第三話 光 <前編>
前編
辺りの製紙工場から立ち上る煙が低く、それでいて空一面を広く覆っている。薄暗い空が、半開きになっている白いカーテンの隙間から見える。
テーブルの上には、焼いただけで何も塗られていない一枚のトーストとインスタントのコーヒーが湯気を立てている。同じ時間、同じ食事。うんざりする程変化の無い毎日。しかし、私はこの生活を変えようと思ったことが今までに無かった。それは変え方が分からなかったからでは無く、変化の先にあるかもしれない今よりも良くない何かを恐れていたからだった。
鉄葉の人形のような規則正しさとぎこちなさを保ちながら反復する私の生活を余所に、世の中は多様な移ろいを見せる。
インターネットのニュースサイトに目を通していると、蓄積された精神的傷痍や社会的排斥、自己否定などによる絶望が原因で自殺する者が近年跡を絶たない、という記事が私の陰々滅々とした朝を、より一層暗鬱なものに変えた。
トーストに齧りつきながら、タブレット端末の無機質な光から目を背ける。
またつまらないことで、と私は思った。
繰り返される咀嚼の中で、私は可能な限り淡白な表情を装う。
上手く表情が作れず、できの悪い人形のように堅い表情をしていると、「絶望による自殺」という言葉から、不意に体内を蠢くような著しい不快感が湧き上がった。
その時、私の脳裡には、ある虫の姿が思い浮かべられていた。寄生した蟻の神経を操り、草の先端に噛みつかせ、次の宿主である草食動物に喰われるまでその場に留まらせてしまう種や、寄生した蝸牛の角を肥大化させ、次の宿主である鳥に喰われるまで、その鳥の好物である芋虫に擬態させ続ける種の虫の姿が。
自らの意識とは異なる寄生虫の作用が、宿主に、自殺という形式の死を招来させる。絶望が人間の精神に寄生し、死へと誘う。
私は絶望も一種の寄生虫のようなものだと思った。
「なら絶望の次の宿主は何だというのだ」
自ら反駁を加えるように独り言ち、横溢する嫌悪を薄いコーヒーで流し込む。
不愉快な考察は特有の苦味と融和し、複雑な芳香を伴ったまま、咽頭粘膜を刺激することなく、滑らかに飲み下されていった。
……きっとそれも人間なのだろう。
宿主の内に潜みながら人間を傀儡のように弄び、その精神を蝕むことで少しずつ成長する。そして、いつか訪れる宿主の瓦裂と共に次の人間へと伝染していくのだ。
それを制止しようとしても、容易く絶望を払拭することはできない。何故なら、傀儡が操手を弑逆した時、地に落ちた手板が却って自らの足枷となることを私達は知っているからだ。
結局、今よりも悪い状態になりかねない。そうなったら、誰が助けてくれる?
このようにして絶望は継続し、宿主の光無き日常と自殺との牽連関係は依然として繋鎖されたまま、私のように臆病な人間の食傷は、ますます激しくなっていくのだろう。
「絶望による自殺」
その言葉を反芻すると、キーンという嫌な耳鳴りが、ハウリングのように私の脳内を駆け巡った。
すると、恰も精神が絶望に寄生されているように余儀無く行われる自殺という事象が、落莫たる生――ただ漫然と無感動に行われている岐路の無い隧道のような人間の営み――と何ら変わらない不幸のように感じられた。
同時に、自殺とは決して絶望からの解放などであってはならず、数ある選択肢の中から自らの強固な意志で掴みとる光明でなければならないと強く思われた。
気が付くと、私は焦点の定まらない目でテーブルを睨んでいた。眼光を僅かに弛ませると、途端に勢いを持った部屋の照明が、私の虹彩を刺激し、散大しかけた瞳孔を急速に縮めさせた。
その瞬間、私は「選択」にこそ自殺の本懐があると悟った。
少しだけ目眩がしている。空のマグカップとパンの耳が食べ残された皿を、蹌踉たる足どりで台所へ運ぶ。掌を刺すような冷たい水流が、食器に弾かれ、光沢のある銀色のシンクを濡らす。水を含んで膨張したパンの耳が、その上をゆったりとした動作で流されていく。
排水口へと沈むその姿は、まるでよく肥えた蛔虫のように見えた。
私をよく知る者は、決まって私を恵まれた奴だと言った。
平凡なる学生生活を経た上での平凡なる会社勤め。非凡なことといえば、若くして両親を亡くしたことくらいだろう。既に係累も絶えていたので、今は多くない遺産と二束三文の給料を嘗めるようにして生活している。不満は無い。しかし、だらだらと間延びする日々。この無意味に継続している毎日をどうして幸福だと言えるのか、私には全く理解ができなかった。
「慣れだよ」
電源の入っていない薄型テレビに反射した私の分身が、緩慢な動きで出勤の仕度をしている私に冷たく囁きかけ、液晶に融けた。
白い掛時計の小さな針音が幽かに響いている。その機械的な脈動は、新鮮な時を部屋全体に循環させるには余りにも弱々しかった。
人間は環境に慣れる生物だという。
日を追うごとに神経が摩滅していくような感覚も、確かに今はもう感じなくなった。そうすることによって、予め誰かに用意されているような変わらない日々を気に掛けないようにしていたのかもしれない。
草臥れたネクタイを強めに締める。この感覚だけは、如何なる時でも麻痺することが無く、恬然と私の首筋に息衝いていた。
そういえば、私は自殺という「選択」を考えたことが無い。
果してこれは鈍麻なのだろうか。
私の「選択」というものは、欲望の分銅を偏りなく秤量しているようでいて、精神の忠実なる僕だった。
臆病な精神は、理性によっていとも容易く犯され、その脆弱性を恣に、夥しい数の分岐路の中から破滅へ続く道をかき消し、唾棄すべき継続状態に偽りの安寧を供給し続ける。
私の精神は、その臆病さ故に、起伏の無い日常の中でも死を仄めかすことをせず、自殺という選択を私に与えなかったのだ。
出発時刻。気の晴れないまま、玄関にある姿見で笑顔を作ってみせる。
そこには我ながら完璧な作り笑いがあって、それは人間関係に波風が立つのを極端に恐れる余り、自分を抑えつけ他人に阿諛するばかりの私の生活の証左に他ならなかった。きっと、このような粉飾が自分本来の表情を衰微させているのだろう。
社会に渾融できない者は撹拌され、それでも適応できない者は淘汰されるという。必死に順応しようと足掻く私の「選択」は、この先もずっと、飾偽との密接な関係を保ちながら、平穏を目指し、自ら紛らかされていくに違いない。
現代的ダーウィニズムの流れに組み込まれている私は、社会の歯車と社会不適合者の丁度中間地点で、馴染むでもなく弾かれるでもなく、この平穏の上に生き続けるのだ。
玄関の扉を開くと、湿気を帯びた地面のどこか優しげな匂いが鼻孔を刺激した。
いつの間にか降り出していた驟雨のしなやかな律動が胸を打ち、その音調の一つ一つが小さな錘となって私の深層へと沈んでいく。抑圧された感情が狭霧のように立ち籠めている心の底が、秋湿りの沈鬱に滲む。
「自殺か」
その時、私の深層で、自らの精神に対する、反骨といっては大袈裟な、細やかな張り合いのような志が芽生えた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
日が傾き始めている。窓際からは雲が疎らに見えるが、それらは妙なる夕照とともに、黄昏時の街を彩なしている。沈んだ暗赤色の空に、夜が迫っている。
次第に弱まる陽光を窓ガラス越しに浴びていると、自分の身体が光に溶かされ、その存在が落日と共に識別することのできないものとなっていく気がした。
この不安定な体躯の中で、何かが燻っている感覚がある。
それは、自らの精神との敵対に一定の期待を持ち始めたあの朝からずっと存在していて、人魂のように不気味な光を放ちながら、日を追うごとに確実に肥大し続けていた。
私は相変わらず抑揚の無い生活を続けていて、いつものように他の誰の物でもない自分だけの精神世界を抑え、自分を除く全ての者のための表面世界をふわふわと漂い、その二つを不器用に行き来していた。
深く息を吐きながら、窓に背を向ける。すると不意に、息苦しさに似た諦感が、薄く外形を保ち続けていた精神世界の外殻を喰い破った気がした。
鼓膜に反響するこの心音の高まりは、飽和していた不易の終わりを告げているのだろうか。それは、油然と湧き立つ志が、頑なに過沸騰の現状を認めようとしない私の臆病な精神に対して、突沸を惹き起こそうとするような荒々しい響きだった。
私には両親や恋人こそいないが、友人はいるし、職場関係も悪くはない。生活も裕福ではないが、困窮している訳でもない。それでも窮屈で窒息しそうな生活の繰り返しは私に死を選択させるに充分な煩労だった。そして精神は金属疲労のように徐々に強度が蝕まれていき、今その影響をもって罅裂に至ったのだ。
私は倦怠の質量と表面世界の無感動を知っているし、最早、継続という乾いた孤独には、一縷の光さえ届かないことも知っている。それ故、全ての本質的な終焉がどうしても望まれた。
「これも一つの選択だろう」
私は決心した。それは決して絶望や妥協などではない、私自身の「選択」だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
耳鳴りが酷い。まるで金属製の頭蓋骨の隙間から何かが這い出そうとしているようなギリギリとした響きが止まない。
夜の帳につつまれた街の外れ。山際に屹立する廃墟を前にして、私はぼんやりとしている。
荒いコンクリートを剥き出しにし、過去の興隆を恥入るような貧寒たる外装と、寂として殆ど朽ち果てている内装。しかし、上へと通ずる階段までの道は、まるで予め整備されていたかのように、どういう訳か瓦礫ひとつ落ちていない。
照明は無く、窓の名残をほとんど留めていない吹き抜けから射し込む月光を頼りに進まなければならない。
手摺の無い階段には、割れた無数のガラス片が鏤められている。それに反射する鈍色の光芒は、霞のように茫漠と、その限界を濛昧なものにしている。それは私に終焉を想起させるに充分な神異だった。
扉の前で、ググッという小さなノイズが私の喉から発せられたが、それは廃墟に轟くこと無く、深閑に呑まれた。度の増した心拍も、周囲に釣られるように、徐々に静まっていく。先程までの耳鳴りも治まったようだ。
全身麻酔から目覚めたばかりのような目眩と虚脱感に身を委ねていた私は、知らぬ間に錆び付いたドアの把手を強く握っていて、その手首の緊張によって、辛うじて身体が支えられていた。
不気味な音と共に開かれた二階の一室には、大きく崩れた外壁から顔に吹きつける淡い死の予感と射し込む月光、そして蠕動しているようにも見える闇の中に、天井から垂れ下がる一本の縄があった。
瀬戸黒の器のように荒く光沢のある漆黒へと鈍重な足取りで踏み出す。
地と空の境界が蜃気楼のように澱み、縄の先に結われた輪が揺らぐ。死への甘い微醺を帯びた私は、惹き付けられるようにしてふらふらと危なげに進み、何者かによって用意されていた縄を手に取った。
すると突然、私の背後から、少女の声と慌ただしい跫音が生まれた。それは無邪気さと使命感が綯い交ぜになったような勢いだった。
私がそちらを一瞥する間も無く、頭蓋に響く得体の知れない衝撃と共に後頭部に鈍い痛みが走り、遅れて訪れた不快な熱と痺れを伴う収縮が、私の意識を底の無い暗がりへと誘った。
不思議とそこにはタールの沼に包まれたような安堵があって、知らず知らずの内に自分が何かに寄生されていたという事実を、私は漸く理解することができた。
混濁しつつも甘美だった幻がコンクリートの隙間から吹き続ける風を受けて薄らいでいく。
洗脳から解放され、澄んだ感覚のまま目を伏せると、目蓋の裏に残っていた仄かな光が静かに消えていくのを感じた。