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朝は部屋の中で一番に、私は実にすっきりと目覚めました。
それからすぐ、そういえば森に食料を届けるんだったと思い出してベッドから身を起こし、床にゆっくりと足を下ろします。宿屋の高そうなベッドが柔らかすぎてなんとなく体に違和感があったのですが、何度か首を回したり手をぶるぶる振ったりすると治りました。
セドリックさんは昨日寝た時のまま、ナイトキャップまで被ってきっちり寝ています。ラーラは寝相が悪いようで、枕の側に足をやって、半分ベッドから落ちながらも爆睡していました。いびきをかいていないだけいいですが。
時計を見ると午前6時。うーん、なんという健康生活。毎日こんな時間に自然な起床ができる生活を心がけたいものです。
外は少し霧がかかっていますが空は青く澄みわたっていました。爽やかな朝、いや、洒落にならないレベルで寒い朝です。部屋にいた段階で寒いことには気づいていたので、アートが大量に買ってくれた毛布の中でも、最も分厚い毛布をはおって出てきました。でも、やっぱり顔面は寒いんですよね。昨日アートが逃げていったときみたいに両手で顔を隠せば温かいかもしれませんけど、転びますからね。
一人では馬車を動かせないので、私だけ起きていたって仕方ないんですが。でも、なんとなく部屋に戻る気もしないので、私は昨日アートと話をした木の所に行くことにしました。
まだ人もちらほらしかいない街の中、私はゆっくりと歩いて行きます。
木の近くに来ると、なんだか見慣れたような金髪が見えます。誰かが向こうの畑側を向いて座っているのです。もしかしてアートかな、これでアートじゃなかったら気まずいけど、きっとアートだろうから挨拶しようかな、と私は木の真後ろに立ちました。
「おはようございます」
木の後ろからチラッと顔を出すと、アートが首だけこちらを向きました。
「ロイスか。早く起きたんだな、おはよう。」
アートは案外落ち着いた面持ちで、普通に挨拶をしてきました。昨日のことが嘘のようです。
「アート、今日は逃げないんですか?」
少し意地悪ですが、試しに揺さぶりをかけてみましょう。もしアートが昨日一日で気持ちを完全に整理して今この場に臨んでいる場合、「なんのことだ?それはそうと結婚しないか?」なんて平静を保った、いつものクールな対応をしてくることでしょう。“昨日のままの心境だけど頑張って冷静に話をしていた”場合は取り乱して昨日のように逃げ出すかもしれませんが。
私が真隣に座ってみると、アートはたちどころに赤面し、這って私から1メートルほど離れ、心臓のあたりの服をグッと手で握りしめて固まってしまいました。なんか、私が襲いかかったみたいで不服なんですが。怖がってるんですか?また何かされるかもって。
「そんなに逃げないでくださいよ。傷つくじゃないですか」
「おっ……ゅよ……?!こっ……違うんだ、別に逃げてない!断じて!」
やっぱり動揺しているようです。頑張って平静を装うなんて、可愛いもんじゃあないですか。きっと世間の婦女子的にも評価高いですよ。ヤダ〜かわいいわねって。いや、知りませんけど。でも、いつも立派でかっこよく、頭いいですってかんじのアートをこんなふうに追い詰められるのは、今後の人生においても今のうちな気がします。いじめたいわけではないんですが、少しからかってみたくなるのも事実。
「昨日も私がキスをしたら逃げたじゃないですか」
「そっ急に!するから……急にするから!いや、逃げてないが!!」
「アートって22歳でしたっけ?」
「年齢は関係ない!!」
「なんですか、年齢を聞いただけじゃないですか。怒ってるんですか?」
「おごっ、くっ!ゥ!ゲホッゲホゲホ!!」
アートは必死で喋りすぎたためか、自分の首を抑えたまま転がってせきこみはじめてしまいました。
「そこまで?!大丈夫ですか?!水汲んできますから!」
「ッヒ……コヒュ……ぃ…いい!いらない!行かなくていい!!大丈夫だから!」
大丈夫そうには見えませんが、本人がそう言うならまあ、深くは突っ込まないでおきましょう。それがかっこつけたい男性への礼儀というものです。私はとりあえずアートの背中をさすり、むせるのが止まるのを待つことにしました。まったく、人間というものはイレギュラーな状況下においてどうなるか分かったもんじゃありませんよね。
「あの、ロイスそれで、昨日のは……け、結婚オーケーということで良いのか?」
ああ、この半笑いの顔を見るに〝結婚はまだダメですよ〜〟なんて思わせぶりな言葉を期待しているようですが、そこまで恥ずかしがられたらもう、畳み掛けたくなってしまいますよね。
「ええ。私はあなたのことが好きなので、結婚しましょう」
「?!」
びっくり顔、再び。アートは「信じられない、なんで?!」という顔で私を凝視してきました。
「ただし、私の呪いが解けてからです。呪いを解いて憂いなく結婚できるよう、旅は続けようと思います」
「えっ、本当に?本当に結婚してくれるのか?」
「はい。呪いは解きに行きますが」
「別にそれは良いんだ、良いんだが、話がうますぎる!君と会ってからはまだ二週間と少ししか経っていないんだぞ?!君は私なんかのことを本当に好きなのか?!君が見てなかったら君の家族を殺すかもしれない男だぞ?!」
まだ私の家族殺す気だったんかい!じゃなくて、言われてみれば確かに私のアートへの結婚拒否の意思は1ヵ月ももたなかったわけですよね。アートの両親なんか数年かかったそうですし。でも、そんなことをアートに言われる筋合いはありませんよね。
「結婚してくれって言ってきたのはそっちじゃないですか。なんで急に自分を卑下してくるんですか」
「それもそうだよな。今までこの野菜はうまいから買ってくれって言ってきてたやつが、買うと言った途端に古くて不味いからやめとけ!と言ってくるようなかんじの不自然な発言だな」
こんな時でもすかさず例え話をしてくるこの、本当に意味の分からないところも好きです。というか、好きだとなんでも美点に見えてしまうのかもしれませんよね。痘痕も靨というか。この人、基本的には変な人ですし。
「分かってるならやめましょう。あなたは立派な公爵様ですから」
「ああ……でも前に、私と自分の家族とに縁が出来たら嫌だから、とか言ってなかったか?それは納得いく考えに行きついたのか?」
「アート、とりあえず隣に座ったらどうです?」
「あ、ああ」
アートが私の隣に座りなおしたので、私は「そういえばそうだったな」と思いながらも説明しはじめました。考えながら、ですが。
「そうですね……あなたは私のことがすごく好きなんでしょう?」
「ああ。すごく好きだ。結婚してくれ」
「しますって。ですから、多少は迷惑をかけてもいいかなって思って。」
「もちろん。どんどん迷惑かけてくれ」
優しい声。アートはいつも、安心するような声色で話してくれます。ルドガーさんとか他の人と話している時はこんな喋り方をしないので、私には気をつかってくれているのかもしれません。一緒に並んで遠くまで広がる畑を眺めていると、この人が貴族社会の中を生きるご立派な公爵様だなんて忘れてしまいそうです。
「それに、私とあなたは幸せに長く長く生きるんでしょう?」
「もちろん。何百年だって君となら楽しく生きられる」
「私の両親や姉の方がずっと早く死ぬでしょうから」
「それもそうだな」
寿命で家族がみんな死んでくれれば、結局のところ私がそんなことを心配する必要はなくなるわけで。それに、本当に家族を殺したくなったら自分で殺せますから。アートに殺させるよりはそのほうがずっとマシです。いや、別に殺しませんけど。
「あとこれは最近得た見解なんですが、卑怯な人間や、他人を貶めようとする人間は心の弱い人間なんです。それは貴族だろうと貧乏人だろうと同じだと思うんです。そういう弱い人間には、生きていれば必ずどこかでボロが出る。不幸に向かって歩いて行くんです」
「まあ……本当に強い人間は、他人に悪意を向ける必要がないからな。そんなに強い人間は、この世にほんの少ししかいないだろうが」
私の両親は心が弱いから“不幸の象徴である黒髪”を恐れ、私を嫌悪しました。姉はきっと“他者が自分に向ける愛情への自信のなさ”から私を虐げていたのでしょう。私の先祖の醜い男を排斥しようとした村人たちは、男の怪力や恐ろしい見た目への〝恐怖心〟があったから遠ざけようとしたのでしょう。あるいは、集団から外れた行動をとる自分に恐怖し、特定の人間を虐げている自分への罪悪感に恐怖した。
恐怖心を全く克服できる人間などいないのかもしれません。でも、私は自分が抱える恐怖心を自覚できる人間になりたいのです。きっと自分が恐怖するものを把握できてさえいれば、私は卑怯者にならずに生きていけるでしょう。
「大好きなあなたを幸せにするためにも私は、強い人間でありたい。それができれば、私は家族のことだってなんとでもできるんです、きっと。」
「私は君がいるだけで幸せだから、無理に強くなろうとする必要はないんだぞ」
覚悟を決めて気持ちを説明したのに、そんなふうに締めないでくださいよ。あなたが私を鑑賞用と思っていても、結婚するならそれなりに仕事だってしなきゃいけないでしょうし、私が引きこもって好き勝手暮らしていたら「なんであんな女と結婚したんだ馬鹿」とかいってアートが後ろ指を刺されてしまいますからね。
「強くなることに限らず、覚悟が決まったんです。私はあなたのことが好きなので、あなたに恥をかかせないように立派な公爵夫人になれる努力をしようと思っています。マナーやダンスの練習も、立ち振る舞いも、必要な教養の勉強も。
強くなるというのもその一環ですよ。あなたがこのままの私で良くても、周りはそうはいきませんからね。あなたと私だけが幸せで他は不満を抱えている、という状況は真に幸せであるとは言えないと思いますから」
少し前まで、アートのことは好きだけど、アートのためにそこまでやる覚悟はあるのだろうか?という考えは固まっていませんでした。でも最近は、いや、出来るな。と思い始めたのです。アートが先日、森の神を殺すのをやめてくれた時、私の中に完全なる「覚悟」が出来たのかもしれません。アートは私のために考えを変える“誠意”を見せてくれました。
アートは私に覚悟を強要しませんが、それに甘んじてなあなあで生きていくのは、あまりにも不誠実ではないですか。
「真面目なんだな、ロイスは。優しいし、なんか泣きそうになってきた」
「泣きそうなんですか?!どういう感情なんですかそれは?!」
「そこまで私のことを考えてくれるなんて、私のことが本当に好きなのかもしれないと思って感動して」
「信じてなかったんですか?もっと自分に自信持ちましょうよ。」
感動していただけたならそれも良いですが、なにも泣かす気はありません。アートは強いのに、いざ恋愛となると途端に気が弱くなるというか、やっぱり押しに弱いタイプなんでしょうかね。
「……ああ。ちょっと、その……抱きしめてもいいか?」
「い、いいですけど……突然ですね」
逃げたかと思ったら抱きしめていいか、ですって?別にいいですよ、キスしたんですし今更ハグぐらい。……と思って了承した途端、アートは私をガシッと抱きしめてきました。座ったままで抱きしめてきたので、私は妙な体制で横向きに倒れ込みます。アートは更にぎゅっと抱きしめてくるのですが、これ、誰かを抱きしめたことないんだろうなあ。……と思ってしまうような不器用さです。私以外にやったら、運が悪かったら圧死してますよ。
「あ……温かい。首に脈を感じる……生きてるんだな……」
「どういう意味ですか?!生きてますよ!」
というか、アートが強く締め付けてくるから血の流れがおかしくなって脈が分かりやすくなってるんじゃないですかね。自分でも頭のあたりの血がドクドク流れてるのをなんとなく感じますし。
「なあ、君が覚悟してくれたことのついでに、追加の覚悟を頼んでもいいか?」
「覚悟に追加とかあります?」
そして何を言い出すんだろうか?と思っていると、次にアートはものすごく馬鹿馬鹿しいことを言い出したのです。
「出来るだけ私以外の男と話さないで欲しいんだ」
「は、はあ。不必要な会話はしませんが。相手もいませんし」
「君がレオンと会ったばかりの時には、レオンに嫉妬していた。毎晩いつ自分がレオンを手にかけてしまうだろうかと気が気でなかった」
「殺そうとしてたんかい!!」
衝撃発言をされて心の声がそのまま飛び出てしまいました。レオンさんは元々恋愛対象に入ってなかったのですが、まさかそんな心の闇を抱えていたとは。正直すぎるというのも考えものですよ、アート。
「君はミサカツキであいつの手をずっと握っていたし、あんなことをして本気で惚れられてしまったら、と思うと耐えられない気持ちだった。もちろんあの状況で私が同じことを頼んだらしてくれると言っていたことは信じているが、君の親切心が他人の好意を引き寄せてしまうかもしれないと思うと……」
「は、はあ。まあレオンさんはすぐセドリックさんに行きましたけどね」
「そうだ。あいつは命拾いしたな」
「好きだったら相変わらず殺意があったんですか?!」
旅の仲間じゃないですか、こう、穏やかに生きていきましょうよ。疲れますからね、嫉妬とかしてたら。私もいつかアートと女性の間のやり取りにモヤモヤする日が来るのでしょうか。それはそれでなんだか、少し楽しみだったりするのですが。
「そうだ。もちろん殺意があるのと実際に殺すのはまた別の話なんだが。とにかく、君と話してる相手を殺したくなるほど嫉妬深い人間なんだ。殺したくても、君が殺してほしくないそうだから殺さないが」
「そ、そうなんですか……意外ですね、アートってなんか無表情だし、感情的なかんじはしないんですが」
「私も女性とは出来るだけ話さない」
「い、いいですよ私は。嫉妬とかはあんまりしませんから」
「してくれ」
「してくれ?!嫉妬されたいんですか?!」
「されたい。“さっき話してた女は誰なんですか?”“ふっあれは他の公爵家の令嬢さ。ただの仕事の付き合いだよ。それに君以外の女性なんて私にとってハエのような存在にすぎないよ。”“ヤダ、アートったら”……とか、そういう茶番をやりたいんだ」
「…自分で茶番だって認めてるじゃないですか。あと、ちょっと苦しいのでそろそろ離してもらえませんか?内臓が潰れそうなんですが」
「す、すまない」
アートは私の背中にぐるっと回して締め上げていた腕を離すと、なんだか少しそわそわして、それから私に肩に手を置いて、キスしてきました。私は“あっなんかされるな”とは思いましたが避けずにそれを受け入れます。
「急にキスしちゃダメじゃないですか。あなたが言ったんですよ」
私がそう言って笑うと、アートの無表情だった顔がサーッと赤くなっていき、顔を両手で隠してしまいました。あれ、またこのパターンか?と思って静観していると、アートは突然立ち上がりました。
「ぁ……ちょっとルドガーと見張り変わってくる!!」
そして、また走り去ってしまいました。
「今?!やっぱり逃げるんじゃないですか!自分がしたんでしょうが!!!」
アートが照れずに私に向かいあうのには、まだ少し時間がかかりそうです。




