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150年以上昔、王都の付近に位置する街ハインは、金属工業都市として非常に栄えた。その頃にはハインの金属工業は国を代表する一大産業にすらなりえると言われていたが、現在では見る影もなく。
数少なくなった金属加工職人は新たなものを生み出さず、ただ昔の作品の模倣だけを量産する。技術も年々退化していき、最もよく売れるランプやアクセサリーのみを生産するようになった。売るためだけの作品、職人のその作業にはこだわりもなにもない。金属加工法は厳重に外部には秘密とし、その技術と利益を独占した。
ハインはそうして一部に豊かな人間だけが集中して暮らしている、上辺だけの平穏の中にある。これから段々と人民の憎しみという泥に溶け、劣化して消えていくような虚構の街だ。
ハインの領主は代々、王家との親交も深い公爵家のひとつ、マットロック公爵家の当主であった。ハインが最も栄えていた9代目のマットロック公爵、セシル=マットロックはいつも民のことを考え、あらゆる人を慈しむ優しい人間であった。
街は今よりずっと広範囲に渡り、金属工以外の人々も畑などを起こし、セシルはその広大な土地を決して無駄にせず、すべてを最大限に使って豊かになるよう統治した。そうできる能力と人望が、セシルにはあった。彼には息子が一人おり、こんな有能な人物の息子であるから今後もハインは安定して栄えるだろう、と期待されていた。
「ユアン様はセシル様の血を受け継いでらっしゃいますから、きっと立派な領主様になれますよ」
「そうですとも。私たちのこれからは、ユアン坊ちゃまにかかっているんですよ!」
「うん!ぼく、頑張ってみんなを幸せにできるような大人になるよ!」
だが。セシルの一人息子のユアンは、セシルに比べて極端に、頭の出来が良くなかった。
幼いユアンは必死に勉強をし、国のことを知って立派な領主になろうと思っていた。だが、成長するにつれてユアンは自分の知能の低さを思い知ることになる。どんなに寝ずに勉強しても、同じ年齢の他の人間に追いつけない。平均の学力にすら達せない。貴族学校に通うことで、更にそのコンプレックスは肥大化していった。
どうして。
どうして。
自分はこんなにも努力しているのに。どんなに頑張っても、授業をサボって遊び呆けている同級生のほうがずっと勉強が出来る。理解しても、端から頭を抜け落ちてしまう。
授業に遅刻したことも、欠席したこともなかった。学校に通い始めてからは、好きだったピアノだって断った。周囲の期待に応えたいのに、それに至るビジョンが全く見えてこない。ユアンは怖くて怖くてたまらなかった。自分はどうして、こんなにも街や人を愛しているのに。
……こんなにも、他人に劣る落ちこぼれなのだろうかと。
「ユアンは勉強なんかできなくたって、きっといい領主になれる。俺が手伝うからよ」
アドルファス=ノートンはユアンにとって唯一の幼馴染であり、同い年であり、なんでも話せる友人だった。ノートン家は古くからマットロック家の使用人や護衛になる者が多く、アドルファスも将来はユアンの下につくことが、ほとんど当たり前のように決まっていた。
アドルファスはユアンとは対照的に、同じ学年の誰よりも勉学に秀でていた。同時にアドルファスは、どんなにユアンの頭が悪くても決してユアンを見下すことをしない心の誠実さも持っていた。そして、アドルファスのそのユアンへの信頼は、ユアンの心優しい性格を知るからこそだったのだ。
自分は将来ユアンの補佐となって、ユアンの望む豊かで幸せな街を作る手伝いをしたい。そのために、ユアンが出来ない分までも賢くなり、あらゆることを知ろう。ユアンに出来ない全てを自分がこなしてみせよう。ただそれだけの気持ちで努力し、アドルファスは学年首席で卒業までした。
「ユアン!見ろ、首席だったぞ!期待してろよ、お前が頼りきりになっちまうくらいの、敏腕補佐になってやるからよ!」
「すごいよアドルファス!本当にすごい……補佐だなんてとんでもないよ、君が領主になったほうが良いくらいだ」
「なに言ってんだよ!お前が治めたほうがずっと、みんな幸せに暮らせるさ。お前は誰より優しいからな」
だが、そんなアドルファスに、ユアンは嫉妬心を抱くようになる。
羨ましい、妬ましい、自分の無能さが恥ずかしい。こんなにも努力したつもりなのに。趣味や楽しいこと、やりたいことを全て我慢してでも学ぶ努力をしてきたのに。どうしてこうも、自分はアドルファスと差がついてしまう?自分になんの価値がある?
そしてその後、こうも思った。
……こんなにも自分を信頼してくれているアドルファスを妬むなんて。
自分はどうしてこんなにも、無能なうえに心根の卑しい人間なのだろう、と。
「ユアン?おい、ドア開けるぞ」
ある日、ユアン=マットロックは首を吊った。
ユアンの死体をはじめに発見したのは、皮肉にもその日、正式にマットロック家の使用人として働くことになっていたアドルファス=ノートンである。ぶらりと力なくぶら下がった死体は、しばらく食事をしていないかのように見るからにやせ細っていた。
幼い頃からの親友の変わり果てた姿を見て、アドルファスがどんなに驚愕し、絶望したか。どうして自殺に至るまで思い詰めていたことに気が付けなかったのか。
同時に、ユアンの部屋で発見された遺書によって、更にアドルファスは苦しむことになる。
『何度も考えを巡らせましたものの、公爵としての仕事に挑む勇気がなく、命を絶つことを選んだ卑怯者の私をどうかお許しください。かねてより私は、この由緒正しきマットロック家を継ぎ領主として働くには、あまりにも能力がないと思い悩んでおりました。
どうか、私の代わりにアドルファス=ノートンを
後を継ぐ養子としてお迎えください。
彼ほど統治の才能に長けた人間は、父を除いて
私の知る人物の中には、他にいません。
私は、心よりこの優しい街を愛しております。
この街が豊かなまま、
人々がより幸せに発展してゆけるよう
空より祈っております』
ああ、アドルファスに自分の立場を譲ってしまいたいがために。
心優しかったユアンを知る誰もが涙を流した。そして、立派に街を統治していたユアンの父セシルは、自分が息子の心の孤独に気づいてやれなかったことに絶望し、同時に幼い頃から知るアドルファスを恨むことも出来ず、廃人のようになってしまった。
「すまない、すまないアドルファス……どうしても、君を見ると息子を思い出してしまう。しばらく実家に帰ってもらえないか。考える時間が欲しいんだ……」
「……はい。どうか、お気を強く持たれますよう」
いいや。誰よりも辛かったのはアドルファスだった。
誰よりも苦しんだのはアドルファスだった。
学校を卒業したばかりで若かったアドルファスは、それから一生、
心にユアンの骸を背負って生きることになったのだ。
次もハイン過去編が続きます。




