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当世妖怪気質~妖怪と暮らすということ~  作者: 剣月しが
本編 ~妖怪と六法のある生活~ 【完結済】
23/36

第十話 御壁様が見ている <後編>

後編

「おい、待て! 草津!!」


 ――あの野郎、俺が車を停めた(そば)から、助手席を飛び出して行きやがった。


 草津の閉める力が弱かった所為(せい)で、半開きになったドアから外気が入り込み、車内が微温(ぬる)み出す。


 草津(くさつ)(なお)は、俺の職場の後輩だ。


 今日は土曜日だというのに仕事で外回りに出なければならず、助手席で携帯を確認するや否や大騒ぎし出した草津に頼み込まれる形で、俺はこの訳の分からない施設まで運転させられる羽目になってしまったのだった。


 仕事中だからと、固くハンドルを握りながら一度は突っ跳ねたものの、「命の恩人が危ないかもしれないんです! お願いします!」と、土下座でもしそうな勢いで凄まれてしまい、後部座席でちゃっかりシートベルトを締めて寛いでいる妖怪の(さとり)も、「これだけお願いされてるんだから行ってあげなよ、ヤーチャン」と、他人事だと思って軽々しく草津の肩を持ってくるので、俺は折れざるを得なかったのだ。


 近頃、草津は変わった。


 愛想笑いではなく、自然な笑みを浮かべられるようになった。気弱な性格だからか、隠すように自分というものを一切出さなかった去年の今頃と比べると、所作や言葉の端々から草津本来の温柔な性格を少しずつ見て取れるようになったと思う。


 とは言え、ちょっと前まで、まるで粗雑な落書きのようにぎこちない表情をしていた草津が、突然あんな熱量で、他人の為に感情を爆発させるなんて、俺には驚くべきことのように思われた。


 ――まぁ、アイツが(さとり)の野郎を視認できていると分かった時も酷く驚かされたが。


 ともあれ、運転中に聞いた草津の話を簡単に纏めると、草津の命の恩人――大津涼介と、その友人達がトラブルに巻き込まれているらしいので、急いで救出に向かわなければならないという話だ。


 ――トラブルねぇ。


 運転席から降りると、湿気を多量に含んだほぼ熱帯に近い温暖湿潤性の空気や、自分だ自分だとその個人性を主張し疲れた蝉達個々の絞り出すような喘鳴(ぜんめい)に、押し潰されてしまいそうな感覚がした。


 草津が勢いだけを頼りに無策で駆け込んでいった門を、俺は慎重に覗き込んだ。すると案の定、草津は施設の入口で待ち構えていた男に足止めされていて、今にも捕らえられそうに見えた。


「あの野郎! ヤベぇじゃねぇか」と、俺は慌てて門を(くぐ)ろうとする。

「待ってヤーチャン!」


 裾を引っ張られ振り替えると、(さとり)が門の上部を指差していた。


「この門、妖怪のセンサーがついてる。ほら、あそこ」


 見上げてみると、禍々(まがまが)しい装飾の鏡が掛けられていた。


 ――あの鏡がセンサーになっているのか。


「それに、アイツ。あそこにいる見張りが手に持ってる手配書には、宿主の顔写真が書かれてるみたい」


 再び門に視線を戻すと、足止めされていた筈の草津の姿は見えなくなっていた。


 この暑さの中、汗を一滴もかかなさそうな程に干上がって見える痩せた体躯の男が、下駄箱の前で目をギョロギョロとさせながら手に持った資料を眺めている。(さとり)は、この距離でも、見張りの心が読み取れたらしい。


 ――見張り、か。草津は大丈夫なんだろうな。どうにか上手く誤魔化して侵入に成功していてくれ。ミイラ取りがミイラになるようなことだけは止めてくれよ、頼むから。


「妖怪のセンサーに宿主の手配書って……ここは随分厳重な守りだなぁ」と、俺の足元で(さとり)が呟く。


 ――つまり今更ながら、妖怪絡みのいざこざということになるのか、これは。只事じゃ済まなさそうだ。


「ってことは、宿主の俺はここの奴等に顔が割れてるし、妖怪のお前もこの門を(くぐ)れねぇってことか」

「いやぁ(くぐ)れないってことは無いと思うけど、もしかしたら警報が鳴り響いたりするかも。まぁ、その時は肉弾戦だね! 肉弾戦! 僕、一度やってみたかったんだ、肉弾戦!」

「いやいや、穏便に行こうぜ……」


 子供のような細い腕でシャドーボクシングを始めた(さとり)は、どの角度から見ても貧弱そのものだった。


「あのぉ……。あなたが大津さんの言ってたお友達ですか?」


 俺が驚いて顔を上げると、(さとり)の後ろに若い女性が立っていた。


「おぉ? どうしたん……」「おや、お嬢さんも大津(なにがし)の知り合いなの? もし宜しければ、僕と一緒に肉弾戦、如何です?」と、(さとり)は俺の声を遮り、未だ(かつ)て聞いたことが無い程の気障(きざ)っぽい声色をして言った。


 ――こいつ、色々な意味で危ねぇ誘い方をしやがる。


「俺達、ちょっと突入しあぐねてたとこなんだ」


 よく見ると、女性のキャップ帽の上に、彼女の髪の毛と同じ栗色をした不自然な毛玉が乗っていて、さらに(つぶさ)に観察すると、その小さな毛玉には目と鼻がついていた。


 ――妖怪か。きっと、この嬢ちゃんも宿主なんだろう。


 どうやら(さとり)もそれに気が付いたようで、「いやはや、お連れの方がいらっしゃったのか。これは失敬」などと、いつまでも紳士ごっこをし続けている。


 遂には、「よく見ると、貴方も素敵ですね。まるで動く毛玉のよう……ゴウモウ イズ ムービング」と、この混沌とした状態に、訳の分からない濁った泥水のような台詞を吐いた。


 ――そんな褒め方があるかよ。


 しかも、無茶苦茶な英語に加えて、毛玉の英単語が出てこなかったのか、ゴウモウとかカタコトでそれらしく言っているが、お前も大概剛毛なんだからな……と指摘しようとも思ったが、俺はこの事態の非常さを多角的に勘案して止めた。


「あぁ、この門。あそこの鏡が妖怪のセンサーになってるらしい。それに、宿主の顔が割れちまってるみたいなんだ」と、俺は気を取り直して言う。

「そうだったんですか……」

「変装道具でもありゃ、突入できるかもしれねぇんだが」


 俺は余りに目立ち過ぎる自分のアイデンティティーを顧みながら、ハンカチでスキンヘッドの汗を拭った。


「変装……」

「何々? 頭の上にいるお嬢さんの能力を……それは当意即妙の案ですねぇ!」

「だから、もうそのナンパな言い方、止めろ!」

「えっ……?」

「すまねぇな、お嬢ちゃん。こいつ人の心が読めるんだ」

「いえ、もしかしてポチって……女の子だったんですか?」


 ――そっちかよ。


 そうですよ、お嬢さん達、という(さとり)の言葉を聞きながら、「噛み合わねぇ……」と、俺は若者とのコミュニケーションの難しさを痛感した。


「はっ! スイマセン! 変装ですよね? それでしたら、この子が」

「おぉ? そのポチちゃんが変装させてくれるのかい?」

「お役に立てるかは微妙なんですが、この子、人の身体の毛を増やせるんです。増える場所は賭けですが……」


 ――賭けなんだったら、それはヤバくねぇか。


「大丈夫。髪の毛で良いんでしょ? 任せといて、って言ってるよ」

「君、人間だけじゃなくて、ポチの……妖怪の考えてることも分かるの?」

「うん! 何たって僕は(さとり)だからね!」と、(さとり)が得意気に笑った。(ようや)く妙な声色を止めてくれたみたいだ。

「良かった! じゃあ、まず体の毛をポチに食べさせて下さい、髪の毛とか。あっ!」と、言いながら彼女は、俺の輝かしい頭皮を見て、言葉を詰まらせた。


 ――(わり)ぃな。生憎、俺には食べさせられる髪の毛がねぇんだよ。何せ俺の場合、ヘアスタイルの潔さが売りみたいなところがあるから……ん?


「痛ぇ!!」


 俺の右足に急激な痛みが走ったと思えば、(さとり)が俺の大切な脛毛(すねげ)を毟り採っていた。


「やむなし!」と、足元で叫んでいる忌々(いまいま)しい(さとり)と、俺の脛毛(すねげ)をハムハムと咥えながら、与えられた重要な任務を立派に(こな)そうと鼻息を荒くしている気の毒なポチ。


 苛立ちと申し訳無さという一見異なる感情が、(ほとん)ど同質な精神活動として脳内で混ざり合い、最終的には羞恥として統合された。


「後生だ! 後で剃り易いように、軽く増やす程度で頼む!」

「駄目駄目! 軽くだったら変装にならないでしょ! 取り敢えず、アフロ! アフロを目指そう!」


 ――アフロ、だと……?


 ポチが、ふわりと俺の滑らかな剥き出しの頭に跳び移る。すると、先程まで栗色だった毛玉の体毛が、黒く変色した。


 ――あぁ、たった今。俺の尊厳が踏み(にじ)られようとしている。


 俺の頭上でモゾモゾと動いていたポチが静止すると、ぶわっと音を立てて、フサフサの頭髪及び、(おびただ)しい量の口髭が出現した。


 人体の生理的な優しさに包まれていると感じたのは、いつ以来だろうか。


 頭蓋を保障するように風に(なび)く暗黒の草原。揉み上げから顎に連なる昏黒の山脈。鼻と唇の間に架る漆黒の虹。


 吹き出す汗。心に涙。そして、夏。


 マイ スマート イズ デッド。


 俺を見て大爆笑している(さとり)は後でシバくとして、俺は気を抜くとストレスで蕁麻疹(じんましん)でも作ってしまいそうだった。




「警報が鳴るかもしれねぇから、万が一のことを考えて、お前は嬢ちゃんとここで待ってな」

「ヤダよぅ! 僕も行くんだからな!」


 笑いの波が一段落した(さとり)が、駄々を()ねている。


「何言ってんだ! 女子供に修羅場は(くぐ)らせられねぇだろうが」

「そっちこそ何言ってんだ! 僕はヤーチャンなんかより、ずっとずっと歳上なんだからな! 僕がヤーチャンを守ってやるんだ!」

「お嬢ちゃん。すまねぇが、こいつの子守り頼めるか? あと、あの車が駐禁とられねぇように見てて欲しいんだ」

「ヤーチャン、聞いてないし!」

「社用車なんだ」

「私も一緒に行きたいですけど、顔がバレちゃってるんですもんね……分かりました。私は(さとり)ちゃんと、ここで待ってます」

「助かる」

「ちきしょう! 僕は、妖怪界の危険児と呼ばれてるんだぞ!」

「危険児って、やっぱりガキなんじゃねぇか」

「うるせぇ! この髭魔人!」


 ――こいつめ。帰ったら覚えてやがれ。


 俺は心の中で(さとり)を大いに威嚇しながら門を(くぐ)った。




「あなたも入信希望の方ですか?」


 見張りの男は少し警戒したように、たった今山深くから下りてきたみたいな髭魔人の俺を睨んだ。ただ、()()()()、と言っているので、どうやら草津は口から出任せで上手くやったのかもしれない。


「あぁ、入信希望だ」


 ――正確には、()()希望じゃなく、()()希望なんだがな。


「そうですか。やけに今日は入信希望者が多い」と、ブツブツ呟きながら俺の顔と手配書を見比べ始めた。


 ――頼む、バレるな。


「……では、こちらで靴を脱いで、そこの祈祷室で少しお待ち下さい」

「あぁ分かった」


 侵入は成功だった。


 言われた通り下駄箱に革靴を揃え、冷えた廊下の感触を足の裏に覚えながら祈祷室らしき大部屋に入る。


 すると、異彩を放つ一枚の大きな壁が目に飛び込んできた。


 ――これが『御壁教』の信仰対象なんだろうか。


 信者達は、中央に(そび)えているその巨大な壁に身体を預けながら、ブツブツと何か呟いている。今や怪しさの権化へと成り果てた俺に対して、無視を決め込むとは……。しかし、今は不気味などという雑事を言っている場合ではなかった。


「草津の野郎、どこ行きやがった」


 ――ひとまず壁の裏側も確認するか。


 壁の裏側に回ると、やはり信者達が壁の下に密集していた。


 俺以外の人間全てが他人への無関心を貫いている異常な雰囲気に、不安が(よぎ)る。俺は一刻も早くこの場から立ち去りたくなった。


 祈祷室の奥の扉に気付いた俺は、それを慎重に開け、先に続いている廊下を音を立てないように進む。その突き当りまで来ると、廊下が左右二手に分かれていた。


「何故だ。何故動ける!?」


 何やら騒がしい左側に視線をやると、一目行き止まりの壁に足が生えていることが分かった。


「僕には……もう洗脳は効かない」


 その奇妙な壁の化け物の足の隙間から草津の声がしている。


 ――無事だったか。草津。


「そいつらを押し潰せ、塗り壁!」


 俺が暢気(のんき)に声を掛けようと思っているところに、(しゃが)れた老人の物騒な叫び声が廊下に響く。そして、それに呼応するように目の前の壁がゆらりと動き出した。


 俺は急いで化け物の側面と廊下の壁の僅かな隙間に手を掛け、倒れないように全力で支えた。壁は思った程重くなく、かといって気を抜くと、そのまま持っていかれそうな重量だった。


「草津! そこにいるんだろ! 早くこいつの足の間からこっちに!」

「先輩?」

「早くしろ!」

「はい!」


 化け物の股の下を潜りこちら側に来たのは、草津と一人の女性だった。その女性はぐったりしていて、顔色が悪い。何やら具合が悪そうに見える。


「先輩、すいません」

「良いから、早く逃げるぞ!」


 車の中で聞いた大津涼介は男性だったので、この嬢ちゃんは(さら)われていた彼の友人の一人ということなのだろう。何があったかは分からないが、こんなになるまで女子供を甚振(いたぶ)るとは……。


 俺は手を離し、怒りに任せて壁の化け物を強く蹴りつけた。支えを失った化け物は向こう側に倒れ、大きな音を立てた。


 ほんの一瞬、廊下に埃っぽい風が吹く。壁が倒れた先の通路には、ここの教祖だろうか、白い作務衣姿の老人が、目を丸くして立ち(すく)んでいた。


「能登川さん、立てますか? あれっ……」


 能登川さんとやらは、既に気を失っているようだった。草津は意を決したように彼女を背負った。


 廊下を抜け、祈祷室に急ぐ。代謝の良い俺の身体が熱を帯びる。ただでさえ拍動している心臓に拍車を掛けるように、早く脱出しなければと逸る気持ちが心拍数を上げ続ける。




 しかし、俺達は足が止まってしまって、それ以上その場を動くことができなかった。




 俺達の視線の先には、門の前で待っている筈の若い嬢ちゃんが、恐らく妖怪だろう――瀟洒(しょうしゃ)な和装で身を包み、昔の公家みたく小さな眉毛をした女に、腕を固く掴まれ人質になっていた。


 (さとり)とポチは、その一歩後ろに控えている宿主らしき女性の小脇に抱えられている。その女宿主は、帽子を目深に被り、マスクで顔の下半分を隠しているので、表情が判然としない。


「青葉先輩! 大丈夫ですか、青葉先輩!」

「ゴメン、ヤーチャン。僕、捕まっちゃった」

「捕まっちゃったって、おいおい」


 人質となった嬢ちゃんと(さとり)が、こちらを見ながら悲痛な声を上げている。


 ――迂闊だった。俺は、てっきり施設内だけにしか敵がいねぇもんだと高を括っていた。どうすればいい。何かしらアクションを起こすべきなんだろうが、凄艶な女妖怪に向かって、その手を離せなどと訴えたところで現状が良い方向に向かうとは到底思えねぇ。


 自分の息遣いと部屋の中央からボソボソと聞こえてくる信者達の呪文以外には耳に入って来る音が何も無く、天を摩する壁を中心に世界が支配されているような、ワンルームで一人高い熱に浮かされている時に感じる孤独にも似た、薄ぼんやりとした不安があった。


 どうすることもできない現状に手を(こまね)いていると、「いや、酷い目に会った。……おぉ、来てくれていたのか」と、背後から教祖らしき老人が追い付いてきた。


「そちらの教団から援護の要請があったと聞いて来てみたんだが」


 今まで黙然と立ち続けていた女妖怪が、(ようや)く口を開いた。


「いゃぁ、助かった。ピンチなんだ。きっと来てくれると思ってたよ。で、そいつらは?」と、教祖は人質を一瞥して尋ねた。

「施設の外で怪しい動きをしていた奴らさね。」

「そうかそうか! ヒヒヒ、形勢逆転だな」


 教祖が薄ら笑いを浮かべながら女妖怪の隣に並ぶ。


 先程の足の生えた壁の化け物は、サイズ的に廊下から祈祷室にかけての扉を(くぐ)れなかったのか、それとも教祖の老体では倒れた壁を起こすことができなかったのか、その姿が見えない。


 突入前、(さとり)が口にしていた肉弾戦が、いよいよ現実味を帯びて来たのかもしれない。


 この騒ぎの中でも壁に向かって祈祷を続けている信者達が動き出す可能性があるし、こちらには意識の無い能登川青葉と、人質という大きなハンディキャップがある。絶望的な状況。


 ――こっちにも助けが来てくれりゃいいんだが。


「やべぇか」と、打開策の浮かばねぇ俺の口から、思わず独り言が漏れた。




「何を勘違いしている?」




 女妖怪が突然放った一言に、祈祷室の空気が一瞬にして張り詰めた。


「勘違いだと?」


 そう言いながら、教祖も俺達と同じように怪訝そうな表情をしている。


「お前さんの教団と私達の妖怪倶楽部は、ただの仕事相手」

「あぁ、そうだろうとも。妖怪倶楽部は、我々教団の大切なビジネスパートナー。私が援護を依頼したんだから」

「しかし、お前さん。私達の仲間に手を出しておいて、ただで済むとは思ってないだろうな」


 凍て付くような目付き。全身の冷点を(ことごと)く突き刺されるような女妖怪の表情は、怒りに由来するものに違いなかった。


「仲間? 何だ、どういうことだ?」


 俺には何が何やら全く分からなかった。


「あ、目が覚めましたか」


 俺の隣に並んでいた草津が、背後を確認するように言う。


「え、あ、すいません。えっと、あれ? 確か……。姫さんと、その宿主の方」と、目覚めた彼女が言った。


 マスク姿の女宿主が、それに気付き、軽い会釈を返した。寂しそうな顔をしながら小型犬のように目をパチパチさせている(さとり)は、女宿主の心を読み取って何を思っているのか。


 ――それじゃあ何か? この気絶していた嬢ちゃんは、妖怪倶楽部とかいう団体のメンバーだったのかよ。


「えー!? 青葉! 妖怪倶楽部のメンバーになっちゃったの?」


 俺の心を読みとったかのように、背後から急に女性の大きな声がした。


「凛さん、大津さん!」


 草津の背中から降りながら嬉しそうに名前を呼んでいる能登川青葉とやら。俺も振り返ってみると、いつか地下鉄で見た青年と、ショートカットの女性が、ここまで走ってきたのか息を切らしていた。


 ――この青年が大津涼介なのか?


 世界の狭さに、俺は何だか作為的なものを感じざるを得なかった。


 すると、「ヤーヂャーーン!」と(むせ)びながら、女宿主のウェストポーチ状態から解放された(さとり)が駆け寄ってきた。


「うお、泣くんじゃねぇ!」

「男泣きだから! これは男泣きだから!」


 どこがだよ、と言いたかったが、俺は(さとり)の野郎の頭を軽く撫でた。


「凛先輩、青葉先輩!」と、門で待機して貰った嬢ちゃんも解放され、ポチを頭の上に乗せながら、先輩達と互いの無事を喜び合っている。


 急転して四面楚歌となった教祖は、狼狽が隠し切れない様子で視線を泳がせている。


 全ての元凶は、無論この『御壁教』に違いない。違いはないんだが、俺は妖怪倶楽部とやらにも少し文句を言ってやりたくなった。


「なぁ、勝手に俺ら宿主の顔写真を怪しい団体に売りつけるってのは、人権侵害なんじゃねぇの?」

「妖怪倶楽部は、この辺りにいる妖怪の大凡(おおよそ)の位置と能力の情報しか売っていない。宿主の情報は、大方この教団が信者でも使って調べさせたんだろう。それとも何か? 私達妖怪に人権があるとでも?」


 ――妖怪に人権。


 俺はぐうの音も出なかった。


「それに、そのお蔭で、妖怪を連れてないのに妖怪が見えるという元宿主、そこのお前さんみたいなイレギュラーが活躍出来たんだろう」と、流し目で草津を一瞥した女妖怪は、壁の縁まで優雅な所作で歩いて行った。


 全てを見透かすような流眄(りゅうべん)


 ――こいつら、どこまで知ってやがる。


「しかし、壁ねぇ」と、女妖怪は目玉の描かれた壁にそっと手を触れながら、どこか懐かしそうに言った。すると次の瞬間、鈍い音と共に、壁に稲妻のような亀裂が走った。


 酷い、どうして……、などと、信者達が騒ぎ出し、歪な状態で調和の保たれていた祈祷室の景色が乱れる。信じられないと途方に暮れている者や口に手を当て今にも泣き出しそうな者までいる。


「どうして、か。……他人の配慮や芳意を、全て自分の日々のお祈りの賜物だと思っているお前さん達には、説明しても理解できんだろう。」と、女妖怪は、声が届かない信者達に向かって、邪悪な顔で微笑みかけた。「そうだな、全て信仰が足りなかったんだよ、お前さん達の」


「や、止めてくれ!」


 突然、教祖が義憤とも懇願ともつかない叫び声を上げた。


「私には、使命があるんだ! モラルハザードを。世俗の、道徳の、集団的背信行為を、正しい方向へ導かなければならないんだ!」

「使命!? それは誰かがやってくれるだろう、お前さん以外のな。」


 その嘲笑を聞いた教祖は、魂が抜けたように酷く落胆し、その後もう一言も話すことは無かった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 この社用車はクーラーの効きが遅い。ノーネクタイで第一(ボタン)が留められてない白色の半袖シャツは、外気の方がまだ涼しく感じられる車内のジリジリとした熱から俺の身を守ってくれそうにもなかった。


 恐らく火傷しそうな程の熱を孕んでいるだろう黒いハンドルには、今は手を触れる気がしない。


「妖怪という超法規的存在が絡んだ出来事の収拾をつけるには、警察では荷が重いだろう。何、ちゃんと私が処理させて貰うよ。」という言葉。教祖や信者達の後始末は妖怪倶楽部が受け持つので安心しろ、と女妖怪が言うので、俺達は屋敷から無事に脱出することができたのだった。大津涼介とその仲間達とは門の前で別れた。


「あの、先輩。今日は色々ありがとうございました」

「おい、ネクタイ。乱れてんぞ」と、照れ隠しの為、俺は草津の首元を指差す。


 あ、すいません、とネクタイを整え出した草津を見ながら、この先も妖怪絡みのトラブルが身の回りで起きるんじゃないかと俺は少し悲観的な気分になった。知らぬ間に渦中に取り込まれているような。


「そんなあるかどうかも分からない先のことじゃなくて、今が大事だぜ、ヤーチャン!」


 シートベルトを締め終えたばかりの(さとり)が、後部座席から俺の心を読んで、偉そうに言い張る。


「何事にも傾向と対策を考えておくのがスマートなんだよ」

「そんな不確定なこと、考えるべき時が来たら嫌でも考えなきゃいけないんだから、今は好きなこととか楽しいことについて考えるべきなんだよ!」

「予め色々練っておいた方が、有事の際に迅速に動けるだろうが」

「出たよ! ヤーチャンは自称ロマンチストのくせに、変に合理主義的なところがあるんだ!」

「まぁまぁ。二人とも落ち着きましょうよ。えっと、好きなこと……楽しいこと……そう! 僕、実はネクタイが好きなんですよ!」と、草津は、俺達の言い合いを(なだ)める為か、少し焦りながら、首に結ばれているネクタイを見せびらかすような仕草で言った。


 ネクタイ。俺も駆け出しの頃はネクタイが大人の証だと思っていた。


 ――しかし、このクールビズ思想の行き渡ったクソ熱い夏の世に、半袖イエスネクタイとは、こいつもすっかり大人じゃねぇか。


 その大人丸出しの根性。無策だとしても、一人で教団に突入していけるだけの根性。


「根性だな」

「いえ、すいません。正確には、僕、ネクタイが好きっていうか、ネクタイが締まっている感触が好きなんですよ。何だか生きてるって感じがして。……やっぱり変ですよね」


 前言撤回。ネクタイ好きとネクタイの締まる感触好きは、外見は同じでも、その思想には天涯と地角レベルの差があるだろうが……いや、待て。俺だってスマートさを追及してスキンヘッドにしているが、思想とか言い出したら、薄毛になったからスキンヘッドにするという奴もいるし、何らかのケジメをつける為にスキンヘッドにする奴もいる。そう考えると――


「まぁ、人それぞれだわな」


 考えるのが面倒になる程に疲れが出てしまったのかもしれないし、(さとり)の野郎の楽観的な性格が伝染したのかもしれない。何にせよ、早く会社に戻らなければならないことだけは確かだった。


 ハンドルを握ると掌が焦げ付くように傷んだ。この感覚を以て生きているという実感を得られる程、俺は玄人ではないので、ここは根性ということで、泣き言の一つも言わずにただ耐えていようと思う。


 バックミラーに映る(さとり)は、窓の外に広がっている夏を確かめているように見えた。


「はぁ、そろそろ帰るか」


 まるで俺の長嘆に返事をするかのように、空調から涼しい風が吹き出した。




 ただ一つ。




 こうして俺が考えるのを止めてしまった所為(せい)で、同僚達が、突如会社に出現した髭魔人を見て、立ち所に悲鳴を上げた――というのは、また別の話だ。

次週投稿予定のエピローグで、第一章はおしまいとなります。

是非、楽しんで頂けたらと存じます。

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