第三話 光 <後編>
後編
駅に併設されているカフェのテラス席には様々な年齢層の客がいて、人々の声と遮断機の機械的な喧騒が黄昏時を賑やかしている。
猫背の老人が短くなった煙草を乾いたアスファルトの上に落とし、足早に行き交っているように見えて実はそれ程でもないビジネスマンの流れるような歩調が駅前の華やかな大通りの血液になる。
沈みかけの太陽が光を供給し、それを受けた彼らの表情は、それぞれが『生きる』ということに対する信念を大事そうに抱えているようにも見える。
「駅前の本屋さんに有って良かったですね」
ラッキーでしたと、私の隣を歩く座敷童子さんが言う。
「急ぎじゃなかったけど、買えて良かったよ」
駅前にある大きな書店へ新年度版の判例六法を探しに来ていた私達は、運良く一冊だけ残っていた御目当ての物を購入することができ、徒歩で帰っている最中だった。
別に通販で購入しても良かったのだが、実物を見て決めた方が良い物もある、と以前座敷童子さんに教えたことがあり、では六法も実際に見て選びましょうという彼女の要望により、今回書店にまで足を運ぶこととなったのだった。
出版社によってまちまちではあるが、基本的に十月末頃から十一月初旬にかけて新年度版の六法全書が発売される。そこに態々名前まで記入してしまう程の六法全書フリークである私はこの時期が少し好きだ。
「大丈夫? 重くない?」
「はい! へっちゃらです!」
得意気な顔を見せている座敷童子さんだが、何やら出会った日に抱えた分厚い六法全書の重みを気に入ったらしく、このずっしり感が良いのです、と先程購入したばかりの紙袋に入った新年度版のそれを右手にぶら下げている。
彼女くらいの歳なら、そこには可愛らしい熊のぬいぐるみがいて然るべきではないか。まぁ和装にぬいぐるみの組み合わせも余りピンと来ないが。
そもそも重みが気に入っているみたいなので、鉄アレイでも一度握らせてみるのはどうだろうか。そんなことを考えていると、一つの疑問が浮かんだ。
「そういえば、周りの人からその判決六法はどう見えてるの? まさか宙に浮いてるなんてことは無いよね?」
「物の大きさにもよりますが、私の姿と一緒で見えなくなっていますよ」
「安心しました」
とは言ったものの、未だに妖怪の力については知らないことだらけで、私は少しもやもやした気持ちになった。
道端に棄てられた吸殻が、まだ煙を立てている。茜色の夕照が、その煙ごと人々の生活を呑み込む。
その瞬間、私は、私以外の人間全てが夕映えの街道にそのシルエットを融かすのを見た。
それは、一時的に人型に具現していた夕陽が元ある光の姿に還っていくように精彩で、恐いくらいに美しく思われてならなかった。
それと反対側に伸びる私の影は色濃く、私は振り返ってその色調を静観した。
「どうしました?」
座敷童子さんが、私の顔を見上げている。
「いや、何だか初めて、夕陽が恐いと思った」
「……?」
私の返答に、座敷童子さんが不思議そうな表情をしている。
そこに一人の男性が、私の視界に入った。光を浴びても猶その形状を保っている彼は、いかにも物憂げで、それでいてどこか他の人達とは異なる何か強い気概のようなものを内に秘めているように見えた。
「涼介さん大変です! あの方! 大変です!」
「何? ちょっと落ち着いて。どうしたの? あの人も宿主なの?」
「はい! そうなんですが、悪い妖怪に取り憑かれています! しかもかなり危ない様子です!」
「危ないって、どういうこと!?」
「良くないことが起ころうとしています!」
ぐいっと繋がれた手を引かれるようにして駅前を後にする。どうやら男を尾行したいようだ。
視界に入る全てのマンホールが、本来の鉛色を隠すように、夕陽を反射して白く輝いている。
夜は直ぐそこまで迫っていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
舗装道路を外れると、ここ暫く雨が降っていなかったにもかかわらず、山道が泥濘んでいた。
侵入者を睨むように貼られている立ち入り禁止の看板。無造作に打ち捨てられている鉄パイプ。既に日は落ち、辺りに闇が広がっている。これらの混沌を、月光が静かに統制していた。
その奥に位置するみすぼらしい建物の入口周辺には、緑苔が繁茂していて、扉もついていない外装は、自然の侵食から堪える術を持たないまま朽ち果ててゆくのを、ただじっと待っているかのようにさえ見える。
男が迷いの無い様子でこの廃墟へ入っていった時、彼女の予感は確信へと昇華したようだった。
「あの方はここで死ぬつもりです」
「自殺ってこと?」
「はい。でもそれは、取り憑いている妖怪に洗脳されてのことです」
その返答に対して、私は返す言葉が出てこなかった。
廃墟内の湿った空気は音を濁らせる。
樹林を揺らす風の音が、ざわつく私の心と共鳴する。
不確かになる男の気配。どうやら奥の階段を上っていったようだ。
私は暗がりの中の一歩が、こんなにも不安定なものなのかと気付かされた。
右手に握られた座敷童子さんの手の感触だけが、私にとって確かなものだった。
「大丈夫。私がいます」と、私の心を覗いたかのように、静かに座敷童子さんが言う。相変わらずほんの少しだけ地面から浮遊しているようで、彼女の足音は無い。
後ろを振り返ると、全く人気の無い通路に、私の足跡が薄墨のように残されていた。それは、見えない何かが私達の直ぐ後ろにいて、引き返すことを許さないように、じっとこちらを見張っているかのような強迫だった。
ガラスの欠片が雑然と散らばっている階段を、音を立てぬよう慎重に、一段ずつ登る。
頭上直ぐそこに響く、錆びた金属製の扉が開かれる音は、男と私達の接近を示していた。
開きっぱなしにされた扉から漏れる埃っぽい風が、ぬるぬると身体に纏わりつくような湿気を掻爬していく。怪しげな一室へと導かれているような、男の朦朧たる歩調。表情はこちらからは見えない。
コンクリート壁の激しい亀裂から射す月光によって、男は輪郭を取り戻した。その肩越しから、予め部屋に設われていたのか、先端に輪が結われた縄が垂れ下がっているのが見えた。
寒気が止まない。
彼はここで死ぬつもりだ、と確信を得た途端、私の両手に冷や汗が滲み、噛み合わされた顎の隙間から吐息が漏れた。
口の中が乾き、舌がまるで自分の物でなくなったかのように薄く痺れている。
突然、男の後頭部から、ずるりと得体の知れない何かが這い出てきた。
それには下半身が無く、ぼさぼさの長髪を蓄えた大きな頭と蒼白く細い両腕だけが死装束から生えていた。
こちらに気付く様子は無く、ゆったりとした動きで骨のような細い指を、そっと男の耳に近付ける。どうやら何かを囁こうとしているようだ。
「今です!」
突然、座敷童子さんが叫び、私の手を引く。
バタバタと騒がしく足音を立てながら部屋の中に飛び込むと、それは私達に気付き、長髪を乱しながら振り返った。
――鬼だ。
大きく裂けた口の所々から鋭い牙が飛び出しており、ギョロリとした巨大な目の上の眉間には深い皺を寄せている。幼い頃、絵本で見た恐ろしい鬼の形相がそこにはあった。
恐怖の余り悲鳴をあげるところだった。
しかし、私の目の前でそれよりも驚くべきことが起き、その悲鳴は発せられることがなかった。
私は、ただ息を呑むことしかできなかった。
それは、鬼がこちらを睨みつけた一瞬の出来事だった。
駆け込んだ勢いのまま、座敷童子さんが分厚いレンガのような判例六法を紙袋ごと遠心力を利用して鬼の横面に打ち付けたのだ。それも、男の後頭部を巻き込んで。
古来から、『六法の角で殴る』という言葉は、全ての法学部の学徒達に肉体的及び精神的に重篤な影響を齎すといわれてきた。
かつてその言葉を聞いたある法学部生は全身の筋繊維という筋繊維を全て収縮させて身構え、またある法学部生はスーっと一筋の諦観の涙を流したという。授業中、出来の悪い生徒に対し軽はずみにその言葉を使った大学教授は、その後行方を眩ました。
その『六法の角で殴る』という噂でしか耳にしたことの無い、伝説の悪魔的所業が、言葉ではなく、目の前に体現されたのだ。
私は今、恐らく震えているだろう。
壁に空いた穴から外へ、這々の体で逃げ出した鬼にではない。
気絶してしまったのかぐったりと伸びる男の隣で、自信満々な顔をしてこちらを見上げている可愛い小悪魔にである。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
私の大切な買いたての六法を枕にしていた男がむくりと起き上がった。
目を覚まし上半身だけを起こした男は、まだぼんやりとしていて、自分の置かれている現状を理解しようと必死に頭の中を整理しているようだった。
「大丈夫ですか?」
「僕は、一体……」
「その……、貴方は悪い妖怪に取り憑かれていました」
座敷童子さんは心配そうに男の顔を覗き込んだ。恐らく、六法でフルスイングした彼の頭部を案じているのであろう。
「妖怪……取り憑かれていた……」
男は何か思い当たる節があったのか、信じられないといった表情ではなく、意外にも腑に落ちたような表情としている。
「あの妖怪は一体何だったの?」
『六法の角で殴る』という心的外傷から徐々に落ち着きを取り戻し始めた私は、座敷童子さんに尋ねた。
「先程の妖怪は、縊鬼といいます。まれに、縊れ鬼とも呼ぶこともあります」
「いっき?」
一度も聞いたことの無い妖怪だと思った。こちらを振り返った顔は、正に鬼のそれであったことを思い出し、今更ながら恐怖がぶり返してきた。
「はい。縊鬼はいつの間にか人の心の隙間に入り込んでその宿主を洗脳し、首を吊らせようとする悪い妖怪です」
まるで凍り付いたかのような静寂の時間が流れる。
部屋に垂れ下がっている縄の揺らぎも、今は見られない。
「助けて頂いて、……感謝します」
沈黙の中、男は蒼白な顔をしながらそう言うと、静かに頭を下げた。
「まだ、その……死にたいと思いますか」と、私は彼に尋ねる。
「……いえ、それはとても恐ろしいことのように思います」
少考の後、はっきりとそう言い切った男は、埃まみれの地面を見つめ再び沈思黙考し始めた。やはり、駅か彼の家の近所まで送ってやった方が良いだろうか。
「悪い妖怪か」と、私の口から独り言が漏れる。
私は初めて座敷童子さんと出会った日に『悪い妖怪』という存在を知らされていたのだが、実際それに遭遇してみると、心の準備というものが全く足りていなかった。ただひたすらに怯えていただけだったように思う。
淡い月光が差し込む壁の亀裂を眺めていると、逃げていった縊鬼が幻であったかのように思えてくる。
不意にズボンの裾を引っ張る感覚に驚き、そちらを見下ろすと、座敷童子さんと目が合った。
もしあの日、私の所にやって来た妖怪が座敷童子さんではなく縊鬼だったらと考えると、彼の言葉ではないが、それはとても恐ろしいことのように思えた。