第二話 第一次宿主会議
平年よりも三度程気温が下がるという天気予報を聞いて、まだ衣替えの済んでいないクローゼットの奥から上着を引っ張り出す。マンションの最上階の窓から見える湖は曇天を映し、まるで表面を荒く研磨した鏡のように鈍く輝いている。
晩夏が物凄いスピードで通り過ぎ、秋がやって来た。
「凛さんのお家、楽しみですね!」
深紅の小袖に男物のストールという珍妙な服装の座敷童子さんが、着替え中の私に向かって、上機嫌に言った。
妖怪にしてみれば気温の変化など関係ないとは思うのだが、座敷童子さんのむき出しの細い首は見ている私をゾクリとさせる。なので先程、彼女の首回りに、私の黒いカシミアのストールを巻いてやったところだ。
「そうだね」と、普段通りの表情で答えるが、実は私は少し緊張している。
それは、あの嵐のような電話の翌日、凛さんから昨晩の絡み酒の謝罪と「今週末、空いてますか」という連絡が入り、職業『大家』とは言うものの、ニートに程近い何かである私にとって、週末に特段用事がある訳はなく、私は遅滞なく「空いてますよ」と返事をしたのだが、改めて詳しく話を聞いていくと、どうやら新しく見つけた宿主も招いて、『第一次宿主会議』という抜群に怪しい催しを凛さん宅で開くそうだったからである。
私も含めてだが、出会ったばかりの有象無象をホイホイと家に連れ込む凛さんの豪気さに少し戸惑っている。しかも、どうやら現在、来客用の駐車場の空きが無いらしく、直ぐそこだからと私達を車で迎えに来てくれるらしい。
些か男前過ぎやしないか。
私は、座敷童子さんと色違いの、グレーのストールの柔らかさを首筋に感じながら、いっそ顎からカシミアが生えたら良いのに、と剃り残しの顎髭を見つけて、いそいそと洗面台へ向かうのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
待ち合わせ場所であるコンビニの駐車場に私達が到着すると、指定された時間より少し早い筈なのに、凛さんのパステルブルーの軽自動車が停まっていた。
「すいません。お待たせしてしまいました」
「けむおに煙食べさせようと思って、少し早めに来ちゃった」
コンビニの壁に凭れていた凛さんが、こちらに近付きながらそう言うと、けむおが、喫煙所の方からふわふわと、無表情ながらどこか満足気に戻ってきた。
「凛さん、けむおさんこんにちは」と、座敷童子さんが頭を下げ、丁寧に挨拶する。
「はい、こんにちは」と、凛さんはその頭を優しく撫でる。「あれ? 涼介君、何か前会った時より痩せた?」
「いえ、相変わらずですよ」
大学生時代から現在に至るまでの数年間、私の体重はほぼ変わっていない。平年値を大幅に上回ったことも下回ったことも無いというのに、私は再開を果たした方々からよくこの言葉を頂戴する。
「本当? 宿主になかなか馴れなくて窶れたんならどうしようと思っちゃった」
「まだまだ分からないことだらけですけど、なんとか元気にやってますよ」
「元気なら良かった。じゃあ家で一人待たせてるし、そろそろ行こうか!」
凛さんは溌剌とした様子で車の鍵を開けた。
「えっ、待たせてるんですか? 大丈夫なんですか?」と、私が聞く。
会ったばかりの人間に留守番をさせるなど、それはもはや男前とかいう域を大きく逸脱している。無鉄砲が過ぎる。
「新しく見つけた宿主って、私の大学時代に仲良かった後輩なのよ。彼女の妖怪とは今回が初対面なんだけど。あれ、言ってなかったっけ?」
「いや、聞いてませんよ……」
前と同じように後部座席の扉を開け、華麗にエスコートしてくれる凛さんの紳士的な仕草を見ながら、私はそう呟いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ほんのりと心地良い芳香が漂っている。フローラル系の甘い香りの中にミントのようなツンとしたフレーバーが混じっていて、私は花について全く詳しくないが、何となく高級そうな花の香りだと思った。
「こら、けむお! アロマは食べられないから!」
アロマディフューザーから立ち上る水蒸気を次へ次へと喰らい尽くそうとしている煙々羅のけむおを凛さんが叱りつける。
見事な食べっぷりである。
香りから察するに、このミストはさぞ美味かろうと思う。ただ煙々羅は、水蒸気ではエネルギーを補給できないそうなので、本当の意味でけむおの腹が満たされることは無いだろう。
しかし、ついさっき喫煙所で煙を食べてきたというのに旺盛な食欲だ。育ち盛りなのだろうか。
15帖程の1Kの凛さん宅は、なんとなく想像していた通り、女性らしさや可愛らしさというよりは、機能性や快適性に重きを置いたシンプルなデザインのインテリアが揃えられていて、素朴で落ち着いた印象の部屋だ。私達は今、その中央に置かれた木目調のテーブルに座っている。
「ふー。では、少しバタバタしましたが、紹介します。こちらが、私の大学時代の後輩、ゆいちゃんです」
「も、守山ゆいと申します。宜しくお願いします……」
守山さんは、やや緊張気味に、深々とお辞儀をした。オフホワイトのニット帽から溢れ出ている栗色の髪の毛が柔らかそうに揺れ、ぱっちりとした大きな目も相まって、なんとなく可愛らしい子犬のような印象を受けた。
「大津涼介です。こっちに座っている座敷童子さんの宿主です」
「座敷童子です。宜しくお願い致します」
互いの自己紹介が終わったところで、私は守山さんの妖怪の姿が無いことに気付いた。
「守山さんも、その。宿主の方なんですよね?」
「えっと……。はい……」
そう言うと、守山さんは顔を赤らめながら恥ずかしそうに俯き、被っていたニット帽を脱いだ。
すると、頭頂部付近の髪の毛からぱちくりと二つの目が生まれ、まるでウィッグが外れたかのように髪の毛の塊がテーブルに跳び移った。
それは、ブルブルと全身を振るわすと、守山さんの毛色である栗色から墨に近い黒色へとカメレオンのように体毛を変化させた。
私が驚きの余り声を失っていると、けむおが笑っているような無表情のような不思議な顔をしながら興味津々にその毛玉の周りを漂い、その毛玉はブシュンと小さなくしゃみをした。どうやら守山さんの妖怪には鼻らしき器官があるようだ。
「この子が私の妖怪なんです……」
そう言う守山さんの頭頂部は、毛玉を放出する前と比べて、髪の毛のボリュームがほんの少しだけ減ってしまったようにも見える。
「か、可愛い……」
凛さんは、その毛玉を見ると、立ち所にメロメロになった。どうやら彼女には、妖怪を見ると直ちに骨抜きになってしまうという性質があるのかもしれない。
「私、妖怪とかに全然詳しくないので、取り敢えずポチって呼んでます……」
――ポチ。
犬の名前のようではあるが、けむおの例に洩れず、この妖怪は、とても私好みの潔い名前をしている。
「君は、ポチちゃんっていうの? ヨーシヨシヨシ……」
突然、凛さんがポチを物凄い勢いで撫で回し始めた。もう完全に堪能してしまっている。
ポチは目を伏せながら、その強圧的ヨシヨシを甘んじて受け入れている。諦念か、それとも忍耐か。
「この子は、毛羽毛現という妖怪なのです!」
それを見ていた座敷童子さんが、得意気な顔で言いながら、自分も褒めて貰おうとこちらを窺っている。私は、その頭をそっと撫でてやった。
「けうけげん……ですか?」と、守山さんが聞き返す。
「はい。ただ、毛羽毛現が出たお家は何か良くないことに見舞われるという言い伝えがあります」
座敷童子さんは、褒めて貰えて嬉しそうだった表情を少し強ばらせて、そう言った。
「良くないこと……。そう! 私、ちょっと困ってるんです!」と、守山さんは泣きそうな声を上げた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
時に、私は紳士である。
北に酔っ払って愚痴を吐く淑女がいれば、行ってサンドバッグになってやり、南に泣きそうな顔をしながら困っている淑女がいれば、行って親身に話を聞いてやる準備がある程だ。
些か聞いてばっかりの身分のようにも思うが、「体の毛って、まさか……も?」と、ヒソヒソ耳打ちをしている凛さんや、その問いに耳まで真っ赤にしながらコクリと首肯する守山さんを見ても、決して邪な想像をしてしまわない程に、紳士なのである。いや、本当に。
「最近ポチが私や家族にイタズラをするようになったんです」
それが、守山さんの相談事だった。
話を聞き進めると、普段守山さんの部屋で飼われているポチは、私達の例に洩れず、床に落ちた髪の毛や飼い猫の抜け毛をエネルギー源とする為に綺麗に食べてくれるそうなのだが、時折触れている人の体毛を増やすそうなのである。しかも、それは髪の毛だけに限った訳でなく、身体中のどこかの毛を気紛れに増やしてしまうらしい。
「初めてそれに気が付いたのは、父が興奮した様子で育毛剤の効能をやたらと褒め出した時でした」と、頬の赤らみが未だ引かない守山さんが言う。
リビングのソファーで寝ていた父の腹の上に跳び乗ったポチが、急に風船のように膨張したと思えば、それが縮むと同時に、お父さんの毛量が少し増えていたそうである。
「あらら」と、凛さんが苦笑いをする。
「私も何度かやられたことがあるんですが、フサフサにされた飼い猫のチャッピーを見つけたり、私は三人姉妹弟なんですけど、妹や弟……最近では、黒子がある訳じゃないのに何故、と右手に不自然に生えた一本の長い毛を眺めながら弟が呟いているのに遭遇したり。私の目の届かないところでもやってるみたいなんです」
「猫ちゃんはギリギリ誤魔化せそうだけど、弟君の手々毛は冷や汗ものね」と、腕を組んだ凛さんが、真剣な顔をして言う。
私は、その真面目な顔つきから発せられる手々毛という奇天烈な表現がツボに入ってしまわないように、気をしっかり保つ必要があった。
「このままだと関係の無い人とかにも迷惑をかけてしまいそうで」
道行く人に対して無差別に手々毛なる物を生やして回るようでは、確かに少し心配だ。
「それは困るわね。最悪、警察に捕まっちゃうかもしれない」
「警察!?」
「いや、最悪の場合よ。最悪の場合」
――(法律パート)――
確かに過失(わざとではないこと)によりペット等が人に暴行を加えた場合、その暴行により人が怪我をしたなら、それは刑法209条1項による過失傷害罪に当たり得る。ちなみに、ペットによる暴行があったとしても、それによって特に怪我が無い場合は原則として犯罪を構成しないので、警察のお世話にならなくて済む可能性がある。
ここで、妖怪の摩訶不思議な力によって他者の体毛を増やすという行為が「人の身体に向けた有形力の行使(暴行にあたるかの判断基準)」に当たるか、また、仮に当たるとしてもそれが「生理機能や健康状態を害する(暴行か傷害かの判断基準)」といえるかどうかは諸説あるに違いないので明言は避けたい。偉い方々の判断に丸投げである。
しかし、いずれにせよ、民事の方面で損害賠償請求をされてしまう可能性はあるので(民法718条)用心に越したことは無いだろう。
これは余談だが、犯人自らが女性の頭髪を故意(わざと)に根本から切った事件について、「傷害」に当たらないとして傷害罪ではなく暴行罪の成立を認めた判決がある(大審院判決明治四五年六月二十日)。
さらに余談だが、美容師や理容師の理髪行為は、正当業務行為として違法性が阻却されているので不可罰となっている(刑法35条)。
――――――――――
「何か良い方法は無いかな?」
モワモワと脳内から余談が浮かび続けて止まない私は、これはいかんと半ば無理矢理に脳の余談回路を切断して、座敷童子さんに尋ねた。
「ポチさんは恐らく頂いた分を元の持ち主に還しているという感覚なのだと思います。還される場所は適当なのですが」と、座敷童子さんは苦笑いをしてポチの方を窺う。
黒い毛玉は木目調のテーブルの上で大人しくしていて、目だけをキョロキョロと動かしながら初めて見る人間や妖怪達を注意深く観察しているようだ。何やら警戒しているような素振りにも見える。
「言われてみると、イタズラされる回数は、普段から抜け毛の多いチャッピーが一番多い気がします。その次に、お父さん……」
あわれ、守山さんの父の毛根。
「なので、一度、これは還してくれなくても良いのですよと言い聞かせてみては如何でしょうか。毛羽毛現は人の言葉を理解できる筈なので」
「なるほど。やってみます」
今から守山さんのポチに対する説得が始まろうとしていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
秋に差し掛かると日の入りも早く感じられる。
もう遠くの山々が陰影に次々と呑まれ始めており、上空には夜を示す藍色が広がって、山の向こうの夕陽が残す薄いオレンジを塗り潰そうとしていた。その見事なグラデーションの中に手のような形をした細く黒い雲が浮かんでいて、遠近法からか、それが今にも街中を走っている電線のどれかを握ろうとしているかのように見えた。
「宿主も大変なものですねぇ」
守山さんの心からの説得は意外とスムーズに伝わったようで、フムフムと鼻息を立てながら頷くポチに守山さんがほっと胸を撫で下ろしている。
「いやー、それにしても私達が妖怪の宿主ねぇ」と、凛さんがしみじみと言う。
「先輩なんか特にそういうの信じてなかったですもんね」
「そうよ。何か、ちっちゃいおっさんだっけ? 5センチくらいの妖精の目撃談とか昔サークルで流行ったことがあったけど」
「先輩、確かその時、疲れてたんじゃないって一蹴してましたよね」
「凛さんらしいですね」
「一蹴はしてないわよ! あれでも私、ちゃんと心配してたんだから!」と、少し照れながら凛さんは訂正を加えた。
そして、「けど、『長浜さんは見たことありますか?』って、そんなのある訳無いじゃない?」と、凛さんは、こちらに同意を求めるように続けて言った。
普通のおっさんか、でっかいおっさんしか無いわよ、などと困った顔で呟いている凛さんの横で、けむおがプカプカと浮かんで天井に張りついた。
けむおは、変わらず、真顔のような、少し微笑んでいるような、不思議な表情をしているが、いつもと違い、目を伏せてしまっていた。
「あー、けむお寝ちゃった」
「浮かびながら寝るんですか」
「寝ているけむおちゃん可愛い」と、守山さんが天井を見上げながら言う。
山際で虚しい抵抗を続けていたオレンジ色が向こう側に押し出されるや否や、暗碧の空の下に、新たなオレンジ色があちらこちらの建造物の中から産声をあげる。人工的な光は、自然のそれとはまた違った力強さで街を染めている。
席を立った凛さんの手によって締められたカーテンの外は、完全に夜の様相を呈していた。
アロマディフューザーからはもう煙は立っておらず、ふわふわと活発だったけむおが寝てしまった今では、微かな残り香だけが御開きムードの部屋の中を漂っていた。
「暗くなってきたので、そろそろ御暇させて頂きます」
私は、眠たそうにしている座敷童子さんを見て言った。
「えー、涼介君、もうちょっといれば良いのに!」
「先輩、私も今日はこの辺で失礼します」
「むう、ゆいちゃんまで」と、まだまだ会議を続けたそうな凛さんが残念がる。
「また何かあったら集まりましょう、凛さん」
「むう」
「そうですね、また連絡しますから、先輩!」
「むう」
遂には、”むう”と言うマシーンと化した凛さんの寂しがり屋な一面を見られただけで、この会議は実に有意義だったと言えよう。私は何故か、ほっこりとした気分になった。
こうして怪しげな集会、『第一次宿主会議』は終了したのだった。
守山さんとの連絡先の交換を恙無く済ませ、再び凛さんに目をやると、彼女は車の鍵を持ちながら、いそいそと厚手のジャケットに袖を通しているところだった。