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当世妖怪気質~妖怪と暮らすということ~  作者: 剣月しが
おまけ ~宿主たちの幻のような日々~
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第一話 骨の欠片 <後編>

 夫は、私の骨にいる。


 夫が再び家の敷居を(また)いだとき、既に彼の肉体は焼かれていた。


 私はその骨の量を見て、多いとも少ないとも思わなかった。


 立ち上る業火を感じさせる香りが私の鼻腔を刺激したが、涙は流れなかった。


 そして、そのとき私は、無意識の内に小さな骨の欠片を手に取り、それを口にしたのだった。


 それはきっと、夫と共にありたいという幻想を抱いていたからではないと思う。


 とはいえ、血肉となった場合、新陳代謝でいつか失われてしまうが、骨ならば……、などと頭のどこかで思っていた時点で、少しはその幻想に期待していた部分はあったのかもしれない。


 骨にも新陳代謝があることを知ったのは、最近になってからだ。


 刑事訴訟法なんて難しいことは分からないが、法医学の為には夫の遺体を解剖する必要があったらしい。死体検案書という仰々(ぎょうぎょう)しい書類を手にした際の記憶は、(ほとん)ど欠落してしまっている。


「これから忙しくなる」と、その書面を見た夫の親類が言っていたのを、辛うじて思い出せるくらいである。


 仄聞(そくぶん)するところによると、荼毘(だび)に付されて残った灰や骨箱に移し切れなかった骨は残骨灰(ざんこつばい)といい、自治体によっては売買契約の対象となるそうだ。残骨灰(ざんこつばい)には、稀に金や銀などの貴金属が紛れているらしい。もちろん遺族への配慮など種々の人道的理由により、売買の対象とはせず、人目に付かない所に厳重に保管している自治体もあるが。


 私はそれを聞いて、人間は死しても(なお)、唯物論からは逃れられないのかと悲しくなったことを覚えている。しかし、それも今となってはどうでも良いことだ。私の死後、私の残骨灰(ざんこつばい)を売った代金で火葬施設が立派になってくれれば、それはそれで素敵なことなのかもしれない。


 ふと、魂は人間のどの部分に宿っているのだろうか、と私は思った。


 脳の電気信号が造り出す淡い虚像か、それとも21グラムの儚い実像か。


 古代ギリシャの思想家エンペドクレスは、血液に宿っていると考えたらしい。その考えでいえば、現代では、採血で魂の一部が失われ、輸血で他人の魂が混同することになるだろう。


 また、循環こそしないものの、焼かれる前の死体の内にも血液が保たれている事実を鑑みると、死体にも魂が残っているということになり……、エンペドクレスの考えは私をとても嫌な気持ちにさせた。


 夫がいなくなってから、私の虚無感は増していくばかりだった。


 現実は非情なもので、ある対象を失うという一定の喪失感が永劫に続くだけかと思っていたが、どうやらそれより(たち)が悪いようだ。


 虚無感が増すとは言ったものの、広がると言った方が正しいかもしれない。今この瞬間も、私の中の全てを呑み込むように際限無く広がり続けているのだ。


 悲しい曲や詩の中で、慣用句とは異なる意味の「色を失う」という表現をよく見かけるが、私も近頃、「色が足りない」という感覚に陥ることがあった。ただ、それが何色なのか。私には見当もつかない。


 夜に悪夢の一つでも見ることができたならば、不足した色彩を補えるのだろうか。静脈を切り、吹き出す血液の色でも眺めていれば、何かが変わるのだろうか。


 骨箱に残された夫の遺骨は、全ての儀礼を済ました後、墓に入れられ、眠っている。


 安らかに。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ある日、私は、目の前に現れた女妖怪の手助けを得て、独居房の外へ出ることができた。


 驚くべきことに、彼女の手に触れられている間は、壁を透過することができたのだ。


 そのとき彼女は、「私は長壁(おさかべ)」と、手短に名乗った。


 彼女は、私を値踏みしたり見透かそうとしたりすることなく、あたかも(あらかじ)め私の全てを知っていたかのように、冷淡な表情を崩さなかった。親指の爪程の大きさで丸く剃り残された眉が、まるで夢や幻のように常軌を逸した現実に、より一層拍車を掛けていた。


 その後、私は『妖怪倶楽部』という団体に保護される手筈となった。保護というと野良犬や捨て猫の感があるが、どうやらその団体の一員として迎え入れられるそうだった。


 宿主たる私を依代(よりしろ)としている彼女が、他の団員との面接日程や書面の提出等の加入手続の何から何までを代理して、どんどん話を進めていってしまったので、まだ私は現状を良く理解できていない。初めから仕組まれていたことなのかもしれないが、凄く手際の良い妖怪だと思う。


 脱獄囚を(かくま)うと、刑法上の罪に問われると聞いたことがあるが、この団体は大丈夫なのか。団員が私のような犯罪者ばかりの団体だと困る。どう困るかというと、うまく表現できないが。


 私達夫婦の間には子がいなかった。なので、夫亡き今、私の命なんて、どうにでもなってしまえばいいし、私の社会的評価や地位なんてこれ以上落ちようがない。手持ちの金も無いに等しい。しかし、団員はまともであるに越したことはない。少しもまともでは無い私が言える立場ではないことは、重々承知の上で。


 何にせよ、妖怪倶楽部という胡散臭い名前の団体だ。ここの団員も何かしらの妖怪に取り憑かれているのだろう。恐らく。


 今日は面接の日である。


 春の陽気は感じられない。かといって冬でもない中途半端な冷たさの外気は、エントランスに立っているドアマンの上手な作り笑顔では誤魔化されない程度には、私の骨身に沁みてしまっていた。


 待ち合わせ場所である駅前のホテルのラウンジは、雨という天候の所為もあってか、少し混雑している。待ち合わせの約束をしていることをウェイターに告げ、面接官の待つテーブルまで引率される。今からここで、妖怪倶楽部の面接が始まろうとしていた。


 私は、目の前に座っている一人の男性を見ながら、姿勢を正した。


 脱獄の身故、失礼にあたるがマスクと帽子は外さずにいても良いか私が尋ねようとすると、「まぁ、楽にして下さい」と、男性はどこか疲れた表情をしながら、そう言った。


 その後の質問形式の面接は、私の素性を調べるようなことをしなかった。男性はスカウトを生業としているようで、慣れた口調で淡々と妖怪倶楽部についての説明をしてくれた。しかし、組織自体がそれこそ妖怪のように蒙昧(もうまい)とした存在のようで、細かい情報を得られたとしても、その骨格は判然としなかった。


 男性が教えてくれた妖怪倶楽部のアジト――どうやら支部の一つらしい――は、ごく普通のアパートなのだそうだ。しかも、妖怪倶楽部のメンバーでない一般の住人も暮らしているそうなので、秘密結社のような組織かと思っていた私は少し拍子抜けした。


 妖怪倶楽部のメンバー自体は全国に大勢いるみたいだが、ここらの支部は、それほど多くないみたいで、空き部屋が幾つかあり、すぐにでも入れるそうだった。先住の方々に対する入居の挨拶は特に不要らしかった。


 ウェイトレスが私の注文を取りにきた。ホットコーヒーを頼みながら、私は顔を覆うマスクの位置を直した。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 スカウトの男は、話が終わると私達の分の伝票まで手に取り、直ぐに席を立ってしまった。次の仕事に向かわなくてはならないらしい。彼の目の下に深刻な隈が刻まれているのが見えた。


 ホテルのラウンジに残された私達は、人目の少ないルートを考えるため、アジトまでの道程を精査しなければならなかった。


「お前さんは、私に全て任せたら良い」と、女妖怪は大胆にも、そう言い放った。


 どこまでも面倒見の良い妖怪。後々代償として大きな物を要求されるのかもしれない。ただ私には、その代償として支払える物が、命以外に何も無い。


「代わりに私は、何をすれば良いでしょうか?」

「何を? いや、お前さんは、ただ生きているだけでいい。それが私の為になる。しかし、私がお前さんにやってやれることといえば、我が儘を言うことくらいなので、そこは期待はせんことよ」


 きっと高貴な身分に違いない。彼女の声の出し方や振舞の一挙手一投足が、私にそう思わせた。


「私のことは、そうさね……。姫と呼んでくれ」

「姫……?」

「だめかのう? 一度くらい呼ばれてみたいものなんだが。長壁様! だと何だか厳つくて厳つくて……」


 やはり生前――と言っていいかどうか分らないが――は、どこかのお姫様だったようだ。


「それにしても、お前さん。その顔、何か悩みがあるようだね。しかも、脱獄したこと以外の。違うかい?」と、姫さんが言った。


 ――見透かされている。


 私は静かに驚いた。表情には出ていない筈だし、出ていたとしてもマスクで隠されていた筈だが。


「いえ……、大丈夫です」

「早う! 私に言ってみなさいな、早う!」


 姫さんが強引に聞き出そうとしてくる。ただ、特に言いたくない訳でもなければ、隠している訳でもなかったので、私は正直に話すことにした。


「……私は夫が亡くなってから、少しおかしいんです」

「ほう。どうおかしいんだい?」

「今、自分が本当に生きているのか不安になるんです。夫を亡くしたことによる虚無感に呑み込まれてしまいそうなんです。ぼーっとしてしまうというか、記憶が欠落してしまっていることとか。このままだと、本当に私は無意識だけの存在になってしまいそうで」


 何故か、(たが)が外れたように私の中から言葉が出てくる。その言葉が形成した塊は、背骨を失ったかのように歪で、内容は全く荒唐無稽ではあったが、それは本心だった。


「ふむ。……いや、安心していい。記憶を失うということと、無意識の状態でいることは、別の問題だから。お前さんは正常だよ。大丈夫」と、姫さんは、私に優しく言った。


「エドゥアール・クラパレードの針。それがお前さんの正常を証明してくれる」

「エドゥアール…何ですか?」

「エドゥアール・クラパレード、スイスの学者さ。ある健忘症、といっても発症前の記憶は少し残っていて発症後の記憶が覚えておけないコルサコフ症候群というものがあるんだが。その症状が現れた女性に対して彼は一つの実験を行ったんだ。まぁ簡単に言うと、自己紹介の握手の際に隠し持った針で彼女の掌を軽く刺したんだよ。次の日、同じようにエドゥアールが彼女に握手をしようと手を出したら、彼女はそれを拒んだそうだよ。彼女自身はエドゥアールと会ったことなんか一切覚えていなかったっていうのに。」

「針で刺された記憶は残っていないのに、無意識の内に脳が拒否したっていうことですか?」

「そうさね。人間の脳というものは、案外丈夫なんだろうね。だから、お前さんが今のように夫の記憶に縛られていたとして、仮に何らかの拍子で、その虚無感とやらに呑み込まれてしまったとしても、お前さんの無意識は変わらずに活動し続けて、今を、お前さん自身として、生きていけるんだよ」

「そんなこと。だって、私」

「大丈夫。そのときは、私が何とかしてやるよ」


 突然、私の目から涙が溢れてきた。


 それは、無意識の内に、自らの手を血で汚した理由が分かりかけたからでは無いと思う。


 多分、きっと。私の脳が夫の記憶との決別を意識し始めたから。


 今でも夫は、私の魂であり、私の人生における骨であり、全ての礎だ。


 その記憶が大切であればあるほど、夫を亡くした痛みは、この心に巣食う虚無感は、この先もずっと続いていくのだろう。


 ただいつかは、夫に「さよなら」を言わなければならない。その時がきっと来るのだ。


 人生を前に進める為なんて高尚な理由ではなく、今を生きるという、たったそれだけの取るに足りない理由で。それは彼女の教えてくれた針の話にもあったように、痛みと無意識さえあれば、人間は生きていけるのだから。無意識がある、なんてナンセンスな言い方かもしれないが、深層に潜在している何かは、骨や礎のように、確かに私を構成している一部なのだ。


 腕の妙な違和感に気が付くと、季節外れの一匹の蚊が、その細い針で、私の血液を吸い取っていた。


 殺そうとは思わなかったが、それを人差し指の腹でゆっくりと潰すと、私の真っ赤な魂がじわりと肌に滲んだ。


 私は人殺し。


 間違いなく人殺しとして、この先も生きていかなければならないのだろう。


 ただ人間の身体は、自暴自棄になっていても、その姿のままで生きていられる。ゆっくりでもいいし、急いでみてもいい。生きているという事実そのものが、意識と無意識の境界を知ることに繋がるのかもしれない。


 涙を拭ったティッシュを折り畳み、血の痕と潰れた蚊を拭き取ろうと腕を見ると、それらは綺麗さっぱり消え去っていた。


「幻……。」

「あぁ、よく言う嫌な予感とか虫の知らせとかも、案外、忘れちまったいつかの記憶が意識や無意識に働きかけてのことかもしれないねぇ。あと、デジャヴュとか!」と、明るく言いながらも、姫さんは心配そうに私の顔色を窺っている。


 騒がしかった団体客がいなくなると、ラウンジ一帯が静かになった。ガラス張りの壁に細かい雨が当たる音が聞こえる。


 ウェイトレスが、立ち去ったスカウトのグラスを回収しにきた。冷め切ったホットコーヒーの隣に、一度も手を付けていない私の結露だらけのグラスが残される。それももう(ぬる)まってしまっているだろう。


 今は喉が渇いていないし、何も口にしたくない、と私は思った。


 ただ……。ただ、私は。


 あの日、夫の骨の欠片を口にして良かったと思う、今でも(しの)ばれる大切な記憶として、いずれ忘れてしまうことになろうとも。


 それでも……。それでも、今はまだ。


 夫は、私の骨にいる。

 お読みいただき、誠にありがとうございます。

 楽しみにして下さっていた方、しばらくぶりの更新となりましたことお詫び申し上げます。


 この第一話は、本編・第七話「恋とは異なる何か <姉視点>」の別視点の物語となっております。

『当世妖怪気質』の登場人物名は某県内にある駅名を参考にさせて頂いており、執筆当初は今回の登場人物も同様にと思っていたのですが、殺人犯という性質を重く考え、敢えて名前を設定しないことに致しました。ちなみに、××は、女妖怪と共に、サブキャラクターとして、本編・第七話、第十話に登場しております。


 現在こっそり執筆中のおまけ・第二話の予告と致しましては、「鼓膜を叩く幻聴」というサブタイトルで、お話の視点はスカウトの男となっております。

 おまけは不定期更新ではありますが、なるべく早く投稿できればと考えております。読者の皆様、引き続きお付き合い頂けたら幸いに存じます。

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