第十話 御壁様が見ている <前編>
前編
守山さんからの電話を切った後、座敷童子さんの呼び声が認識できるようになるまでの間、私は眉間に皺を寄せながら黙って床の一点を凝視していた。
熾烈な盛夏の太陽に焼かれたように熱くなった私の脳内には、猛スピードで様々なことが浮び、そして消えていた。
穏やかだった土曜日の午後は、もう失われてしまった。
「……涼介さん! 涼介さんってば! どうしたんですか?」
「あ……、あぁ、ごめん。ごめんね。その……能登川さんが攫われたみたいなんです」
「えぇ!?」
「それを助けに行った凛さんも、帰ってこないって……」
先程の通話によると、今日の午前中、能登川さんから、妙な団体に捕まったという内容のメールが凛さん宛に送られてきたことが発端だったらしい。
偶々その時、凛さんの家に遊びに来ていた守山さんは、凛さんと一緒に、慌ててメールの文面で指定された場所に助けに行ったのだそうだ。そして、攫われたのが能登川家の令嬢という事実もあり、身代金の受け渡しでもするのかと思いきや、そこはもう、金なんぞいらんと言わんばかりの広い御屋敷だったみたいだ。
――何が目的なのか分からないというのが、すこし不安だ。
「御屋敷……。妙な団体……」と、座敷童子さんが呟く。
「『私が話をしてくる。三十分経っても私が帰ってこなかったら、ゆいちゃんは涼介君に連絡してくれる?』と、守山さんに告げて、凛さんが門の中に入っていったものの、それ以降、音沙汰が無くなってしまったみたいで。門前で待たされることになった守山さんは怖くなって、三十分経たない内に、私に連絡をくれたということらしいんです」
「じゃあ、早く助けに行かないと!」
屋敷内にいるらしい二人の無事を祈りながら、私達は急いで守山さんと合流することにした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
広大な敷地を囲うように、どこまでも塀が続いている。その中央には、瓦葺きの立派な門が構えられていた。装飾なのか他に理由があるのかは分からないが、その門には上曇った鏡が掛かっている。何人も拒まぬ様子で開かれた門の向こうには、立派な御屋敷が見えた。
守山さんは、不安そうな表情をしながら、陽射しを避けるように影の中で塀に背を付け、たった独りで立ち尽くしていた。私達の乗ってきた車は、見覚えのあるパステルブルーの軽自動車の横を通り過ぎ、少し行ったところで停めた。
「凛さんから何か連絡がありましたか?」と、車を降りた私は小走りで近付きつつ、守山さんに尋ねた。
黒い無地のキャップを被っている守山さんは、こちらに気付くと、「無いんです、大津さん。どうしよう。先輩達……どうしよう」と、今にも泣き出しそうな顔で、切れ切れに言った。
「涼介さん! これ!」
座敷童子さんの指差している門札を見ると、そこには達筆な字で『宗教法人 御壁教』と揮毫されていた。
――聞いたことの無い名称だ。新興宗教だろうか。
こんな怪し気な団体に一人で向かっていく凛さんの無鉄砲さに私は驚かされた。ただ、驚いてばかりもいられなかった。
「今から二人を助けに行ってきます。守山さんはここで待っていて下さい」
「待って! 私も行きます!」
守山さんの叫びは、忽ち蝉時雨に掻き消された。
「守山さんは、少しここで待っていて欲しいんです」と、私は真剣な顔で言う。
「どうして!?」
守山さんに理由を説明し了解を得た後、私と座敷童子さんは、門を潜って御壁教の敷地内に足を踏み入れた。
その時、瓦葺き屋根の傘の下に設われている鏡が何か不自然な輝きを放ったようにも見えたが、私はそれを気にしている余裕など無かった。
御屋敷の中に入ると下駄箱があり、施設の受付係とは到底思えないラフな服装の男がパイプ椅子に座りながら寝息を立てていた。きっと見張り番なのだろう。
私の隣で座敷童子さんが、「ラッキーです」と、ヒソヒソ声で言っている。
土足で乗り込むのは流石に粗暴過ぎると思ったので、静かに音を立てず、大人しく靴を脱いでおく。万が一、誘拐が我々の誤解だった場合、私一人の野卑な行動で人様に迷惑をかける訳にはいかない。
これは私の甘えた考えなのかもしれないし、私だけでなく誰であっても、身近で人攫いがあったなど、完全に信じ切れないものなのかもしれなかった。
こっそりと廊下の先を窺うと、こちらを待ち構えているかのように開かれた扉があった。私は座敷童子さんの手をしっかりと握り、その奥へ進む。
部屋に入ると、ひとりでに扉が閉まった。同時に蝉時雨が止む。
扉が閉まる音は響かず、静寂の帷が部屋一面を覆い尽くしている。
「部屋の真ん中に、壁があります……」
そこは奇妙な部屋だった。座敷童さんの言うように、広く薄暗い部屋の中央には何故か一枚の壁が畳から突き出していた。そして、その壁には、血走っているようにも見える不気味な二つの目が描かれていた。
「涼介さん……。あそこ、人がいます……。」
座敷童子さんの怯えた声を聞きながら、私は目を凝らして壁を見てみる。すると、信者らしき人が数人、立ったまま額を壁に付けて、何かをぶつぶつと唱えていた。
こちらのことを気に留める者は誰一人としておらず、祈りか念仏か判然としない言葉をひたすらに呟いている。正に異様な光景だった。それらの後ろ姿に、見覚えのある者がいなかったのが幸いだった。
禅宗の一つである曹洞宗は壁に向かって座禅を組むとどこかで聞いたことがあるが、立ったまま壁に凭れかかる修行というのは他の宗教を含め、私は聞いたことが無かった。
私達は部屋の周囲に沿って、そろりそろりと静かに歩き始める。
外壁に触れると、それなりに分厚いのか、外気の暑さなど全く感じさせないくらいに冷たい。壁伝いに一番奥まで到達すると、先程は部屋の中央に聳える壁に阻まれて見えなかったが、部屋の入り口と丁度反対側に、扉があるのが分かった。
信者達の邪魔にならないように、忍び足で部屋の外周を歩き続ける。
壁の反対側には、入口側と同じく数人の信者が、まるで前と後ろから同時に支えているかのように額を壁に付けているのが見える。決して侮辱する訳ではないのだが、信者達が横一列で一心不乱に壁に向かい続けている光景は、痩せた土地から這い出した大樹の根のようにも見えて恐ろしかった。
漸く反対側の扉に到着し、その把手を握る。
その瞬間――
「その先の通路を曲がった後は、決して振り返ってはいけない」と、嫌に低い声が聞こえた。
私が驚いて振り返ると、さっきまで中央の壁に額を付けていた筈の一人の男が、無表情のまま、ギョロギョロした目を大きく見開いて、こちらをじっと睨み付けていた。
私は、唾を飲み込む音さえも聞こえそうなくらい、全て神経を次の一瞬に起こることに集中させる。
しかし、その痩せ細った男は、私に興味を失ったのか再び壁に向かった。
ゴンッという男が額を壁にぶつける鈍い音を聞いても安心できない私は、列を成している信者達の背を注視しながら扉の向こうへ進む。
それでも、まだ誰かから見られている感覚があった。
――目だ。
部屋にいる者全てを睥睨するような不気味な目玉の描画は、壁の反対側にも存在していて、その禍々しい双眸が私を凝視している。
扉の向こうには細長い通路が伸びていて、突き当りは丁字路になっていた。右か左か、どちらも先は続いている。
「どっちに行けばいいんだろう」
「右……です」
「分かるの?」
「いえ。けど……そんな気がするんです」
その表情は、運試しが好きな座敷童子さんの戯れという感じではなく、焦りと緊張の入り交じった真剣なものだった。
「私を信じてくれますか」
「勿論。右に行こう」
繋がれた手。私はその感触を信じた。
彼女に導かれ、右に曲がる。その時、不意に先程の信者の言葉がフラッシュバックした。
――決して振り返ってはいけない。
都市伝説や怖い話、延いては神話に至るまで、この手の脅迫ないし警告の例は数々耳にしてきた。どのストーリーであっても、振り返った者は当然のように良くない目に遭っている。それでも私の脳内に信者の言葉がこびりついて離れなかった。
呪詛か妖言か。それは理不尽な恫喝によって心に刻み付けられた侵入思考にも似ていて、私がこの呪いを振り解くには行動しか残されていないように思われた。
警戒しながらそっと後ろを振り返ると、先程の分かれ道――左の通路の奥に、ぼんやりと一枚の壁が見えた。
ついさっき確認した時にはそんな突き当りは見えなかったし、その先は行き止まりでも無かった筈なのに、と私が思っていると、突然その壁に二つの目玉が浮かび上がった。
――これは幻だ。
私は、自分の畏れと正面から向き合わなかった。向き合うことができなかった。壁の眼球は、信者の言葉が見せた幻覚だと自分に言い聞かせた。そうであって欲しいと強く思った。
ひんやりとした空気の流れる窓の無い施設内の通路は、迷路のように入り組んでいた。私は座敷童子さんに付いていくのが精一杯で、戻るためルートを覚えることはできなかった。
人の気配は全く無い。ただ、私は左右に続く壁の圧迫感を感じ始めていた。先導してくれていた座敷童子さんの足が止まると、目の前に重厚な金属製の扉があった。
「きっと、ここです」
繋いでいない方の手を一度だけ固く握った後、扉に手を掛ける。蝶番の軋む鈍い音と共に、地下へ続く階段が見えた。
湿っぽい空気を肌に感じながら、一段一段、ゆっくりと降りていく。地下室には幾つかの座敷牢が並んでいた。
「涼介君?」
「凛さんですか?」
その牢の一つに、座敷童子さんの予感通り、凛さんが捕らわれていた。
「怪我は無いですか?」
私と座敷童子さんが急いで駆け寄る。
「私は大丈夫。けど、青葉が……」
「能登川さんは一緒じゃないんですか?」と、座敷童子さんが尋ねる。
牢を見渡しても、どうやら捕らわれているのは凛さんだけで、能登川さんの姿は無かった。
「別の場所にいるみたい。私、油断しちゃった」
「取り敢えず、今開けますからね」
しかし、牢は南京錠で施錠されていた。少し錆びてはいるが、壊せそうにない。
「鍵がかかってるのよ」
「そんな」
すると突然、上階から金属製の扉の開かれる音が響いた。
「昼寝中に勝手なことされると困るんだよなぁ。っていうか、よく初見でここまで辿り着いたな。そいつの能力?」
「涼介君、気を付けて。あいつ妖怪の宿主だから」
気怠そうな男が階段を下りてくる。Tシャツから覗く浅黒い肌に、先程の部屋にいた信者達とはどこか違った鋭さの眼光。先程、玄関で熟睡していた男だった。
「あんたの顔写真、確か資料に乗ってたなぁ。まぁいいや、侵入者は全部捕えろって言われてるから。あんたも怪我したくなかったら、空いてる牢屋、その女の隣でもいいから、大人しく入ってよ。俺が外から鍵かけてやるからさ」
「お前が凛さんを座敷牢に入れたのか」
「いや。入ったのはこいつ、自分の足で。俺は外から鍵掛けただけだから。まぁそれが賢明だよね。だって煙々羅って戦闘向きじゃないでしょ」
そう言って男は、ポケットの中から大き目の糸切り鋏を出した。
「あれは網切です!」
座敷童子さんは、そう言って身構える。
次の瞬間、糸切り鋏から細長い腕が生え、その先に小さな蛇のような胴体が形成され、更に胴体から鷲のような頭部が出現した。腕と胴体は鱗で覆われており、頭部の嘴は鋭く尖っている。そのまま鋏が右手になったような形状なのだが、よく見ると左腕の先端にも小さな鋏が生えているようだ。
地下牢に充満する緊迫感の中、まるでシオマネキを想起させるアンバランスな鋏がチョキチョキと空を切り裂いている。
「おぉ、よく知ってんね」
男は、そう言いながら煙草を咥え、火を点けた。薄暗がりに仄かな明かりが灯る。緊迫感はそのままに、煙が満ちていく。
「座敷童子だっけ。確か、あんたも戦闘向きじゃないよね」
「どうして、お前にそんなことが分かる」と、私が突慳貪に返す。
「なんか、うちの教祖がさぁ。妖怪倶楽部とかいう胡散臭い団体から、ここらの地域に現れた妖怪の情報を買ったみたいなんけどさぁ。誰が宿主かまでは教えてくれなかったみたいで、信者使って細かく調べさせたんだって。さっき言った資料、それに宿主の写真が載ってるんだよ。恐ぇよな。盗撮だぜ。ストーカーみたい」
この男は、どうやら御壁教の信者ではないようだ。しかし……。
「何で誘拐なんてしたんだ!」と、私は激高した。
「誘拐?! 誘拐なんてしたの?! 教祖の考えてることは俺には分かんないよ。ただ、あいつ金持ちだし金払いも良いからさぁ、まぁ用心棒的な? やってやってもいいけど、って感じ」
「青葉の、能登川家の身代金が目当てって訳じゃないの?」と、凛さんが尋ねる。
「いや、だから知らないって。身代金? 俺はただ、警報が鳴ったら侵入者を捕まえて、この座敷牢にぶち込むのが仕事なの。警報っていうのは、門に引っ付いてる鏡ね。あれ、妖怪が映ったら受信機に伝わるようになってんだよ」
男が面倒臭そうに煙を吐き、漂うケミカルな匂いが濃くなる。私の怒りは治まらない。
「じゃあ、能登川さんはどこにいるんだ!」
「誰? あぁ……、多分、離れにある御堂じゃないかな? 入信の儀の準備してたみたいだし。俺、あそこ行ったこと無いんだよね。あの辺、周りめっちゃ臭いの。やべぇ薬品でも使ってんじゃねぇかなぁ、あの中で」
俺、煙草は吸うけど、そっち系はやんないんだよね、と男はヘラヘラと笑った。
煙草を吸わない私であっても、そっち系なるものの危険性は何となく理解できる。能登川さんを誘拐しただけでなく、薬品を使い無理矢理にでも信者にさせる算段なのか。どこまでも卑劣な団体だ。
すると地上遠くの方から鐘の音が響いてきた。年末の除夜の鐘くらいしかまともに聞いたことが無いのに、どこか懐かしく感じられる梵鐘の轟き。私は何か不吉な予感がした。
「あぁ、ご愁傷様」
「どういうことですか?」と、座敷童子さんが聞く。
「あの鐘、入信の儀が始まったって合図なんだよね」
「どうしよう、青葉が」と、凛さんは不安が隠し切れない様子で言う。
「まぁ、手遅れってことで。諦めて、そこの座敷童子もさぁ。同じ座敷繋がりで、大人しく座敷牢、入っちゃってよ。玄関の見張り、今、信者の奴に替わって貰ってるんだけど、あいつ目付きからして何か危なくてさぁ。早く戻らないとヤバそうなんだよね」
この妖怪。確か網切とか言っていたか。キシキシと嫌な金属音を立てながら鋭利な鋏を突き出して、こちらを威嚇している。宿主の合図があれば、直ぐにでも飛び掛かってきそうだ。
「ねぇ」
「嫌です!」
「早く」
「嫌です!」
座敷童子さんが、牢に入ることを頑なに拒否し続けている。勿論、私も嫌だった。凛さんと能登川さん、二人を救出するのが私達の役割だった筈だ。しかし、私は座敷童子さんが傷付けられるところをどうしても見たくなかった。大人しく牢屋に入ってしまおうか、そんな考えすら浮かんでくる。凶器に抗う力が無い私は、少しずつ心が折れ始めていた。
「早く!」と、苛立った男が声を荒げて言う。
「嫌!」
「あぁ、面倒だなぁ。網切、こいつ切っちゃっていいよ」
その一言で、網切が動いた。
と、同時に私の身体も動き出していた。
「涼介君!」
左腕が熱くなる。その直後、ツーっと一筋、妙に温かい液体がTシャツの袖から垂れてくるのが分かった。
私は間に合ったのか。ちゃんと座敷童子さんを庇えただろうか。凛さんと座敷童子さんが私を呼んでいる。直ぐそこにいる筈の二人の声が、何故か遠くから聞こえてくる。
――しっかりしろ。大丈夫、頭を打ったわけじゃない。
強く自分を鼓舞すると、一時的な喪失状態にあった自分自身が少しずつ覚醒していく。まるで鼓膜が薄い樹脂に包被されていたような不思議な感覚も徐々に和らいでいく。
「涼介さん!」
「涼介君! 涼介君! ……血、血が出てる!」
「大丈夫、僕は大丈夫です」
痛みを紛らわすために、傷口を右手で押さえる。幸い、それ程傷は深くないようだった。
「いいからさぁ、早く牢屋入れよ」
「お前!」と、凛さんは座敷牢の柵を握りながら叫んだ。
「あ? あんたは黙ってろよ」そう言って男は、凛さんの顔に副流煙をフーと吐き掛けた。
やってしまったな、と私は思った。
煙の中の凛さんの表情。それは、私が初めて凛さんと出会った時の妖怪煙嫌いか、かつて、通話中ディスプレイの先にいた風神ないし雷神か。彼女は正真正銘、鬼の形相で男を睨み付けていた。
「だから俺はさぁ、急いで戻らないといけな……」
「けむお……」
私には何が起こったのか分からなかった。
まだ男が喋っている最中に、凛さんが静かに名前を呼んだだけ。
しかし、次の瞬間、男の身体が宙に浮かんでいた。
「がっ、ぐぐっ……」
男は、首と胸の間を自分の両手で掻き毟りながら、苦悶も表情で足をバタつかせている。
「涼介さん!」
座敷童子さんは、男そっちのけで私の左腕を心配してくれている。
「大丈夫。掠り傷ですよ」と、私は座敷童子さんに笑いかける。
「ぐっ……」
男は遂に気絶したようで、だらりと四肢の力が抜けた。同時に、網切の身体が縮み、元の糸切り鋏に姿を変え、カランと地面に落ちた。
空中で気を失っていた男が、どさりと、その上に覆い被さるように倒れ込んだ。倒れ込んだ、と言うより、支えを失ったように落下したと言った方が正しいか。その口元から吐き出されてきた、顔のある白い煙が凛さんに近付く。
まさか、凛さんは怒りに任せて、けむおを、身体の中から……。
凛さんだけは絶対に怒らせないようにしよう、と私は震えた。




