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がたん、と椅子が動くような音がした。
「風邪なんですか?額がすごく熱かったんですが」
それから声が聞こえる。その声は、なんだか妙に耳に心地いい。高くも低くもなく大きくも小さくもない。「全てが丁度良い」と思える、不思議な声だ。
だがそれが誰なのか、見えない。
自分が今、目を開けているのか閉じているのかがわからない。目を開けたり閉じたりしているつもりはあるのだが、視界はただ黒く、目を凝らせば万華鏡でも覗いているかのようにチカチカと、目の前が居心地悪くチラチラと回り続けるのだ。
「あ、目が覚めたんですか?」
いいや、覚めていない。と、言葉を発するため口を開けようとすると、ほんの少し動いただけで全身に激痛が走った。頭が痛くて今の状況がどうなっているのかなど考えられず、私はまた身動きをやめ瞼からも力を抜いた。
「……覚めてないみたいですね」
ああ、分かった。これはロイスだ。
少し視界が回復した。薄く、ぼんやりと目を細めれば見慣れた長い黒い頭が見える。そうしてその隣には、見覚えのない短い黒髪の人物が1人。医者、だろうか。
しかし、いずれも目に泥水でも入ったかのように視界が悪い。黒髪は本当に珍しいし、ロイスでないほうは何かの見間違いかもしれない。色も形も、見える景色は適当に描いた子どもの落書きが雨で滲んだかのようだ。
「これはねロイス、風邪じゃないんだよ。発作なんだ。うちの一族はたまにこうなることがある。この子のひいおじいさんの代からは止まってたから、もうないと思ってたんだけどね」
「発作ですか?」
「人間じゃない血が混ざってるからかな、まあ、超辛い生理痛みたいなもんだよ。もがき苦しんで意識失うレベルの。私もまだごく稀になるし」
「アートは男なのに大変ですね」
「まあね。でも普段は人よりずっと身体能力とか優れてるわけだし?たまに死ぬほど苦しくたって、プラスマイナスで言えばプラスでしょ。人生なにやっても楽だし」
声は聞き取れているのに、内容が頭の中で噛み砕けない。段々騒音のようなものと混ざって、心地悪くてまた頭が痛くなった。向こうから響いてくる足音すら脳内を跳ね回るようにして、酷い痛みを与えてくる。
なにも考えたくない。どうして急にこんな事になったのか分からない。突然死するような重大な病気なのかも。でも、心当たりはない。運動だってしていたし、毎食食べて健康的な生活を送っていたし。
こんなに痛くて苦しいのは、生まれてはじめてだと思う。風邪だって滅多にひいたことはない。原因不明の体調不良だったこともないし、内臓にも骨にも欠陥はないはずだ。
ブラウン管のテレビの砂嵐のような嫌な音。または虫の大群が周りを飛び回っているかのような不快な音と表現しほうが正しいかもしれない。ともかくそんな不愉快の集合体みたいな音が、頭の中を飛び回って離れない。
泣き喚きたいし、大声で叫びだしたい。この音をかき消してほしい。
「苦しそうですね、本当に。」
その声でかき消してくれ。
そうロイス。ロイスだ。
この声は、ロイスの声なんだった。
「ロイス」
手を必死に伸ばして、もうどこにいるかも分からないロイスを探す。数秒後、彷徨う私の手を力強く、ロイスの手が捕まえた。実感でわかるのだ。どんなに苦しくても、今すぐ側にロイスが存在することだけは。
「大丈夫ですよ、あなたは死にませんから。私はあなたが治るまでずっとここに居ます」
「……」
何を言っているのかは分からないが、声は聞こえる。私はいつから寝ていたんだろう。そして、ロイスは私が意識を失った時、どんなに慌てただろう。
私は倒れる前、なにをしていたんだっけ。
「ゆっくり寝たほうがいいですよ、まだ熱が高いので」
ロイスの手が私の額に触れた。冷たくて、心地いい。なんだか泣きそうになるくらいに安心する。ロイスはどうして、私にとってこんなにも重大な存在に生まれたのだろう。赤の他人として生まれたのに、関係もないのに、どうしてこんなにも運命を感じるのだろう。
何度考えてもやっぱり分からない。
ひょっとすると、一生分からないのかもしれない。
ロイスがいるだけで嬉しい気持ちになるのは、本当にどうしてなんだろう。
「手を握っていてくれ」
こんな情けないことを言ってしまうのはどうしてなんだろう。
「!……」
ロイスが何か言ったが、聞き取れない。もう1人の黒髪の男……医者だろうか。その人物はロイスが私の手を握って側に座ると、それを見てから何か言い、部屋から出て行ったようだった。
ロイスはきっと手をずっと握っていてくれる。
そうだ、思い出した。
ミサカツキでレオンの手を握っていた時、ロイスは私が同じ状況でも、ずっと手を握っていてくれると言っていたのだから。
そう思うと急にホッとして、私は全身が痛いままではありながらも眠ることができた。
それから。翌朝になって私が驚くほど完全に回復して目覚めると、眠っていた私の左手を、ロイスはしっかり両手で握って座っていた。
目を閉じて眠っているのにベッドに寄りかからず、椅子に姿勢良く座ったままなのがなんだか面白い。背筋とか、そういうところの力も強いから姿勢を保てるとか?そんなわけはないか。
「ロイス」
声をかけても、ロイスの目は開かなかった。結構熟睡しているらしい。
「ロイス、ありがとう」
私が言うと、急にロイスの目がぱっちりと開いて一言こう言った。
「どういたしまして。」
私はとりあえず、昨日は何があって、私はいつどこで倒れたのかをロイスに尋ねようと思った。
風邪じゃないじゃん!今回は短めでした。読んでくださってありがとうございます!




