第二話 鼓膜を叩く幻聴 <後編>
商店街を歩く。
シャッター商店街を歩く。
一口にシャッターといっても、その姿は一様ではない。
新しい物には貼り紙を剥がした痕跡が汚れとして残されているし、古い物には錆と擦り傷が勲章のように鈍く輝いている。
準備中の札が掛けられた居酒屋。壁には御品書と刻字された襤褸板が釘で打ち付けられている。百円で目刺しが食べられるらしいが、この店が開いているところを何故か想像できない。
商店街を歩く。
シャッター商店街を歩く。
若い女性が営んでいる屋台に掛けられている年季の入った赤提灯。たこ焼きという黒文字の破れた隙間から覗く白色LEDは、眩く力強く輝いている。
客はおろか店主までも姿を消してしまった衣服屋の表には、着た者全てをのべつ幕無しに厳つく仕上げてしまうであろう極彩色のブラウスが、人間などいなくても自分こそが主役といわんばかりに風と踊っている。
商店街を歩く。
シャッター商店街を歩く。
まだ春が到来したばかりだというのに「水着の似合う身体に」と謳う整体の看板。数ヶ月後の夏を見据えてのことなのかもしれないし、ここだけ遥か昔から時が止まっているのかもしれない。
アーケードの屋根が雨粒に打たれている。
シャッター商店街を歩くと、もう戻ってこない過去、衰退し続ける現在、先の見えない未来が心に浮かび、どこか感傷的な気分になる。しかし、この国のどこかで繁盛している商店街であっても、丑三つ時にでもなれば、総じて薄暗いシャッター商店街なのだ。そう考えると、この感傷も満更でもなく感じられる。
商店街を歩く。
シャッター商店街を歩く。
雨音。それと同時に、近くの保育園から子供達の生気に満ちた声が聞こえてくる。まるで今日という一日を祝福しているような声が。
商店街の先端に一番近いシャッターの前には、まるで見えない何者かが店のシャッターの開かれる瞬間を心待ちにしているかのように、無数の自転車が横一列に放置されている。
不意に商店街を通り抜ける湿った風が私の背中を押した。
次の仕事へ向かう私の足取りが僅かに軽くなる。
顔を上げると、どうしようもない雨天で、遠くの公園に八分咲きの桜が見えた。
傘を開く。
シャッター商店街を抜けた一軒目は、コンビニエンスストアだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
上着のポケットから、カラカラという音が聞こえてくる。
これは骨の音だ。
実のところ、私は愛犬の骨を肌身離さず持ち歩いている。
本音を言えば全身の骨を持ち歩いていたいのだが、犬の骨は薄く脆い部分が多いので、今は何処の部分か分からないが一番丈夫そうだった骨の欠片を一つだけフィルムケースに入れ、寂れたシャッター商店街を抜けたときも含め、どこか感傷的な気分になったときに覗いてみたりする。
特に元気が貰えたり、感傷的な気分が晴れたりする訳ではないのだが、ネガティブなモヤモヤが私の内側の薄い膜を突き破らないようにストッパーとなってくれるので、私にとって特別な物なのだ。
どう特別か。それは、あまり理解を得られない話になってしまうかもしれない。
簡単に言ってしまえば、このケース内の骨や蓋付きの瀬戸物の器に詰められ家の仏壇に丁重に備えられている残りの骨は、他人には目視することができないのだ。普通の人間には見ることのできない骨。それを私は見ることができる。その事実が、独りでいるときに私の内部で芽生える下らない感傷をいつも覆い隠してくれるのだ。
愛犬が亡くなったとき、私は酷く落ち込んだ。
思い付きで飼い始めた当初は独り暮らしの寂しさを紛らわす為だけの対象に過ぎなかった筈なのに、暮らした歳月が私に平静を装うことを許してくれなかった。愛犬が焼かれている間、火葬場の待機室で私は泣いた。
時間が来て、指定された場所に行くと施設の職員の様子が妙だった。予定では、そこで荼毘に付された愛犬の亡骸と対面する筈だった。
「すいません、何も残ってなくて。多分、骨まで完全に焼かれちゃったんですね。稀にあるんですよ、小型犬だと。非常に珍しいケースですけど」と、職員は低頭していたが、狼狽していることは明らかだった。
しかし、そのときの私には、職員が何を言っているのかまるで理解できなかった。何故なら、私には目の前に骨が見えていたから。
なんて小さな骨なんだ、と私は思った。
親戚の収骨に立ち会った経験は、今までにも何度かあった。その時も感じ、既に知っていた筈の寂しさが、何倍も強く私に襲いかかってきた。ただ、人間の太く逞しい骨の一つ一つですらそう思わされたので、細く儚い小型犬の骨であれば、それはある意味当然のことなのかもしれなかった。
軽くて脆そうな白色の欠片は、あちらこちらに散乱しているようでいて、ぼんやりと愛犬の生前の姿を保っていた。
骨を視認できなかった職員は、突然長いステンレス製の箸を使って丁寧に骨を器に納め始めた私を見て、きっと気でも触れたんじゃないかと大いに訝しんだことだろう。
ともあれ、すぐ冷静さを取り戻した職員の、私のことをそっとしておいてやろうという心遣いからか、私は妨げられること無く全ての骨を集めることができた。そして、私は片手に収まる小さな陶器製の骨壷を両手で大切に抱えながら帰途についたのだった。
それから暫くの間、私には愛犬がいなくなったことに対する実感というものが湧いてこなかった。
火葬前に愛犬の棺に花を手向けている時や骨を集めている時、仏前で経文を唱えている時では無い。
日々の生活の中で、リビングに入る瞬間に扉を愛犬にぶつけないようにそっと開ける癖や、どこかで寝ている愛犬をうっかり踏んでしまわないように位置を目視する癖が自分にあったことを覚知した時、愛犬はもう亡くなってしまったのだと漸く理解したのだった。
歩道上の薄汚れた桜の花弁が視界に入り我に返ると、私は公園の前まで歩みを進めていたことに気付いた。公園の中には、ビニール傘を差しながら二匹の小さな洋犬を散歩させている老女が見える。
公園中に広がる春のアーチや降る雨を気にも留めない彼女達の世界は、散歩に興奮している犬達の足取りの上にのみ存在していた。桜色の絨毯、などというどこか既視感のある比喩が浮かぶ私の脳には少し感傷が過ぎるようだ。
感傷を紛らわせるための対象が呼び水となり、さらにその対象に依存する。悪循環である。それでも私は、もう一度だけ乾いた骨の音を聞こうとフィルムケースを耳に付けた。
愛犬の吠える声がした。
私は驚き、耳からケースを離す。痛みは無かった。忘れられない懐かしさを含有した残響が、まだ確かに感じられた。
生きてはいないが、存在しているということ。
鼓膜を叩く幻聴など無いように、現に私の網膜に映されている小さな骨の欠片は、他者の目には見えなくとも、きっと――いや、確実に存在しているのだろう。
何が夢で、何が現か。私は今、丁度その境界に立っているのかもしれない。
音も立てずに、細かな雨粒が傘を撫でていく。
花曇りも良いが、春愁を抱かせる静かな雨も悪くない。
私は、そう思った。
いつからだっただろう。
他者には見えない存在が自分には見える、と気付いたのは。
人混みに入ると、誰にも知覚されずに彼らの腕や足にまとわりついている黒い靄のような何かや明確に表情のある顔と肢体を有している得体の知れない化け物を見かけるようになり、不安な毎日が始まったのは。
はっきりとした病名が付けられるのを恐れて、眼科や精神科にも行けなかった日々。
「スカウト……」
そうだ。あの日、スカウトを自称する怪しい男に出会ったのだ。そこで彼から、私の目だけに映っている不気味な存在について教えて貰ったのだった。
紆余曲折を経て、今では私もその団体のスカウトの一人だというのだから。
なんとも、まぁ。
人生とは不思議なものだ。




