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家出をして初めて、宿屋に泊まったその日。私は、小さい頃に時々見ていた夢を見ました。
夢の中の自分はまだ小さい子どもで、目の前には暖炉にパチパチと火がたかれています。場所は私の家の、両親の寝室でした。私は本来なら足を踏み入れることすら許されなかった部屋。両親は部屋に入ってきた私に少し不思議そうな顔を向けたけれど、すぐに優しく微笑んで手招きをしてくれました。
「どうしたの?こっちにおいで、ほら、寒いでしょう?」
「暖炉に火をつけておいたから、座ってスープでも飲むと良い」
それは、私の両親でした。
優しい両親に囲まれて、暖かい家で美味しい食事を食べて、嬉しくて、幸せで、私は涙を流すのです。そうしたら両親は、どうしたの?と私を心配してくれて、頭をなでてくれます。傍に居て、私を好きだと言ってくれます。私は心の底から安心して、そう、それから。
ああ、私はロイスじゃなくてよかった、と思うのです。
私はそうして夢の中で、双子の姉のシャーロットになって安心していたのです。昔からこの夢を見るたびに、ああ、どんなに平気だと思い込もうとしたって、私は結局シャーロットがうらやましくて仕方がないのだと思い知らされました。
私は〝ロイス〟である自分なんか嫌いでした。でもそれを認めたくないから、ただ両親や姉を軽蔑しているだけだ、と自分の心に言い聞かせてきたのです。
どうして今日に限ってこんな夢を見るのでしょう。私がシャーロットだったら、家出なんてせずに済んだからなのでしょうか。家でない場所に初めて泊まって、不安になったからでしょうか。
昨日はとても楽しかったと思うのに、公爵様が親切にしてくれたのに。きっと、両親は今も私を心配なんてしてなくて、ただ居なくなったことにだけ怒っているのだろうなと思ってしまって、心の底では楽しくないのです。私は初めから、きっとずっと負け犬なのでした。
時計を見ると、公爵様との待ち合わせには2時間早い6時でした。私はベッドに腰かけてため息をつきます。私は劣等感の塊で、卑屈で、情けなくって、公爵様のお嫁さんになっていいような人間ではないのです。もしくは、公爵家に嫁げば私はみじめな気持ちにならずに、姉や両親に優越感を感じることが出来たのでしょうか。
でも、そんな風に思ってしまうからこそ。優しくていい人の公爵様を、いい加減な気持ちで私なんかが利用するわけにはいかないのです。これは、ろくでなしの私の精一杯の意地なのです。人間として踏み越えてはならない一線なのです。
「……」
この夢を見るといつも泣いていたり汗をびっしょりかいていたりするのですが、今日は不思議となにもなくって、変なかんじでした。窓の外を見ると、この冬の国では珍しいくらいの快晴が広がっています。
……そうだ、置き手紙でもして先にどこかへ行ってしまいましょうか。
行方をくらませば公爵様も諦めてくれるでしょうし。……でも、そんなことをしたらきっと公爵様は私を卑怯者だと思うでしょう。私を嫌いになってしまうのかもしれません。数少ない、私を好意的に見てくれる人が。それは私にとってはきっと想像もつかないくらいにとてもつらいことで、悲しいことなのです。
「……」
結果として、私は一時間早く部屋を出て、階段をゆっくりと降りました。公爵様は私の部屋の二つ隣に泊まっています。足音であるいは気づかれるかも、と足を忍ばせていたのです。夜に少しでも足音を立てると父親に怒鳴られていたので、足音を消して歩くのは得意でした。習慣、といってもいいかもしれません。
宿屋の入り口に出て建物前に立った私は、ふと宿屋の公爵様の部屋の窓を見上げました。それで、数分の間そうして窓を見て立ち尽くしていたのです。それは後ろめたいからとか、罪の意識があるだとかではなくって。単純に、公爵様に嫌われるのは嫌だなあって、そう思っただけだったのです。申し訳ないことに。
「逃げないのか?」
背後から声が聞こえて私がギョッとして振り返ると、なんとそこには公爵様が立っていました。手には今買ってきたのであろう飲み物の瓶を持っています。どうやら、早く起きて飲み物を買いに街をぶらついていた様子でした。
「あ、えっと、その……」
やっぱり、まるで全てを見透かされているかのように。荷物を持ったままでどうすればいいのか分からなくなってしまった私を見ても、公爵様は、怒っても慌ててもいませんでした。彼は大人だったのです。
公爵様は、歳は22だと言っていました。私は18歳。たった4歳だけれど、きっとその時間の間に築いた人生経験の差ははかり知れません。
「別に嫌味で言ったんじゃない。君、顔色が悪いぞ。どうした?大丈夫なのか?」
それはきっと事実でした。私は今も、不安で不安で仕方なく、多分精神的におかしくなっていたのです。
「いえ、私、その……そんなつもりじゃ……」
本当に、私はこんな人間ではないつもりだったのです。誰かの前でこんなに取り乱して、かっこわるい醜態を晒すような人間ではないつもりだったのです。今の私はまるで、話をろくに出来ない子どものようでした。それが恥ずかしくて、逃げようか迷っていたことを彼に知られたことが怖くて、汗が止まらなくなって、足がすくんで動けなくなってしまいます。
「……少し、私の部屋で話そう。不安ならドアは開けたままにしておくから」
公爵様はそれでもやっぱり、どうしていいか分からなくなるほどにとんでもなく私に優しいのでした。私が無言で頷くと、公爵様は私の荷物を勝手に持ってくれて、宿屋の中に戻って行きます。私は彼の後に続いてとぼとぼと宿の中に戻って行きました。
「……ごめんなさい、ご迷惑をおかけして」
公爵様の泊まっている部屋に入って椅子に座り、少し落ち着いたのでそう謝ると、公爵様は少し驚いた顔をしてから首を横に振りました。
「別にいい。家出するまで外に泊まったことも無かったんだろう、不安になっても仕方ない」
そうなのでしょうか。本当に、これは仕方のないことなのでしょうか。私にはそうは思えませんでした。私は自分がおかしくなってしまったとしか思えなかったのです。
本当にひとりきりで外へ出て泊まるのははじめてでした。でも小さい頃に一度王都までパーティに出た時近くの貴族宅に姉と泊まったので、外泊自体ははじめてではないのです。私も姉も貧乏な男爵家の娘ですから、その時のシャーロットと私は同室でした。同じベッドに寝るのはシャーロットが嫌がったので、私はソファーで寝ましたが。
「公爵様、私は公爵家に嫁ぐことは無いと思います。本当に、申し訳ないのですが……これ以上、あなたの時間を無駄に使わせたくないんです」
公爵様は私の話を聞いてくれるつもりだったのでしょう。あるいは私も公爵様をどうでもいいと思っていたなら、壁にでも話すように心のうちのすべてを吐き出したのかもしれません。私の今の言葉は、他にどう言い表せばいいかも分からないほどに私の本心でした。
でも、公爵様は少し困ったようにため息を吐くと私の前と自分の前に紅茶を淹れて置きました。紅茶はとてもいい匂いがして、コップに手を触れると熱くて、安心して泣きたくなってきます。
「なに言ってるんだ?時間の無駄なものか。私はもし君が最後まで私の求婚を断ることになったとしても、今ここで君といる時間を無駄だなんて少しも思わない」
本当にはっきりと、公爵様は言い切りました。
「どうしてですか?どうして……忙しいんでしょう、公爵様は……こんなところに居るより家に居たほうが生活も便利でしょうし、私と一緒に居たって何の得もないじゃないですか」
私はこんなことが言いたいんじゃない。それは分かっているのに、私の口は勝手に公爵様にそんなことを言っていました。すると公爵様は優雅にお茶を飲みながら、左手で私をビシッと指さしました。私はきょとんとして公爵様の顔を見上げます。
「昨日言っただろう?人間は、生活に必要なものだけを必要な分だけ使って、なんの楽しみもなくただ生きているだけではいけない、と私が思っていると。いいか、私は〝心〟の観点から、君といると嬉しい感じがするから一緒に居るんだ。これは私の娯楽であり自由で、別荘で不自由ない生活をする事よりも、君と今ここに居ることのほうが私にとっては価値がある。だから私はここにいる。これは私にとって〝得〟なんだ」
またそんな、もっともらしいことを言って。なんだか、道徳についてのお説教をされている気分でした。でも公爵様がそう思ってくれているのなら、それはそれでいいのかなとも思ってしまったりして。私はとんでもなく簡単な人間なのかもしれません。
「……最終的に結婚できなくてもですか?」
「君は綺麗な風景を見て〝持って帰れないから無駄だ〟と思うのか?」
私が少しいじけたように聞いても、公爵様はやっぱりちっともこたえていないようで余裕の表情でそう返答してきました。思い出が大事、ということでしょうか。私のどこをそんなに買ってくださっているんだか、本気で気になってきます。なんだか聞いても濁されているような気がするのですが。
「思いませんけど、私にはそんな価値ありません」
「私はあると思っている。そうだロイス、これを見てみろ」
公爵様はポケットからごろっと掌で握れる程度の大きさの石を取り出して、ゴトッと小さい音をたてて机の上に置きました。
「石ですか?」
「そうだ。これが道端で売っているとすると、いくらだと思う?正直に答えてみろ」
「うーん……」
見るからにただの石ころですが、公爵様が所持していたのですから高価な品かもしれません。でも、正直に答えろと言われたのだから正直な感想を述べることにしました。
「道端で売ってたなら、1ヴァルでも買いませんね……私は……」
「ところがだ。実はハンマーなどで割ると、中身は八煌石といって非常に高価な、暗闇で光る赤い鉱石なのだ。このサイズでも50000ヴァルは固い」
「50000ヴァル?!」
そんな高価なものを意味もなく持ち歩かないで欲しいです。歩く身代金じゃないですか。軍人さんのような格好なので戦えるのかもしれませんが、金持ちの感覚には度々驚かされます。危ないですよ、ほんと。
「つまりだ、お前はこの石だ」
「ど、どういうことですか……」
「この石は知らない者にとってはただの無価値な石ころに過ぎない。でも、私は価値を知っているからこれをそこらへんに捨てたりしない。他の人間やお前自身がお前を無価値と思っていても、私がお前に価値があると判断したのだから、お前には価値があるのだ」
「う、うーん……」
分かったような、暴論なような、納得いくような、いかないような。私が眉間に皺をよせて考え込んでいると、公爵様はにっこりと笑顔になって石を袋にしまいました。
「今日はいい天気だ。ここには三日ほど泊まるんだったな?荷物はこの宿において、貴重品だけ持って玄関に集合だ。昨日より少し遠くまで歩くぞ。もうすぐ待ち合わせの時間だからな」
「え?!は、はい!」
待ち合わせの時間だって、私たち今すでに一緒に居るじゃないですか。
というか、なんだかうまく言いくるめられた気がして腑に落ちません。でも、私の不安だった気持ちはなんだか、今はどうでも良くなっていました。公爵様の話を聞いていると、他のことには頭が回らなくなってしまうのです。良いことなのか悪いことなのかはわかりませんが、とにかく。
その日、私は公爵様と二度目のデートをすることになったのでした。
今回も読んでくださってありがとうございます!ちなみに作中に出てきたお金の単位は、1ヴァルで約10円くらいの価値です。リンゴ一個で11ヴァルとか。タイトルは迷い中なのでコロコロかわるかもしれません。




