第九話 囚われの聴衆 <後編>
後編
人の停止列と通行列が日によって変化し定まらない下りエスカレーターの手摺を掴む。
スペースの空いた俺の数段下には、大きな鞄を抱えた一人の老婆が隣にトランクを置きエスカレーターの両側を塞いでいるのが見える。
俺はせっかちな方でもなければ、エスカレーター上を歩行することについて、メーカーが再三警告しているのを知っている。
なので、それに関しては何も言いたいことはない。全くないのだが。
待て、と。
おい待て、婆ァと。
エスカレーターを降りた一歩目で立ち止まって、鞄を漁り出すんじゃねぇ、と。
岩のような婆ァが、徐々に迫って来やがる。
「あー……。あの人、切符が無いんだって」
老婆の心を読み取ったらしき覚が目を細め、半ば諦め気味に呟く。
後ろを振り返ると、数人の帰宅民達が皆、覚と同じような絶望の表情を浮かべている。
やべぇ。贔屓目に見てやべぇ。婆ァとトランクが正々堂々と立ち塞がっていて逃げ場がねぇ。動かざることなんとやらだ。
――近ぇ。ぶつかる。
「婆さん。切符探しは後でやりな」
「あぁ。すいませんねぇ」
咄嗟に声を掛けて、俺は何とかギリギリ、背後からの老婆との濃厚なハグを避けることができた。
――婆ァの耳がまだ達者で助かったぜ。
老婆は、何故切符が無いことが分かったのだという驚嘆の表情でもするかと思えば、全く悪びれた様子も無く、エスカレーターの脇に逸れ、鞄の中の大捜索を再開していた。
「あの人、今は切符のことしか頭に無いみたい!」
薄々気付いていたが、老婆も含め、周りの奴らには覚の姿が見えていないし、その声も聞こえていないらしかった。
「正に切符原理主義! なんて過激思想の後期高齢者なんだ!」という覚の失礼極まる発言が公にされねぇことだけが何よりの救いだ。
「おいおい、そりゃ言い過ぎだぜ」
「えー? ヤーチャンも婆ァって連呼してたみたいだったから良いかと思って」
――毛髪の拘り以外は似た者同士なのかもな、案外。
危険ですのでエスカレーターの降り口付近では立ち止まらないで下さい、というアナウンスは、立ち塞がる老婆によって軽度の軟禁状態にあった俺達の心情を見事に代弁してくれていた。
しかし、それ以外の一般市民にとっては、言わば囚われの聴衆となって初めて意識される、ただの駅の雑音を形成する要素の一つに過ぎないのかもしれなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
暑い。だだその一言に尽きる。
地下鉄のホームは地上と比べると格段に涼しいのだが、代謝の良い俺は少し身体を動かしただけで汗を吹き出してしまう。特にこのスキンヘッドから。
隣を見ると、覚は汗など一つもかかず、飄々とした様子で地下鉄を待っていた。
「ヤーチャン、僕が何で汗一つかかないんだと思っているだろう」と、足早に行き交う人々を目で追っていた覚は、こちらを一瞥すること無く、ポツリと言った。
――こいつは俺の方を見なくても、心が読めるのか。
「僕くらいの達人になれば、汗腺の取水制限なんて自由自在なのさ!」
なんなら断水まである、と覚は自分の汗腺のダム具合を鼻高々に話している。
――溜め込んだ汗で爆発してしまわねぇようにしてくれよ。決壊は俺のいないところで頼む。
「ハハ! 決壊なんてしないよ! 僕は汗達人だからね」
――汗達人って何だよ。
「そんなに言うなら俺の汗も止めてくれねぇか。できるんなら俺の頭皮の時を止めてくれるのでも構わん。汗が止まらん」
「そんなことしたら、その場に固定された頭の皮膚だけ千切れちゃわない? 僕、頭から血まみれのヤーチャンは見たくないなぁ」
「妖怪なら、何とかできねぇの?」
「そんな無茶なぁ。僕は自分の汗を止められても、他人の汗と時間は止められません!」
人外の能力をもってしても、どうにもならないらしい。酷暑。
――誰かこの暑さを何とかしてくれ。
クォーツの腕時計の盤上では秒針がチクタクと時を刻んでいるのに、俺の白く輝くスキンヘッドから吹き出す汗とオーバーヒートタイムは、刻まれることなく不断に流れ続けている。
「アキレスと亀なんて話もあるけどさぁ、時間を刻むことなんて誰にも不可能なんだよ。表現の上では時を刻むなんていうメトロノームや時計の秒針でさえ、本当の意味では時を刻んでいる訳じゃ無いからね」と、覚は断言した。
映画や小説など色々なコンテンツで取り扱われている時間停止という概念は全部、空想の産物に過ぎないということか。
――ロマンがねぇ。それは実にロマンがねぇ。
「アナタハ神様ヲ信ジテイマスカ?」
――何だ?
急に背後からカタコトの外国人に話し掛けられた。地下鉄のホームで宗教の勧誘を受けたのは初めての経験だった。
「悪いが、俺は目に見える存在しか信じねぇことにしてるんでな」と、俺はその勧誘をけんもほろろに断る。
勧誘員たる外国人は俺からあからさまな拒絶を受けたにもかかわらず、教義くらい聞いてやっても良かったか、と俺に罪悪感すら残す程に、にこやかな表情で去っていった。
何かを盲目的に信じるという幸福。
――あの外国人も、きっと今幸福なんだろう、多分。
これは皮肉なんかじゃなく、俺は純粋にそれを羨ましく思った。ただ、そう考えると、食品添加物等を気にし過ぎて、未だに冷凍やインスタントの食品を信じ切れていない俺は不幸なのかもしれない。
いやいや何言ってんだ、大きなお世話だと、俺は自分の考察に自らツッコミをかました。
「何、お腹でも減ってるの?」と、またしても悪魔のように俺の心中を覗いた覚は、心配そうな表情で俺の顔を見上げながら、そう言った。
その時、俺の脳内に違和感が産声を上げた。
――こいつ、人の心が読めても、人の身体の状態までは読めねぇのか。俺は今、激減りだぜ、腹が。
「おぉ! やっぱりヤーチャンは鋭いんだね。センスあるよ!」
何のセンスかは知りたくもないが、さっきの違和感に対する考察をもう少しだけ敷衍すると、俺が冷蔵庫の何か丁度良いものを摘まもうと思っていることは分かっても、俺自身が冷蔵庫に何が入っているのか分かっておらず、心にそれを浮かばせなかった場合、結局俺が何を食うかまでは分からないということになるか。
「いくら人間の心を読めても、未来が読める訳じゃないからね。未来はいつだって真っ暗なものさ!」
――未来の一寸先は闇か。時間は永遠に止まらない地下鉄みてぇなもんだな。
「そうそう。未来はいつでも五里霧中。霧の中さ! これが本当の地下鉄濃霧! 何つって!」
「……そういうリアクションに困るギャグは、俺みてぇな親父になってから言いな。」
「ゴメンナサイ」
「何でお前までカタコトだよ。懸命な外国人を馬鹿にするんじゃねぇ!」
「ハハ! まぁ、さっきも言ったように、霧で真っ白だったり、闇で真っ黒だったりするけど、未来はどこまでいっても確率論でしか語れないってことさ!」
――確率論ねぇ。
「何でギャンブル好きの人間は、自分の未来で大博打を打たないんだろう?」
――金が掛かってねぇからだろ、多分。
「まぁ車を運転してると、左右の確認をせずに、自分の命をベットして、車道に飛び出てくる自転車乗りは偶にいるぜ?」
「そういう、人間を馬鹿にしたような皮肉は、僕みたいな妖怪になってから言うんだね!」
「スマネェ」
「ヤーチャン……。カタコト下手ね。ロボットみたい」
それに対する反論を、俺は一切持ち合わせておらず、少し極りが悪くなる。
「皮肉ついでに、過去なんて無いかもしれないって話しない?」
「何もこのクソ熱い中、哲学について語らわなくてもいいだろ。……ラッセルの世界五分前仮説か?」
「何だヤーチャン、知ってたのか。つまんない」
「ほら、地下鉄来たぞ」
嚠喨と響き渡る警笛の電子音とブレーキの金属音が不協和音を奏でるホームに、地下鉄が入ってくる。
妖怪という非現実的な存在の声を聞き続けていた俺の耳には、顔を顰める者すらいるこのノイズが何故か頼もしく感じられた。
俺は今、頬を抓ったりしなくとも、深い眠りや濃い幻から立ち所に覚醒させる轟きが突風のように吹き荒ぶ、紛れもない現実の中にいるんだと。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ドアが閉まり、地下鉄が発車した。
地下鉄の中はガラ空きだった。正確に言うと、俺達の乗り込んだ車輌だけがガラ空きだった。この駅は始発駅ではないので、他の車輌には人がちらほら乗っている。
俺の出で立ちに威圧された奴らが俺を避けていくこと自体は珍しくない。決して珍しくないのだが、それは席や列単位の話であり、車輌丸ごと、しかも、俺が待っている場所を予め知っていたかのような空き具合だ。
人払いの結界をぶち破って中に足を踏み入れたら、きっとこんな感覚なんだろう。
「わぁ、誰もいない!」
「お前、何かした?」と、俺は覚に奇妙な現状の当てを聞く。
「何かって何さ?」
「いや……、何でもねぇ」
「ヤーチャン、妖怪は何でもできると思ってない? これは偶然! 運が良かったのさ!」
「運ねぇ……」
俺は誰も座っていない前寄りのシルバーシートの前に立つ。
「シルバーシートは優先座席ってだけで、専用座席じゃないんだよ?」
「今は立ってたい気分なんだよ」
「ハハ! そんなに警戒しなくても大丈夫だよ!」と、覚は周囲の哨戒に勤しんでいる俺を小馬鹿にした。
覚は子猿のように吊り革の一つにぶら下がって車輌の後方を眺めていたかと思えば、急に床に飛び降り、「あそこに妖怪がいるよ!」と、いきなりテンションを上げた。元気なのは良いことなのだが、まるで町中で偶然友達を見かけた餓鬼みたいな騒ぎようだ。
遠くの座席には、ラフな服装の青年と深紅の小袖を着た少女が仲良さそうに座っていた。きっとあの和装の少女が妖怪なんだろうと俺が様子を窺っていると、こちらに気付いた少女が、青年に何かを耳打ちし始めた。
すると、「わぁ! 凄い! あの人、僕に心を読ませないように最高裁判決の概略を心の中で唱えてる! 囚われの聴衆事件だって!」と、覚が嬉しそうに声を上げた。
――覚の能力を知ってるのか、あの妖怪は。
――(法律パート)――
「何々? 人は、日常生活において見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない自由を本来有しているが、一般の公共の場所にあっては、本件のような放送はプライバシーの侵害の問題を生ずるものとは考えられない。問題は、商業宣伝放送が公共の場所ではあるが、地下鉄の車内という乗客にとって目的地に到達するため利用せざるをえない交通機関のなかでの放送であり、これを聞くことを事実上強制されるという事実をどう考えるかという点だって!」
「こら! 行儀の悪いことをするんじゃねぇ!」
「ふむふむ。色々総合的に勘案して、結局その車内放送は、上告をした人にとって受忍の範囲を超えたプライバシーの侵害とは言えず、違法ではなかったんだってさ」
「もういい、もういい!」
――――――――――
――何つー自衛方法だ。物凄ぇな。
急いで俺はその青年に対して覚の狼藉を謝罪するため、深めの会釈をした。
俺の隣で、「地下鉄の車内放送くらいで囚われの聴衆なんて言ってたら、僕なんてどうなるのさ」、などとぶつくさ文句を言っている覚と、青年の隣で御行儀良く座っている和服姿の貞淑で賢そうな妖怪。
二人の挙動を比べると、別に何かを交渉したり競い合っていた訳じゃないのだが、何だか外交的敗北感が凄い。
――こちらからの一方的な接触だったんだが、こんな気持ちになるんなら、もっと違う車輌の列に並ぶんだったぜ。
「あら、じゃあ、私も貞淑でいた方が宜しいでしょうか?」と、覚が戯けて言った。
――妻か、お前は。
「いいよ、そのままで」
俺は何も考えずにホームに立った時の自分を回想し、浮かんでくる後悔や反省などの内情の一切を取り敢えず、この無意味な程に暑い気温の所為にした。
「人間にとってプライバシーって大切なモノなんだね。僕、何となく分かってきた気がする」
「何だそりゃ。自我が芽生えつつあるロボットか何かと話してんのか、俺は」
突然畏まった覚の様子に、つい俺の口元が緩む。
「笑うなよぅ! 僕だって色々人間のことを知りたいんだ! そしてゆくゆくはヤーチャンより人間らしい存在に!」
「無理無理! お前、俺を何だと思ってるんだ」
「タコ入道」
「誰がタコ入道だ、コラ!」
この苛立ちは、決して腹が減っているからでは無い。
「ハハ! けど僕だって、いつか人間になれるかもしれないよ? 先のことは誰にも分からないんだからね!」
――先のことは誰にも分からない、か。
アカシックレコードにも確実な未来までは書かれてねぇし、覚にも未来は読めねぇ。
神のみぞ知るなんて言葉を俺達は簡単に口にするが、もしかしたら全知全能の神なんてもんは、全ての結果が既に確定してしまっている『過去』にのみ存在し得るのかもしれない。しかも、その『過去』すら懐疑主義的に考えると無かったかもしれないと言うんだから、儚い。
例えばこの地下鉄が時間の速度で走っているならば、俺達のいる車輌は、どこまでいっても、断片的な『今』なんだろう。
一定の速度で走る地下鉄の中で、俺はさっきのホームにいた宗教家からの勧誘を思い出した。
『過去』で何かを変えたとしても、きっと『今』には一生追い付けねぇ。白く、そして黒く。明確な『未来』像なんてものもねぇ。
悪いが、俺は先に行くぜ。
「ヤーチャン、前の方に行きたいの?」
「ほら、行くぞ」
少しだけ『未来』に近付ける気がして、俺は前の車輌へ繋がる扉を開いた。
これは決して向こうの青年に対して極りが悪くなったからとかじゃねぇ。
俺はスマートなスキンヘッドであり、筋金入りのロマンチストだから。




