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昨日は夜になってようやく宿に着き、部屋に戻る前にアートがはじめて私の手を握ってきました。驚いて私が固まっていると、彼は私を落ち着かせるように話をはじめます。
「眠れなかったら、目だけでも閉じて脳を休めた方がいいぞ。それだけでもかなり疲労回復の効果はあるし、何も考えないということが大事なんだ。羊を数えて寝るといい」
そんな風に力説してきました。別に悪夢を見るというだけであって不眠症とかではないのですが、気を遣わせてしまったようですね。
「羊って、動物の羊ですか?」
どうして羊なのかは不明ですが、まあ羊はかわいいですからね。私の住んでいた街のはずれの牧場にも何匹かいましたよ。春になると毛を刈るんですよね、牧場のおじさんにお願いしてやらせてもらったことがあります。上手くできなくて1匹で断念しましたけど。
「そう、おまじないだ。羊が1匹、羊が2匹……と。お守りは持ってるか?」
「はい。いつも鞄につけてすぐそばに置いています」
握られた手が温かくて、私はついドキドキしてしまいます。アートは出会ってからそもそもボディタッチのほぼ無い人だったので、急に肌が触れるとより一層驚きが増すのです。動揺してしまいます。
もし相手がデリカシーなく手や肩に頻繁に触れてくるような人なら、私ももっと感じ悪く強い口調で追い払えたんですが。紳士ですね、まったく。
加えてこの人、話す時に本当に目をまっすぐに見て話すので、私は顔から火が出そうでした。私、基本的には人見知りなんですよね。それにこの人は顔が綺麗なので……
そうして3日目の夜は羊を数えて眠り、いつぶりか分からないくらいにぐっすりと、夢も見ずに眠れたのでした。
こんなに落ち着いて眠ったのは、本当にいつぶりでしょうか。いつも不安で仕方なかったのに、アートが自分の味方でいてくれることが嬉しくて、家族のことを忘れてしまいそうです。……まあ、そう簡単に忘れられたら良いんですが。
ちゅんちゅん。
そうして家出してから3日目の朝は、窓の外に止まった鳥の鳴き声で目が覚めました。
私はベッドから身を起こすと、ぐっと腕を伸ばして伸びをします。時計を見ると待ち合わせの30分前だったので、慌てて顔を洗って歯を磨いて着替えて、髪をとかしました。
考えればそんなに慌てるような時間帯でもなかったのですが、あんな綺麗な人と歩くんですから、身なりくらい綺麗にしたいというか。
「おはようございます」
「おはよう」
今日は待ち合わせの10分前に小さい荷物をもって表に出たのですが、既にアートは待ち合わせしていた場所に立っていました。待ち合わせには早めにくるタイプなんでしょうね、きっと。
彼は相変わらず基本的には無表情で、でも、挨拶するときに少しだけ笑顔になります。こういうところに弱いんですよね、なんとなく。ギャップというか。
「馬っていくらくらいするんでしょう?私、長く旅をするつもりなので一度にあまり大金を使うのは……」
そう、今日は昨日言っていた通り、馬を買いに行くのです。次に行く街はそれから決めます。私は次は海の方に向かって行きたいのですが、もし彼が別方向に行こうと提案したら、私はそれに乗るのかもしれません。
こういうところが受動的すぎるんでしょうね、自分の意思がないというか。ちゃんと家出してるんですから、そう、やっぱり私は次は海に向かおうと思います。決めたのです。彼が別の道に行きたいと言っても断固として海に行くことにしました。
「ああ、もちろん馬は私が買う。結構値が張るものだし、私の言い出したことだしな。それに多少高くても、旅に便利なものは用意しておいた方がいい」
「そうですね。長く旅するなら馬はあったほうが便利ですよね」
歩きながら、私たちはそんな話をしました。彼の目的地への歩みには迷いがなかったので、馬を買える場所は大体目星をつけていたのでしょう。この街のことにも詳しいみたいでしたし。
10分ほど歩くとアートが路地に入る細い道を曲がり、建物と建物の隙間に更に進んでいきました。私は慌てて後に続きます。本当、何を当たり前について行ってるんでしょうね私は。このままアートがこっちだと言えば本当に彼の家までなし崩しについて行ってしまいかねません。
細い道を抜けると急に明るくなり、向こう側には草原が広がっていて遠くに牧場も見えました。
「あ、私の街にある牧場にちょっと似てます」
「そうか。ここから少し西側に行ったところに馬ばかり売っている店があるんだが、まだ歩けるか?足は痛くないか?昨日も結構歩いたからな」
「ぜーんぜん大丈夫です。家で働いてたときは1日にこの5倍は歩き回ってましたから」
本音でした。このくらいの距離で私の足はくじけませんとも。
またしばらく歩くと、遠くから馬の鳴き声が聞こえてきます。私の足取りも好奇心で早くなり、アートが後ろからついてくるくらいでした。子供みたいですけど、馬に乗ったことって本当になかったので。
「こんにちは!」
着いてすぐに出会った男の人に、私は勢いのままで頭を下げて挨拶をしました。
「……こんにちは。」
男の人は少し驚いた顔をしましたが、落ち着いた声でそう返事を返してきます。なんとなく、普段の私と同じで無愛想な感じの表情をした男の人でした。
「うわあ!馬がいっぱいいますよ公爵様!」
それから数メートル歩いて、馬を売っている看板が立った馬屋らしき場所に着くと、そこには10頭以上の馬が横並びになっていました。管理人さん、というか馬を売ってくれるらしい人はさっきの男の人だったようで、慌てて馬屋に入ってきて受付カウンターの後ろに回りました。そして、後から入ってきたアートの顔を見ると黙って頭を下げます。服装から高貴な身分だと見抜いたのでしょうね。
「そうだな、でも公爵様と呼ぶな」
テンションの高い私に対してアートは平常心だったので多少は恥ずかしくなったのですが、すぐ近くに馬がたくさんいるので私はそっちに夢中でした。
「馬ってどうやって選ぶんですか?」
アートは私の質問に少し考え込み、左から順に馬の顔を見ていきながら言いました。
「うーん……毛艶とか面構えとか、まあ、立ってる時の様子とか。ここの馬はよく手入れされてるからどれも見事だが、右端の黒い馬がいいと思う」
「黒い馬ですか。良いですね、強そうで」
どの馬も見事なので、私はどれだって構いませんでした。どの子も凛々しい顔立ちで、毛並みも綺麗で健康そうで。私の家にいた馬も世話をしていたので可愛かったのですが、やっぱりプロが手入れしている馬とは違いますよね。あの子もここに来ればキッチリ世話してもらえるのでしょうが。
「君はどれがいいと思う?一頭に2人で乗っていく予定だが。好きな色とかあるか?」
「上に乗るんですか?2人?馬の人、重くないでしょうか」
てっきり荷物を運んでもらうだけかと思っていたのですが、そうですよね。移動手段に使いますよね、普通。
「馬の人ってなんだ。馬は馬だ。それにこのくらいの馬なら、2人くらい乗せて余裕で走れるだろう」
それ以前に一頭の馬の背に二人乗りとか、近すぎて精神的に耐えられる気がしません。私がそう言いたいのが分かったのか、アートは少し気まずそうにしてから視線を少し向こうの方に向けました。
「いや、別に二頭買ってもいいんだが……君、馬に乗ったことあるのか?」
「ないです」
即答です。当然のようにありませんでした。強いて言えば父の飼っている馬が家にいましたが、私は乗せてもらえるわけもなく。姉なら乗ったことがあるかもしれませんが、私は馬の世話しかしたことがありません。世話は私がしてるのに乗っちゃいけないなんて、今考えたら変な話なんですけど。
「乗ってみるか?乗れそうなら買えばいいだろ。こっちも買ってくれるならありがたいし」
「えっ?!」
その提案をしてきたのは、受付から出てきた薄い色の茶髪の男の人でした。年齢は20代後半、というところでしょうか。なんだかアートの表情が微妙そうですが、私は男の人に頭を下げました。
「ぜひ乗らせてください!」
そうしてそのすぐ後、私はこれからしばらくの相棒となる馬と、出会うことになったのです。




