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早足で先頭を歩いていたロイスは、どんどんと歩む速度を早め、ついでに私やルドガーが話しかけても返答をしなくなっていった。この時点で何かおかしいとは思っていたが、私もルドガーも小走りで追いついて後に続いていく。ロイスの顔を横から覗きこむと、目は虚ろで、不自然に首だけが動かない姿勢で歩いているようだった。まるで、意識がないのに体だけが勝手に歩き出す、ゾンビのようだ。もちろん、ロイスの体は腐ってなどいないが。
ルドガーが私に「何かおかしい」と目配せしてきたが、そんなことは見ればわかる。どうすべきなのかは判断しかねるが、とにかくロイスが目的地に向かっているならばついて行くまでだ。
「ロイス様?!」
そんな時、突然ロイスがものすごい速度で走り出した。私たちは慌てて後を追いかけるが、スタートの数秒の遅さでかなりの距離が開いてしまう。慌てているうち、ロイスの向こう、前方から何者かが走ってきた。はっきりと見えた。長い金髪の女が、刃物を持って、明らかにロイスに走って向かっていっている。
目的は分からないが、とにかく、ロイスを殺そうと敵意を持って向かってきていたのだ。私たちがロイスに追いつくより早く、その人物は正面からロイスにぶつかった。
「待て!!ロイス!!」
間に合わなかった。
目の前に恐ろしい光景が広がる。ロイスの服の腹部が血で赤く染まり、地面にはボタボタと勢いよく血が流れ落ちていく。角度のせいで傷口は見えないが、確実にロイスの体のどこかに刃物が刺さったのだろう。
ナイフを持ってロイスに突っ込んでいった、長い金髪の女。この人物には見覚えがあった。シャーロット・メイリー。ロイスの双子の姉だという。だがシャーロットは、あんな、見たこともないような黄金色の瞳をしていただろうか?その目は釣り上がり、怪しく光っていた。何かに、取り憑かれているかのようにだ。
そう、明らかに何かに取り憑かれている。
「離れろ!!」
私は2秒もすれば追いつき、勢いよくシャーロットをロイスから引き剥がして、その顔面を右拳で殴りつけた。シャーロットは3メートルほど吹っ飛んだが、すぐに何事も無かったかのように立ち上がる。結構な力で殴ったのに、見たところ、鼻の骨も折れてはいないようだ。シャーロットはロイスのように頑強な力の持ち主だとは聞いていないので、やはり〝なぜこんなところにシャーロットがいるのか〟という点を説明するにおいても〝悪霊や神霊に取り憑かれている〟と考えるのが一番無難だ。神霊か何かに体も守られているのだろう。
腹にナイフが刺さったままのロイスを抱え上げると、ルドガーは私を背にシャーロットと向かい合い、剣を構えて距離をとった。確かに、今はルドガーが付いてきてくれて助かっている気がする。
「なぜこんなことをする!シャーロット=メイリー!!なんのつもりだ!!」
ルドガーが、シャーロットに対してそう怒鳴った。恐らく彼女はシャーロット本人ではないから怒鳴っても仕方ないかもしれないが、なぜこんなことをするのか、という点においては知りたいところだ。墓を荒らされるのを恐れてのことだろうか?しかしそうなると自分はロイスに勝手に呪いをかけておいて、自分が何かされそうになったら襲ってくるというのは、なんとも自分勝手なことに思える。神とはいつだって自分勝手なものだ、と言われればそうなのかもしれないが。
「私、シャーロットじゃないのよ?でも、そうね、なんのつもりかって言われると、つまり、あの世に迎えて私が愛してあげるのよ。この世に生きて愛を失うことは不幸だから。あの人もこの子も、人を愛するには純粋すぎるから。苦しまないように、もう、終わらせてあげるのよ。私も頑張ったけれど、この子はここに来てしまった」
この声は、およそ見たままの若い女の声ではない。いいや、人間の声ですらないのだろう。美しく、妖しく、不気味で、恐ろしい。背筋がぞっとするような冷たさを感じる。
しかしそんなことより、今は意識を失った上に刺されて血の出ているロイスが問題だ。打撲や体内の痛みであれば私が吸収して肩代わりしてやることができるが、出血による不調はどうすることもできない。下手にナイフを抜けば血が吹き出して、より事態が悪化することになる。私が血を送り込んでやることやロイスの体内の血を増やしてやることもできない。そんな便利な能力は持っていないのだ。私の家には今の世界には流通していないような、輸血などのできる特殊な医療器具が多くあるが、そこまで運んでいるような時間はない。火で熱した金属で傷口を焼けば血が止まるだろうか?しかし、そんな手を使うのは避けたい。ロイスは女性なのだから、傷の残らない方法の治療のほうがいいに決まっているからだ。
「アーチボルト様、お気持ちは分かりますがどうか冷静に。とにかく、ナイフをゆっくりと抜いて、布か何かで傷のある腹の周りを強く縛って止血をしてください!!」
「っあ、ああ!分かった」
この場にルドガーを同行させて、本当に良かったと今は思う。私だけでは倒れたロイスを守りながらシャーロットに立ち向かえたかどうか分からない。怒りに任せて、シャーロットを殺すことに躍起になってロイスが出血多量で死んでしまっていたかも。いくら冷静で理性的な人間であろうとしても、ロイスを失うかもしれない、と思うととても冷静ではいられない。
「ロイス、大丈夫だからな」
私はそう声をかけながら、巻けそうな布を探して、見当たらなかったのでゴワゴワした上着を脱ぎ捨て、自分のシャツを割いた。そしてナイフを出来るだけ衝撃を与えないように抜くと、ロイスの腹のあたりの服の布を割いて、自分のシャツを勢いよく巻いた。巻いてもすぐにシャツの布にロイスの血が滲んでいき、血が止まらないことに焦った私は、慌てて傷口に上から手を当てて血を止めようとする。
ああ、血が止まらない!布も巻いたし、手でも抑えているのに!!
腹にナイフが刺さったからって人はこんなに血が出るものなのか?首を飛ばしたら血が噴き出ると知っているが、こんな小さそうな片手で持てる短剣が刺さったくらいで、しかも、強いはずのロイスが。いくら私が焦って血を止めようとしても、治療は上手くいかない。こんなことならセドリックも他も全員連れてくるべきだったのかもしれない。しかも、近くの民家の扉はどれもこれも締め切られ、こちらとは関わり合いになりたくない、という考えがもろに見える。窓から子どもがのぞいているのが見えたが、すぐに母親が奥に引っ張っていき勢いよく窓の戸も閉めてしまった。
そうだ、ガムテープがあれば……いや、でも、そんなことを考えているうちに、ロイスの傷口の血が止まりはじめていた。ロイスは相変わらず意識が戻らず、青い顔で目を閉じている。呼吸も弱いように感じる。いつものロイスのあたたかい太陽の匂いは、頭がクラクラするような濃い血の匂いにかき消されてしまった。
シャーロットのことはルドガーが面と向かって警戒しているが、不気味にニコニコと笑うばかりでこちらに襲いかかってくる様子もない。ルドガーは切りかかって殺すべきか、捕えてしかるべき機関に突き出して法で裁くべきなのか迷っているようだった。シャーロットは見たところ何も持っていない様子だし、ナイフ一本だけを持ってここに居たらしい。
どうやってこの場にシャーロットの体が辿りつけたのかは知る由もないが、私たちはどちらにせよ、この悪霊の本体の元に辿り着く必要があるのだ。そのためには、場所を感じ取れるロイスが必要だった。今となってはこのシャーロットに乗り移った本体と対話して説得する、という手もあるが。
「私たちは呪いを解くようにお前に話をしにここに来た。私はロイスと結婚し、幸せにする。だからロイスは愛を失うことなどない」
ロイスを抱き上げて立ち上がり、シャーロットのほうを向いた私は、ルドガーの後ろでそう言った。ロイスを抱えたままでは戦うことが出来ないからだ。まさか、自分がルドガーに本当の意味で護衛される日が来るとは。私の言葉がちゃんと聞こえていたようで、シャーロットは不愉快そうに表情を歪めて私を睨みつけてくる。
「お前はこの子を守れないじゃない。守れもしないくせに、幸せにするだなんて。笑えるわね、口先だけのありふれた人間」
「私はロイスを守る」
「守れないからその子は死ぬんじゃない。お前が無力でこの子を守れないから、その子はシャーロットに刺されて殺されるのよ。」
……確かに、私は走り出したロイスを止めることが出来ず、結果的にナイフで刺されるのを見ていることしかできなかった。しかし、ロイスはまだ生きている。これからは確実に守ってみせるという、決意もある。もちろんいつでも100パーセント守れる保証などどこにもないが、すべての人間はいつ、どうやって死ぬか分からない状態で生きているのだ。守れる、守れない、なんて誰にも言い切ることなどできない。
「随分な言いようだな。お前がシャーロットの意識を乗っ取って殺そうとしたんじゃないか。シャーロットについては良い印象がないが、お前の悪意とは関係ない」
「悪意?悪意、悪意……ねえ、この子の記憶にかけた呪いを教えてあげましょうか。もしかして、しばらく会ってない人間の顔を忘れる呪い、とかだと思ってたんじゃない?」
「……なんだと?違うのか」
ミサカツキの主である「先生」は、ロイスについて一か月ほどで記憶をなくす呪いだ、とかなんとか言っていた。この場所についても、過去にこの狐と夫の間に起こった事件についても詳細を知っていた。だから、てっきり彼にはなんでも正確に全て分かっているものだと認識していたのだ。まさか、ロイスの呪いは「一定期間会わなかった人間の顔を忘れる」呪いではなかったのか?私が困惑していると、シャーロットはなんだか嬉しそうに、そして馬鹿にしたような顔で、また嫌な笑顔に戻った。怒りの表情から急にスッと妙な笑顔に変わるのが、人間らしくなくてより、不気味だ。
「この子の呪いはね、この子を愛していない人間から順番に忘れていく呪いなのよ。この子は誰にも愛されてないから、忘れてしまうの。だから、この子が誰かを忘れたとしても、この子のせいじゃないのよ?忘れられた相手がロイスのことを愛していないから、忘れてしまうのだもの。相手のせいなのよ」
……ロイスはついさっき、私とシャーロット以外のことは忘れつつあると言っていた。私はロイスのことを愛しているからその理屈は理解できる。だが、ロイスに嫌がらせばかりをしていたシャーロットがロイスを愛しているとは思えない。過去に祖母のことを忘れたり、一か月持たずに両親の顔を忘れたことについて考えれば、納得がいかないというほどではないのだが。祖母のことも、気づかなかっただけで一か月もしないうちに忘れていたのかもしれない。
「この子は両親にも、友人にも、例の思い出の男の子にも愛されてはいなかった。男の子だって昔は好きだったかもしれないけど、小さい頃の話だから、覚えてもいないでしょうね。愛されてなかったから、忘れたのよ。この子を愛しても憎んでもいない、どうとも思っていないような人間ならまあ、ここに来る前だったら一か月くらいってところなんでしょうけど。」
「ロイスはここに近づくたびに記憶をどんどんなくしていった。お前が居るからだ。お前こそがロイスを不幸にしようとしているじゃないか。ロイスのことを愛してないから、忘れるのはそいつのせいだって?ロイスはお前のせいで、愛していたかもしれない人間を忘れ、孤独に生きてきたんだぞ」
覚えてさえいれば、コミュニケーションが取れる。思い出ができる。話ができる。相手を思いやることが出来て、もっと人に関心をもてていたかもしれない。積極的に人と話して、もっと深い付き合いの友人だってできていたのかもしれない。ロイスのその可能性を奪った相手だと思うと、私の怒りはより強くなった。
「自分のことを愛してない人間のことなんて、愛する必要ないじゃない。愛する者を失うよりは、孤独に生きたほうが幸せに決まってるわ」
当たり前だ、というようにシャーロットはまた不快そうな顔をした。人間と神霊では思想に違いがあっても仕方がないのかもしれない。神霊だからこそ、自分は人間よりも上位の存在だと思っているからこそ、私やロイスの気持ちを「愚かだ」と思って一蹴するのもこの狐にとっては当たり前なのかもしれない。だが、そのほうが幸せに「決まっている」などと断定されるのはこちらの方こそ不愉快だ。
「……ロイスについ数日前言われたことを思いだしたよ。今のお前は、一番楽な方法で物事を解決しようとしていると!」
私は、シャーロット……いいや、狐の「ラミス」をまっすぐに見据え、抱きかかえたロイスを落とさないように、その手に力を込めた。ロイスが、ゆっくりと目を開けるのが見えた。
次回、説得もしくは戦闘です。平和的解決は出来るのでしょうか。




