32
そうして朝の七時。先生にとりあえず会いに行こうということになりました。ルドガーさんは昨日から見当たりませんが、自分の部屋でこの旅の記録とか、公爵家に送る報告書とかを制作しているらしいです。いや、まったくご迷惑おかけします。
真っ白で見渡すかぎりつるつるサラサラした壁に囲まれた廊下をアートと並んで歩いていくと、途中に先生が仁王立ちしていました。昨日の先生は白いシャツを着ていたのですが、なんだか今日は変わった服装をしています。真っ黒で、なんだか袖がベローッと長くて前はこう、布を重ねたような……形容しがたい形状です。腰あたりを布で巻いているから服として成り立ってる感じで、どちらかと言えばスカートみたいな。
アートにあの服はなんでしょうと耳打ちすると「キモノだ」と言われましたが、民族衣装か何かでしょうか。まあそれはあまり深く考えないことにして、私とアートは先生に朝の挨拶をします。
「おはようございます先生」
「おはようございます」
「おはよう。朝食は作っておいたからそこの部屋で食べていけ。私は出かけるが、食事は終わったらトレーごと流しに置いておいてくれ。よく噛んで食べろよ。あと目玉焼きには塩派だがアシュレイの子孫なら醤油をドバドバかける可能性もあるとみて一応用意してある。まあ好きに使え」
しょーゆってなんでしょう。また知らない単語が出てきましたが、かけるということは液体なのかもしれません。調味料みたいな。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
私たちは同時に言って、なんとなく顔を見合わせました。うーん、この人やっぱり基本的には無表情なんですよね。癒されるので常に笑顔でいてほしいです。って、自分に出来ないことを相手に要求するのはよくありませんね。接客業じゃあるまいし。
ともかく先生はそうして部屋からでていきました。あの人、なんだかお母さんみたいです。いえ私のお母さんではなくて。一般的に言うところのお母さんというか?
かくして私とアートは一緒に朝食をとることになりました。
メニューは分厚い美味しそうなベーコン二枚と半熟の目玉焼き、柔らかい白いパンに、黄色いよくわからないけど美味しいスープ。デザートには色々な種類の果物が飾り切りにしてあります。うーん、なんという器用な。これ、本当に全部先生が用意したんでしょうか?料理好きっぽい顔じゃないんですけど。いえ、顔で判断するのもおかしな話でした。ものすごいマメでお世話好きの人なんでしょう、きっと。優しいですしね。
「しょーゆってこれでしょうか?なんか、黒いですね」
「それが醤油だな。豆を発酵させてどうにかして作るものだったと思うんだが……私も実は実際に食べたことは無いんだ。試しにかけてみようかな、少しだけ……」
「じゃ、私はアートが食べておいしかったらかけようかな」
「あ!ズルいぞ」
冗談ですよ、ウフフ。しょーゆはちょっとかけると美味しいというので私もかけてみましたが、私はあんまり……というかんじでした。しょーゆがどうこう言うよりも塩がすきなんですよね、うん。アートが食べているのを見るとマナーはもちろんのこと、なんだかものすごく優雅で金持ちなんだよなあって思ってしまいます。死ぬほど育ちが良さそうというか。
「バナナって初めて食べたけどうまいな。たしか温かい場所でしか育たないんだ」
「温室があるんでしょうか?」
「そうかもな。アズライトの屋外でこんな植物育ちそうにないし」
昨日アシュレイ様に連れ去られたところは昔の王宮の温室をモデルにして作られた庭園なのだと言っていましたが、食べられそうな植物が生えている様子はなかったのです。なのでばななだのぱいなっぷる、だのは別の温室で育てているんじゃないかなと思いました。ええ、昨日のことはアートには話せませんからね、物理的に。
朝食を食べ終えた私たちは、レオンさんの様子を見に行くことにしました。先生の喋らない助手さん?たちが交互に面倒を見ているから気にしなくていいと先生は言っていましたが、少しの間でもともに旅をした仲ですし。やっぱり心配ですよね、会って一週間も経ってないとはいえ身の上話も聞いちゃいましたし、背中にも乗せてもらいましたし荷物も持ってもらいましたから。
また白い廊下を奥に進んでレオンさん及び馬の入れるサイズの部屋に入ると、レオンさんの部屋のドアがガタガタとものすごい音をたてていました。私とアートは驚いて大慌てでドアを開けます。この時、私は後悔していたのです。いくら自分のことで精一杯だったとはいえなんでレオンさんをもっと気にして様子を見に来なかったのか。
「大丈夫ですか?!」
レオンさん……のようなものは、壁に頭を何度もぶつけながら目から黒い汁のようなものを垂らしていました。周りには黒い石みたいな物体がゴロゴロと転がっていて、レオンさん本体は馬よりはかなり小さくなった挙句、黒い殻みたいなのに包まれてうずくまっていました。大慌てで傍に近づいて背中あたりに触れると、レオンさんが動きを止めてゆっくりと顔を上げます。
「ロイス、そこに居るのか…?何も見えない、苦しい、どれくらいで呪いは解けきるんだ?」
重々しい声、でも馬の時より、こころなしか少し声のトーンが上がったような。くぐもった感じが無くなったというか、人間らしいというか。
「一週間ほど、と聞きました。暑かったり寒かったりはしませんか?毛布を持ってきましょうか?なにか欲しいものとか……」
あんまりにも痛々しくて気の毒で、私はどうしていいか分かりませんでした。てっきり目が覚めたら突然人間に戻ってる、みたいな治り方だと思っていたのです。こんなに苦しむなんて思っていなかったのです。
「何も、いらないから……手だけ握っていてくれないか?このまま死ぬんじゃないかって、不安で死にそうなんだ」
「は、はい……」
と言ったものの、手って、前足で良いんでしょうか?そうですよね、蹄ですけどこれが多分右手です。私はレオンさんの右前脚を両手で握りました。黒い殻が固くて掌に少し刺さりましたが、レオンさんのほうが苦しいに決まってるので文句は言いませんとも。
「そこの者。なぜこんなことになっているのか説明してくれないか」
「……」
アートが部屋の角に立っていた青い髪の男の人に尋ねると、懐からゆっくりと何かの紙をとりだしました。それから口を開いて唐突に流暢に喋りはじめたのです。
「私は自動対話アンドロイド、ケイ562です。この度の呪解にあたっての経過の説明書を用意しておりますのでお手元の資料をご覧ください。なお説明書は機密保持のためすべて日本語表記になっております。質問事項があればそちらの壁にございます電話機から管理人、秋月三咲への連絡が可能となっておりますので、ご利用ください。以上です。」
それだけ言うと男の人の方からピーーーと変な音がした後、黙ってまた部屋の角に戻ってしまいました。この人たち喋れたんだ!というのにも驚きましたが、やっぱり必要最小限のことしか喋りたくないみたいですね。アートは至極冷静な態度で紙を受け取ると、アズライト語に訳して読み上げてくれました。
「一日目は少しの体調不良程度、二日目から本格的に呪いが噴き出してくる。甲殻などが剥がれ落ち痛みを伴う主な原因は馬から人間へと体が変容するにあたって長きに渡って摂取した人間には食べられないそのままの干し草などが体に及ぼす異物への抵抗の影響である。三日目に差し掛かると完全に体が一度黒い殻で包まれるので、それが完全に乾いて硬化した四日目にそれを無理矢理引きはがすと人間の体が出現。四日目は衰弱しているのでそのまま寝かせ、五日目に体をタワシなどで洗い完全に殻の残りを洗い流す。それから食べれるだけ何かを食べさせ、寝かせ、6日目も食えるだけ物を食わせて寝かせれば人間の完成である」
「治しかた荒くないですか?!」
話が長くて半分くらいしか頭に入ってきませんでしたが、とにかくしばらくレオンさんはすごく痛く苦しい思いをするわけですよね。気の毒すぎます、私はそこまでの物理的な苦しみを味わった事なんてありませんから、本当に同情を禁じえません。私はレオンさんの横に座り込むと、もうここでずっと手を繋いでいることに決めました。
「アート、私しばらくここに居ることにしますね」
「えっ?ああ……そうだな。私もここに居よう」
「ロ……ロイスだけここに居てくれ……お前はムカつくから立ち去れ……」
「元気じゃないか貴様!!」
「まあまあまあ!!こんなことになってますから要望は聞いてあげましょうよアート!私、今はレオンさんの味方ですよ!」
「今は?!」
「仕方ない、出ていくがロイスになにかしたら人間に戻ったことを後悔させてやるからな」
「怖っ!喧嘩しないでくださいよ!」
黒い塊みたいになっててそこそこグロテスクなレオンさんですが、とりあえず受け答えは出来るようで安心しました。アートはしぶしぶといった様子で部屋から出ていき、私はその場でレオンさんの手を握ったまま、座って様子を見ることにしたのです。レオンさんは無理して喋っていたようでアートが出て行ってからはほとんど喋らず、時折地面に頭を打ち付けてもがいているみたいでした。
「ここにいますから、安心してもがいてください」
「お、お前優しいのか優しくないのか……」
「優しいですよ、今はね。アハハ」
「す、好きだ……」
「今の会話のどこでときめいたんですか?!」
レオンの手を握ったまま私は眠ってしまって夜が明けたので、その日はアートに出会ってからはじめてアートに「おやすみ」を言わずに眠った日になったのでした。




