第三話 白鶺鴒 <後編>
「さっきの患者さん、キミが見えてたみたいだった」
隣に立っている看護師に、私は声を掛けた。
しかし、彼女は少し首を傾げただけで、何も返さなかった。
私はカルテの上にボールペンを放り投げ、大きく伸びをした後、凝り固まった筋肉に残る余韻的な倦怠感に上半身を捕らわれたまま、緩慢な動作で自分の白衣の皺を整えた。
私の隣で黙然としている彼女は、どういう訳か、今まで私以外の人間に視認されたことが無かった。
「珍しいこともあるもんだ」と、私は独り言を呟く。
相変わらず佇立したまま私を見続けている彼女には、今回も返事が無いことへの私の諦観が伝わっていないようだった。
私は彼女と会話をすることができない。こちらが話しかけても彼女は黙って首を傾げるだけで、それに対する返答は一切望めないのだ。
しかし、言葉の意味は理解できているようで、この前冗談のつもりで診察の補助を頼んでみたら、予防接種の際などに患者の腕を支えるようになった。ただ、患者は彼女を視認できないのと同時に、彼女に触れられていることにも気が付けないようではあるのだが。
そんな彼女は、私と出会った時から変わらず、見る人によれば煽っているようにも受け取れる、黙秘のスタンスを堅持し続けている。彼女の口元を隠す大きなマスクは、決して声を発すまいという頑なな彼女の意思表示なのかもしれなかった。
なので、私は彼女の声を聞いたことが無い。
あの一言を除いて。
「私、綺麗……?」
私と彼女が初めて出会ったのは、私が職場のレディースクリニックから帰る途中だった。
顔の下半分を覆う大きなマスクをつけて、寂れた商店街の深夜灯の下、独りポツンと立ち尽くす真っ赤なワンピース姿は、獲物を待つ不気味な化け物にも見えたし、派手な衣装のコスチュームプレイヤーにも見えた。
――口裂け女?
幽霊のようにか細い彼女の声を聞いても猶、私は単純に悪戯だろうと思った。口裂け女の都市伝説など信じていなかったからだ。
一昔前に流行し大いに恐れられた口裂け女だが、それはもう使い古されてしまっていた。時間と共に伝説は風化し、今となっては、もう誰も口にしていない。
――いやぁ、私もお人好しだな。足を止めてしまったからには何か応えてやった方が良いか。確か、綺麗と返答したら、マスクを外して、包丁を持って追いかけてくるんだったか。……フフッ、まさかね。
都市伝説の内容を思い返し、その不気味さを打ち消すように、「う~ん。中の上? いや、待て。中の……中くらい?」と、私は少し意地悪な返事をしてみることにした。
しかし、彼女はこちらを眺めながら不思議そうに首を傾げるだけで、その他の反応は無かった。
もう少しリアクションをとってくれてもいいのに、という危機感の薄い不満の発露と共に、私は一つの小さな溜め息を吐いた。
――もしかして、YESかNO以外は受け付けないシステムなのか?
出合い頭に綺麗かどうかを尋ねられても、私は“美”という価値判断に頗る疎かった。基本的に機能美ないしシンプルイズベストを重視しているつもりではあったが、ファッションにしても最も美しい服は白衣だと思っていたから。私服でも着られるものなら着たいと何度思ったことか。
ファッションの“流行”は繰り返すというが、その繰り返される輪廻の中に、白衣が組み込まれていればいいのに。仮に組み込まれていないというのならば、美のカリスマやインフルエンサー、ファッションモンスターなどが流行らせてくれないものだろうか、白衣を。窮極、何かの手違いでもいい。――といった狂想的な煩悩が私の意識を侵し始めた。
今思えば、それは眼前の薄気味悪さに対する逃避だったのかもしれない。
その逃避の中で、都市伝説の“流行”も繰り返すものなのだろうか、というよく分からない疑問が立て続けに浮かび上がった。昭和の終わり頃に風説の最盛期を迎えた口裂け女の都市伝説が、実際に私の目の前に顕現していることを思えば、そこに何処か周期的なものを感じざるを得なかったのだ。
喉を絞められた鶏の声のような、短く濁った深夜灯のショート音によって我に返った私は、まじまじと眺めると意外にスタイルの良い彼女に向かって、「いや、やっぱり美の価値基準を私に委ねないでくれ」と、一言だけ口にして、その場を後にすることにしたのだった。
少し先の曲がり道で振り返ってみると、独り街灯の下に佇む彼女には美に対する執着はこれっぽっちも見られなかったし、況してやそれに起因する殺意がマスクの内に秘められているなど、私にはどうしても思えなかった。
まるで誰かを待っているかのような彼女の直向きな姿に哀愁の陰が見えた。
彼女が口裂け女だとは、まだその時は断定することができなかった。
それから、私と彼女が二度目の邂逅を果たしたのは、翌日の昼だった。
私は前日、クリニックに財布を忘れてしまっていたので、休日だというのに態々職場まで取りに行かなければならなかったのだ。
家からクリニックまでの道程である人気の少ない商店街を俯いて歩きながら、昨日の自分に対してぶつくさと文句を呟いている私に、聞き覚えのある言葉が投げ掛けられた。
「私、綺麗……?」
顔を上げると、昨日と同じ錆び付いた街灯の下だった。
彼女は虚ろな目をして私を見ていた。日中ということもあり、少ないとはいえ昨晩と比べると人通りがあるというのに、彼女は誰にも相手にされていないようだった。
確かに、悪戯にしては度が過ぎていると思うし、善良な市民達がかかわり合いになりたくないとする気持ちも充分に理解できる。それでも、誰一人として一瞥すらしない通行人の素振りは、異様だった。
「キミ、まだいたのか……。あ、いや、違う。ノーコメントでお願いします」と、驚きが隠せない私は、無難な回答で彼女の表情を窺う。
やはり彼女は、昨日と同じように、ただ首を傾げるだけだった。
疎らな通行人の流れが、呆然と足を止めている私の背後を断続的に過ぎ去っていく。その頼りない流動には、うらぶれた商店街に閉塞している異物を押し流す力は無かった。
「悪戯かい? それとも何かの撮影とか?」
私はただ目的が知りたかった。しかし、彼女は一言も話さない。
「……じゃあ、もう行くね」
クリニックで財布を得た後、私はいつもの商店街を大きく迂回して帰ったのだった。
「ただ、毎日遠回りするって訳にもいかないしねぇ?」と、私はナース服の彼女に同意を求めてみる。
草津直とかいう不思議な男との出会いの後、今日一日の診察を終えた帰りの道すがら、相も変わらない空虚な商店街の灯火に照らされ、相も変わらない空虚な瞳に私が投影されている。
彼女は何も応えない。
数日間続いた私の通勤経路の変更は、面倒、という純粋なる私の怠惰によって破られていた。
雨風は防げるとはいえ、誰にも相手にされず、毎日、当て無く待ちぼうけで立っている姿は、私の心をチクチクと痛ませ続けた。絆された……と言ってもいいだろう。ある日――今日のような静かな月夜の帰り道、何を血迷ったか、気が付けば、「待ってる人来ないの? ここ人通りも少なくて危ないからさぁ、家来る?」と、彼女に打診している私がいた。
彼女を本物の口裂け女だと断定したとしても、また、人々が寝静まった頃か白昼堂々かは知らないが、彼女が実際に不特定の標的を襲っていたとしても、私だけは大丈夫という謎の自信が、その時の私には確かにあった。
何度も顔を合わせていると次第に親しみを感じるようになっていく――単純接触効果というものが心理学の用語にあるが、相手が顔の大半を覆う巨大なマスクをしている場合にも適応されるかどうかは、私は知らない。しかし、彼女との度重なる接触が、私に何らかの影響を及ぼしているようにも思われた。
閑散としたシャッター商店街を抜け、私が彼女を勧誘した日にも似た朧月の薄明かりを浴びながら暫く歩くと、二階建てのアパートに着いた。
一階の端、稲枝茜と書かれた表札の前で、鍵を回す。女の独り暮らしにも拘らず、本人の氏名を掲げておくのは、防犯上の観点からしても良くない気はしている。我ながら。
玄関で靴を脱ぐと、私の真似をして、彼女もいそいそと履いていた赤いパンプスを脱ぎ出す。私は、彼女のこの物馴れない様子を毎日眺めているのだ。噂に聞く恐ろしい口裂け女の姿など、彼女の痩身に重なる筈も無かった。
うい奴め、と私は含み笑いをしながら、「食事にする? お風呂にする? それとも、わ・た・し?」と、使い古された定番の冗談を投げ掛けてみる。
「私……」
「おぉ! 遂にキミも、私の冗談が通じる様に!」
「……綺麗?」
どこまでも私の期待を裏切る返答に、私は危うくその場に頽れてしまいそうになる。
裸足になった彼女が、首を傾げながら私の返答を待っている。
「……世界美貌ランキングがあったら、キミはね、丁度中間だよ」
私は少し呆れながらそれに応えた。
彼女は、いかなるときであってもマスクを外すことが無い。それが食事の時であっても。これは物凄い拘りだと言っていい。
ただ実際は、そもそも彼女は食事をとらない。少なくとも出会ってから数か月が経ったが、一度も目にした例がない。彼女のために食事を用意したこともあったが、彼女は全く手を付けなかった。
他人に視認されないことも含め、やはり彼女は人外の存在なのだと思う。
私の熟睡中に、こっそり何かを食べているのかもしれないが、食費が掛からないというのは、こちらとしては有り難い話だった。家計に響かなくて良い。
そういえば、自己犠牲なんて言葉があるが、思い返してみると、私は他人の為に一肌脱いだという経験に乏しかった。ただ、それと同様に、他人に一肌脱いでもらった経験というのも余り無かった。
これは飽くまで言葉遊びに過ぎないが、鳥類の孵化や爬虫類の脱皮のように、何か身体を覆うものを一枚脱ぎ捨てると人間的に大きくなれる――そんな精神的バイオミミクリーには価値が無いと私はずっと思ってきた。
だけど、近頃の私はどこか変で、それでも心の余裕くらいは生まれそうじゃないか、と思わされ始めている。
流行は文字通り、流れ行き、いずれ再来する。
仮に彼女が都市伝説の一つに挙げられる存在だったとして、過去の隆盛を踏まえた上で渡り鳥のように再来したというのならば、それは彼女としては喜ばしきことなのかもしれない。
ただ、彼女が恒久的に不死たる存在だったとするならば、私が視認できるようになるまでの長い間、彼女はずっとあの壊れかけの街灯の下で待っていたということになるのかもしれない。その土地で越冬する留鳥のように。
それは少し気の毒な気がした。
――無謀だったかもしれないけれど、自己犠牲の動機としては充分じゃないか。
黙ったまま私を眺めている彼女に、私は黙ったまま微笑みかけた。
彼女は何も返さなかった。
私は満足だった。
お読み頂き、ありがとうございました。
コンビニの駐車場で、短く啼きながらスタスタ歩いているハクセキレイの姿を見かけて、このサブタイトルの着想を得ました。てっきり渡り鳥かと思っていたのですが、どうやら留鳥なんだそうです。
おまけ・第三話全体のテーマは「流れ」となっており、流行を中心として、随所に「流れ」を鏤められるよう執筆致しました。前編は本編メインキャラの視点となっているのですが、後編では一転して、本編にも登場していない全く新しいキャラクター稲枝茜の視点となっております。楽しんで頂けていたら幸いに存じます。




