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アートが起きたので握っていた手を離そうとしたのですが、なぜだか強く握り返されてしまいます。もう顔色的にも元気そうですし、昨日忍びこんできたアシュレイ様も「風邪じゃないから移らないし治ったら何も余韻とかない」と言ってたんですが起きたくないのでしょうか。それとも実は朝に弱い方だったとか?
「少し話が聞きたい」
「話ですか?」
なんのことだろうかと思いアートの話に耳を傾けていると、それは「昨日の記憶がなにもない」といった内容でした。あんなに色々あったのに、なにも、ということはないでしょうに。記憶が飛ぶほど飲む酔っ払いみたいです。私が疑ってみてもアートがなにも覚えていないと言い張るもので、私は昨日起こったことを一から説明する羽目になりました。あの、昨日はほとんど寝てないんですけど。あなたが起きたから、ルドガーさんも呼びに行かなきゃなんですけど。
私は昨日の朝馬車で出発したこと、数時間馬車で走って街の中心部に到着したこと、それから起こったことについて順番に説明をしました。
「この街に知ってる良い靴屋さんがある、ってことは前にも言ってたじゃないですか。私が泥で汚れた時に」
「ああ、確かに……それで私は君に靴を大量買いした後、そのルロイという君の恩人に暴力をふるおうとしたと、そう言うのか?」
そう言うのかって、あなたがやったことですし。
「そうですよ!肩掴んで引き倒した挙句に、離しても離しても掴みかかろうとしてましたし。」
「お、覚えてない……なに一つとして……私はそんなに凶暴な人間ではないし…」
いや、割と凶暴な人間でしたよ。記憶がないのも質が悪いし。
というか、そのあたりまではペラペラ喋ってたし意識もはっきりあったと思うんですが。熱で頭がこうバーンと爆発しちゃって、記憶が飛んでしまったようですね。そんなことあります?あるんですねえ、これが。覚えてないものは仕方ないですよね。仕方なくないけど。
「靴を買いに行ったことも覚えてないんですか?」
「覚えてない……なんとなく馬車で移動を開始したあたりまでは覚えてるんだが……君とレオンが馬車メンバー交代して嬉しかった記憶はあるし」
「重症ですね……飲み物買ってくる、とか言ってたのも当然忘れてますよね。あの時なんか、飲み物を買ってくることの重要性だのゴチャゴチャ話してましたけどそれも全部?」
「うん」
うんって。気が抜けるからかわいい返事の仕方しないでくださいよ。
「アートを運んでいる時、お店の人がお金払ったのに品物受け取ってない!って探し回ってたんですからね!」
そうなのです。ルドガーさんを呼びに行ってから、私はアートを連れて、いや持ってこの病院に連れてきました。その道中でアートが飲み物を買った店の店員さんが、運ばれているアートを見つけたわけですね。ほんとに死にもの狂いってかんじでした。
話によれば飲み物を注文したあと、その約10倍ほどの額の銀貨をザラッと出して「釣りはいらない」と言い、そのまま店を出て行ったそうです。ただの寄付じゃないですかこれ?!そんな額を急に払われたら怖くて探しますよね!
病院では無愛想なおじさんに「今日は休診日!」とか言われましたが、アートが公爵だとルドガーさんが明かすと、即座にヘコヘコへりくだった態度で二階の奥の個室に通されました。あ〜嫌だ嫌だ、プライドってもんは無いんでしょうかね。アートが平民だったら助けない気だったんですかね?ルドガーさん「アーチボルト様が死んだらこの病院を潰す」とか言ってましたし、ルドガーさんもわざわざそんな脅すようなこと言わんでも。家紋とか見せてましたし。
これ、アートが見てたら「ミトコウモンみたい」だとか言い出しますよ。この印籠が目に入らぬか〜ってね。なんのことだかは知りませんが、劇なんだって言ってました。そういう演目があるんですかね。なんという貴族差別。ていうか、看板の曜日的に休診日じゃないし!多分ここのお医者さんサボろうとしてたんですよね〜。なんという不真面目。
「このご時世に律儀な店だな。金は払ったんだし放っておけばいいのに」
「甘いですよ、そうやって出て行ってから金払ったのに渡さなかったな!追加で物を寄越せ、とかって因縁つけてくるような人間も居るには居るんですから」
「タカムにも居たのか?」
「はい。私が小麦粉とか買う雑貨屋さんにたま〜に来てましたよ。細っちいチンピラだったんで私がとっちめても良かったんですが……まあ、店主がいけ好かない人物なので特に手出しはしませんでしたけど」
人間いつでも悪を良しとしない正義の味方でありたいものですが、小心者で目立つのが嫌いだった私にはそうすることはなかなか難しいことだったのです。悪い人に目をつけられて復讐とかされたら周囲にも迷惑がかかるかもしれませんし、そうなると家を追い出されるかもしれないし。
「そうそう。触らぬ神に祟りなしだ」
あ、そうなんですか?民を守る公爵としての正義感とか、その……まあいっか!私が強いことは隠してたんだし、仕方ない仕方ない。
「それにしてもアートって軽いんですね。羽のようでしたよ」
前に言われたようなことをお返ししてみます。
「あっそういう精神攻撃はやめておけ。泣いてしまうぞ」
「泣くんですか?!」
ちなみに私は馬車に荷物を置いてからは、アートをお姫様抱っこして病院に運びました。ルドガーさんが運ぶとは言ってたんですが、私が運んだ方が早いし無駄な体力を使わずに済みますから。もちろんお姫様抱っこしたことはアートには内緒ですが。まあ、でも女の子に運ばれるだけでも結構恥ずかしいですよね。きっと。
「……なあ。君の恩人にちゃんとお礼が言えなかったな」
「私の恩人には私がお礼言えば十分ですよ」
「そうかな?君の彼氏面できるいい機会だったのに」
「あのねえ……」
彼氏面って彼氏じゃない人が彼氏ぶってくることですよね?あなた一応私の婚約者なんじゃないんですか?
「元気そうでなによりです」
「せっかく出発したのに一日ロスしてしまったな。みんなに迷惑をかけてすまない」
「生理は自然現象なのでしかたないですよ」
「え?なにが仕方ないって?」
「いえ、なんでもないです……みんな気にしてませんよ。もう出発できそうですか?体調的に」
「もちろん。全回復だ。宿屋に泊まればMPもHPも回復するというのがこの世のお決まりというものなんだからな」
またわけのわからないことを。この後私たちは、アートが治ったことをみんなに教えに行ってから病院をすぐに出て、馬車に乗って出発することになったのでした。
みんなほっとしていたようでしたが、特にルドガーさんは心底安心したような顔でため息をつき、「今までアーチボルト様が体調を崩したことなんて一度もなかったから本当に心配しました」などとおっしゃいました。一度もってことはないでしょうに。いや、アートならあり得るのか?
「馬車の運転席に乗るの楽しみだなあ」
「もし揺れて体勢が崩れた場合は、キャッ!私怖いわ!などと言いながら私にしがみついてくれ」
「揺れないように努めてください……」
本当に回復したのか?この人は。




