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更に森の奥に行くと、綺麗な泉がありました。私は屈んで水に触れ、冷たかったので何となく嬉しくなりました。家出しなければ、こんな綺麗な泉を見つけることも無かったんですから。アートは立ち上がった私にすぐさまハンカチを渡してきました。準備の良さが貴婦人のようです。
「あ、ありがとうございます。あの、明日からは海のほうに向かっていきたいなと思うのですが」
ここで私は突然でしたがアートにそう提案しました。午後3時くらいのことでした。そう考えると、結構何時間も森の中を歩いていたんですね。文句ひとつ言わずについてきてくれるこの人、公爵なのに心広すぎじゃないですか?金持ち喧嘩せずと言いますし、金持ちだからこその心の余裕なのかもしれませんが。
「海?!国外逃亡するつもりなのか?!」
しかし私の言葉に、アートは悲鳴にも似た声をあげました。海に行きたいと言っただけで国外逃亡を心配するなんて本当に大げさな人です。あ、でも私は一応結婚からの逃亡中なので、そう考えるのもおかしくないのかも?
「まさか。外国語喋れませんし……港町というものを見てみたくって」
潮風の匂いに無限に広がる海、あ、海って無限に広がってるわけじゃないんでしたっけ。
「なんだ、そういうことか。うーん……ここはアズライトの中でもかなり西南にある街だ。今この場所から更に南に進んでいけば、クライアドネスという街に出る。その最南端がかなり栄えた港町だ。ロイスのイメージする港町は多分こんな感じだと思うってかんじで模範的な港町だな」
西とか南とか、私は方角についても特に考えずとりあえず「隣町にでも移動しよう」くらいの感覚でここに居たので、彼がここが国のどの位置にあるだとか把握していることにえらく感心してしまいます。まあ、私が考え無し過ぎるのかもしれませんが。
「アートはいろんな場所に行ったことがあるんですね」
「いや……まあその街へは行ったことが無いんだが。地理については勉強させられたし、有名だから写真なんかも本に載っていた。でも王都から一番離れた街だからな。行くことはないだろうと思っていた」
そんな恥ずかしそうな顔しなくても別にいいじゃないですか。行ったことなくても一々その地域の知識を覚えていてすぐに出てくることが偉いじゃないですか、頭いいぞ!賢いぞ!私なんか自分の住んでた小さい街以外何も知りませんし。
「写真ですか!本物って見たことないんですよね」
でも、私の興味の矛先は写真のほうでした。存在は知ってるんですけど、庶民には普及してないから実物は見たことないんです。カメラっていう機械で、風景や人をそのまま写し取れるんですよね。すごい、文明の利器って感じです。昔からあったけど技術が進歩していないから、一般には普及してないみたいですけど。
「貴族くらいしか使わないし、印刷技術もあまり普及していないからな。あ、私と結婚すればいくらでも写真集を見れるが」
「あっ、そういう釣るような方法は良くないですよ」
「そうか?うーん……じゃあどんな……」
魅力的ですけど、物で釣るのは良くない感じがします。私と結婚したら贅沢な暮らしや富と名誉をやろう、みたいな?というか、私が物を目当てにして結婚してもいいんでしょうか、この人。アートはしばらく考えたあと、急に何かいいことが閃いた様子で、笑顔で手を叩きました。
「そうだ!君の気分が晴れるなら、君の家族を全員始末してやるぞ。」
「怖っ!!急になんてこと言い出すんですか!!」
私は何もグッドアイデアを思いついていなかったアートのほうを見て顔を青くします。
「だって昔からいじめられてきたんだろう?邪魔なら人知れず消し去ればいいんじゃないだろうか」
いいんじゃないだろうか。じゃありませんよ!この人、大人しくてまともそうなのにとんでもない過激派のようです。嬉々として親族の前で家族全員の殺害予告をしてきたんですから。私だって家族は好きじゃないですけど、殺したいほど恨んではいませんし。
「極論過ぎますし、後味悪いじゃないですか!」
「心配しなくても手を汚すのは私だけだ。君は何もしなくていい」
「いや、それでも後味悪いですから!!」
「後味か。うーん……」
「始末してもバレなそうな貧乏男爵家の家族だから平気でそんなこと言うんでしょう?相手があなたと同じ公爵家ならそんなこと簡単に言わないでしょう、やめましょうよ」
「いや、相手が公爵家でも君がそうしたいなら始末するが」
「ちょっと!!怖いって言ってるでしょうに!!」
「私は元は軍人だ。戦争で人を殺したことだってある。人殺しだからという観点で君が私を嫌うなら君の言っていた〝結婚するなら互いのことをすべて知っているべきだ〟という考えに反することになるので告白しておくが、私は人を殺すということにさしたる抵抗感はない」
穏やかで優しくて常識人でご立派という彼へのイメージが一瞬にして吹き飛び、急に結構ヤバい人だな……と思えてきました。こんな綺麗な顔してとんでもないカミングアウトです。「知らないほうが良いこともある」というのはこのことでしょうか。でも、こんな告白をされてしまうと自分が過去に多少何かしでかしていたとしても大したことないかも……なんて思えてきてしまいますね。
「お、おぉ……そうですか……でも戦争で人を殺すのと個人的な理由で人を殺すのは全く別のことですから!」
「そういえば私怨で人殺しはしたことがないな。君の家族が初めてだ」
そうなんですね、安心しました。じゃなくて!
「いや、そんな初めて嫌すぎるでしょ!!やめてくださいよホントに!冗談でも!」
「まあ君が嫌がってるのに殺す意味もないから、するなと言うならしないが」
「そ、そうですか」
この人、やっぱりものすごい天然なんじゃないでしょうか。間違いありません、どこかズレてます。頭が良すぎてちょっとどこかが浮世離れしているというんですかね、いえ、ひょっとしたら軍人には普通の感覚なのかも?そんな馬鹿な。
「あんまりそんなこと他の人には言わないほうがいいですよ、引かれますよ、怖いし」
「普通に考えて言うわけないだろう。というか。君はあんまり引いてないじゃないか」
そんな、また急に常識人に戻られても困るんですが。
「引いてないように見えます?」
「見える」
「そう見えるならそうなのかもしれませんね……」
実際、ちょっと怖いとは思いましたけど結局その矛先が自分に向くことは無さそうなので、そこまでの恐怖心はありませんでした。私、基本的にこの人のことが好きなので大抵のことでは嫌いにならないみたいなんですよね。ここでドン引きして逃げ出せるような関係だったなら、結婚から逃げ出すのももっと容易だったと思うんですけど。
「ちなみに私怨ではまだ、というと?私怨とは?結婚後に私が浮気したりとかしたら殺すんですか?」
「君は結婚したら浮気をしない。絶対に」
「な、なんでそんなこと言い切れるんですか」
「君は真面目だからだ」
「あなたに言われたくないんですけど」
割と図星かもしれません。でも、もしそうなったらという仮定の話をしているのに前提を覆されると会話が続きませんよね。
「あなたって変ですよね。変だってよく言われませんか?」
「君は?公爵との結婚から数日前に逃亡する花嫁なんて聞いたことがないぞ」
「う、うーん……返す言葉もない……」
「変わり者同士でちょうどいいじゃないか、結婚するか?」
「しません」
そのすぐ後、アートが鞄から大きな地図を出して広げました。この国全体の載った細かい地図のようでした。それを切り株の上に置いたので、二人で覗きこみます。アートが指でこれからの進路をなぞって丁寧に説明してくれて、私はそれにうんうんと頷きました。
さっきの会話なんて、ただの日常会話だったみたいに。
「今日は暗くなる前に宿に戻ろう。森の妖精にロイスが連れていかれてしまう前に」
「あ、今の口説き文句っぽかったですね!」
「こういうのが好きなのか?こういう方向で行こうか」
「いえ、あんまり」
「なんだ」
アートがつまらなそうにそっぽを向いたので、私は少し笑ってしまいました。この人とずっと、何も考えずにずっと色々な所を旅できればいいのに。結婚のことも家族のことも、何も考えずに。
でも、この人には守らなければならない家があるんですよね。難しいところです、そして時間が経つごとに増していく罪悪感も。
「かわいいな、ロイス。笑顔がいい」
私に異様に優しいこの人の期待を裏切るのが、どうしようもなくつらいのです。




