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「とはいえどうしましょう。こんな格好であの綺麗な宿に入るのも気が引けますし、床とか汚れちゃいますよね」
私たちが泊まっているお高めの宿屋は、確か廊下から部屋からシャワー室に至るまで、全部が大理石っぽい床でした。一生に一度泊まるかな~って感じの宿だったんですが、アートと結婚することにしたので旅費を節約する必要もないかなって。どうせ一か月しないうちにアートの家に住むことになるわけですしね。
セドリックさんたちも普通に泊まってますけど、流石に国内トップデザイナーは金を持ってるんでしょうねえ、長く旅してきた挙句こんな宿に気軽に泊まれるなんてすごいすごい。いや、他人の財布事情なんて考えるべきじゃありませんよね。
宿への道も半ばまで来た頃、私の手の泥は乾いてボロボロと落ち始めました。アートについてしまった泥は渇いてないようなんですが、体温の違いでしょうか。手の泥が渇いても服に付着した泥などは一向に乾く様子が無く、靴の中には何やら畑の溝の用水路のようなところから滲み入ったような水がじゃぶじゃぶと気持ち悪い感じに溜まっていました。
せめて足や靴が渇けばシャワー室に直行できるんですけれど。時間が経過するたび足の裏の変な感覚への不快感は高まっていくばかりです。ああ、慣れない善行は行うべきじゃないですね。靴だけは新調していなかったことが唯一の救いでしょうか。新品だったら靴なんかもう、取り返しがつかないですもん。服はまあ、洗えばなんとか?
「別に用務員が掃除するだろうし、いいと思うが。どうしても足跡が付くのが気になるのならシャワー室まで私が君を運ぼう」
「それじゃアートの服が泥だらけになっちゃいますよ」
「構わない」
あなたが構わなくても私は構います。ここで「構わないんですか?ならお願いしちゃおっかな~!」なんて選択肢は私にはありませんでした。
ええ、なんにせよアートの服は、それはもう高級品っぽいですからね。今日も青い服だし。アートが良くても、この服を洗濯する人は「なんてばちあたりなことを!」と悲鳴をあげるに違いありません。いや、案外金持ちの家の使用人は服がダメになっても気にしないのかも?
私はこういう高級品の洗い方なんて知りませんし、シミとかついたら元に戻すの大変だろうな~と思ってヒヤヒヤします。繋いでいる手の側の袖に泥が付かないかすら、心配で気が気ではありません。
「そうだ!私、向こうの川で水浴びてきますよ。そんで立ったまま待機して、服が乾いてから戻ります」
荒技ですが一番良い解決案。服が濡れていても適当に走り回れば風が乾かしてくれることでしょう。やったことないけど多分なんとかなりますとも。
「森の妖精か君は?!こんなクソ寒いのに屋外で水浴びなんかするのは野鳥くらいだぞ!!」
独特の比喩表現、うーん、でも森の妖精ですか。それは神秘的でいいかもしれませんね。カワイイし。いや、可愛くないのか?森の妖精なんて見たことないから分かりませんけど。
「最近は空気が乾燥してるから、きっと渇くのはあっという間ですよ。風呂が冷水に変えられてたことも何度もありましたから慣れてます。体調に問題はありません」
「修行僧かお前は!!急に壮絶な過去を語るな!!」
あ、お前って言いましたね。余程動揺してるんですね?やはりいつものように「ロイス」もしくは「君」と呼んでいただかなければ。そのほうがお上品ですからね!アハハ!!
でも、慣れてて平気ならそれでいいのではないでしょうか。私は幸い人生でほぼ風邪を引いたことがありませんし、少し体調が悪くても平気で働ける程度でした。過酷な環境に体が適応したんでしょうかね、人体の神秘です。
そう考えると私って、かなり健康で頑丈な人間なのかも。それとも馬鹿は風邪をひかないとか言いますし、ひょっとして馬鹿なのかも?いや、勉強してないので社会的に馬鹿ではあるんですけど。
「おねえさーん!!牛のおねえさーん!!!!」
「?!」
そんな時に後ろの方から、先ほど私を呼びに来た農家の少年が不名誉なあだ名で私を叫びながら走ってきました。あーあ、なんでまたこの子どもは泥だらけなんでしょうね。服が汚れるからと思ってわざわざ牛から離れさせたのに。お母さんに怒られちゃいますよ?ま、農家なら汚れる前提なのかもしれませんけど。
「牛のお姉さんじゃない、ロイス。」
「今の返答は桂みたいだったな」
「なに?なんですかそれは?」
「お父さんがね〜!あとお母さんがね、お姉さんにお礼にご飯を食べていってほしいって!さっきの牛から取れた牛乳もあるよ!」
少年はアートの謎の言葉を華麗にスルーし、私のアートと繋いでいないほうの手を掴んでぐいぐい引っ張ってきます。おやおや、そんな非力な力では私をこの場から1センチだって動かせはしませんよ?
「さっきの乳牛だったんですね」
でも口に出る感想はそれだけです。それ以上でも以下でもありませんでした。
普通は乳牛って物を運ばせたりするんでしたっけ?いや、でも、少なくともここではするんでしょうね、してましたもんね。牛乳も出さなきゃいけない上に荷物まで運ばされるなんて、あの牛もハードワーカーですね……
と、数秒して息を切らした中年男性が走ってきました。ああ、確かさっきの牛の持ち主さんですね。この子の親御さんでしょう。気の毒に、余程走ったんですねえ。太めだからそれはもう疲れたでしょうに。
「はあ、はあ、走るのが早くなったなあカール」
この少年、カールくんと言うんですね。子どもはそんなに好きじゃないですが、子は国の宝ですからね。怪我をさせないように少年の誘導に従い歩くことにしましょう。
「お父さんが遅いんだよーだ!痩せなよ!お母さんがお父さんは結婚する前はもっと痩せてたって言ってたよ!」
そういう話は家族しかいない時にするものなんですよ、カールくん。こっちも反応に困りますからね。でもそうかあ、アートも歳をとると太ったりするのかな?想像がつきませんが、アートなら太ってもかわいいかもしれませんね。
私がそんなどうでもいいことに思考を巡らせていると、カールくんの父の農夫さんは帽子をとって私に軽く頭を下げました。
「ああ、すまねえなお嬢ちゃん、あんな大変なとこ助けてもらったのに、何もいいもん返せなくてよ。良かったらうちの横に備え付けの簡易風呂場があるから使ってくれよ!女房が服も貸すからさ。そんで良かったら、飯も食っていってくれよ。ちょうど収穫期でうまい野菜がいっぱいあるんだぞー!」
お嬢ちゃんと言われるとなんとなく照れくさいですね。18ですし、ええ。
「風呂を貸していただけるのはかなり助かるんですが、食事はいつもこの人と食べるので……」
一応アートが手を握りしめてきたのでそう言ってみます。風呂は貸して欲しいんですけど。風呂は貸して欲しいんですけど!
「おう、なんかカッコいい兄ちゃんだな!あんたの旦那かい?一人も二人も変わらねえし、あんたも一緒にうちで飯食ってけばいいよ!」
「あっ彼はまだ旦那では……」
「はい。夫として同行させてもらいます」
「?!」
「よしっ!そう来なきゃな!」
真顔だけどなぜか嬉しそうな雰囲気のアートと私は、そんなわけでそこの農家の人たちのところで夕飯をご馳走になることになりました。セドリックさんたちにはなにも言ってきませんでしたが、アートはルドガーさんに「ロイスとデートしてくる」と伝えたそうなので、まあ何かあったと察してくれることでしょう。
というかこの人、私と出くわすかどうかも分からない状況でデートすることを確定付けて追ってくるって、すごい頭してるな。
いや、私の居場所は勘で分かるんでしたっけ?だとしてもこれから起こす行動を事前に宣言して実行に移そうとするあたり、有言実行というか自主的な行動力があって素敵です。こう思ってしまうのは、痘痕も靨ってやつなんでしょうか。
「ロイス、靴は町の中心部に良い店を知ってるから、道中に買ってプレゼントしよう。靴は良いやつを買おう!長く使えるからな」
「アハハ、ありがとうございます」
ご機嫌そうでなによりです。
「そういえば、新しい服はとても似合っていた。君は何色でも似合うが、今日の君は一段とかわいいよ」
「あ、ありがとうございます」
キスくらいで照れるくせに、なんで真顔でそんなこと言えるのか心底不思議です。出来れば泥だらけになる前に言って欲しかったなあ。まあ、いいか。
私とアートは手を繋いで、カール少年と農夫さんに続いて畑の道に向かって歩いて行ったのでした。
まだ生き残ってくださってる読者様!いつも読んでくださって本当にありがとうございます!もうしばし、この足踏みの多い旅にお付き合いください!




