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木造の家屋の横に備え付けられた狭めのお風呂場は、なんというか木材のいい匂いがしてなかなかいいものでした。お湯が暖かくて気持ちが良かったので、少なくとも川で水浴びよりは余程素晴らしい環境でしたし。ただ風呂場の出入口の真ん前でずっとアートが立っていたことだけが気になりました。


私が壁にちょっと頭をぶつけたりしながらなんとか体を拭いて服を着替え、外に出ようとドアを開けるとアートの頭に扉が激突したことでそれに気づいたのですが。


「痛っ!ロイス、勢いよくドアを開けすぎなんじゃないのか?!」


「すみません……じゃなくて!まさかずっとここに立ってたんですか?!寒くないんですか?!」


空はいつの間にかうっすらと雲がかかりはじめているし、外は風が強くかなり寒いのです。体が丈夫そうだとはいえ風邪を引いてしまったら大変ですよ。ここらへんは建物が低いから風除けもないし。


あ、看病をするって行為自体には興味があるんですが。家族は風邪を引いたら必ず私のせいだと罵って八つ当たりしてきたので、看病したことがないんですよね。殺されるとかって。私に殺される心当たりがあったんでしょうね!アハハ!!


「手についた泥は洗ってきたが、立って見張ってないと……こんなまともな鍵もついてない扉では心もとないだろう。覗かれちゃったら大変だからな」


こんな場所で誰が私の風呂を覗くと言うんでしょう。ほとんどご高齢の人ばかりですよ、そんな元気ありませんって。高齢者以外も既婚者ばかりですしね。それに人をそんなに疑ってかかるのは良くないですよ。ほら、信じる者は救われるとか言いますし!


「ちなみにアートは覗きました?」


「そんなことするわけないだろう!!まだ結婚式も挙げてないのに!!」


「お、おお……そんなにムキにならなくても冗談ですよ。別に疑ってませんから……」


アートにこの手の冗談は通じないと分かっていながらも、ついからかいたくなってしまうのは私の悪い癖ですね。あーあ、案の定顔を真っ赤にしちゃって、愛らしいですねえ!昨今の性の乱れた若者とは違い、貞操観念の固いアートは天然記念物と呼べるほどの貴重なピュア・ガイであると言えるでしょう。得難い方ですよ、ほんと。


「そんな……そんな冗談言うもんじゃないぞ、もうっ……ロイスは!」


恥じらい方が乙女のそれなんですよね、大丈夫ですか?そんなんじゃ他の貴族とかからナメられませんか?まあナメられてないから軍でも出世できたんでしょうけど。


恋愛以外のことについてはいつも冷静な人なんですけどね。まあ、人間1つや2つ欠点があるほうが親しみやすいから、アートはこれでいいのかも?


「私は別にアートになら見られてもいいですけどね、どうせ最終的にあなたは私と結婚するんですし」


「そんなっ……心の準備というものがあるだろう!どうせとか言うんじゃない!」


「見られる側ならまだしも見る側に準備が必要なんですか?」


デリケートな男心、分かるような分からないような。


よ〜し!今から裸を見るぞ、見るぞ〜!って覚悟して準備したのちに見るんですかね。ムードとか台無しですよ?ああ、心の中で準備するんですよね。分かってますって。


「なんで君はっ……そんなふうに言うんだ!くっ……とにかく戻るぞ!」


「そうですね」


ふふん、私の勝ちですね。勝ち負けの問題でもないですけど。私はとりあえずアートの言葉に従い、靴を履こうと足を下ろしました。ところがです。


「……ん?あれ、借りた靴が小さくて入らないや。奥さん、脚が小さいのかな」


というか私の足がデカいのかも。


「……本当だ。サイズの合わない靴を履くと足を痛めるぞ。やめておけ」


やめておけって言われても、靴は洗って向こうに干してる最中なんですけど。裸足で土の地面を歩いたら洗ったのが無意味になっちゃいますよ。


「じゃ、あなたが私を運んでくださいよ。もう泥だらけじゃないので遠慮しません」


「いいとも。君は軽いから365日持ち歩けるぞ。なんなら片手で持てる」


「そんな鞄みたいな」


アートは、風呂場の入り口の前の台に立っていた私を平然と抱き上げました。あんまり自然な動作だったので、私の方も無言でアートの肩に手を置きます。


性的な話題には異常なまでの羞恥心を見せるくせに、お姫様抱っこについては全く照れを感じないのがこの人の理解不能な部分のひとつです。


私としては体が密着することになるし、ちょっとばかし裸を見られるより、こっちのほうが余程恥ずかしいと思うんですよね。


高位の貴族なんて愛人も当たり前に複数人いるようなイメージがあるんですが、この人は本当にそんなことできやしなさそう。勿論美徳ではあるんでしょうが。


「アートはいい匂いがしますね。ずっと思ってたんですけど、お花みたいな」


アートが小屋に向かって歩き出したので、私はそんなことを言ってみます。ほんと、前から思っていたんですよね。フローラルな香りっていうか、ふんわりいい匂いがするというか。


「ああ、匂うか?薔薇の香水をつけているが……」


アートは少し照れたように言いました。


「へ~!薔薇ってこういう匂いなんですね、派手なイメージなのでもっと、こう、金持ちの厚化粧オバサンのようなにおいがするのかと思ってました」


薔薇に対して失礼なことを言った気がしますが、実際はそうじゃなかったわけですから別にいいですよね。薔薇はいい匂い。アートもいい匂いということで。


「君は金持ちの厚化粧おばさんの匂いを嗅いだことがあるのか?」


「ないですけど、イメージです」


「匂いに対するイメージというのは興味深いな」


そうですか?そんなに深い意味はないんですよ?ただ、鼻が曲がるような強い匂いがするようなイメージがあるだけでして。ほら、香水って高価なもので、貴族の中で一種のステータスですからね。金持ちは大量にふかしてて、通っただけで臭いがたちこめるとか聞いたことがあります。


「そういえば、君はどうしてイライラしながら歩いていたんだ?」


「ああ、いえ、別にイライラしてたわけではないんですよ」


なんと答えましょうか、うーん。まさかアシュレイ様からの伝言をあの男に伝えに行った、なんて言うわけにもいきませんし。そもそも言えませんし。一体どこからどこまで伝えたものか。


「実は、その、新しい服を買ったんですけど。可愛い服はあまり着たことがなくって、あなたに見られるのが少し恥ずかしかったんですよ。似合ってないかも、変かもって。それで少し宿から離れようと思ったんです」


嘘ではないですよ、嘘では。大まかには。


「そうだったのか……ほんとかわいい。幸せになってほしい」


「はあ、ハハ……あなたが幸せにすればいいんじゃないですかね、アハハ」


「そういえば、君からもいい匂いがするんだぞ。セクハラになると思って今まで言わなかったんだが」


せくはらってなんでしたっけ?でもなにかしら不都合かもしれないことがあったんですね。深くは考えないことにしておきます。


でも、匂いがすると言われるとなんとなく照れてしまいますね。人には言うくせに自分が言われたら照れるのかってかんじですけど、照れます。


「ええ、本当ですか!なんの匂いでしょう、香水とかつけてないので石鹸かなにかかな……」


少なくとも先ほどまでは泥だらけで悪臭を放っていたでしょうから、今はそうでないと思いたいところです。さっきの風呂場、というか風呂箱?にも石鹸はありましたしね。洗いました!ちゃんと洗いましたから!


「いや、なんというか……日向ひなたの匂いがするんだ。干し草とか、ひのきとかみたいな、そういう自然の中にいる時みたいな、嬉しいもの全般の匂いがする。」


嬉しいものの匂いですか。嬉しくないものの匂いよりはずっといいですね、悪い気はしません。アートにとって好ましい匂いなのだとしたら、私にとっても好都合ですし。


「そうかあ、ありがとうございます。なんかイメージがわかないけど……干し草の匂いは好きですよ。いつかあれをかき集めてベッドにして寝てみたいんですよね」


「ああ、私もやってみたいと思った時期があったな。ハイジを見ると憧れるんだよな……」


「はいじ……?」


「そうだ、確かルドガーが言っていたよな」


「はい?」


どうやら今の理解不能単語については解説してくれないようです。いいんですけどね。ええ、全然いいんですけどね。ごく自然にスルーなさいますね、あなた。


「馬の大会で2位だった時に大量の干し草が景品だったって。来年は私が2位になって君に干し草のベッドを作ってやろう」


「とびきりフワフワの干し草だったらいいですねえ」


1位になる気はやっぱりハナからないようですね。前にも言っていた、忖度そんたくってやつですか。公爵様ですもんね、大変ですよね。そんな中でアートの護衛なのにちゃっかり2位にランクインしているルドガーさんって、実はものすごく図太い人なのかも。


「そうだな。干し草のベッドで私も一緒に寝よう」


「アートも干し草の匂いになってしまうかもですね、エヘヘ」


「ほんとかわいい。どうした?」


「どうもしませんけど……」


アートは最近、度を増して変な気がします。目がマジなんですよね、謎のタイミングで。怒ってるわけではないんでしょうが。


アートに運ばれてきた私をみて農夫さんたちは驚いていましたが、靴が履けなかったことを話すと奥さんも豪快に笑ってらっしゃいました。ラブラブねえ、って。私としては「まあね!」としか言いようのない状況でしたが、アートが平然と「新婚ですから」なんて嘘をついたのでとりあえず黙っていました。


テーブルにはいつ用意したんだって量のご馳走が並んでいて、さっきの少年も食卓についてパンを嬉しそうに頬張っていました。奥さんに勧められるままに、私とアートも食事にありつきます。


「ありがとうございます、美味しいですね!このパン。食べたことないくらいフワフワしてて、だけどずっしりしてるというか」


「食レポのタレントになれるぞロイス」


「はい?」


「そうかいそうかい!うれしいねえ、どんどん食べておくれ!あとその服、あんたにはちょっと大きかったみたいですまないねえ」


「いえ、そんな。貸していただけるだけですごくありがたいです」


普通に生活してたらこういう状況になることは無かったわけですし、今日泥棒を骨折させたり牛を助けたりすることはある意味運命だったのかもしれませんね。アートに怪力がバレることも含めて。まあ、それに遅かれ早かれ分かっていたことです。結婚する相手に永遠に隠すわけにもいきませんからね、普通に。


アートと私は食事をごちそうになったあと、少し農村のあたりを散歩しながら畑を眺めて、夕方ごろには洗濯していた服と靴がほとんど乾いたので着替えて、農夫さんと奥さんにお礼を言い、少年に手を振って宿に戻りました。


「奥さんに勧められるまま食べすぎました。夕食はいらないなあ」


「私もだ。美味かったから食い過ぎた。……ロイス、明日にはまた出発しよう。早く君と結婚できる状態に持ち込みたい。君の先祖を納得させなくてはな」


「……そうですね。でも大丈夫なんですか?森のこととか」


「ああ。もう話し合いは済んだし、あとは担当の人間が明日あたりに到着するから任せればいい」


「今日、セドリックさんたちにも言っときますね。レオンさんとルドガーさんにも伝えておいてください」


「ああ。……ロイス、帰りも手を繋いでいいか?」


「はい」


返事をするとアートは一瞬嬉しそうに笑って、私の手を握ってきました。空が濃いオレンジ色で、たまに赤がちらほら混じって、綺麗な色をしています。どこか寂しくなるような、〝どこかに帰らなきゃ〟って、不思議と思わせられるような。


そして、アートと手を繋いで帰る場所が、きっとこれからいつでも、私の家になるのでしょう。


そう思うと少し嬉しい気持ちになって、私はアートの手を強く握り返すのでした。



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