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セシル=マットロックは結局、遺書に書いてあったようにアドルファス=ノートンを養子に迎えることはしなかった。
というより、もう、何もしなくなってしまった。机に向かってはペンを持つ手が震え何も手につかず、時折わけもなく涙を流し、生前のユアンのように物覚えまで悪くなってしまった。
思えば、ユアンの母は元より体が弱く、ユアンが生まれてすぐに流行り病にかかって死んだのだ。ユアンは母体がかかっていた感染症の影響で、頭に何らかの障害を持って生まれてきていたのかもしれない。そんなことはセシルにとってどうでも良かった。ただ、それにユアンが悩んでいたことに、父親なのに気が付けなかったことが悲しかったのだ。
息子を失ってはじめてセシルは、自分が街なんかよりもずっと、家族を一番に愛していたことを思い知った。
ユアンがもし本当に公爵になるのがつらいと言うなら、後なんか継がなくたってよかった。ただ生きてさえいてくれればそれでよかった。毎日好きだったピアノでも弾いて、時には一緒に旅行に行ったり、食事を一緒にとったりできれば、それで幸せだったのに。ユアンが生きてさえいれば、アドルファスを養子にとることだって、なんの反対もしなかったのに。
「息子さんの話を聞きました、お気の毒です」
「よろしければこんな話がありまして……」
「私の息子を養子にどうでしょう?」
「いつまでも悲しみにくれていてもどうにもなりませんよ……」
もう、好きにしてくれ。
セシルは、もう全てがどうなろうと、どうでもよかった。街だって栄ようが廃れようがどうだっていい。
「セシル様!遺書通りに私の息子を養子にしろとは言いません!ですが、あなたがしっかりしないと街の住民たちが不幸になるのですよ!いい加減に元の領主様に戻ってください!!」
ユアンが死んで3ヶ月、あまりに仕事が手につかなくなったセシルに、アドルファスの父でもあるライアスがとうとう声をあげた。
その頃には統治されなくなった街で、商売がうまくいかない者が増えたり、商人層が職人から不正に安く物を買い叩く問題が起こり始めていた。そうして貧富の差が激しくなってきていたが、セシルは改善しようとすらしなかったのだ。
「ライアス。お前には長い間世話になったな。だが、私はお前さえも憎い。お前の息子は生きている。お前は息子と話ができる。それが妬ましくて、頭がおかしくなりそうなんだ。
……お前なら、他にも働き口はいくらでもあるだろう。出て行ってくれ。もう、一人になりたいんだ……」
「……あなたは、もっと強い人だと思っていた。」
その日、セシルは領主の専属補佐であったライアス=ノートンを屋敷から追い出した。ノートン侯爵家はそれを機に他の領地へと移り住んだが、ただひとり、アドルファスのみはハインに住み続けた。
ユアンの愛した街。見る影もなく汚れて、廃れて、人々の顔も欲で醜く歪んでいった。かつての活気はすぐにどこかへ消えてしまった。
アドルファスは、それでもその街の様子を見続けることしかできなかった。街から目を逸らさないことだけが、アドルファスにできる唯一の償いだったのだ。少なくとも、アドルファスにとっては。
「何度来てもお前を雇う気はない。顔を見たくない、お前も消えてくれアドルファス」
「私はどうしても、ユアンの愛したこの街のためにできることをしたいのです。どうか、何でも良いのです。なにか私に仕事をください」
アドルファスは、何度も何度もマットロック邸を訪ねた。いつかはセシルにも理解してもらえると思った。根気強く説得すれば、死んだユアンがなにを望むのか、分かり合えると思った。
だが、セシルはアドルファスの顔を見るたび、段々と、段々と、憎しみだけが溜まっていった。
どうしてアドルファスは生きている?
どうしてユアンは死んでしまった?
ユアンではなくアドルファスが死ねばよかったのに。
そこにはもう、優しい立派な領主、セシル=マットロックはいなかった。
「アドルファス、そこまで言うなら仕事をやろう。頭がいいお前になら出来るだろう。この街から移民が増えて、苦情が来て困っているんだ……移民など出ないよう、あの森で暮らすように人々を誘導してくれないか?」
「そのようなこと、根本の解決には……」
そんな提案、もちろんアドルファスがすぐに納得して受け入れるはずもなかった。そんなことは街を良くするどころか、都合の悪いところをひた隠しにでもするかのような、卑怯な行為に思えたからだ。
「何でも良いと言ったのはお前だろう?そうだな……お前がこの仕事をやり遂げることが出来たら、私は元のように街を整備してやろう。出来なければ街はこのまま、私と共に滅びるだけだ」
アドルファスに、選択肢はなかった。
実際、アドルファスは貴族学校を首席で卒業できるほどに頭が良かったので、無知な平民を騙すことなど容易であった。
森に移民を引き止めて暮らすように説得する?そんなものは、溢れ出る泥水をバケツに入れて隠しているだけのようなものだ。すぐに森になんか入りきらなくなる。苦情が来たって仕方ない状況に、この街はある。
……セシルが納得するまでで良いのだ。
自分がユアンの愛した街を取り戻すためには、セシルを納得させ、正気にさせるしかない。
どんな方法だろうが、その努力をするしかないのだと。
「分かりました。森に人々の住む場所を作り出しましょう」
アドルファスは、そうしてセシルの提案を飲むことにしたのだ。
アドルファスはそこで、宗教を作ることで移民たちを騙すことを考えついた。宗教を作る、という観念は、この国では非常に異端である。アズライト帝国は一神教であるわけで、アドルファスだってその考え、宗教観で生きてきた。本来なら神とは、言葉に軽々しく出せないほどに神聖なもののはずで、それを嘘っぱちで作り出すなんて、恐れ多くて誰も行わなかったのだ。
まず、アドルファスは森の奥に祭壇を建てることにした。
持ち合わせた金のほとんど全てを使って他の街から職人たちを雇い、森の奥に小さな小屋を建てた。もちろん職人たちには、これが祭壇であるなどとは言わなかった。道の木には自分にのみ分かる印をつけ、祭壇までの位置は自分だけが把握した。
小屋ができると、アドルファスは木を削って作った仮面を着け、他の街で手に入れた希少な絹の服をまとった。アドルファスは「神に化けた」のだ。
「そこを行く者、どこへ行く」
「この街には働き口がねえんで、外に行くのさ」
「それはいけない。それなら、この森に住みなさい」
「何言ってんだあ、こんな森ん中住めるかよ。大体、アンタ……その格好、普通じゃねえな。何者だ?」
「私はこの森に棲む神だ。多くの行き場のない者たちはここに住み、幸せに生きている。王都や他の街には恐ろしい移民狩りがいるぞ」
はじめの一人には、森にすでに大勢が住んでいると嘘をついた。
「ここ……人が住んでるのかい?アンタ……神だって?!そんなもん……」
神を名乗る者など、この国には居なかった。この頃の王は特に信心深く、そんなことをすれば捕まって火あぶりにされてもおかしくなかったからだ。
「人間じゃ……ねえのかい?」
「お前はハインの北から来たのだろう。役人は汚職にまみれ、この街は淀んでいる。森に住むほか安住の地はない」
「なんで北から来たって分かるんだ?!」
「私は全てを知っている」
アドルファスは、通りかかる人々の服装、言葉の訛り、あらゆる情報から人間を読み取って、それに応じた説法を説いた。遠い遠い祭壇までの道のりを、迷わず歩ける事にも人々は神性を見出した。
はじめは1人。次に親子連れ。その次は女が1人……
段々、段々と人は増えていった。はじめの男は他の住人はどこか、と聞いたが「集落がいくつかあり、ここは3つ目の集落だ。ここに住むのはお前がはじめだ」と言った。男は納得し、他の新しい住人たちにテントの貼り方などを教えた。
村ができた。皆は奇妙な男アドルファスを神と思い、中には信じていない者も居たが、皆から尊敬された。
山菜の調理法。食べられる植物について。火の起こし方に、飲み水の作り方。賢いアドルファスは、生活に必要なものを揃える術を知っていたからだ。
「移民は随分減ったはずです。森には既に100人近くの住民が住んでいます」
「移民か……ゼロではないな」
「森を経由しない出口もあります!全ての移民を引き止めるのは不可能です!あなたなら分かっているでしょう!」
「そうだな……アドルファス、では300人だ。300人住まわせてみろ。それが出来れば条件を飲んでやる」
「……分かりました」
それは、どう考えても無理な提案だった。300人?いくら森が広くても、そんな人数が森の中だけで暮らせるわけがない!だが、アドルファスには考えがあった。
「木を切って畑を作ろう。より豊かに暮らせる。だが贅沢はいけない。慎ましく、穀物は倉庫に保管しておこう」
「はい!神様」
「あなたのおかげで私たちは平穏に暮らせます」
「森に残って本当に良かった……!」
「……」
だが。元は真面目で民を想うアドルファスが、森で暮らす住民たちに愛着を抱かないわけがなく。自分が森という〝国〟でも作ったかのように、アドルファスは統治する喜びを感じはじめていた。
自分の国の人々をアドルファスは愛し、人数が増え、守らなければならない人間が増えるたび、アドルファスは手段を選ばなくなっていった。
森の道に罠を仕掛けた。移民でなさそうな、裕福な者を見つけると、罠を引っ張り吊るしあげた。そうしていくらかの金を取ると気絶した通行人を森の外へ置き、それで野菜の種や必要な物を買って、住人たちに分け与えた。
はじめてやった時には罪悪感があった。でも、住人たちの喜ぶ顔を見ればどうでもいいと思った。
盗まれた者は裕福なのだから、ここに住む哀れな住人たちに分け与えて何が悪い。
「神様!俺たち……あんたが罠をかけて旅人から金を盗んでるの、見ちまったんだよ……」
「俺も……」
「……」
ある日、建てた祭壇に住むアドルファスの元に、そう言って何人かの住人の男たちが押しかけてきた。アドルファスは、ああ、終わったと思った。自分は神などではなく、無理やり神のふりをしているクズなのだと。
「俺は、あんたが神様だってそうじゃなくたってどうでもいいよ。でも、あんたが俺たちのためにやってるってことはわかる。」
「なあ、俺、あんたについていくよ!だから一人で抱え込まねえでくれよ!盗みをやるなら、俺たちだってやる!あんたを一人にしたくねえ!」
いいや。住人たちの一部は、更にアドルファスを尊敬するようになったのだ。理由は分からないが、自分たちを守って助けようとしていたからという理由で。
「……すまない……お前たちに、こんなことを言わせて……」
こうして、森の住人たちはどんどん増え、同時に、盗みも働くようになっていった。これが山賊としての始まりだった。
その頃にはアドルファスへの住人たちからの〝信仰〟は、普通では考えられない程までに高まり、アドルファスは普通の人間ではなくなっていた。
それにアドルファスが気づくまでには、そう時間がかからなかった。
ある日、とうとう数人の軍隊がやってきたのだ。どうしよう、隠さなければ。そう強くアドルファスが思った途端、アドルファスの思った通りに森が形を変えたことに気がついた。木々は動き、まるでアドルファスを守るかのように軍隊から集落を隠した。
確信した。アドルファスは、自分が神になってしまったことを。
「ユアン、ユアン……なぜ、私はこんなことになったのだろう。もうじき約束の300人に達する。お前の父が正気に戻ってくれるはずなのだ。手段は選ばなかった。なんでもしてきたのに……」
森の住人が247人になったのと同じ時期。
ユアンの父、セシル=マットロックはユアンと同じ部屋で、首を吊って死んでしまった。
定期的に顔を出しに行っていたアドルファスはそれを知ると、もうどうしようもない気持ちになってしまった。
今となっては、もはや森の住人たちしか、自分には残っていなかった。
神になろう。
本当の神になってやろう。
森の人間たちだけを、命がけで守ってやろう。
アドルファスは、そう誓うことで自分の心の平静を保とうと思ったのだ。もはや、アドルファスも狂っていた。善悪の感覚も、わけがわからなくなっていた。
「森にいれば幸せになれる。お前たちは、決して森から出ないでくれ。私はお前たちを守り、幸せにしたいのだ」
「ええ、もちろんです。あなたにずっとついていきます」
「あなたが神様でも何者でもいい。私たちの大切な……」
アドルファスが、自分が歳をとっていないと気づいたのは、森に入って10年以上経った、30歳になった頃だった。ふと仮面を外して顔を洗っていると、湖に映った自分の顔は、学校を卒業してすぐのころと全く変わっていなかった。
鏡は国内でもそんなに普及していないし、当然この森においてそんな高級品は使われることはなかった。森からほとんど出なくなったアドルファスにとって、自分の姿をしげしげと見る機会はなかったのだ。
その頃から、腹が減らなくなった。喉も渇かなくなったし、排泄もしなくなった。明らかに体に変化が生じていた。でも、アドルファスは恐怖を感じなかった。
ただ、明確に人間でない何かになっただけ。
それだけのことだったのだ。
ハインのとある治安の悪い場所の端には闇市があって、盗んだものは夜中に移動し、そこで売った。物を売る係の者は一人ずつだけ、森から出ることを許した。そうして生活をなんとか成り立たせていた。
「なあ、神様、なんで俺たち森から出られねえんだよ?外の世界のことだって知りてえよ」
「外は危険だ。お前の家族だってお前が外へ行けば悲しむだろう」
「へん、そーかな?食い扶持が減っていいんじゃねーの」
「いいや。そんなこと……きっと、私がなんとかしてやるから……」
アドルファスがこの森に来て40年ほどが経った頃。住人は最も多かった時期の440人から275人に落ち着き、細々と、貧しくもそれなりに生活していた頃だった。アドルファスの元に、その人物は突然現れる。
「お前は……誰だ?!どうやってこの森に入ってきた!!祭壇に近寄るな!!」
「そう警戒しないでくださいよ。どうも、この森で盗みやら強盗が多発してるのに犯人が見つからないってんで、試しに見に来てみたんですが。
やっぱり人間じゃないのが犯人だったんですね。アンタが本体みたいですけど、祭壇を壊すと何か困ることでもあるんですか?」
自分勝手にずかずかと、森の中まで入ってきたその人物は。アドルファスの近くへと、迷いなく歩みを進めてきた。
アドルファスは、しばらく押し黙る。祭壇の中には、ユアンの遺品であるブローチが入っていたのだ。アドルファスにとってはただ一つそれだけが、自分にとって捨てられない物であった。
家族の誇りだとか、街のことだとか、そんなのは置いておいて。元々のアドルファスは、ユアンという友達の力になりたかっただけだったのだから。
「大切な……ものだ」
「そうなんですか。なら、それは壊さないであげますよ。」
「お前は、何者だ」
「私はアシュレイ=エインズワース。あんたを殺しにきたんですよ」
ニッコリ笑ったその得体の知れない人物の、非常に胡散臭い表情に、アドルファスはまた黙って息を飲む他なかった。




