第一話 幸せは煙のように <後編>
後編
マンションから近くのコンビニまでは、湖岸道路沿いを真っ直ぐ進めば良い。
平日の昼間でも交通量が多い車道の向こう側には、美しい湖が杳然と広がっていて、ここからは、犬の散歩をしている老夫婦や、淡水魚が掛かるのをじっと待っている釣り人達が、各々の時間を楽しんでいる様子が窺える。
紳士の嗜みとして私は車道側に立ち、小袖からのぞく座敷童子さんの左手を繋ぎながら歩く。
「コンビニに子供用の歯ブラシ置いてたかなぁ」
妖怪なのだから歯など磨かなくとも大丈夫だとは思うのだが、「幸運」ではなく、軽率にチョコレートを与えてしまったばかりに、私は少し不安になってしまったのだった。
「私に歯ブラシを買って下さるのですね!」と、座敷童子さんが、澄み切った目でこちらを見上げ、嬉しそうに言う。
「うん。念のためにね」
「嬉しい!」
歯ブラシ一本でここまで喜んで貰えるなら、宿主冥利に尽きる。出会ってまだ数時間だというのに、私も宿主が板に付いてきたものだ。ただ本音を言えば、先程食べ切られてしまったお気に入りの板チョコを補充したい。
湖岸道路に面したこのコンビニには広い駐車場があり、数台の自動車や大型トラックが主人の帰りを待っている。
コンビニの前の喫煙所では、二人のスーツ姿の男が、別々の方向を眺めながら煙草を燻らせていて、灰皿を中心として、顔見知りなのか赤の他人なのか判断できない絶妙な距離を保ち続けている。
次から次へと煙を生産している二人のほんの少し手前には、私と同い年くらいだろうか、二十代半ばくらいの女性が、煙草も吸わず、頗る不機嫌そうな顔をしながら、片手でスマートフォンを操作しているのが見える。
――そんなに煙が嫌なら、場所を移せば良いのに。
「涼介さん。あそこに妖怪がいます」と、座敷童子さんが、少し警戒した表情で、私の右手をぎゅっと握る。
あわや妖怪「煙嫌い」でも出たかと、邪悪な顔して憚らない女性の辺りを窺うと、そこには不可思議な灰色の塊が、まるで副流煙からその女性を守るかのように、不自然に滞留していて、「何だありゃ?」と、意図せず漏れた私の声は、湖岸道路を行く自動車の走行音へ煙のように融けた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「もしかしてお兄さん、この子が見えるの?」
ふいにスマートフォンから目を離した女性は、足を止めて喫煙所と彼女との間に浮遊する物体を眺め続けている不審極まりない私を値踏みするように睨み、その後驚く様な顔をして言った。
彼女は、無言で頷く私を、ここじゃアレだからと、ここまで乗ってきたであろうパステルブルーの軽自動車まで誘導し、速やかにリモートキーで解錠する。
黒髪の上にモクモクと煙の塊を従えたショートヘアの女性は、先程の仏頂面とは打って変わって、切れ長の目と鼻筋の通ったバランスの良い顔を柔和に綻ばせ、どうぞと紳士的にドアを開ける。
その姿はまさしくイケメンのそれだ。仮に私が乙女だったならば、覿面に効果抜群であっただろう。
「長浜凛です」
彼女は運転席に乗り込むと、手短に名乗った。
「僕は大津涼介と言います。こっちは座敷童子さん」
「座敷童子です!」
「その子が、お兄さんの妖怪?!」
突然、彼女が、後部座席にずいと詰め寄ってきた。
「ええ、今朝出会ったばかりなんですが」
「可愛い……。可愛過ぎる」
せっかくの整った顔が、忘我の如くメロメロになってしまっている。涎の一、二滴垂れてしまってもおかしくない程だ。
「あの、すいません。長浜さんの妖怪は、そのモヤモヤなんですか?」と、私は尋ねる。
近くで見て判明したのだが、このモヤモヤの中には、ぼんやりと無表情な顔が浮かんでいて、ぼーっとしているような、それでいて少し微笑んでいるような、不思議な顔付きをしている。
「凛でいいわ、歳もそんなに違わないでしょ? そう、この子は座敷童子ちゃんみたいに自分で名乗れないから、勝手にけむおって呼んでるの。煙みたいだから」
底無しに安直なネーミングだ。しかし私はこのセンスが嫌いではない。むしろ私好みだ。
「この子は、煙々羅という妖怪なのです」
すると、座敷童子さんが、さも当然のことのように、そう言った。
「えんえんら?」
私と凛さんの声のユニゾンが、籠った車内に響く。
「はい。煙々羅は煙の中にただ浮かんでいたり、気が付くと見えなくなっていたりする、基本的に無害の妖怪といわれています」
よく知っているねと私が驚くと、彼女特有の仕草なのだろうか、座敷童子さんは、いつもの得意気な顔を向けてきた。
「凛さん、実際のところ被害は無いんですか?」
「ええ。初めはどこに行くにもずっとついてくるから、少し迷惑だったけど、最近は慣れちゃった。もうペット感覚ね」
凛さんは、けむおの顔付近を人差し指でくるくると散らしながら言った。
けむおは表情を変えないが、何となく構って貰えて嬉しそうな様子に見える。
「先程は喫煙所の近くで何をなさってたんですか?」と、私が尋ねる。
「あぁ、さっきはね。この子に煙を食べさせてあげてたの」
「煙を食べるんですか」
うちの子が私の「幸運」を借りていくように、煙々羅は「煙」をエネルギーとしているのだろうか。煙に浮かぶ顔には確かに口があるようだが、煙が「煙」を食べるというのが余り想像できない。
「そうなの。出会ったばかりの頃は、そのことを知らなくて。どんどん萎んでいくんだもの、この子」
凛さんは、散らされても散らされても直ぐふわふわ纏まってくるけむおの顔を見ながら少し笑った。
やはり「煙」がエネルギー源らしい。奇特な存在だ。まぁ妖怪に奇特も何もないのだが。それにしてもけむおからは煙草の匂いがしない。体内に取り込まれると消臭されてしまうのだろうか。ますます奇特な存在だ。
「私、マンションに住んでるんだけど、ベランダでぼーっとするのが好きで。その日もけむおと一緒に日光浴をしてたら、どこかの家の人がベランダで煙草を吸ってて、私煙草の匂いが苦手だからうんざりしてたんだけど、急にけむおが匂いの方に近付いていって口をパクパクし始めるんだもん。ビックリしたわ」
「食べてたんですね、煙を」
「そうなの! 萎んじゃった体が少し元通りになってて、笑っちゃった。安心して」
凛さんはそう言って、フフっと小さく思い出し笑いをした。
「それからこの子が丁度良い大きさになるように、ちょくちょく喫煙所とかに寄るようにしてるの。嫌いだけどね、煙草の煙は」
やはり凛さんにとってはペットのような存在なのだろう。けむおを見る目差が、宿主というよりは、親とか飼い主とかのそれだ。
「可愛がってらっしゃるんですね」
「まぁね。この間なんて薬缶の湯気をパクパクしてたのよ、勘違いして。バカでしょ。煙じゃないから大きさは変わらなかったけど」と、凛さんは、若干親バカ気味に言った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
晩夏を過ぎる頃から夜は半袖ではいられなくなった。
あれだけ鳴いていた虫の声も近頃はすっかり聴かれない。
時計盤は丑三つ時を示しているが、妖怪が潜むにしても音でその存在が露見してしまう程の静寂を呈している。座敷童子さんは、既に歯磨きを済ませ、寝室ですやすやと眠りについている。
それとはまるで対照的に、雷神様が悪戯に落とした雷の如き大声が、私のスマートフォンから漏れた。
「ねぇ! ちょっと聞こえてる!?」
激甚災害である。
「はいはい、もしかして凛さん酔ってるんですか?」
「酔ってないわよ! 全然酔ってない! 酔ってないから、ちょっと私の愚痴聞いてくれる? こんなこと相談できるの、涼介君くらいなんだから」
電話の向こうで恐らく泥酔状態の凛さんは、些とも筋の通らない理屈で、私に言葉のサンドバッグになれと御所望のようだ。
午前中、あんなに紳士だった凛さんは、一体どこへ行ってしまったのか。
雲散霧消してしまったというのか。
「聞きますから! 聞きますから、落ち着いて下さい!」
「うん。あのね、さっきね、後輩と飲み会しててね。後輩が帰っちゃったから、ちょっと酔いを冷まそうとベランダで涼んでたんだけどね」
酔ってるんじゃないか、やっぱり。
「こんな夜中に、どっかの誰かがアレしてるのよ!」
私は自堕落ながらも規律のある生活をしており、こんな脱世俗気味の毎日の中にあってもコミュニケーション能力を失わないように心掛けている。むしろ学校という社会的なコミュニティーに属していた学生時代の方が幾らか厭世俗的だった分、その能力が劣っていたようにも思うが、そんな私が全力を出しているのというのに、耳には全く情報が入ってこない。
「な、何です?」
「煙草を吸ってるのよ!」
凛さんは大いに激怒した。
余りの喧しさに、思わず私はスマートフォンを耳から離した。
そこには今日の別れ際に交換したばかりの電話番号が表示されており、その画面の向こうでは、私が如何に煙草の煙が嫌いかやら、煙草をベランダで吸うのは如何なものかやら、熱の入った大演説が繰り広げられている。
スピーカーホンにもなっていないというのに、それはもう鮮明に聞き取ることができる。
正に天災のような荒々しさ。物凄い肺活量だと思う。
「ねぇ! 涼介君、どう思う?」
――(法律パート)――
その時、私の脳内では一つの判例が思い起こされていた。それは、平成24年12月13日、名古屋地裁が出した判決である。
事のあらましとしては、ベランダでの喫煙をやめるように原告が再三お願いしたにもかかわらず被告が聞く耳を持たなかった所為で、被告の真上の階に居住している原告が精神的肉体的損害を被ったと損害賠償請求した、という事案だ。
結論としては、被告のベランダでの喫煙により原告に生じた精神的損害の慰謝料五万円を認める判決だったのだが、私がその判決で重要だと思っているのは、「マンションの専有部分及びこれに接続する専用使用部分における喫煙であっても、マンションの他の居住者に著しい不利益を与えている事を知りながら、喫煙を継続し、何らこれを防止する措置をとらない場合には、喫煙が不法行為を構成する事があり得るといえる。この事は、当該マンションの使用規則がベランダでの喫煙を禁じていない場合であっても同様である」と言っている一方で、「互いの住居が近接しているマンションに居住しているという特殊性から、そもそも、原告においても、近隣のタバコの煙が流入する事について、ある程度は受忍すべき義務があるといえる」とも言っているところだ。
――――――――――
つまり、良好なご近所関係の為には、お互いの少しばかりの思いやりが肝要であるということだ。
ところで、とあるフィクションの某金融屋が、「法律は知っている者の味方だ」などと怖い顔をして言っていた気がするが、たとえ知っているからといって必ず味方をしてくれる訳ではないのも法律の特徴である。今回のパターンもそのうちの一つだ。
結局、私が何を言いたいかというと、この判例を知っているからといって、凛さんの満足する回答に辿り着けるだろうとは努々思う事勿れ、ということである。
間違っても、先程の判例知識などを、長々と衒学的に語ってはいけない。
前述の通り、私はコミュニケーション能力を失わないように日々鍛練して止まない。
膨大な活字と電波に乗ってくる潤沢な情報を浴びに浴びる事で培われた、凡そ実践の伴わない、スカスカのスポンジのようなコミュニケーション能力――それを駆使して私が弾き出した、模範的かつ的確だろう回答がこれだ。
「いやー……。お察しします」
私の無難極まる回答の後も、「もう怒りすぎて呼吸を止めちゃいそうだったわ」「ベランダはみんなの場所っていうのは私も重々承知よ」「この子が煙草の煙を食べてくれている間は新鮮な空気を吸えるの」などと愚痴を吐く凛さんに、私は悉く相槌を打ち続けた。
それはもう、根気強く。
「とにかく今日はありがとう。こんな愚痴聞いてくれるの涼介君くらいしかいないから、お蔭ですっきり寝られそう!」と、凛さんはどこまでも御機嫌に言った。
見え透いたお世辞ではあったが、風神様の袋から産み出されたばかりの大風の如き熾烈な通話の幕引きが漸く見えたようで、ヘトヘトの私は少しほっとした。
「あ、そうそう。新しい妖怪の宿主が見つかったから、今度また連絡するね。じゃあお休みなさい!」と、然りげ無く何かとても重要な事項を残して嵐が去っていった。
通話の終わりを告げるプツリという無機質な音を聴きながら、「それが本題であれ……」と、私は独り言つしかなかった。