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目的地は、明確には分かっていません。しかし、そのあたりだろうという範囲の村は見えてきました。村が連なるいくつかの中に、狐の墓がある家があるはずなのです。そしてなぜだかわたしには、なんとなく墓のある場所が分かって、アートが言っていた「理由は分からないけど、なんとなくそこにあると感じる」という感覚がはじめて理解できた気がしました。アートみたいにロマンチックなものではないのですが。
「あっちの方だと思います。なんとなく」
……アートは私の言葉に頷いたあと、ここで一泊するとルドガーさんたちに言って、民家に泊まれるよう交渉した後に「デートに行ってくる」と私を引っ張り出しました。
「待ってください。デートではないのでしょう、私も同行します」
本当に珍しいことに、ルドガーさんがそう言って私たちの後を追いかけて走ってきました。その顔は真剣そのもので、とても「危ないからついて来るな」なんて言えませんでした。今までは街中だとか、人目の多いところだったから私たち二人だけでの行動を許していたのでしょう。ここは雰囲気もなんとなく怪しい、閉鎖的な村のように思えます。確かに今までより治安が悪いかもしれませんが、だからこそ護衛のルドガーさんには戦えないレオンさんたちと一緒に居てもらいたいのですが。
「ルドガー……」
アートは真面目な顔のまま、でも少し困ったような、緊迫したような顔をしていました。私は黙ったまま、二人の会話を聞くことにします。私はルドガーさんとは会って一か月も経っていませんが、アートは軍に居た時からずっと部下として傍にいた筈なので、付き合いが長く、きっとお互いのことを深く理解しているのでしょう。口を挟む権利は私にはないのです。
「お二人にとっては私は弱い人間なのかもしれません。ですが、私はアーチボルト様の護衛としてこの場に居ます。自分の主人が危険な場所に行くことを知った上でこの場に残ることなど、私にはできません。どうか、これ以上私を無能な護衛にしないでください。万一の時は、命を懸けてお二人をお守りいたします。」
「……お前は弱い人間ではない。確かに、お前の責務は私の護衛だったな。お前は他の者のことも護衛してくれるので、ついそこの線引きが疎かになってしまっていた。すまない」
「いえ……ロイス様も、よろしいですか」
「危険が伴いますから、護衛とはいえご自身の安全にもしっかり気をつけてくださいね。どのような危険が待ち受けているのか、想像もつきませんから。あるいは全く何の危険もないのかもしれません。なんにしても未知なんです」
「構いません。死の覚悟が無ければ軍隊には入りませんし、公爵の護衛になどなりませんから」
ルドガーさんは、そう言って余裕そうに微笑みました。妻子をもってもなお死を覚悟して生きているとは、なんとなく理解に苦しみます。だって、私にとってはアートのような存在が二人もいるということなんですよね?家族のために生き残ろうと思わないんでしょうか。少しでも危険は回避して、自分の命を大切にしようとは。……いえ、軍隊に入っていたほどの人ですから、価値観の貧困な貧乏男爵令嬢では分からない気高い心をお持ちなんでしょう。貴族として生きて戦場に生きた人間と、田舎に閉じこもっていた人間では、知っている世界の範囲だって全然違うでしょうし。
「行きましょうか。とにかく、こっちの方です。私、家族や街の友人の顔を忘れました。この前買った服の種類や色も、今着ているもの以外は思い出せません。かなり症状が進行しているようですから急ぎましょう」
「そ、そんなに記憶が崩落していっているんですか?!」
ルドガーさんが驚愕した表情で大声をあげました。そんなに大きな声出さないでくださいよ、こっちだってあんまり言いたくないことなんですからね。これから急にルドガーさんのことを忘れた時に妙に思わないように、とのフォローの意味もあるのです。
「ええ。言うと薄情者だと思われそうなので黙っていましたが、皆さんの顔も少し見ないでいると頭の中でぼんやりしてきます。アートに関することと、なぜか姉のことは結構覚えていますが……」
「薄情だなんて思いませんよ。ロイス様のせいではありませんし」
そう、でもアートだけでなく、なぜかシャーロットのことも相変わらず、はっきり覚えています。両親のことも姉のことも平等に嫌いなはずなのに、どうして姉のことだけ思い出せるのか。……あと、不思議なことに先ほどの街であったルロイさんのことも覚えています。レオンさんやラーラやセドリックさんの顔も、今こうして少し離れているうちにぼんやりしてきているというのに。
「どういう法則性なんだろうな。ロイスがそれだけ姉に恨みを抱えているということなんだろうか?君の気持ちの強さが影響しているのかも」
「うーん……私、姉に対しては特に何も思ってないんですよね。私の心情とかは関係ないのかも」
そんな会話をしながらも、私を先頭にして、三人で早足に目的地へ向かいます。段々と空気が重くなっていく気がして、足取りは重いけれど、それでも急く気持ちが抑えられず私は前に進むしかありませんでした。周囲の風景が段々とぼやけていって暗くなっていって、そう、以前アートに見つけられた夢遊病の症状が出た時に見ていたような、真っ暗な景色になっていくのです。眠っているわけでもないのにです。
なのに、私の足は私の意思を無視してどんどん早くなっていきます。止まらないと、と思った時には私の体はすっかり言うことを聞かなくなっていたのです。
「待て、ロイス!!」
そんな声が聞こえたけれど、遠ざかっていきます。
そうして進んだ真っ暗な世界の中、私の前方から突然「何か」、いや「誰か」がぶつかってきて、次に脇腹あたりに激痛が走ったのです。何も見えないけれど、痛いところに手を当てると、ぬる、と生温かい液体がべったり手に付着して、嗅いだことのある鉄の匂いがしました。同時に、何か、鋭い金属のものが腹に突き刺さっていることも理解したのです。
私の力がいくら強くても、何も見えない状態で刃物で突かれれば、場所が悪ければ出血多量で死んでしまうでしょう。なぜだかこんなに痛くて傷口が熱いのに、死への恐怖は沸いてきませんでした。
「私を殺しに来たのね、でもダメよ。あなたが不幸にならないように、守ってあげる」
私の腹になにかを突き刺した“誰か”は、優しくそう言ってそのまま私の体を抱きしめました。温かくて、妙に安心して、泣きたくなるような感覚。
もう、どうだっていいのかもしれない。
この人のことを、私は知っている。だって、聞いたことのある声だもの。
なぜだか分からないけど、この人は自分を愛してくれているんだなあ、と感じるもの。
安心するし、もう、何も思い出せなくてもこのままこうしていられる方が、このまま死んだ方が私にとっては幸せなのかもしれない。
「ロイス!」
この小さい声は、誰なんだっけ。私は誰と、ここに来たんだっけ。ここはどこだっけ。
痛いなあ、私、このまま死ぬのかなあ。
……私、私は、誰なんだったっけ。
まあ、どうでも、いいか。
次回、ロイスを刺した犯人発覚とアート頑張れ回です。




