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私は部屋に戻って少し資料を整理した後、ロイスとまた少し散歩したいなと思い立って部屋を出た。
ロイスは服を買いに行くと言っていたから、まだ宿に戻っていないかもしれない。もしかしたらラーラと一緒に近くの喫茶店にでも寄って一服しているかも。でも、まあ仮にそうだったとしても大した問題ではなかった。
ロイスとのデートを待つ時間だって、どこを回ろうかとかどんな話をしようかとか、そんなことを考えていればあっという間だ。デート自体もあっという間に終わるし。楽しい時間はすぐ過ぎる、とはよく言うが全くその通りだと、ロイスに出会ってようやく分かった。
昔、友人が「あんな大人だらけのピリピリした宴会なんて、飯食っても味がしねえ」なんて言ってきたことがあった。その時は「そうだな」と適当に返答しながらも「飯なんていつどこで食べても同じ味じゃないか?」と思っていたのだが、ロイスと食事をするといつもより美味しく感じるから不思議だ。ようやく状況によって味覚が変動する感覚というものをおぼえたのかもしれない。
私が宿の玄関に向かおうとしていると、ロイスが向こうから歩いてきて足早に外に出て行った。後を追うと、なにやら地面の方を向いて、苛立った様子でドスドスと足音を立てながら歩いていた。本人は気づいているのかいないのか、硬い土の地面にはロイスの足跡がくっきりとついていっていた。
明らかにおかしいので周りの通行人たちはちらちら見ているが、ロイスはちっとも後ろを振り返らないのでそれに気づいていない。
母にしても祖母にしても我が家の嫁や婿はいつも一風変わった人物ばかりなので、ロイスにも何か変わった能力や体質があるのかもしれなかった。本人が言ってこないということはなにか理由があるのだろうが。
足の力が強いのか、それとも地面を柔らかくする力でも持っているのか。まあそんなことはどうでもいいか、と思いながら私はロイスの後ろを少し離れてついていく。機嫌が直った頃に声をかけようと思ってだ。
ロイスは、可愛いピンク色のスカートを履いていた。これも新しく買ったようだが、茶色い地味めの上着もフードにファーがもこもこついていて可愛らしい。
せっかくかわいい洋服を着ているのに何を苛立っているんだ?と思うが、イラついている時に話しかけて気を遣わせるのもなあ、と思ってやはり話しかけられない。後ろを黙ってつけまわすのも変な話だが、まあ万一「いつからつけていたのか」と問われたら今見つけたところだと言えばいいだろう。
そんな風にして歩いていると、前方から中年女性の悲鳴が聞こえてきた。それと同時に通行人たちがバッと真ん中に道を開けはじめ、明らかに盗品のバッグを片手に持ったハゲの大男が走ってきた。
泥棒だ。しかも刃物を持った泥棒である。
ロイスも多分避けるだろうから、こっちに来たらかっこよくあの男を捕まえて、たまにはロイスに良いところを見せようと私は身構えた。……が、男がロイスの横を通り過ぎることは無かった。
なんとロイスは男がすぐ近くまで近づいた時、右足で男の膝下あたりを蹴飛ばしたのだ。いや、足を引っ掛けようとして勢い余った、と言ったほうが正しいか。とにかく、ロイスとはあまりに体格が違う大男はロイスの足につまずいて顔面から地面に倒れていったのだった。
ロイスと男の足がぶつかり合った時、それはもうすごい音がした。骨が折れるような。男は勢いよく走っていたのでそのせいもあるが、ロイスはピンピンした様子なので無傷なのだろう。倒れた男を見て慌てたような顔をしている。
やはり、足の力が強いのだろうか。普通なら体重が違うのだからロイスの細い足なんかで転んだり足止めされたりしないだろうし。実際、男は足だってかなり太かったし。
ロイスが困っているようだから声をかけようかと思案しているうち、バッグの持ち主らしい金持ちそうなご婦人がかけてくる。そんなハイヒールでよく走れるものだと感心するほど走りにくそうな格好をした人だった。
婦人はどうやらロイスに礼を言っているようで、ロイスのほうは更に困ったような苦笑いで首を振っている。なにか礼に金目のものでも寄越すと言われたのだろうか?金持ちはすぐ金で解決しようとするところがいけない。……ってロイスに言われてしまうぞ。
次に、婦人の家来らしきヒョロヒョロした弱そうな青年たちが走ってきた。ああ、そういう顔の青年が好みなんだろうな……というような面子。護衛は見た目の好みじゃなく、強さとか利便性で選ぶべきだと思うのだが。
私はなぜだか今もやはり離れたところからロイスを見ていて、なんとなく、会話に混ざらずロイスをしばらく見ていたいと思いはじめていた。自分と一緒に居ない時のロイスを見る機会はそんなになかったからかもしれないが。
「あっ」
思わず声が漏れた。ロイスがご婦人とその家来たちを振り切って走って逃げ出したのだ。私は慌てて人混みをかき分けて後を追う。ロイスはしばらく走ると何本か路地を抜け、街のはずれの畑側に足を向けた。
初対面時にも思ったが、なにしろロイスは走るのが早い。初対面時とは幼少期の王都でのパーティでの話だが、私の手を引いて走った時もロイスは早かった。再会した時に逃げ出したロイスも走るのが早かった。運命の人割引きというか、気配を辿る力がなかったら逃げられていたかもしれないくらいだ。
それにしても本当に、ロイスは一度だってこちらを振り向かない。もしかしていつもこうなのだろうか?いつもロイスは振り返らずに歩いているのだろうか?だとしたら危険じゃないか。誰かに後ろからつけ狙われて、頭とかを殴られるかもしれない。公爵夫人ともなれば、何もしていなくても狙われることだってあるだろう。
私の母は特別に精神が強かったからなんともないって顔をしているが、祖母なんかは若い頃、同年代くらいの令嬢からしつこく絡まれたり嫌がらせで男を送りこまれたりしていたらしいし。まあ、祖父はかなり過保護だったから祖母もひどい目にはあわなかったそうだが。
……って、そんなことは置いておこう。
しばらく歩いて立ち止まったロイスは、黙ったまま畑の方を眺めはじめた。二人で話をした木はもう少し離れた場所にあるが、その続きの道である。
誰と話すでもなく用事があって歩いていたわけでもなさそうなロイスの後ろ姿は、なんというか、なんとも言えず寂しげに見えた。
事実、ロイスは孤独なのだろう。
ロイスはきっとあんな家族のことは深く考えていないし、どうだっていい存在と思っているに違いない。普通は家族は大切だと思うものだし、両親は子どもに優しいものな筈なのだ。私の両親も休日には色々なところに連れて行ってくれたし、本だってたくさん読み聞かせてくれた。
だから、ロイスの家族は変なのだ。自分の子どもをかわいいと思わないなんて、変なのだ。それにロイスは一所懸命でいい子で、そう、はじめて会った日に馬車に乗せてくれた近所のおじさんとだって親しかった。きっと近所に親しくしていた人たちはたくさんいたのだろう。友人だって居たと聞いた。ロイスの人格に問題があるわけではない。
でも、問題はロイスが、私のことを世界中の誰よりも好きだと言ったことだ。
十何年生きてきて、出会って1ヶ月も経っていない私のことを世界で一番好きというのはきっと、本来ならおかしなことだ。
たしかに私はロイスと世界を天秤にかければすぐにロイスを選ぶが、それはロイスが自分の運命の相手と昔から知っていたからというのもある。でも、ロイスにはそれはない。彼女の認識からすれば私は、出会って2週間ほどの赤の他人の筈なのだ。
でも、もうロイスは寂しがる必要なんかないし、私はこれからロイスの家族になる。我が家は代々一代に1人しか子どもを作らないのだが、そうだ、私の代では野球ができるくらいの人数の子どもを作ろう。
野球なんてスポーツはこの世には無いのでロイスには10人くらいとアバウトな感じに伝えようか。新しいことにトライするのは良いことだと思うし。使用人たちだって、同じ家に住む人間たちはみんな家族のようなものだ。
「ロイス」
ようやく声をかけようとした時、前方から子どもが走ってきてロイスに話しかけた。多分子どもは私をロイスの連れだと思ったのだろう、チラチラとこちらを見ていたが、ロイスは頷くと子どもの手を引いて畑の方へ歩いて行ってしまったのだった。
向こうを見ると、牛が溝にはまって大人が数人がかりで道に戻そうと苦心しているようだから、牛を持ち上げる手伝いを頼みにきたのだろう。私は手伝いに行こうか散々迷ったあと、その場に座ってロイスがどうするのかを眺めることにした。
子どもが転びそうになると、ロイスはひょいと子どもを持ち上げて肩車をしてまた歩き出す。女性が持ち上げるには結構大きめの子どもだと思うのだが、うーん、やはり力持ちだ。
ロイスは牛の所まで到達すると、子どもを地面におろし、慌てる他の農夫たちを離れたところに退かせ、一人で牛の下に潜りこんだ。何をする気かと、いや、何をする気かは分かるのだがそんなことができるのか?と私は驚きながら見守る。
農夫たちがわぁーっ!と歓声をあげたのが、50メートル以上離れているここからでも分かった。同時にロイスは背中で牛をグイッと持ち上げ、道にそっと置くのが見える。ああ、本当に、本当にロイスは力持ちなんだなあと私はぼんやり思った。
ロイスが困ったように笑ったのが見える。
次に口元がこう動く。
「あーあ。せっかく新しい服を買ったのに。」
そのなんだか呆れたような諦めたような表情には、どこかで共感を覚えてしまう。
なんだか、ようやく分かった気がする。
どうして運命は私の相手に彼女を選んだのか。
彼女は強くて私や私の家族や友人同様「簡単に死なない」人間だから。彼女だけが性格だとか倫理観だとか物の考え方だとかを抜きにしても唯一、アーチボルト=エインズワースと対等に生きていける存在だったからなのだと。
今まで恋をしたこともなかったのに何の問題もなく急にロイスのことだけは異性として愛せたのは、特別に思えたのは、ロイスが自分と同じ存在だったからなのかもしれない。
私と同じように「他の人間は自分よりも弱く脆い存在だ」と理解した上で生きていたからこそ、ロイスは私の価値観を理解できたし、私が国民を守りたいと思っていることにも何の疑問も抱かなかったのだ。
ロイスは家族のことも「弱い生物」と認識していたからこそ、本気で怒るのが馬鹿らしくって憎しみが湧いてこないのかも。……と、私が思いたいだけかもしれないが。とにかく、きっと私にとってもロイスにとっても、大抵の人間は「弱くて守るべきもの」なのだ。
ロイスは唯一、自分と同じような、得体の知れない孤独を抱えた人間なのかもしれない。
ロイスは牛を置いて礼を言う農夫たちからまた離れて、こちらに歩いてくる。ようやくロイスは私を見て、気づいた。泥だらけの靴と服でこちらに走ってきて、目の前で止まってから困ったようにロイスが笑った。
「あーあ、見ちゃいました?声をかけてくださいよ」
「ごめん」
私は、そのロイスの笑顔を見て、心臓がぎゅっとするような感じがしていた。
ロイスは多分そんなに深く考えてない




