エピローグ 妖怪と六法のある生活
嵐のような土曜日が去り、麗らかなる日曜日の夕暮れ。
私は今、凛さんの家に来ている。
昨日の御壁教事件の後、体調が回復した能登川さんが、妖怪倶楽部のメンバーと共に事後処理を手伝いたいと無茶を言うので、心配ではあったが、私と凛さん達は、翌日に再び集まることを約束し、それぞれの車で解散することになったのだった。
草津君は、私が御礼を言う前に、物凄い髭を生やした鬼のような会社の先輩と帰ってしまっていたので、また後で連絡してみようと思う。
気が付けば、私が凛さんの家に来たのは、もうこれで二度目になる。前に来たのは、第一回宿主会議という怪しい催しの為だったか。
私は、頭の中で、宿主会議と唱えてみた。
うむ、怪しい。
もう宿主という単語からして怪しい。
宿主なんて属性が自分のステータスに加わるなんぞ、今まで意識したことがあっただろうか。
余りの怪しさに、この間、宿主の意味を辞書で引いてみたら、寄生されてるだの、宿屋の主人だの、移植される方の組織・個体などと、益々自分の属性が怪しくなってしまった。
しかもこの宿主。学術的には宿主が正式らしい。
となると、いよいよ得体が知れない。「しゅくしゅかいぎ」なんて言い出したら、口の中がくしゅくしゅなること請合いである。保証付きの怪しさ。
自分が妖怪の宿主であることは、この際もう仕方が無い。何故なら、私が宿主となって久しいから。私と座敷童子さんが出会ってからもう一年近く経つか、と思わず感慨深くもなってしまう。
いやしかし、宿主達が一堂に会するとしても、もう少し怪しくない名前にするべきだと思う。妖怪保護者会とか。……いや、駄目か。余計に怪しさが醸し出された感すらある。
そうなのだ。我々のネーミングセンスは、凛さんのけむおといい、守山さんのポチといい、それを好ましく思う私も含めて、団栗の背競べなのだ。
まぁ、なんだ。
現在、私達は、第二回宿主会議の真っ最中ということだ。
実のところ、私が凛さん宅にお邪魔させてもらった時、既に彼女達は出来上がっていた。
リビングに案内されると彼女達は三者三様の異なる酒を嗜んでいたようで、凛さんと能登川さんの頬には、ほんのりと微醺の色が見られた。
凛さんは、頗る御機嫌な様子で座敷童子さんの頭を撫で、妖怪といえども子供姿ということで倫理的にまずかろう彼女と、車を運転して帰らなければならない私の前に、ザクロジュースなる未知の飲み物を用意してくれた。
今、テーブルの上には、華やかな各種の酒肴が並べられており、野郎同士の飲み会では決して姿を現さないと言われている伝説上の「生野菜のサラダ」が女子会の趣きを添えている。
テーブルの向こう側では、守山さんが能登川さんにビールを注いで貰っている。先輩後輩の垣根を越えた無礼講という奴なのかもしれない。守山さんは今日は帽子をしていないみたいで、頭の上で栗色のポチが大人しくしている。
すると、「そのザクロジュースは女子力に効くんだよ」と、守山さんが座敷童子さんに効能を説明し始めた。
「女子力ですか?」
「うん。座敷童子ちゃんも乙女なんだから、女を磨かないと」
うちの子に妙な話を吹き込まないで頂きたかったが、座敷童子さんも満更ではない様子で真っ赤なザクロジュースを眺めているので、私はそっとしておくことにした。政治的な意味合いではなく、基本的に私は穏健派なのだ。性格的な鳩派ともいう。
紳士たるもの女性の心情について明るくなくてはならないので、紳士を目指す私に女子力なるものが培われてしまったならば、きっと向かうところ敵無しに違いない。悩める女性達を千切っては投げ千切っては投げであろう。
しかし、このザクロジュース。不気味な色をしている。ワインとも少し違った、まるで薄い血液みたいな……。
恐る恐る一口含むと、しみじみとした酸味が、その深みに隠れる優しい甘さを圧殺していた。大人の味とはこういう味を言うに違いない。
私と同時にジュースを口にした座敷童子さんの方を見ると、視点が遠くの虚空に定まっていた。笑顔が強張っていて、何なら少し震えているようにも見える。きっと酸っぱさを我慢しているのだろう。
「けむおも飲んでみる?」
そう凛さんに勧められたけむおは、無表情のような、それでいて……いや、どこまでも純粋なる無表情で、その呼び掛けに無視を極め込んでいる。
「液体には興味無いみたい」と、凛さんは少し呆れた顔をした。
「いやぁ。けど、能登川さんが妖怪倶楽部の方と知り合いで良かったですね。何だかピンチっぽかったので」と、私は思い出したように話を切り出した。
「そう! あの麿チックな眉毛の妖怪、ちょっと前、結婚式の二次会の打ち合わせの時にホテルのラウンジで見たわよね!」
「見ました見ました! 私、どっかで見たことあったなぁって思ってたんです!」
私の言葉で堰を切ったように、凛さんと守山さんが声を上げた。
「そう考えると、妖怪倶楽部って結構身近なのねぇ」と、能登川さんが、まるで他人事のように言う。
「そういえば、能登川さんは、いつ妖怪倶楽部のメンバーになったんですか?」
じっと日本酒の入った御猪口を睨んでいる能登川さんに、私は昨日から気になっていた疑問をぶつけてみた。
「それも最近のことなんです。前に妖怪倶楽部の方から手紙が送られてきたことがあったので、今度はこちらから接触してみようと思って」
能登川さんは、ぐいと一度に飲み干した御猪口の中に、日本酒を注ぎながら応えた。スムーズな720ミリリットル瓶の手捌き。堂に入った手酌である、まるで戦国武将のような。しかし、そのワイルドさの中でも、纏う気品と姿勢の良さが中和を齎し、下品に見えない。威ありて猛からずを巧みに体現していた。
「無鉄砲が過ぎるわよ」と、凛さんが私と座敷童子さんのお皿に手料理らしき惣菜を取り分けながら言う。
怪しい宗教団体に単独で突入していく凛さんがそれを言うか、とも一瞬思ったが、何より私は、凛さんの肌理細かな配慮と手料理に感激していたので、心にそっと閉まっておいた。
「そうですよ。青葉先輩。妖怪倶楽部なんて危なそうな団体なんて」
守山さんも口の回りに付いたビールの泡をハンカチで丁寧に拭いながら、半ば呆れたように諌める。さっきまで一杯だった筈のグラスが、いつの間にか空になっていた。瞬間消失マジックを思わせる程、ペース配分の乱れが著しい。まさか、この速度が彼女のスタンダードなのか。
「危なそうかしら。逆に何か素敵なことに巻き込まれそうじゃない」
「素敵なことって、青葉……」
恍惚の表情でそう語る能登川さんは、被虐体質とは若干異なる悲劇追求的な思想で物事を判断しているらしい。その恍惚は、手にする大吟醸の陶酔によるものなのか、それともトラジックな夢想によるものなのか。
故知らぬ感情の遣る方無さに、凛さんは少し引き気味だ。
すると、不意に凛さんが立ち上がり、キッチンの方へ姿を消した。
「私を助けてくれた男の方は、えっと……」
能登川さんが、こちらに向かって何かを思い出そうとしている。
「あぁ、草津君のことですね」
「草津さんって言うんですね。私、改めて助けて頂いた御礼を言いたいと思って。良ければ連絡先教えてもらえませんか?」
「勿論。一応、草津君に確認取ってみますね」
「是非、お願いします」
何も知らない人ならば、物静かそうな見た目から、きっと能登川さんは律儀な性格なのだろうと思うだろう。しかし、その見た目にそぐわぬ破天荒さを私は知っているので、その慇懃な物腰の裏には何かあるのではないかと勘繰ってしまう。
「ユイちゃんは昔からビール好きだったから、御代わりはジョッキね」と、キッチンから戻ってきた凛さんが、守山さんの前に、ドンッと大きなビールジョッキを置いた。
「わぁい!!」
守山さんは嬉しそうな表情で、その絶妙な泡配分の大ジョッキを手に取り、そして……。
蟒蛇と化した。
よく瓶から直接飲む姿を”ラッパ飲み”などと言うが、巨大なジョッキをゴクゴクと我飲みする守山さんの姿は、もはや”チューバ飲み”と言っていい。鯨飲ともいう。
しかし、その大ジョッキを音も立てずにそっとテーブル置く仕草や口の回りの泡を拭う嫋やかさは淑女のそれなのだ。凄まじいギャップ。
顔色を少しも変えず素面のままに見える彼女は、恐らく酒量に乏しくないタイプの人なのだろう。
凛さんは自分で新しく作ってきたのか、琥珀色に輝くハイボールのグラスを静かにテーブルに置いた。電話での絡み酒の一件があったので私は少し警戒していたが、どうやら彼女の逆鱗は鼻腔の奥深くにあるようで、煙草の煙さえなければ大丈夫みたいだ。
酔っていても管を巻かない凛さんは素敵である。……いやいや、そんなこと言っている場合ではない。
「御壁教はどうなったんですか?」と、我に返った私は能登川さんに尋ねる。
「宗教法人自体の解散はさせなかったみたいなんですが、妖怪倶楽部の監視下に置かれるようになりました。法に抵触しない範囲で活動を許したみたい。ただ、あの後、姫さんが祈祷室の壁を完全に壊しちゃったら、信者さん達の洗脳が解けてしまって。御壁教の経営は少し厳しくなりそうです」
「そうなんですね……」
解散してくれた方が安心できる気もしたが、御壁教の信者達も被害者だと考えると、彼らの心の拠り所を恣意的に排斥することは、些か短絡的なのかもしれない。
「あと、危なそうな薬物を使っていたみたいなので、それも禁止しました」
「薬物……」と、凛さんが扼腕しながら眉を顰めた。
「もし、言うことを聞かなかったらどうなるんですか?」と、守山さんが恐る恐る伺う。
「何だか妖怪倶楽部、規模が凄く大きい組織みたいで、聞いた話によると色んな意味で潰しちゃうそうです」
「ひえぇ」
能登川さんからの身の毛立つ返答に、守山さんは首を振りながら悲鳴の感嘆詞を漏らした。その揺れに振り落とされないように、ポチが彼女の栗色の髪の毛に必死にしがみついている。
その後暫く、妖怪倶楽部のことや、妖怪と宿主に関すること、単なる近況報告などを談笑も交えて語らった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
外が暗くなり始めると、けむおが天井に滞留して眠りについた。私の隣席で座敷童子さんも眠たそうに眼を擦っている。
前から思っていたが、妖怪という存在は早寝なのか。夜こそ彼女達妖怪の本領が発揮されるのではなかったのか。まぁ、そろそろお暇させて貰おう。
よく見ると座敷童子さんの向こうで、凛さんも腕を組みながら椅子に凭れて目を伏せている。長い睫毛とあどけない寝顔。彼女の本領は昼夜問わず遺憾無く発揮されている。
「旦那さん、じゃなかった……。彼氏さんは、凛さんと、どこで出会ったの?」と、突然、能登川さんが真面目な顔をして言った。
守山さんが、え、旦那?彼氏?といった表情で私を見ながら無言で仰天していて、当の本人の凛さんは相変わらずスヤスヤと眠っている。
静寂。テーブルの上に空白の時が流れる。
私は余りの衝撃にパニック状態に陥ってしまい、あぁ、これが日本人特有の空白の美学というやつかぁ、などと奇天烈な現実逃避をした。
――いやいや、落ち着け。
何という勘違いだろうか。これは直ぐにでも誤解を解かなければならない。しかし、沈黙を打ち破ろうと決心した瞬間に脳内で使用されたエネルギーと同じ熱量分だけ、私の頬が紅潮していくのを感じた。
「あの……」と、私が口を開こうとした瞬間。
「凛先輩を宜しく御願いしますね!」
一見素面のように見えて、守山さんにも少し酔いが回ってきているのかもしれない。
「私からも宜しく御願いします!」
微酔の段階を通り越して久しい能登川さんも、自らの酣酔を恣に、優しく微笑みながら念を押してくる。
マズい……。私の静観主義のせいで、何か凄く恐ろしいことになろうとしている。
昭和四三年十一月七日の最高裁判決でも、高度の酩酊者も病者にあたると言っているので、同じ飲み会の席にいる私にも、刑法218条で言うところの凛さんに対するある程度の保護責任があると解するのが相当と思われるが、この場合、凛さんの与り知らぬところで、簡単に、「はい、任されました」とはいくまい。
そんなもの、著しく不合理であることが明白である。
社会通念上認められない筈だ。
凛さんが目を覚ました瞬間に却下されてしまう、原則として。
いや、嫌ではない。嫌な訳が無いのだが。
錯乱し続ける私の脳内には、鎮静の兆しが一向に見えない。
「いや、だから、僕と凛さんは……」
私が誤解を解こうとすると、「寝てない! 私、寝てないからぁ……」と、凛さんが眠ったまま、ふにゃふにゃと弁明した。その難解な弁明には、是非とも詳しい注釈をつけていただきたいと思った。
「これからも妖怪と宿主ということで、色々あるかとは思いますけど、皆で頑張っていきましょうね。」
「大津さんって確か、法律に詳しかったですよね! また何かあったら相談に乗って下さい。」
妖怪、宿主、法律。
人々の生活の細部にまで影響を及ぼしている筈なのに、その明確な姿が見えない法律。
一見どこにも存在しないように見えて、人々の生活にひっそりと息衝いている妖怪。
これらの現実や非現実と足並を揃えるようにして、これからも私達の妖怪と六法のある生活は続いていくのだろう。
「はぁ、お力になれるか分かりませんが、こちらこそ宜しくお願いします。それから、あの、僕と凛さんは……」
「さぁさぁ、大津さんも呑みましょう! ザクロジュースどぞどぞ!」
守山さんは酒量に乏しくないタイプではなく、全く顔に出ないタイプなだけだった。半ば強引に勧杯された私の女子力は鰻登りだ。もう、このままどこまでも突き抜けてやろうか。
圧が物凄い場の雰囲気と極度に酸っぱいノンアルコール飲料で私は酔いつつあるが、凛さんが目覚めるまでに、この疑似酩酊のテンションを治めなければならない。
蟒蛇と戦国武将の猛攻は止まることを知らない。
私が助けを求めようと座敷童子さんの方を窺うと、彼女は彼女で幸せそうに寝息を立てていた。
~あとがき~
これで第一章「妖怪と六法のある生活」は、おしまいとなります。楽しんで頂けたでしょうか。
少しでも拙作から何かを受け取って頂けたり、所感の一端として、読んで良かった、読む価値があったと思って頂けたならば、作者としてこんな幸せなことはありません。
本作はある種、示唆的な性質を有しております。
いわゆる中間小説(純文学と大衆小説の中間)やライト文芸・キャラ文芸(一般文芸とライトノベルの中間)といったジャンルがあるのならば、といった着想で執筆し始め、生意気ではございますが、私の意図が奏功しているならば「純文学とライトノベルのハイブリッド」、失敗しているならば「難読と冗長のキメラ」といったものになっているはずです。
また、誠に相済まなく思っているのですが、各話のテーマや文章表現、ストーリーの現実性に拘泥する余り、様々な機微に対して目を伏せ続けて参りましたので、今の時点では未だ第二章の目算が立っておりません。
ただ、至大なる応援を下さいました沢山の読者の皆様の為にも、いつか投稿できることがあればと存じております。
最後になりますが、読者の皆様には本当に感謝しております。
長い間お付き合い頂き、有り難うございました。




