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森を出て数日経ってから、なにか、違和感があったのです。


そう、例えると記憶がぼろぼろと零れ落ちているような。


アートと「こんな話を前にもしたことがある気がする」ような話を、時々することがあります。アートは私の質問や言葉に文句を言わず付き合ってくれますが、どこか不思議そうな顔をするときがありました。よくよく思い出せば、アートは以前にも人生には娯楽が必要だとか、結果よりプロセスが大切なのだとか、そういう話を聞かせてくれたような気もします。私はボケ老人のように、同じような話をアートに問いかけるのです。


色々なことを“忘れはじめている”ことを、私は明確に感じていました。


だって、数日前に見てきた両親や街の人の顔が思い出せないのですから。


でも、こんなことになっているのにアートに打ち明ける気には、なぜだかなれませんでした。心配をかけるから、とか引き返そうとなるかも、とかそういう深い意味はないのですが。目的地に近づいたことで急激に症状が、私にも自覚できるほどに悪化しているからです。今まで生活してきたうえで自分の物忘れが激しいだとかは思ったことがありませんでした。人の顔を忘れることはミサカツキでの話で理解していましたが、人の顔以外の情報もどんどんと忘れていっているのです。


もちろん、当たり前に普通の感覚として、怖くて怖くてたまりませんでした。このまま目的地に進んでいって、呪いが解けても忘れたことを思い出せなかったらどうしよう。それで、呪いが解けるまでに、アートと楽しく食事したりデートをした思い出を忘れたらどうしよう。どこに行って、何を話して自分がどう思ったんだとか、アートが何を教えてくれたんだろう、とか。


アートに優しくしてもらって、追いかけてもらって、必要とされて、好きだと言われて、それがどれだけ嬉しかったのか忘れたらどうしよう。私の人生の意味のある、“意味はないけど幸せな人生の重要部分”を忘れ去っていったらどうしよう。家族や使用人に嫌な事をされたことは明確に覚えているというのに、アニスでなにを食べたのかも、レオンさんの出身国のことも、ラーラたちがどうして旅に同行することになったのかも、ぼんやりとして“話を聞けば思い出すだろうけど”思い出せないのです。


「……ロイス、大丈夫か?馬車に酔ったか?休憩しようか」


「い、いえ大丈夫ですよ。急がなきゃですし」


「でも、顔色が悪いぞ」


「アート、例えばの話なんですけど」


「なんだ?」


「目的地に毒の霧がたちこめているとして、近づくたびに毒で体調が悪くなっていくとしたら、アートはどうしますか?いつかはどうしても目的地に行かなければならない場合の話です」


私が深刻そうな顔を隠せずそう言うと、アートは少し呆れたような顔をして言いました。


「君のたとえは直接的だぞ。体調に異常をきたしているのか?」


言われてみればそんな気もしますが、言わないでください。


「答えてくれないんですか?」


「そうだな……目的地には、本人がいかなければならないんだよな?代理人はダメで」


「おそらく」


「であればガスマスクを装着する……が、君の場合はそうはいかないな。うーん……難しい質問だ。その毒は、目的地に着くまでにどれくらい体調に不調をもたらす?」


「分かりません。もしかしたら、死ぬかも」


この場合の死ぬ、とは記憶喪失になって全部忘れちゃうってことなんですけど。


「死ぬのとその目的地に着くこと、どちらかと言えば私は目的地に行かずに生きることを選択するな。そして、目的を達成するためあらゆる手を使って努力をする。他の人間を大量に使って、自分は近づかずに。君にとっての毒は君限定なんだろう?」


「まあ、そうですけど……」


「私には話せない症状か?ラーラやセドリックのように、女性には話せる内容か?」


「誰にもあまり話したくない症状です」


薄情だって思われそうだし、私が忘れてしまうのであれば、アートが私に親切にすることは無駄な努力のように思えます。だって私という恩知らずは、アートに優しくされたことだって忘れてしまうかもしれないし。そのうえ、下手したらアートの顔だって忘れてしまうかもしれないのです。


……そこで、ふと私はとんでもないことに気づきました。シャーロットの顔は覚えているのです。はっきりとです。どうして覚えているんでしょう、タカムに寄った時にもシャーロットの顔だけは確認できなかったのに。


そのことに驚き、考え込んでいるとアートが突然私の両頬に両手をピタッとくっつけて、ぐいっと自分の方を向かせてきました。私は強制的にアートと顔を向い合せるかたちになります。シャイなアートがこんなことをするなんて。抵抗しようと思えばできますが、私は驚いたまま硬直します。


アートは、続けてこんなことを言いました。


「君は私の顔が好きか?見た目全体としてはどうだ?身長とか、立ち振る舞いとか。」


私は突然の変な質問にポカンとして、無言のまま何度かパチパチまばたきをすると、口を開きます。


「す、好きです。見た目も……」


「好みのタイプか?国中の男を全て並べても、すぐさま私が一番タイプだと言えるか?」


「異性の知り合いがほぼ居ないのでなんとも言えませんが、多分おそらく選ぶと……」


「じゃあ、君が何度何を忘れても、私は君と一緒に居よう。私は君の好みのタイプの美青年なので何度でも君は私に恋に落ちるだろうし、何度でも私は君を口説き落とそう。だから君も気負わず、余裕をもってどんどん忘れるといい。」


そんなむちゃくちゃな。でも、何度出会っても私が結果的にはアートに恋する、というのにはなんとなく説得力がありました。実際、私は何度同じことがあっても絶対にアートのことを好きになるでしょうし。


「なんか、私の考えてることが全部分かってるみたいですね」


「なに、推測できる範囲じゃないか。君は少したとえ話が直球過ぎる」


「……アートは、人生は不必要だけどやりたいことっていうか、楽しい娯楽が大事だって言ってたじゃないですか。私にとって楽しかったことは、ここ一か月くらいのあなたとの思い出だけなんですよ?私の人生はここ一か月で始まったんです。なのに、それを全部忘れてしまうかもしれなかったら、全部なくなっちゃいます。怖いですよ」


「……人の顔だけじゃなくて他のことも忘れ始めてるのか?」


「え?ええ。ところどころ、忘れているような気がして」


ああ、気づいてないなら言わなきゃよかった。てっきりそこにも気づいているのかと思っていましたよ。


「なるほどな、確かにたまにそんな様子があった気も……なあ、ロイス。何度でも話をするから、それも気にしなくていいんだぞ?むしろ、一か月なんて人生のほんの始まりに過ぎない。呪いを解いたときに君の記憶がゼロになっていたとしても、何十年もある残りの人生で何倍にも補填していけるんだ」


「でも……」


アートが、やっと私の頬から手を離しました。


「私、アートと一緒に散歩したり、一緒に森でサンドイッチ食べたり、よくわかんないこと教えてもらったり……忘れたくないんです。忘れちゃったら、忘れた私は今の私と違う気がするから。アートが大事な人なんだって忘れるのは寂しいです。ルドガーさんや、レオンさんに会ったことも、セドリックさんやラーラのことも忘れたくないし……」


ついでみたいに言ってますけど、もちろんルドガーさんたちだって数少ない友人です。まあ、アートの護衛であるルドガーさんを友人と呼ぶのが正しいのかどうかは微妙なところですが。


「……私は覚えているから、同じことを再現すればいいが……忘れたくはないよな。私は君の深刻さを、完全に理解することはできないだろうが……そうだな。嫌だよな、どっちにしろ」


「はい……」


「目的地に近づいたから忘れているのなら、離れれば症状が緩和されるのだろうか?それとも離れても関係なく、呪いの原点に接触を試みたせいで呪いが強まっていて、今から目的地から離れたところで、症状に変わりはないのだろうか?」


「わかりません。目的地との距離が関係ないのなら、戻っていたら時間が無駄ですし」


分からないことだらけなのです。そもそもこれが呪いなのかどうかも。もしかして、私ってそういう病気なんじゃ?


「思い出を文字に書き記すのはどうだろう?私は実は、日記をつけている。君と話したことなんかも書いてたりするが……忘れたくないことを箇条書きにして、あとから思い出せないことがあれば私が教えるし、みんな事情を話して聞けばちゃんと答えてくれる」


「……私、文字は読めるけど書けないんです。紙は基本的には貴重品ですから、本も高いし、ノートなんか雑貨屋には売ってないですし」


少し恥ずかしくて、私は下を向きます。貧乏男爵家とはいえ仮にも貴族なのに、文字も書けないなんて。


「売ってないのに、なんでノートの存在を知ってるんだ?」


「姉が、貴族学校に通うって時期があって……その時に買っているのを見たんです」


「そうか。じゃあ、今から私が教えよう。ロイスは真面目だからきっとすぐに覚えるさ」


アートは「なんてことない」って顔でそう言います。きっと教養深くて当たり前に文字もかけて、計算も出来るアートには、私なんかはものすごく、驚くほどに無教養の馬鹿なんでしょうに。


「今からですか?」


「そうとも。善は急げだ。ちょうど私はノートを一冊持っているから、これを使うと良い。馬車の上じゃあ書くのが難しいが、なに、読めるのであれば書くのもすぐに慣れるさ」


「そうでしょうか?」


「そうとも」


この人は、私の何倍も大人なのでした。確証がなくっても「そうとも」と肯定して責任を負ってくれます。そんなつもりはないのですが、結局は頼りきってしまいます。


「あーあ、まずいなあ。何にも解決してないのに、なんとなく、なんとかなる気がしてくるもんなあ。」


「それでいいじゃないか。今まで悲観的だったんだし、バランスをとるためにしばらくの間は楽観的に生きると良い」


それもそれで、どうなんでしょうか。


そんなやり取りがありましたがその数時間後、私たちは目的地までほんの数時間、レイアスの北東あたりに辿り着いたのでした。






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