第三話 白鶺鴒 <前編>
とある冬のお話。
私は今、とてつもなく緊張している。
しかし、そろそろ覚悟を決めなければならない。
駐車場に立つ私の前には、温かみのある木製の装飾が加えられた、一面オフホワイトの建造物が待ち構えている。
不肖、草津直。
男一匹、産婦人科である。
私は意を決して重い一歩を踏み出す。
自動ドアが開くと、既に下駄箱から異様な空間が広がっていた。
まず、素敵な香りがする。
下駄箱の上に生けてある大振りの白百合の香りかと思いきや、その隣に置かれた茶色の遮光瓶から伸びているアロマスティックの香りだった。
続いて、男物の靴の少なさに驚かされる。
当然と言えば当然ではあるのだが、ふくらはぎまですっぽりと隠れるようなブーツなどの女性用靴を見ていると、私はこれから男子禁制の空間に足を踏み入れるのだ、という身の引き締まる思いがした。
水色とピンク色の男女児用スリッパと、象牙色の大人用のスリッパが並べられている。大人用を手に取ると、そのサイズは女性専用という訳ではなかった。
――そうだ! 産婦人科とはいえ妻に付き添う夫もいるじゃないか!
ほんの少しだけ気が楽になった私は、下駄箱と待合ホールを隔てている重厚なガラス扉を軽やかに開け放つ。
受付カウンターの内に、長い茶髪を後ろで一つに束ねた女性が見えた。数歩進むと、待合ホールのソファーに、妊婦や子連れの若い母親、女子学生など数名の女性達が座っているのが視界に入ってきた。何ならその中には金髪の白人女性さえいた。
もう見事に私以外の男性は存在していなかった。
全てが女性のための空間だった。
それら全ての視線が一堂に会する私の瞬間視聴率は、トレンディドラマのそれを軽々と超越していた筈だ。そして、その視線一つ一つに、暖かい陽だまりのような慈悲の光は無かった。微塵もだ。
「先日予約した草津と申します」と、私は震える声と手で保険証を受付女性に渡しながら、この完全なるアウェイの状態に、これは孤独な戦いになると唾を飲み込んだ。
被害妄想に違い無いと分かっていながら、問診票に丁寧に回答している私に刺さる女性達の視線が、どうしても冷たいように思われてならなかった。とりわけ、一番近くに座っている金髪の白人女性からの圧力が強く感じられた。
彼女からしてみれば、女性の領域に男性が入り込むなんて、直ちにゲラウェイフロムミーな訳である。私だって、できることなら問診票を投げ出し、今すぐラナウェイしたいくらいなのだが、私の脇にしっかりと挟みこまれている病院の体温計がそうさせない。うっかりテイカウェイして盗人になる訳にはいかない。私は何処かファラウェイの一点を眺めながら、ひたすら沈黙を貫き続けた。
どこからどう見ても健康体の男が何故、近所にある産婦人科のクリニックで受付なんぞをしているのか。それは、全て流行性感冒——通称インフルエンザの所為と言っても過言ではない。
信じたくは無かったが、どうやら私は流行というものに酷く疎い性質を有しているようで、インフルエンザウィルスが猛威を奮っているときには頗る元気なのだが、流行が落ち着いてきた頃に限って必ずと言っていいほど罹患する。しかもそれが丁度仕事の繁忙期と重なっていることが多く、特に去年は大層難儀を強いられることとなった。非難囂々というやつだ。
なので、今年は予め対策を練り、早めにワクチンを受けることに決めたのだ。
しかし、今年はワクチンの製造中にインフルエンザ株の種類が急遽変更になったとかで、ワクチンの絶対数が例年を大幅に下回っているらしく、私が医療機関を散々探しあぐねた結果、辛うじてここに残っていたという訳なのだった。
予約の電話をした時、「土曜日は十二時までが診察で、午後から予防接種の予約を承っているんですが、問診票の記入などがあるので、十五分前には御来院下さい」と、言われていたので、私は少しの間この待合で時間を潰さなければならなかった。
腕時計を確認すると、現在十二時の二十分前だった。
静寂。この全員ウィミンの静かなる異空間に、私の脇の間から、無情にも体温計の電子音が鋭く響く。
私の体温よ。緊張と恐怖で下がっているのか、それとも羞恥と狼狽で上がっているのか。
私は恐る恐るデジタル表記の体温計を覗き込み、問診票の右上に、そっと平熱を書き記した。
すると突然、ある母親の隣に座っていた女の子が「お腹すいた!」と、大きな声で叫んだ。
その声に驚き竦み上がった私は、宥める母親と紅葉のような掌を振り回す女の子を横目で静観しながら、そういえば私も腹が減っていると思った。
このとき、私は一つの真理を悟った。
あぁ、そうだ。そうなのだ。
ここにいるのは、大人も子供も、男性も女性も関係ない。みんな同じ人間なのだ。
一見深いようで、冷静に考えると近所の小川のように浅い真理。しかし、すっかり悟入した気分でいる私は、一転、流れる水のような滑らかさで、空いているソファーに座ろうとした。
「草津さん! 診察券をお忘れですよ」
「あ、すいません」
「ここに書かれた番号でお呼び致しますね」
「はい」
揚々と受け取った診察券を見ると、可愛らしいピンク色の縁取りの中に、女性的な丸文字で「草津直」と記されていた。
こうして私は、男性ながら、齢二十半ばにして、遂に自分の名の入ったレディースクリニックの診察券を取得することとなったのだった。立派なものである。これで一人前である。
精神的に貧弱な私は、もはや自分が男の中の男であると断言できないでいる。
加えて、この矛盾と違和感、周囲への申し訳無さも相俟って、すっかり消沈してしまい、ふかふかのソファーの隅に、未だ嘗て無いくらい浅く腰掛けた。もう尾骶骨しか引っ掛かっていない。
呼ばれた瞬間に番号を確認できるよう、黒のロングコートのポケットに、手渡された診察券を直にしまう。
そこで私は、改めて自分の格好をチェックしてみる。
ニット帽にメガネ、そしてマスク。
そして、この陰気を極めた黒一色の服装。
今日に限っては、靴下まで黒だ。
私は今、完全に怪しく仕上がってないだろうか。
総合的に見て、完全に怪しく仕上がっているのではないだろうか。
そもそも、どうしてこんなに怪しい格好になってしまったのだ。冬か。冬の仕業か。
自宅からこのクリニックまでは徒歩で十分弱。血中の二酸化炭素を少しでも吐き出そうと、マスクの上部から漏れ出す荒めの息が、黒縁のメガネを白く曇らせている。そして何より、焦りの所為か、挙動が普通でなく、私の一挙手一投足には、まるで落ち着きが見られない。これでは危ない。控え目に見ても危ない。
不審者である。それはもう、確定的なものである。
私は、隣でスマートフォンを操作している若い女性の指の滑りが、然るべき警察機構への通報でないことを、ただただ祈るしかなかった。
私の居場所なんて初めから無かったのだ。
居た堪らなくなった私は、ソファーの上でなるべく目立たないように縮こまり、少しでも身体の表面積を減らそうと尽力することにした。
白衣のナースが、次々と番号を呼びに来ては、診察室に女性達を率いていく。
そして、空いた席に加わる人も無論、女性である。
予防接種の順番待ちの女性達は、きっと来院経験のある方々なのだろう。問診票を記入する姿も手慣れている。
自動ドアが開く度、入り込む外気が沁みるように冷たく感じられる。
私は、所在無げに自らの掌を眺めた。
細長く骨張った男の指が、青白く冷えていた。
スマートな指だな、何か音楽でもやってたのか、と職場の先輩に言われたことを思い出す。
――そういえば、ピアノを習っていたこともあったな。
ただそれは、それこそ私の掌がまだ紅葉のような時分の話であり、今となっては一曲もまともに弾けるものが無い。
天井近くに設置されているスピーカーからは音楽が流れていない。正午を過ぎ、診察時間が終了しているからなのか、それとも私が足を踏み入れた時から既に何も流れていなかったのか。
せめてリラックス効果のあるピアノのクラシックが流れていてくれたら、この緊張も少しは和らぐかもしれないのに。
そして何より、いつ鳴き出すか分からない気紛れな腹の虫に対して、余計な気を使わなくて済むのに。
私は、そんな子供のような我が儘を、ぽつりと脳内で呟いた。
それから暫くの間、私は一心に掌を眺め続けた。
周りを見渡す勇気が無いからだ。
視線が合うのが怖いのだ。
頭の中では、目が合ってもどうなる訳でも無いことは分かっている。しかし、どうしても、この強迫観念に捕らわれてしまうのだ。他人の顔をジロジロと見るのは失礼というどこかで聞いたような道徳心がそうさせるのか、それとも、もっと別の何かなのか。
擦れ違い様などに他人と目が合うと、何だかとても嫌な気持ちになる。私のつまらない顔など幾ら見てくれても構わない。しかし、こちらから相手の顔を見ることに拒否感を覚えてしまうのだ。
どう嫌なのかを例えるならば、ありえない話だが、包丁専門店でガラスの棚に陳列された沢山の包丁の全てが、刃の横腹ではなく、切っ先をこちら側に向けていた場合が近い気がする。
別に棚の中の切っ先が雁首揃えてこちらを向いていたとしても、危険なんぞ一切無い。しかし、きっと誰もがどこか嫌な気持ちになる筈だ。
この場合であっても、日常生活で支障を来すくらい強い感受性を有しているのならば、先端恐怖症という強迫性障害の一種に該当することになるのだろう。
ただ嫌というだけで、日常的に支障が無く、意識をすれば視線を合わせることも可能な私の症状なんて、まだまだ軽微なものだ。視線恐怖症とは言い切れない。きっと私なんかよりも重篤な症状の方は、世の中に幾らでも存在しているに違いない。
そんな風に私が自身の精神世界をフラフラと探訪していると、遂に私の番号が呼ばれた。
狭い診察室には、妙齢の女医が待ち構えていた。
「念の為、名前を仰ってください」
「はい。草津直です」
「はい、では、そこにお座りになって、利き腕と逆の方の袖を捲って下さい」
私は左腕の袖を捲れるだけ捲り、マスクを下にずらす。
女医に顎を優しく触れられ、喉の赤さを丁寧に確認された後、私の利き腕では無い方の二の腕は、大きなマスクをした純白のナースの支えと女医のアルコール消毒により、もみくちゃのなされるがままであった。
「少し……チクっとしますよー……」と、悩ましげな声で女医が言った。
針の刺されるチクリとした痛みよりも、ワクチンが皮下に注入されるジワジワとした痛みの方が大きく思えた。
潤いの乏しい乾燥した腕を隠す為、直ぐに袖を下し、いそいそと不審者的コートで身を覆う。
「ありがとうございました」と、ナースと女医に会釈をしながら診察室の扉から出てきた私は、不思議と乙女の心持ちだった。
会計待ちの間ソファーに深く沈み込む私の姿は、清く正しく美しかった筈だ。
もう私が男であるという信憑性は消え去ってしまった。
そう。恒久的な概念など、この世には何一つないのだ。もはや性別でさえも。
すっかり恐いもの無しとなった私は、その後、実に正々堂々と会計を済ました。背後に差し迫るウィミンの視線はもう気にならなくなっていた。
来院時にも感じた仄かに漂う花の香りが、私の疲弊した脳内に浸透し、白い花園の印象を強く残した。
自動ドアが開く。黒いスニーカーに足先を入れただけの状態で、私はヨチヨチと外に出る。
緊張で固まった全身の筋肉をぐいと伸ばすと、マスクの隙間から凜冽な寒風が入り込んだ。紅潮し続けていた頬が冷まされて爽快だった。
靴紐を結ぼうと駐車場に蹲ると、小さな小さな赤い紅葉が数枚散らばっていた。
すると、近くで白鶺鴒の啼く声がした。
屈んだ姿勢のまま辺りを見回したが、クリニックの前を一台の車が走り去った他、私の視界に動くものは何もなかった。
私は、両手で靴紐をしっかりと結び、立ち上がる。
辺りの製紙工場から立ち上る煙が高く、透き通るような冬空を擽っている。
左の二の腕に淡い痒みを感じながら、私は陽だまりの中に一歩を踏み出した。
お読みいただき、ありがとうございました。
おまけ・第一話および第二話は春のお話でしたが、第三話は一転冬のお話になっております。楽しんで頂けたでしょうか。
草津直は、ある出来事のせいで妖怪の姿を視認できるようになった、本編のメインキャラクターの一人(本編・第三話、第五話、第八話、第十話に登場)です。何事にも熟考する性格なので執筆の際は色々と大変なキャラなのですが、個人的にとても思い入れの深い人物です。
視点となる人物は変わりますが、後編も近い内に投稿する予定です。引き続きお付き合い頂けたら嬉しく存じます。




