお肉もあるのよ!あーあ、早くお金持ちと結婚して、もっと毎日豪華な食事食べたいなあ。家族と離れるのは嫌なんだけど」
わがままだな、と私が少し笑う。こういう贅沢なことを言っても可愛い、としか思えないのは、シャーロットが可愛いからなのだろう。
「アハハ、結婚したら家族から離れなきゃいけないんだよ、たまに豪華ならそれくらいでちょうどいいんじゃない?」
贅沢は敵、浪費は敵、無駄は敵なのである。そして、普段から贅沢だと有り難みがない。
「ロイスは結婚とか興味なさそうだものね〜、でも結婚なんて、申し込まれてお父様が許可出しちゃえば決まっちゃうんだから、下級貴族って損よね」
「シャーロットには好きな人がいるの?」
「いないけど、不細工は嫌よ」
シャーロットがそう言って口を尖らせる。まあ確かに、若いからってガマガエルみたいな中年を結婚相手にあてがわれたりしたら悲劇だろう。シャーロットのように可愛い女の子なら、なおさらだ。
「ロイスを起こしてきましたわ、お母様」
「おはようございます、お母様、お父様」
私が挨拶をすると、先に卓についていた両親が笑顔で挨拶を返してくれる。
「おはようシャーロット、ロイス。」
……たしか、この優しそうな夫婦が自分の両親なのだった。そう、よく分からないが、みんながそう振る舞っているのだから、きっとそうなのだろう。私は指定されるまま、母の隣の席に座ることになった。テーブルにはシャーロットが言っていた通り、大きめのステーキが用意されている。隣には平たい皿に入ったいい匂いのスープと、大きなパンの入った籠が置いてある。
「まあ、今日の食事は美味しいわね」
「ロイスももっとたくさん食べなさい」
「ありがとうございます」
「今日は妙に他人行儀じゃないか、具合でも悪いのか?」
「今日のロイスは、ボーッとしているのですよ、お父様」
他人行儀、と言われて私は言葉遣いを改めようと思った。優しくてあたたかい彼らにとって、私は仲のいい娘なのだろう。シャーロットのように、砕けて接したほうがいいのかもしれない。
私は籠からパンを一つとって半分にちぎると、硬そうなのでスープに浸して一口かじる。家族みんなで食べる食事は、不思議と気分がふわふわして、幸せな気がした。私は次に、ステーキの皿に添えられたサラダにフォークを突き刺して食べる。
「……あ、これ、辛い。なんだろう……」
どこかで食べたことがあるような、そんな辛さ。どこで食べたんだっけ、誰と、一緒に……
「それは、お花だよ。私たちの故郷、このアニスの名産じゃない。」
「そっか。そうだよね」
ここは、アニス、というらしい。私の故郷はアニスという名前なのだ。言われてみればそうだった気もする。そしてそのはずなのに、どうして自分がこんな質問をしたのか分からない。ともかく私はこの赤くて辛い食用の花について、よく知らなかったのだ。そして、しかし、言われてみれば彼らと一緒に食べたことがあるような気もした。
「毎食のようにサラダについてるじゃない、ロイスの忘れんぼ」
シャーロットが呆れたような顔をしてそう言う。
「ごめん、なんだか本当にぼうっとしてるみたい」
「まあ、大丈夫なのロイス?食事が終わったら少し横になっていたほうが良いわよ。お母様が枕元で本を読んであげましょうか?」
「いつまでもロイスを子供扱いしないでください、お母様?」
「あらあら、それは失礼しました」
シャーロットの文句に、オホホ、と母が楽しそうに笑う。私はこんな顔を向けられたことが、今まであったのだろうか。
そう思うと同時に、私は本当は、母に枕元で本を読んで欲しかったな、と思った。そんなことをしてもらえることは、愛されている子どもの特権じゃないか。幸せの象徴じゃないかと。
……どうしてこんなに優しい母に対して、そんなことを思うのだろう。家族みんな、こんなに優しいのだから、今までだって優しかったに決まっているのに。本だって小さい頃に読んでもらったことがあるはずだ。よく思い出せないだけで、きっと幸せな思い出が山程あるのだ。
きっとそうだ。私はこんな素敵な家族に囲まれて育った、恵まれた人間なのだから。
「ね、ロイス。ロイスはお嫁になんて行かないで、ずーっとこの家で、私たちと一生一緒に暮らしてくれるわね?」
食事が終わって一緒に廊下を歩いていると、シャーロットがそう言って私の手を握ってきた。
「一生?死ぬまでってこと?結婚くらいはしたいかなあ」
「ダメよ。家族は一緒に居なきゃ」
「結婚してその相手と家族になるんじゃない。シャーロットだっていつかは結婚するんでしょ?」
妙なことを言うな、と私が話を流そうとすると、シャーロットは私の手を握る手に力を入れてぐっと握りなおしてきた。一体なんなんだ、急に。そう思って私が困っていると、シャーロットは急に泣き出してしまった。
「やっぱり、結婚なんて絶対しないわよ、ロイスと離れるなんて嫌だもの。」
どうして、そんなことを言うんだろう。永遠にこのまま暮らすことなどできやしないのに。
「さっきと言ってること違うんじゃない?まあ、いつになるかも分からないような話はいいじゃない、やめましょう」
そう言った私はふと、音に気を取られて廊下の窓から外を覗く。少し離れた広い更地で、大勢の軍服を着た男たちが、剣を交わして訓練のようなことをしていた。
「なんであんなところで訓練してるのかな」
「なんでって……隣に訓練場があるからじゃない。隣が訓練場でうるさいから立地が悪いって言うんで、私たちも安く住めてるのよ。そりゃ、毎日訓練してるのが見えるわよね。うるさいわほんと」
「そっか……そうだね。毎日やってるよね」
そうか、そう言われれば、そうなのかもしれない。
「……シャーロット、あの、一番左の列にいる青い軍服の男の人、誰かな。」
なにか、見覚えがある気がした。
「軍隊にいる人のことなんて覚えてないわよ。さあさ、具合悪いなら部屋に戻って寝ましょ。」
「わ、押さないでよ」
「いいから。早く部屋に戻って」
私は背中を押されてシャーロットに抗議するが、シャーロットは妙に冷静な顔をしていて、私に窓の外を見せたくないみたいに窓を閉じてしまった。
隠されると私はなぜか、より一層窓の外を見たくなる。さっき自分が見覚えあると思った男が何者なのか、気になって仕方がなくなる。私はもう一度、勢いよく窓を開けた。
「ちょっと!なんで窓開けるの?軍隊なんてどうでもいいじゃん!」
「ごめんねシャーロット、私、あの人に会わなきゃ」
「なんで?!私やお母様とお父様がいれば、他はどうだっていいじゃない!外になんてでちゃダメ!なんにもしないで、毎日私と一緒に居てよ!!」
ああ、シャーロットは必死なのだ。
どうしてか分からないけれど、シャーロットは私にここで一生一緒に暮らして欲しいのだ。寂しい、のだろうか。
「私ね、シャーロットのことを覚えていたよ。でも、それよりもっともっと、あの人のことを覚えていたんだ。今、はっきり思い出した。」
「何言ってるの?分かんないよ!ロイスが何言ってるのか……」
「私、あの人のことが世界で一番好きなんだよ。それで、あの人は私のことが宇宙一好きなの。だから、私はあの人に会わなきゃいけないんだ」
「意味わかんない!知らない人なんでしょ?!それに、うちゅうってなに?!」
この世界でみんなに優しくされて、楽しい家庭でずっと過ごすのは、すごく幸せで楽かもしれない。ずっと幸せな夢を見ていられるなら、それが幸せで、一生目なんか覚ましたくない人だって、きっと一杯いる。
でも、私は夢見たままじゃいられないのだ。現実に、大切なものがたくさんあるから。楽な道ばかりを歩んでいては、本当に、あるべき姿で正しい道を進んでいけないから。娯楽は、夢は、自分で見つけ出すものだから。
「楽しかったよ、シャーロット。ううん、お姉様。いい子にしてれば可愛いんだから、向こうでも、私にもっと優しくしてね」
泣きそうなシャーロットが腕を掴もうとしてくる前に、私は窓の枠に手をかけて飛び乗り、窓から飛び出た。そうだ、私は力が強くって、身体能力が高いんだった。
「アート!!」
遠くにいる軍隊の中から、私が大声で呼んだ1人だけが、すぐに笑顔で振り向く。そして、こちらに手を伸ばしてきた。
「私はここにいるよ、ロイス。」
そんな、心から安心するアートの声が聞こえたかと思うと、私の視界は一瞬光に包まれる。眩しくて目を閉じて、再びゆっくりと開けると、腹部に猛烈な痛みが走った。
「ロイス!大丈夫か」
私は、アートにお姫様抱っこされているようだった。腹部にはぐるぐるとシャツのようなものが巻かれていて、血が滲んでいる。そしてアートは、素肌に上着という奇妙な格好をしていた。となると、これはあの高そうな素材のシャツを破いたものなのだろうか。
「痛いです」
「だろうな。血が出てるし」
「でも、痛いのは生きてる証なので、我慢できます」
そんなわけで。
……私は、アートの上着のあたりを、ぎゅっと握りしめました。離れないように、次は気絶しないように。
「そうか。あそこの女に説教する途中だったんだが、聞いていくか?」
「今の動けない私に選択権はありませんね」
アニスでアートと一緒に食べた辛い花入りサラダのことも、ルドガーさんたちのことも、ミサカツキのことやアシュレイ様のこと、両親に嫌われていたこと……全部思い出すと、妙に記憶に対するありがたみがなくなってしまいます。ついでに祖母の顔もぼんやり思い出しました。
呪い、私、自力で解けちゃったのでは?
そんなことはさておき、私は前を見てぎょっとします。見たこともないような形相で、可愛い服を私の返り血で真っ赤にしたシャーロットがそこには立っていたのです。
すぐさま状況説明を求めたいところですが、空気を読んでここは黙っておきましょう。
「なんで……?」
シャーロットが、小さくそう呟いたのが聞こえた気がしました。
おら、次回予告詐欺で申し訳ねえだ。次回こそ決着?!のはずです。




