第六話 虚に吠ゆる一犬
遠くで犬が吠えている。
何か良くない想念に呑まれそうな夜だった。
私はSNSへの集中を途切れさせ、そのまま手元の画面をぼんやりと眺めていた。
著名なインフルエンサーたちの耳障りのいい言葉がいくつも並んでいる。
それは言葉の裏側が透けて見えるような稚拙な煽動に他ならなかった。
人間の虚栄について考えたことのない者はいない筈なのに、どうして斯くも……。
印象操作の前提として示されている情報に創作感を強く覚えながらも、私がそのような弁舌に疎ましさを余り覚えていないのは、受容者の心に向けて、丁寧に、嘘偽りの文字列を播植しようとする演者たちの懸命さに胸を打たれているからであろうか、それとも……。
私自身もまた、何かを演じて……。
「草津さん、何を読んでいるんですか?」
「えっ?」
ふっと狂妄が消え、意識が戻ってくる。
自虐的な思考の渦に呑まれかけていた私は、少女の声によって一気に現実に掬い上げられた。
「あぁ……。これは、その……」
気付けば、私の友人である大津涼介さんと共に暮らしている妖怪、座敷童子さんが、私のスマートフォンの液晶を興味深そうに覗き込んでいた。
私は慌ててスマートフォンの電源を落とした。別段後ろめたいページを見ていた訳ではないのに。そこまでする理由は自分でも分からなかった。
「子供はまだ読んではいけないものだったのですか?」
和装の少女が首を傾げている。
「いいいい、いやいや!! 全然全然!! そっ、そんな疚しいものじゃ……!!」
丁度そのとき、部屋のドアが開かれ、大津さんがお手洗いから帰ってきた。
「何々? 何の話? どうしたの、草津くん。そんなに慌てて」
「そっ、そんな、慌ててなんていないですよ!?」
「まぁ、急に呼び出されて落ち着かないかもしれないけど、是非ゆっくりしていってね」
「はぁ……。ありがとうございます……」
私は深く息を吐いた。未だに鼓動は激しさを保っている。
そう、何を隠そう。私、草津直は現在、大津さんの家にお呼ばれをしているのである。
出不精極まりない私ではあったが、「何はともあれ、冬だし鍋をしよう。兎に角、鍋をすべきだと思う。だって冬だし」というよく分からない大津さんの強引な誘いに負け、のこのこと葱を背負ってやってきたわけである。
そんな勢い猛の鍋奉行大津さんの贅沢極まる蟹三昧に舌鼓を打ち、締めの濃厚蟹雑炊まで完食した私は、家主がお手洗いに行ってしまっている間の無聊をスマートフォンの画面を睨むことで誤魔化していたのであった。
暖房のよくきいたリビングで覗く冬のSNSは、それこそ旬の蟹鍋のように雅趣に富み、それと同時に、砂を噛むように一切の無味乾燥でもある。
趣きがあるのかないのか、エモいのかエモくないのか、全くもって判然としないが、当座の慰みとして、手持無沙汰の感を遣り過ごすには理想的だった。
「涼介さん、涼介さん」
「どうしたの?」
「さっき草津さんが深刻そうな顔をして、スマホの画面とにらめっこしていました」
「深刻そうな顔?」
大津さんが視線をゆっくりと私の方へ向けてきた。
私の精神的な弱さを知っている彼のことだ。きっと、また私が暗愁に身を支配されてしまわないか心配してくれているのだろう。
「どうしたの? 何かトラブルでもあった?」
「いやいや、そんな、トラブルだなんて! ただSNSの投稿を眺めていて、ほんの少しだけ憂鬱な気持ちになったというか……」
「なんだって!?」
途端に、大津さんが驚愕の表情になった。まるで冬の鍋の後に不幸は許さんと言わんばかりの形相である。ちょっと怖い。
人のことは言えないが、やはり大津さんは人に気を使い過ぎる傾向にある気がする。
「悪口かい!? 悪口でも言われたのかい!?」
「いっ、いえ、違います。いつも通りの光景というか、何というか……」
「罵詈雑言かい!?」
「いや、違いますから、ちょっと話を聞いて下さい!!」
荒ぶる大津さんを制止しようと、自然と私の語気も強くなる。
「あの、えっと、上手く伝えられるか分からないんですが……。少し考えれば意図が分かるような打算的な言葉に強く影響される人っているじゃないですか」
「あー……、うん。いるね、凄く」
「そんな人たちが、人心の収攬に長けた人達の言葉によって好き勝手に操られているような感じがして……」
「嫌な気持ちになったの?」
「お恥ずかしながら……」
「なるほどねぇ……」
覚束ない現の中にあって、それでも言葉だけはと寄り縋る想いすら虚に乗じようとする者達の餌食となるならば、人間の、いや、私の生きている世界に信用のできるものなどないのではないかと、暗澹たる気持ちになったのである。
そして、私自身も、そんな言葉によって、知らず知らずの間に、人を操作したり、操作されたりしているのではないかと不安になったのである。
言葉は寄生虫のようなものだから。
目に見えない寄生虫は、いつも私の心に良くない想念を呼び起こす。
私は今、自らの狂妄を冷笑する程の精神的な余裕すらなかった。
すると、大津さんが何かを思い出したかのような仔細ありげな表情で、「これは僕が小学生だった頃の話なんだけど……」と切り出し、この僅かな沈黙を破った。
「同じクラスにA君っていう男の子がいてさ。その子が軽い虚言癖を持っていたみたいで、周りの子に嘘ばかり吐いていたんだよ」
私はただ無言のまま、続く大津さんの言葉を待った。
「それで、そんなことが続いたら、狼少年みたいにいつか周囲の信用を失ってしまうんじゃないかと当時の僕はヒヤヒヤしながらそれを静観していたんだけど、どうやら周りの子はみんなすっかりその虚言を信じてしまっている様子で、ずっとA君と仲良くしていたんだ」
虚言を弄する子と、それを信じて疑わない子。
私の脳裏に、つい先程のSNSでの光景が思い出された。
「そんなある日、A君が風邪を引いて学校に来なかったんだ。その時、僕は絶好のタイミングだと思って、クラスのみんなにA君の虚言についてどう思っているのか尋ねてみたんだよ。そしたら、今までずっと賑やかに談笑していたみんなが急に真顔になってさ。僕に何て言ったと思う?」
「A君は嘘吐きなんかじゃない……とかですか?」
「ううん……。みんなはね、僕にたった一言だけ、『そんなの全部知ってるよ』って言ったんだ」
「え……? A君の言っていたことが全部嘘だと分かっていて、その上で仲良くしていたってことですか?」
「そうなの。あの豹変っぷりは、ちょっと怖かったなぁ。何でそんな野暮なこと聞いてくるの、って感じで。まぁ、確かに当時の僕は野暮だったかもしれないけどさ」
そんなに静かに圧力を掛けてこなくてもいいじゃん、と大津さんは腕を組み、少し拗ねたような声色でそう言った。
「だからさ、草津君がSNSで見たっていう人達も、まんまと騙されているように見えて、全部承知の上で反応してあげているって可能性もあるかもしれないよ? そうしておいた方が、何かその人達の利益になることがある……とかね」
「全部承知の上で……」
「まぁ、飽くまで可能性の話だけどね。ただでさえSNSってさ、他人のことを差し置いて、『自分をこう見せたい』っていう自己プロデュースの押し付け合いみたいなコミュニケーションが多い気がするからさ」
「それは何となく分かる気がします……」
人間は自分の話をすると脳の快楽中枢が刺激される生物だという。
自己開示、自己呈示、自己顕示。言葉は様々あるが、それが本能的な欲求の一つとして人間に元々備わっているとすると、自分のことを知らしめたい、知ってもらいたいと行動する社会的動物としての生存戦略に、私は儚さと愁いを覚えていたことになる。
孤独を避けるため、社会から排斥されないため、自分という存在を忘れ去られないため。そんな理由から、人々は、ダンバー数を超越した虚構の世界の中で、人と人との繋がりを維持しようと行動するのかもしれない。
「あぁ、あと、これは最近聞いた話なんだけど。今では子供の頃からインターネット・リテラシーを身に付けさせるために、小学校のカリキュラムに情報モラル教育が組み込まれているんだって」
「へぇ、凄いですね。アルファ世代ってやつですね」
「そうそう。だから今は、若い子ほどインターネットに蔓延る嘘とか出典が怪しくて信憑性に欠ける情報とかに対して鋭かったりするのかもしれない」
大津さんの仮説を聞いて、私は口籠ってしまった。
もし、それが正しいとするならば……。
今、虚に吠ゆる一犬に踊らされている万犬というのは……。
「僕なんか若い子と比べると、もう、すっかり、きっちり、ばっちり、おじさんだからさ。何でもかんでも情報を鵜呑みにしないように気を付けないと」
そう言って、まだ二十代半ばの大津さんは笑った。
すると、私達の会話を黙って御行儀よく聞いていた座敷童子さんが、「私は今でもインターネットについて何が何やらさっぱり分かっていないんですけど……」と、静かに口を開いた。
「今の話を聞くまでずっと、インターネットの文章は全部AIによって自動で書かれたものだと思っていました……」
「えっ? 言葉を発している側だけじゃなくて、反応している側もみんなBOTだと思っていたの?」
「はい……」
「えぇ……。何そのSFホラー……」
大津さんは、座敷童子さんの照れ混じりの返答に、狼狽の色が隠し切れない様子である。
そんな中、私も彼と同様に取り乱してしまっていた。
インターネット上には自分以外の人間が存在しておらず、全てAIの描いた虚構だったら。そう考えると、心中穏やかではいられなかった。
それは、広い筈のこの世界が、急速に自分のいる部屋のサイズにまで縮まったかのような不気味な感覚だった。
今、このリビングだけが世界の全てで、閉じられたカーテンの向こうには何もなかった。
部屋の温度を快適かつ一定に保ってくれている空調装置の機械音と、錯覚のように温かい風が、私の意識の下に入って来る。この空調装置の人感センサーから凝視されることによって、私は存在を許されている。
私はこの得体の知れない冷やかな視線を紛らわすための窮余の処理として、その場凌ぎの質問を投げ掛けることにした。
「大津さんは、この世界に吐いていい嘘って存在すると思いますか……?」
「う~ん、どうだろうねぇ……。基本的には吐かない方がいいと思うけど……。それでも、自分でその言葉の責任が取れるなら……」
「言葉の責任……ですか」
「いや。やっぱり吐いていい嘘なんて存在しないんじゃないかなぁ……」
答えは何だってよかった。自分は一人ではない。会話をして、そう実感することが目的だった。
「嘘はダメです! 法律で罰せられます! 知らないですけど、きっと針千本の刑です!」
突然、座敷童子さんが、夥しい数の法律書が並べられた本棚を指差し、そう明言した。
それに対して、大津さんが――
「正解! この国の刑法によれば、虚偽の風説を流布した人は、み~んな針千本の刑に処されます!」
仮にそれが本当ならば、真っ先に針を千本飲み下さなければならないであろう発言をした。
あの絢爛豪華だった蟹鍋を突いた後に、まだ千本も針が入る胃のゆとりがあるとは。流石、大津さんである。
そんな冗談が浮かぶ程度には、私の心にもゆとりが生まれ始めていた。
「虚偽の風説と言えば、現代では虚偽の風説によって生まれた妖怪もいるらしいですね」
私は、少し思案した後、この心の余裕に乗じて、大津さんや彼に憑いているという座敷童子さんに共通していそうな話題を投げ掛けてみることにした。
今日に至っては、幽霊や妖怪変化の類が、噂の領分を超え、現実に影響を及ぼし得る存在として、形作られる仕組みが明らかになっている……らしい。
「虚偽の風説っていうと、都市伝説みたいなものかい?」
「そうです。口裂け女とか、テケテケとか」
「あー……、聞いたことあるなぁ……。確か、人面犬もそうだったっけ? テレビやラジオを通じてブームになったとかいう」
「いましたねぇ、人面犬。懐かしいなぁ……」
「懐かしいなぁ……。人面魚とかもいたよねぇ……」
「あー……、懐かしい……」
人面の妖怪の姿を追懐して遠い目をしている怪しいおじさんが、ここに二人である。
そんな懐古の情に浸って一向に帰ってこない私達に、幼い少女の声が届いた。
「人面の妖怪は、別に犬や魚に限った訳ではないんですよ」
「えっ、そうなの?」と、おじさん二人の声が重なる。
「生きとし生ける物全てが、人面の妖怪になり得ると言われています」
創作だった筈の世界が、たった一言、妖怪の少女の放ったその一言によって、物凄いスピードをもって現実に差し迫ってきた。
「何それ、怖い……」
大津さんが、まるで胃の底から自然と込み上げてきたかの如く、そう呟いた。
「それだけじゃないですよ。命を持たなくても、歳月を重ねた道具や、自然界に存在する鉱物類……」
「怖い怖い」
「何なら、暗闇……というか、何もないところ、虚空そのものにも人の顔が浮かびがちだったりします。ほら、今だって! そのカーテンを開ければ、幽暗な夜の世界一面に巨大な人の顔が浮かんでいるかもしれません!」
「えぇ……。何そのホラー……」
大津さんは、座敷童子さんの悪戯な笑みに、分かりやすく動揺してしまっている。
そんな中、私も彼と同様に取り乱してしまっていた。
今、このリビングだけが世界の全てで、閉じられたカーテンの向こうには何もなかった。
ただ、巨大な人の顔が浮かんでいるだけの。
虚無。
すると、再び心中穏やかではいられなくなった私の耳に、何かが聞こえてきた。
空調装置の機械音ではない。
それよりももっと儚く、愁いを帯びた――
遠くで犬が吠えている。
何か良くない想念に呑まれそうな夜だった。
お読みいただき、ありがとうございました。
おまけ・第六話は草津直の視点でのお話でした。
草津直は、ある出来事のせいで妖怪の姿を視認できるようになった、本編のメインキャラクターの一人です。(※本編・第三話、第五話、第八話、第十話、おまけ・第三話に登場しています)
時系列と致しましては、本編・第五話の近くの物語で、まだ彼が病み期から快癒しきれていない時期のお話となっております。
かなり久し振りの投稿になりましたが、今後も不定期に更新していく予定ですので、お付き合い頂けたら幸いに存じます。




