第四話 スクリーンを眺めて <終幕>
二 終幕
自らを悲劇の登場人物にしたいという能登川家令嬢の欲求は、私には理解し辛いものだった。
彼女の口から偶に出てくる映画やドラマの台詞のような個性的な言い回しを気にせずに要点だけを纏めると、すなわち、実際に悲劇のヒロインになり、その上で誰かの死に立ち会わないと、その悲劇の本当の素晴らしさを知ったことにはならない、ということだ。
――なるほど、分からん。
しかし、人が悲劇的な死によって感情を揺さぶられるのは、飽くまで、それが自分とは何ら関係の無い客観だからである。そこに自分の感情を投影することこそ、真の悲劇の味わい方なのだと私は思う。
言い換えると、第三者が客観から皮相をなぞって感情移入するからこそ、悲劇が悲劇たり得るのだ。
仮に、それが主観に取って変わった時、揺さぶられるのは感情だけではなく、一切合切を含めた、その者の人生全てなのだ。そこに美しさを感じとる余裕など無いし、そもそも死は美徳などではないのではなかろうか。
私は先日の縊鬼の件でそれを痛感させられた。
身も蓋も無い言い方をしてしまえば、サバンナでライオンに子供を食い殺された親ガゼルに胸を痛め、ライオンの飢えには目を伏せるような人間のエゴが、悲劇を悲劇として成り立たせているのかもしれない。
まぁ、本当の悲劇のヒロインは、周りからの関心や注目などの客観に対して無自覚でなければならないという点だけを鑑みれば、彼女は悲劇のヒロインたり得たのかもしれない。
彼女の疎外感や孤独感というもの自体は、突き詰めれば自己愛の成れの果てには違いないのだろうが、何にせよ、彼女は凛さんの心配や同情に気が付けずにいたからだ。
私だけ、などという被害妄想も自己愛ならば、彼女の今の精神状態では、今日も一日中晴れ間が広がるでしょう、という今朝の気象予報士の言葉さえ穿った捉え方をし兼ねない。
生憎、天気予報は外れ、四方を壁に囲まれた天井の無いコンクリートの吹き抜けに、見事な曇天が四角く切り取られている。
今、私と座敷童子さんは、凛さんに連れられて、彼女の大学時代の友人らしき能登川青葉さんの壮麗な外観の邸宅の傍にある、未完成のコンクリート製の小屋の中にいる。
豪邸とは異なり、蔵や倉庫にでもしようとして途中で止めたのか、屋根や窓の無い、まるで広い四角形の煙突のような半端な小屋である。
どうやら、この建物は青葉さんの所有物なのだそうだ。建物の閉塞感からか、それとも差し迫った状況からか、冷たく乾いた空気がぎゅうぎゅうに押し込められているような息苦しさがある。
「どうしたの。何、その悲劇的な何とかって。青葉、本当に大丈夫なの?」
凛さんの心配も尤もだ。仮に彼女が放火犯だったとして、彼女の我が儘に巻き込まれては堪ったもんじゃない。超恐い。我が儘が過ぎる。
「けど、これまでの火事で亡くなった方はいなかったみたいなの。いたら良かったっていう話じゃないけど」
悲劇の登場人物になる為に、火災現場に足繁く通ったという彼女は、凛さんの言葉を無視して少し残念そうに言った。
「貴方が最近、この辺りで多発している火事の犯人なのですか?」
座敷童子さんが、能登川さんの神経を逆撫でしないように控え目に追及する。
「いえ。私じゃありません。新聞やニュースによると、一件目は天ぷら油の不始末、二件目は寝煙草、三件目は焚火の延焼なんですって」
「良かった。ほんと良かった」と、凛さんは、心底ほっとした様子で胸を撫で下ろしている。
放火犯が身近に、なんてことはそうそう起こらないようで、私も少し安心した。
「それで、その手に持ってる青白い炎は、青葉の妖怪なの?」
「えぇ。私に妖怪のことを教えて下さった方の手紙によると、人間が火事などの火に関係する出来事を惹き起こすと、それに伴って人間の様々な感情が渦巻いて、その中から鬼火は生まれるみたいなんです。それでこの子達は、私が近所の火災現場から少しずつ連れて帰ったの」
彼女は、青白く透き通った炎を抱えながら、いとおしそうに言った。
妖怪のことを教えてくれたという存在も気になるが、何より、この子達ということは、あの鬼火は複数の集合体ということになるのか。
「でも、鬼火の幼体を沢山集めると、成体になってしまうので危険です」と、座敷童子さんが静かに忠告する。
妖怪に、幼体ないし成体の概念があるとは。
「ほら、青葉。座敷童子ちゃんもそう言ってることだし……」
「そんなの知ってます! けど私は、この子を成体にしてあげたい。あなただって、そんな素敵な妖怪の宿主なんでしょう? ずるいじゃない」
「いや、座敷童子ちゃんは、私の妖怪じゃないわよ。涼介君の妖怪だから」
「そうなのです」と、座敷童子さんは然りげ無く自慢気な顔をしている。
「でも、この炎が見えているということは、あなたも宿主か何かなんでしょう? あなた、妖怪はどうしたの?」
「けむおは置いてきたわ。お留守番よ」
けむおの姿が見えないと思ったら、そういうことだったのか。
「けむお? あぁ、あの煙みたいなモヤモヤがあなたの妖怪だったの? 私、映画館で見たわ」
彼女は、凛さんのことを少し小馬鹿にしたような態度になった。
炎と煙という部分で、何か私には理解できない範疇でのマウンティングが行われているのかもしれなかった。ただ、凛さんの表情は変わらず、能登川さんの目を真っ直ぐ見ていた。
「後ちょっとでこの子を成体にできる。私、そんな気がするの。だから今ここで少しだけ火を点けて、この子が成体になる瞬間を皆にお見せしたいと思ってるの」と、令嬢は、こちらは頼んでもいないのに、鬼火成体の御披露目という名の今からこの建物を放火します宣言を声高に言い放った。
そんなもの、比喩でも何でもなく煙突と化すぞ、この建物が。
「駄目よ! 危ないから止めなさい!」
「大丈夫、少し火を点けるだけよ。この建物は何にも使われてないから、燃やしても問題無いわ。それに、ここは能登川家の土地に建っている能登川家の建物だから燃やしても罪にならない筈よ。だって、自分の畑に建ってる自分の物置小屋を燃やしても放火の罪にならないって聞いたことがあるもの」
能登川さんは憂いを帯びた顔で、右手にはライター、左手には鬼火の幼体という、前言の明確な意思表示をした。
「待って下さい! この建物を燃やすと罪に問われかねません! 畑の中央で小屋を燃やすのとは、事情が違いますから」
――(法律パート)――
放火(及び失火)の罪は、刑法108条から118条に規定されている。
放火の罪は、主に、火力によって公共の危険を発生させる罪について規定されたもので、その客体(焼損される対象のこと)が、『建造物』であるかどうか、『建造物』であった場合、そこに人が現住しているかどうか、また、そこが犯人の所有か他人の所有かどうかによって細かく分かれている。
また、被害者の承諾があったら適用される法令が変わるし、具体的に公共の危険が発生するかしないかで犯罪にならない場合もあったりするし(108条の現住建造物等放火罪及び109条1項の他人所有の非現住建造物等放火罪は、抽象的危険犯といい、公共の危険が特に必要とされていないので、不特定多数の人の生命や身体、財産に脅威を及ぼさなくても罪に問われる)、非常にややこしい犯罪である。
今回、仮に令嬢がこの建物に火を点けた場合、判断する必要があるのは、まずここが、『建造物』に該当するかどうかだ。
判例によると、放火の罪における『建造物』とは、屋根があり、壁や柱材で周りを支えていて、土地に定着し、その中に人が出入りできる建築物のことをいうそうだ。
私達の今いる建物は屋根が無い吹き抜けなので、定義的には『建造物』ではないといえる。謎の巨大なオブジェ状態と考えることもできる。その考えによると、この建物に火をつけると、刑法110条の建造物等以外放火罪になる。
ここで、問題になるのは、この能登川家の広大な敷地の一角にある怪しい巨大な煙突風オブジェだが、実際建てられているのが、敷地のど真ん中ではなく、塀を挟んで隣家まで近い距離にあるということだ。
前述した通り、放火の罪において、公共の危険が生じるかどうかは、甚だ重要である。
自己所有の建造物等以外放火罪(刑法110条2項)は、具体的危険犯であり、公共の危険が生じない場合は犯罪を構成しない。しかし、今回のケースでは、隣家への延焼の危険性がみられるので、公共の危険が発生しているといえる。つまり、罪に問われ得るということだ。
また、刑法111条には、延焼罪が規定されていて、これまた細かく検証しなければならない項目があるので、かなりの割愛をさせて貰うが、今回のケース(自己所有の建造物以外の物に放火した場合)を鑑みると、現住建造物、他人所有の非現住建造物、他人所有の建造物等以外に対して予期せず火が燃え移ってしまい、うっかり焼損してしまうと罪に問われ得るのである。
今回のケースでの延焼の客体には、自己所有の非現住建造物及び自己所有の建造物等以外は含まれていないので、仮にこのオブジェの近くに停まっている車の所有権が青葉さんにあったとするならば、一見、延焼罪の危険は無いと考えられる。
しかし、刑法115条という規定があり、犯人の自己所有の建造物等以外の物であったとしても、その物が差押えを受けていたり、物権を負担していたり(例えば抵当権などが設定されている場合)、賃貸していたり、保険に付していたりする場合は、その物を延焼した場合、『他人所有』であると同視されていまい、延焼罪に問われ得ることになるのである。
――――――――――
以上の強意見を早口でペラペラと述べるでもなく、訥々と語るでもなく、「本当に放火の罪はヤバいんです。とにかく。駄目なんです」と、まるで火事で大切な人を失ったかの如く、私は只々深刻そうな演技をして言った。
これは紛うこと無き意味不明であるし、ただの感情大爆発ではあるが、度々露呈する彼女の灰汁の強い舞台劇チックな言い回しを参考にすると、一番効き目がありそうに思えた。まぁ、ヤバいのは本当だもの。
演技好きの能登川さんは、どうやら私の熱の入った怪演に、心を動かされたようで、ライターを持った右手をだらりと下げた。耳を傾けてくれて本当に良かったと思う。
「ずっと私、あなたのことが羨ましかったの。いつでも周りから注目されてたから」
「そんなこと……。青葉の方が人気者だったじゃない、ずっと」
「そんなの上辺だけって私でも分かってるわよ。あの人達が陰で私のことを馬鹿にしてたの知ってるんだから」
一見矛盾しているようだが、本当にシリアスな場面では、シリアスな言い回しを使うとシリアスさが薄まる。シリアスというより、コメディのような感覚さえ芽生え始めてしまう。私の立ち位置は、出演者か裏方か、それとも観客なのか。
「あなたに負けないように、勉強も頑張って、高い服も着て、皆にも愛想良くしてたのに」
「そんな……。そうだったの」
「もう、この鬼火と一緒に燃え尽きてしまいたい」
「そんなこと言わないで。青葉、前からずっと良い子だったじゃない」
「良い子なんかじゃないわ!」
すっかり寸劇を見ている気分でいた私は、「まぁまぁ、落ち着いて」と、仲裁に入ろうとした。
すると、その時、急に鬼火の色が真っ赤に変わり肥大化した。
「熱っ!」と、能登川さんが掌から鬼火を落とす。
赫々とした鬼火の塊が勢いを増し、能登川さんのコントロールを脱して、文字通り、彼女の足元で怪気炎をあげている。
先程とは異なり、本物の火と同じ熱を持って、私達と能登川さんを阻む境界線のように燃え上がっている。
「長浜さん、私……」
能登川さんは、何かを言い掛ける。
しかし、全てを諦めたように目を閉じた。
その瞬間――
「けむお!」
凛さんが、天に向けて裂帛の声で叫んだ。
凛さんに釣られて私も空を見上げると、今日に入って何度目か、これは比喩でも何でもなく、文字通り、空が堕ちてきた。