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当世妖怪気質~妖怪と暮らすということ~  作者: 剣月しが
おまけ ~宿主たちの幻のような日々~
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第一話 骨の欠片 <前編>

 私は罪人です。


 昨年の出来事になりますので、もう既にニュースなどで私を御存知の方も多いかとは存じますが、まだ御存知でない方の為に少しだけ詳述致しますと、私は夫を殺したA氏をこの自らの手で裁いた罪人なのです。


 私が社会に及ぼした影響など皆無――あったとしても微々たるものだと思っておりましたが、どうやら仇討ちというアナクロニズムな行為が社会に対して衝撃を与えてしまったようで、その点については気恥ずかしい思いでおります。


 また、仄聞(そくぶん)するところによると、当時SNSやワイドショーなどで、私の気持ちに寄り添って下さった方もいらっしゃったみたいで、それについても非常に申し訳無く思っております。


 何故なら、私自身の行いが正当だったとは全く思えないからです。


 劇場型犯罪やウェルテル効果などという言葉があるように、報道が模倣を生む事実は広く知られております。


 私は、今後私のような仇討ちという愚かな犯罪に手を染めてしまう方が現れないことを、強く望んでおります。


 さて、私の夫を殺めたA氏は、刑法第39条の「心身喪失者」ということで、通常の(というと差別的な発言と思われる方もいらっしゃるかと存じますが、他意は全くありません)殺人犯と比べ、非常に軽い量刑が言い渡されました。


 誤解無きよう申しますと、私は精神科医が下したA氏の診断並びに裁判所の判決の内容、その全てにおいて、不満は微塵もありませんし、(ことごと)く納得しております。


 では何故A氏を殺めたのだ、という御意見について、私の心中をお話ししたいと思い、この文章を書き記すことに致しました。


 もし興味が御座いましたら御一読して頂ければ幸いです。


 また、ただの殺人鬼の世迷い言に過ぎないと一蹴していただいても、それは至極当然のことだと私は思っております。




 本題に入る前に、もう一点だけ、誤解の懸念を払拭しておきたいと思います。


 それは、私刑を執行したものの、私自身は決して私刑肯定主義者では無いという点です。


 ある日曜日の朝、私がテレビをつけると、戦隊ヒーローのドラマが放送されていました。その終盤、五人のヒーロー達が、たった一人の怪人に対し一斉に集団的な私刑を執行していて、幾ら正義の為だと(いえど)も、少しやり過ぎではないかと切なくなる位には、私的な暴力に対して、私は常識的であるという自負があります。


 これは私が言うと笑い話なのですが、その時、「きっと物凄く悪い怪人だったんだとは思うけど、そこは文明人として法で裁きなさいよ」と、半ば冗談気味に夫と話したことを覚えております。


 この例を挙げてまで私が言いたかったことというのは、何度も申しますが、私のとった行動がヒーロー達の正義と同義であるということでは決して無く、私のような平凡な人間でも、自らの常識や価値観に関係なく、それと180度異なる行動をとってしまう程の出来事が皆様の前にも起こりうるということなのです。


 それも魔が差したなどという言葉の遠く及ばないような、自分の意識とは異なる、もっともっと深層の部分にある何かの働きによる行動です。


 これを私自身に当て()めますと、死刑反対論者の方が身内を殺された途端に死刑を容認しだすといった、今までにも幾らか見られた悲劇的な心境の変化などでは無く、深い眠りから目を覚ましたときに自然と大きく伸びをするような、ありふれた日常の一風景の延長として、A氏を手にかけるという行動があったのです。


 但し、その深層の部分にある何かを、無意識と簡単に言ってしまって良いものなのか、私は今でも判断できずにおります。




 私は、夫を殺めたA氏を憎んではおりません。裁判時の私の姿を御覧になった方は、(おおむ)ね御納得いただけるかと存じます。


 それは、傍聴席にいた夫の親類から、よく何も言わずに我慢できたな、と言われる程の冷静さで、端から見れば夫に対する情は無いのかと思われても仕方がない程だったかもしれません。


 ある酷い方などは、私のことをサイコパスと呼んだりもしました。けれど、私はそれに対して返す言葉を持っておりませんでした。


 確かに私は夫を愛していました。


 私の生きる目的は夫でした。


 夫は私の魂でした。


 夫がいなくなったら生きていけない、と私は夫の生前によく感じたものです。しかし、実際にいなくなって気が付いたことは、生きる目的など無くても人間は生きていけるということでした。


 そんなこと当たり前だと感じる方や、それは強がりだと感じる方、賛否が分かれるとは存じますが、人間はそう易々と命を断つことができない生き物なのだと私は気付かされたのです。


 ときに、死にたいなどと言っている内はまだ大丈夫だ、とか、本当に自殺してしまう者は死にたいとも口に出せずに行動に移してしまうのだ、などと聞くことがありました。


 果たしてそれは本当にそうなのでしょうか。


 私が自身の存在の終わりを予感したときの感覚は、喪失感や絶望感などではなく、筆舌に尽くし難い程の虚無でした。それは自殺という概念さえ浮かぶことのない、全く純粋なる虚無なのです。


 誤解を(かえり)みず直接的な言い方を致しますと、こうして文章を(したた)めているとき、無味乾燥な食事を続けているとき、眠りから覚めたとき、呼吸を繰り返しているとき、もう既に私は失われてしまっているのです。


 思考実験の一つに『哲学的ゾンビ』という概念がありますが、私はそれに近い存在なのかもしれませんし、全く異なる存在なのかもしれません。


 この私に対して、判決の言渡し時点で既に私刑を遂行する決心をしていたから冷静にいられたのだろう、という厳しい御意見もあるかと存じますが、それは(あなが)ち間違いでは無いように感じます。


 ただ、そこには骨髄に徹する(うら)みや心頭に発する怒りは無く、ましてや殺意など決して無かったのです。私の脳内は清澄な湧水のように濁り無く、無意識に似た何かが身体を動かしたとでもいうのでしょうか、どこまでも自然な状態で、私の身体はA氏を手にかけたのです。


 過失致死ではない、殺意なき殺人。


 生きているということと死んでいるということ。


 意識と無意識。


 心神喪失者のA氏が殺人の衝動を抑えられないのならば、哲学的ゾンビの私が人間を殺めるなんて、きっと造作もないことだったのでしょう。




 少し話が脱線しますが、人間の感情や行動の(ほとん)どは、活発な脳内の電気信号に依拠して発現されているそうです。


 以前、「何十年もお店で修行した一流の料理人の作った99点の料理より、機械が人間の味覚を寸分の狂いもなく計算して作った100点満点の料理の方が美味いに決まっている」と、とある合理主義者の方が言っておられました。


 個人差のある『美味さ』を一律に数値化する時点でSFの感じが拭いきれませんし、怒りや嘆きの感情で食べる満点の料理より、愛する人と食べる満点でない料理の方が美味しく感じられるように脳の神経回路が作られている時点で、これは答えの出ない不毛な議論になりかねませんし、ここでは発言の是非について触れないでおくとして、仮に私の殺人行為が脊髄などを中枢とする反射的な行動では無かったとすれば、きっと私の脳内でも何かしらの処理が行われていた筈なのだと思います。


 すなわち、その行為に至った原因だろう私の虚無感につきましても――この手記では哲学的ゾンビなどという言葉遊びで例示していますが――私は機械ではありませんので、上記の脳細胞(ニューロンやシナプスなどという難しいことは分かりませんので、単にこう表現させていただきます)の活発かつ複雑な情報伝達によって構成されているのだと考えられます。


 ならば、意識と無意識の境界は、一流の料理人の作った九十九点の料理と機械の作った百点の料理との差ほどの茫漠(ぼうばく)とした隔たりの中にあるのではないでしょうか。


 本稿では、人権や哲学、法解釈や脳科学などについて述べようとは思っておりませんので、この妄言はそろそろ区切りにさせて頂きたいと思います。




 最後になりますが、私は神仏の類を信じておりませんし、無神論者であると言っても過言ではない筈です。


 しかし、前述の通り、自らの常識や価値観とは180度異なる行動をとってしまう程の出来事が起こるのですから、何か超越的な、神意染みたものを感じる余地は、私の中にも残されているのかもしれません。


 そして今、私は再びその出来事に差し当たっております。


 つまり、これまでの私では決して想像もつかなかった現象が、今私の目の前で起こっているということなのです。


 これを文章にしてしまうと、常識では(おしはか)ることのできないこの現象の全体像が、より曖昧なものになってしまいかねませんので、この場では差し控えさせて頂きたいと思います。




 ただ一言、誠に勝手ながら、私はこの独房を出ていきたいと思います。




 こう記せば、御一読下さった方にも、何か感じ取れるものがあるかもしれません。


 勿論、未だ罪を償っていない犯罪者が野に放たれる訳ですから、この世を憂いて衝動のままに何か破壊的活動をするのではないかなど、読者の皆様に種々の不安が芽生えるかもしれません。


 これについては、安心して下さいとしか私の口からは言うことができません。


 敢えて補強するとすれば、私の犯行後、私を思ってのことだとは思いますが、私にはどうしてもそう捉えることができなかった、非常に多くの方々の言葉をお借りして、こう答えたいと思います。




「そんなことをしても、夫は帰ってきませんので。」




 今自分で読み返してみても、乱筆かつ狂人の戯言と取られてしまいかねない、いや、(ほとん)ど方がそう感じるであろう閑文字(かんもじ)の羅列で誠に恐縮なのですが、どうやら時間が来てしまったようなので、文章の推敲をすること無く、ここで筆を置かせて頂きたいと存じます。




 それでは、またどこかで。







 これは、×年×月×日、固く施錠されていた独房から忽然と姿を消した××の机上に残されていた手記である。

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