第四話 スクリーンを眺めて <序幕>
一 序幕
土砂降りの雨に倒れる主人公のアップがラストシーンだった。
エンドロールが流れ、劇場の照明が灯る。眩しくて目を細めながら隣を見ると、満足気な後輩が屈託の無い笑顔をこちらに向けていた。
「青葉先輩! めっちゃ良かったですよね、これぞ悲劇って感じで!」
「うん、死ぬしかなかったっていうのが。寂しいよね」
私は少し大袈裟気味に答えた。
私は昔から映画や舞台が好きだった。その中でも特に悲劇が大好きで、話題の作品からマイナーな作品までよく劇場に足を運んだ。
しかし、死を美徳とする感覚は、まだ私の中に育っていなかった。
とりわけ悲劇的な死を美徳とする風潮は、私の心に理解できない薄気味悪さを沸き立たせ、それに私は度々辟易し、時には目眩を催すことさえあった。
「みんな、この悲劇から何を得たのだろう」
私は、スクリーンを後にする雑多な人の流れの中で、誰にも聞こえない程の微かな声を出した。
出口の近くで観客の残した飲料水を廃棄している男性スタッフが怪訝そうにこちらを一瞥したが、飲み残しの液体と氷が奔流となり不快な音を立てている中では、私の呟きが聞かれたとは思えなかった。
私だけが悲劇的な死から明確な美しさを捉えられないという疎外感は、いつも私の焦燥を駆り立てた。
それでも悲劇的な死に、ある種の美というものが内在していることは何となく認識することができた。そこに猜疑心は無い。加えて、苟も第三者という立場からそれを贏得た気になっている人々の精神活動も、理解できない訳ではなかった。
というのも、私には一つの確信があったのだ。
破滅への暁光、蛋白質と髄液の迸り、情熱と気炎の渣滓、そして死。これらを鳥瞰することは、総じてその皮相をなぞっているに過ぎず、真の美徳とは悲劇の完結に立ち会えた者のみが享受できる真理であるという確信が。
私は、世間に瀰漫する、悲劇的な死の虚像を客観視し軽々しく全てを知ったように振舞う人達を軽蔑していた。
そして、このように悲劇的な死の美徳を追求したとき、その帰結として、自らを悲劇に投じその姿を埋没させることが、渇望として私の中に発露するのも、至極当然なことだと感じていた。
「さっきのスタッフ、先輩に見とれてましたよ」
ほんの少し前を歩いていた後輩が、こちらを振り返って、私を揶揄うように言った。
「嘘? 全然気付かなかった」と、私は空惚けた。
「先輩、綺麗ですから、見とれちゃうのも仕方無いですけどね」
「冷やかさないの」
「本当なのに」
私に優しく窘められた後輩は、少しも反省の色を見せず、愛嬌のある微笑みを浮かべながら、機嫌よく私の横に並んだ。
エントランスホールに続く広い通路に出ると、騒がしかった雑踏が疎らになる。劇場の雰囲気を高めるため光量の少し抑えられた電灯が、臙脂色の絨毯に、弱々しい二つの影を映している。
私達は、傍目には戯れる二人の女性だろう。しかしその隻影には、死の美徳に対する執念が隙間無く満ち、激しく渦巻いているのだ。
影に引き摺られているような感覚がする。
私の両足は、前方に薄く伸び私を振りほどきそのまま霧消しそうな陰影に、必死に絡み付くように動いている。
私の脳裏に、影だけでなく全身までも執念に支配される妄想が浮かんだ。
私はそれに強く魅了され、同時に、このような自分に嫌悪感を持たざるを得なかった。
通路を抜け、チケット売り場や飲食物の売店が並んでいるエントランスホールまで戻ってくると、キャラメル味のポップコーンの吐き気がする程濃厚で甘ったるい匂いが、目には見えない粘菌のように私の服や髪の毛にベタベタと絡み付いてきた。
影や匂いに『絡み付く』などと情緒的に過敏な反応を示してしまうのは、映画を観た直後にありがちな非現実世界に対する没入感や倒錯感から来るものだろう。私の精神世界での自己嫌悪の猖獗を鑑みると、そういうことにしておきたい。
すると、見覚えのある女性が子供と男性を連れて、スタッフにチケットを切って貰い、スクリーンへ続く通路に入っていくのが見えた。
「ねぇねぇ、青葉先輩! さっきの長浜先輩じゃないですか?」
「本当ね。大学を卒業してからは一度も会ってなかったけど」
「隣にいたのは彼氏さんかなぁ」
「そうなのかしら」
長浜さんの横に並んでいた男性は旦那さんだろうか。相変わらず艶のある黒いショートヘアの周りに、何か灰色の靄のようなものが揺曳していたことが不思議だった。
「長浜さんも結婚したのかしら。女の子連れてたでしょう、和服の?」
私の横に並ぶ後輩は、私の大学時代からの友人であり、今から約一か月程前の良い夫婦の日に籍を入れたらしく、今日はその報告も兼ねて、私を映画に誘ってくれたのだった。
「え? そんな子いました?」
確かにこの目で見たので、私の見間違いではないとは思うが、余り長浜さんに固執していると思われるのも嫌なので、私はそれ以上の詮索を止めた。
「まぁ、どっちでも良いわね」
未だに拭い切れていない没入感や倒錯感が見せた幻覚であると一笑に付すことができない自分自身に対する信頼の無さが、私に何とも好加減な返事を強要させた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
父に買って貰ったカルティエのサントスを腕から外し、自宅の洗面台の鏡の前に置く。この腕時計はダイヤモンドなどの装飾が施されていないタイプなのだが、店舗まで足を運び購入した正規品なので、それなりの値段がする筈である。私は詳細な値段を今も知らないでいる。
昔から父は私を溺愛しており、私のことを大いに甘やかした。叱られた記憶など、幾ら遡っても思い返すことができない。
父におねだりをすれば何でも買い与えてくれると私が理解した時から、私は父に依存するのを可能な限り控えた。可能な限り、というのが、私の中で既に育ってしまっていた甘えの部分である。
私が言える立場ではないが、些か子煩悩過ぎやしないか。大丈夫か、父よ。
自宅の洗面所には大理石の洗面台が二つ設われている。我が家は両親と私の核家族であり、この二つの水栓の必要性には前から疑問があった。ただ、その分壁に掛かる鏡の幅が広くなるので、この点だけは気に入っている。
私はその二つの間に用意されている高級ブランドの厳めしいソープディッシュに置かれた固形石鹸を手に取った。
長浜さんとの邂逅は私に妙な感覚を残していた。
残した、というより思い出させたと言った方が正しいのかもしれない。
私は学生の頃、長浜さんを勝手にライバル視していた。別に憎しみや憤りを持っていた訳ではなく、単純に羨ましかったのだ。
目の前の鏡には、私の黒く艶のある長髪と柔和に見られがちな顔が写っている。
かなりの自惚れになるが、私は一般の女性と比べて、かなり顔が整っている方だと思っている。長浜さんとは顔のタイプが違うとは言え、負けていないと思う。まぁ、女子大だったこともあり、異性から言い寄られるという経験が無いので確証は持てないが。
成績も彼女に負けないように努力し、GPAもそれなりに立派なものだったし、余り多くの人と連みたがらない彼女とは違い、私は友人や後輩達に慕われていたと思う。その関係の多くは今でも続いているので、表面的な社交性の悪戯ではないと思いたい。父が大企業の役員ということから実家も裕福で、金銭的にも何一つ不自由の無い生活を送ってきた。
しかし、長浜さんには常に劣等感のようなものを感じていたのだ。
別に長浜さんになりたい訳ではないし、長浜さんに羨ましがられたい訳でもない。それでも、彼女が私に無いものを持っているように思えてならなかったのだ。
それが何なのか学生時代に考えたこともあったが、長浜さんの纏う『雰囲気』という具体性に欠ける曖昧な答えに達してしまい、身動きが取れなくなってしまった思い出がある。
私は今の自分の置かれた環境をとても恵まれていると思っているし、誰が何と言おうと幸せだと断言できる。それでも私の内側で、今まですっかり忘れてしまっていた嫉妬心が再び燃え上がるのを感じた。
炎のように赤い腕時計の革ベルトが見えて我に返った私は、石鹸で強く手を擦った。
滴り落ちた泡が弾け、アルカリ性の雨がまた泡を作り出していく。
その様子を眺めていると、先程観たばかりの映画のラストシーンが追想された。
酸性雨に焼かれる街に倒れた主人公は死期に何を思っただろうか。
身を焦がされる痛みか、ヒロインを助けられた喜びか。それとも自分のみが犠牲になってしまったことに対する自分以外の者への嫉妬か。
私は彼女に嫉妬している。
そして、それと同様に、誰かが創作した悲劇の輪郭を客観視するだけではなく、その当事者として実際にその結末に立ち会う権利を強く望むようになっていることに気が付いた。
しかし、私を包含する悲劇など、今までを振り返ってみても、眼前に現れることは一切無かった。
では、その権利はどうすれば得られるのだろうかと、自分なりに考えてみたが答えは出なかった。
顔を上げて、再び広壮な鏡に反射する自分の姿を見ると、何だか急に胸が痞えた。
自室に戻ると、机の上に白い文字で『能登川青葉様』とだけ書かれた真っ黒い封筒が置かれていた。
「何かしら、これ」
住所が書かれていないので、我が家の郵便受けに直接投函されたものだろう。差出人は書かれていない。誰かの悪戯だろうか。
封筒の中には一枚の薄い紙が入れられていた。
『拝啓 向寒の候 ますます御清祥のこととお慶び申し上げます。』
――何、手紙?
『急なお手紙で非常に相済まなく思います。我々は、妖怪の宿主だけで組織されている妖怪倶楽部という団体です。本日、能登川様が映画館のホールにて和服の女の子を見たとおっしゃっていましたが、僭越ながら申し上げますと、それは決して幻などではなく、選ばれた人間にしか見ることの出来ない妖怪という存在なのです。』
――どうして私の発言を知っているんだ?
私は誰かに見張られている気がして、背筋が寒くなった。
しかし、手紙の内容自体はそこまで違和感が無かった。もちろん、妖怪倶楽部という団体の胡散臭さはあったが。
何故なら私は幼少の時分から霊感がある方だと思っていたからだ。
学生時代にサークル内で、”小さいおじさん”という妖精のような存在を見たという噂話が上がったことがある。実は私もそのような存在を子供の頃に見たことがあったので、その旨を長浜さんに言うと、「疲れてたんじゃない?」と、憫察されてしまった覚えがある。せめてそれが歯牙にもかけない態度だったなら、あの日の私は救われていただろうか。
私は回想に宙を漂っていた目を正確な三つ折りの筋目がついた紙面に再び落とす。
『もし、妖怪という存在に興味がおありでしたら、是非、お近くの火災現場まで足をお運びになって下さい。きっと素敵な出会いが能登川様を待っていることでしょう。』
「火災現場?」
私は物騒な文面に眉を顰めた。
この集団は、近所で放火でも行おうと考えているのだろうか。
『末筆ながら、ご自愛の程お祈り申し上げます。 敬具』
何故だか分からないが、私は手紙に書かれていた『自愛』という単語に悲劇の芽が萌した気がした。
手紙を読み終えた瞬間、甲高いサイレンを幾重にも絡み合わせながら複数台の消防車が走り去っていった。
私の耳がドップラー効果を確認し始めた時、自然と残響の方角を確認している自分がいることに気付かされた。
友人に頂いたフラワートピアリーが、窓際に放置されたままになっている。
その白薔薇の花弁が腐り、茶色く濁り始めていて、それはまるで火で炙られたかのようにも見えた。