第九話 囚われの聴衆 <前編>
前編
スキンヘッドが楽なんて幻想、今時誰も信じちゃいねぇか。
何もかも面倒になっちまった奴が、潔く毛髪を擲って直ぐに後悔、なんてことはよく聞く話だからな。
まず、毎日の手入れが必要だ。当たり前のことだが、スマートなスキンヘッドを保つには、剃らなきゃならん。無精髭擬きを頭から生やしてる場合じゃねぇからな。それがスマートって奴だぜ。
しかし、剃るためには、肌が乾いた状態じゃ駄目だ。血が吹き出す。他にも色々制約がありやがる。意外と頭皮は弱ぇ。ちなみに頭皮は止まりにくいぞ、血が。その次は紫外線対策だ。乙女のように繊細だと思え。赤子の肌を撫でるようにケアしろ。メラニンを憎むな、自分の無沙汰を憎め。
だからこそ俺は、自分と同じように磨き上げられた白く輝くスマートなスキンヘッドに会うと、根性というか、その忠実さに感服させられる。御同慶の至り……は意味が全く違うな。兎に角、御機嫌。ハッピー。御幸甚の至りって奴なんだ。
じゃあ何でスキンヘッドになんてするのかだって?
ロマンだよ、ロマン。
飽くまでこれは俺の持説なんだが、スキンヘッドはロマンチストの奴が多い。
しかし、目の前のこいつはどうだ。男か女か分からねぇくらい可愛らしい顔をしてやがるが、全身真っ黒、毛むくじゃら。スマートなスキンヘッドの対義語みてぇな奴だ。いっそ丸刈りにでもしてやろうか?
「ここ最近ずっと暑いからねぇ、別に良いよぉ」
全く。忌々しいこいつは、俺の心を読んで、そう言った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
風貌の割に意外、とよく言われるが、昔から俺は本が好きだった。
小説や漫画、雑誌、学術書問わずどんなジャンルでも。
今では何でもかんでも電子化の時代になってしまったが、紙媒体には「質量」という安心感と「厚み」というZ軸上のロマンが確かにある。
決して俺が電子書籍の扱い方を分かっていないとかいう話ではない。
まぁそんなこんなで、俺は職場から帰る途中、地下鉄の駅近くの書店によく立ち寄る。
この書店は、こぢんまりとした店構えの割に、品揃えが独特だ。どう独特か、と聞かれると返答に困るが、そこらに点在する書店と比べて、いわゆる売れ筋の商品もしっかりと置いているし、かと思えば凡そ売り上げが見込めないような本がやけくそ気味に大量入荷されていたりして、毎度新鮮な感覚で本の品定めができるのだった。
実は、売り上げが見込めないと思っているのは俺だけで、ここの仕入担当には、この書店を利用する奴らの嗜好を敏感に読み取る能力が備わっているのかもしれない。何なら心でも覗けたりして。
――ハッ! 馬鹿馬鹿しい。
俺は自分の思考に一々ツッコミを入れながら、今週の特集コーナーに足を運んだ。
その一番隅に平積みされている怪しげな占術書の帯には、『アカシックレコードには全てが書かれている――そう未来のことでさえも――』などと書かれていて、俺なんか今日の晩飯のことすら決まってねぇっていうのに大層偉そうな話だ、と思った。
「未来ねぇ。分かるもんかね」
何となくそれを手に取り、目次の部分を眺める。
チャネリングや瞑想といった単語と共に『未来の読み解き方』という見出しがあったので、俺はアカシックレコードとやらに今晩の献立を教えて頂こうと、やや挑戦的にその章を開いた。
そこには、未来の読み解き方という名の妄言が連々と書かれていて、アカシックレコードを取り扱っている他の書籍や、それを使って真剣に占術を伝授しようとしている書籍に失礼だろと思いながら、俺はこの度を越して神秘的な装丁の本を元の場所に戻した。
――やはり自分の晩飯くらい自分で決めろということか。
どうやら占いというジャンルは、女性をターゲットにしているらしい。
近くの占いコーナーには、色鮮やかな花で表紙を飾っているものや、シンプルな真っ白の表紙に淡い幾何学模様で縁取りをしているもの、可愛らしくデフォルメされた動物達が微笑んでいるものなど、様々な種類の占いが軒を連ねているものの、そのどれもが厳ついスキンヘッド野郎の献立を決められるとは到底思えなかった。
空調が直に降り注ぐ占いのコーナーを鮮やかに彩っている書物達からは、晩飯にサラダとデザートのみをひたすら推奨してくるような、女性と中年親父の間に潜むギャップという名の目には見えない寒気を感じることができた。
――占いにそこまで興味があるわけじゃねぇが、フォアラー効果なんて持ち出して占いの息の根を止めようとする輩はロマンってやつを分かってねぇんだ。
スキンヘッドはロマンチスト説に次いで今一つ賛同を得られねぇ持説ではあるが、占いで一番面白いのは、未来が読める読めないとか、結果の良し悪しなんかじゃなく、占っている時間――そこに到達するまでの経過の部分――なんじゃねぇか、と俺はそう思っている。まぁ、他にも儀式の作法、体系、歴史、とか挙げ始めたら枚挙に遑はねぇが。
ここを後にして、哲学のコーナーの前で足を止める。すると、一見哲学入門者向けかと思わせるポップなカラーリングの表紙なのに、未来とは何かというテーマを掲げているバチバチ本格派の書籍が目に留まった。
未来のことについては、仕事のことやら生活のことやら、今までにも何度となく考えてきたが、未来という概念自体、それそのものについて考えた記憶なんていくら振り返っても見当たらなかった。
――いや、昔一度だけ、ハイデガーの『存在と時間』を読もうと思って、時間、過去、現在、未来、その内容の難しさに直ぐ音を上げたことがあったか。
アレはヤバかった。俺の方が拒否反応を示したというより、書籍の方が俺に拒否反応を示しているって感覚になったのは、今思い返してもアレだけだ。まぁ……若気の至りってやつか。人は時間が過ぎていくとは言うが、時間が湧き出る所を考えようとはしない的なフレーズだけはなんとなく覚えてるが余所には言えねぇ。完璧なる疎覚えだから。
――そういや、職場の辛気臭ぇ後輩が前に似たようなことを言ってやがったな。確か、「自分が時計を見るまで、その針が止まってたように思うことがある」だっけか?
「心配しなくても時間は常に一定に流れているよ」
――そうそう。俺もそう思う……。あぁ?
いつの間にか俺の隣に、全身が黒い毛で覆われている子供の悪魔が立っていた。衣服は着ておらず、この夏という季節にはさぞ辛い思いをしそうな毛皮姿だ。
「そんな量子力学のようなことは無いんだよ、時間には」と、その小さな悪魔は何故か嬉しそうに講釈を垂れている。
――何なんだ、こいつは。
「てめぇ……、何者だとは言わねぇ。……態々言わなくても、分かんだろ」
「その矛盾良いねぇ! 今度どこかで使わせて貰うよ!」
――こいつ、人の心が読めるのか。
「うんうん。スキンヘッドの人間は、もっと激しやすいものだと思ってたけど、案外冷静なんだね」
「ああ、こう見えて結構神経質で忠実な奴が多いんだぜ、覚えておきな」
「まぁ良いや。おじさん、量子力学には興味ないの?」
悪魔が指を差している方向には、科学や数学、物理学などの本が狭い一角にごちゃ混ぜに寄せ集められている学術書のコーナーがあった。
「興味ねぇな。今度は俺が当ててやろうか。お前、次の口でシュレディンガーの猫とか言い出すんだろ? 量子力学専攻の悪魔の御高説は丁重にお断りさせて頂くぜ」
「いやいや、粒子と波の性質からじっくりと……」
「基礎中の基礎からじゃねぇか!」
御免被る、と俺が少し語気を荒げて言っても、この悪魔はそんなのどこ吹く風といった調子で話し続けている。
「観測した瞬間に初めて存在が確定するということ。量子力学はラプラスの悪魔も殺せるんだよ」
ラプラスの悪魔。物質の物理法則と力学を知悉する仮想の存在。
「だから、慎んで遠慮させて頂くって言ってんだろ」
――未来は誰にも分からねぇってことを言う為だけに、小難しい話をしやがって。
「ハハ! そうなんだよねぇ! アカシックレコードにも飽くまで暗示的な未来予想しか書かれてないって話だよ! 物分かりの良いスキンヘッドは好きだなぁ」
「お前が回りくどいんだよ」
――付き合ってらんねぇ。
「いいじゃん。もっと遊ぼうよ」
「ったく。さっきから、俺の面白くもねぇ心の中なんぞ、勝手に読みやがって」
――醜いだけだろうが。どこから見ても醜い、八方美人の対義語みてぇなもんだぜ、俺の心は。
「そんなこと無いよ。結構僕達、面白い会話のキャッチボールが出来てると思うんだけど?」
「こっちは投げてねぇよ。」
「ハハ! そういう所!」
「まぁ、勝手にキャッチしてくれる分、こっちは楽で良いわな。喉に優しいぜ」
――そろそろ良いだろ、目的はなんだ?
「口と心で違うアプローチをしてくるなんて器用だねぇ。うーん。目的……っていうのは特に無いかな。これから一緒に暮らしましょうってことくらい」
「……は?」
――……は?
「ハハ! 二度も言わなくても、大丈夫だよ」
――駄目だ。話が見えねぇ。
「あと一つだけ言いたいことは、僕は悪魔じゃないよ」
「じゃあ何だっていうんだよ」
「覚っていうんだ! 妖怪だよ」
――一緒に暮らす? っていうか、妖怪? ガキの頃読んだ妖怪大事典に覚なんていたか?
「……お前、名前は?」
「だから覚だって」
「俺は人間って名前じゃねぇんだぜ。野洲重弘って名前がある。俺が聞いてるのは、お前の名前だよ」
「妖怪に名付けるって良い着想だね! 僕に名前なんて無いから、好きに呼んでくれて良いよ!」
「じゃあ悪魔」
「悪意しかない! どっちが悪魔だよ!」
妖怪が両手を上げてプンプンと怒っている。
「じゃあ、仕入担当」
「しいれ……何?」
「いや、忘れてくれ」
――しかし、覚ねぇ。まさか俺が坊主頭だからか?
「その悟りじゃないんだよなぁ」
「一々言わなくても分かってるよ!」
「いいねーいいねー! 僕、おじさん気に入っちゃった! そのフォルムでヤーサン呼びは色々問題がありそうだから、ヤーチャンって呼ぼう」
――ちきしょう。コイツ、舐めて切ってやがる。
「はぁ……。お前の名前は、気が向いたらまた決めてやるよ」
この冗長な会話から何となく長い付き合いになりそうな予感がした俺は、意外と毛並みの整っている毛むくじゃらのキューティクルを眺めて、少し呆れながら、そう言った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「本当にお前はこの書店とは、何も関係が無いのか?」
「あ! この本面白そう! 『知力・無知力』だって!」
――聞いちゃいねぇ。
「ちゃんと聞いてるよー。関係無い関係無い! ついさっき気が付いたら僕はヤーチャンの隣にいたんだよ。信じてくれとは言わないけどさぁ。それより『先のことがはっきりと分からないから、人は生きていける』だってさ! ヤーチャンどう思う、これ?!」
楽しそうに覚はパラパラと『知力・無知力』という自己啓発本のページを捲っている。
俄には信じ難いが、妖怪だから急に出没することもあるかもしれない、それがたとえ書店であっても。
――ただ本当にこいつは、ここの仕入担当じゃねぇのか? そっちの方が信じられねぇんだが。
俺は、堆く積み上げられた『知力・無知力』のこの書店における需要に一抹の不安を覚えた。
「知らねぇが、自分が死ぬ日とかそういう先のことは、普通分かりたくないんじゃねぇの? 今までスタスタ歩けてた奴が、自分の立ってる場所が地雷原と分かった途端に一歩も動けなくなるみてぇに。人間ってぇのは、案外物事を知り過ぎねぇ方が生きやすいっつーのはあるかもな」
「そう考えると、さっきのラプラスの悪魔じゃないけど、何でも知り過ぎっていうのも考え物だね」
「まぁな」
「うーん。けどさ、逆に物事を知らな過ぎると生き辛くなるって面もあるんじゃない? 知ってる人だけ得をして、知らない人はどんどん損しているようなこととかさ。危機回避能力っていうの? 知ってるからこそ回避できるみたいな」
――危機回避ねぇ。
確かに、自販機のコーヒー、スーパーで買った惣菜、家族の手料理、そのどれもが安心・安全だと確証を持てる奴は、ほんの一握りだろう。知らな過ぎるということは、現在進行形で自分が置かれている異常にも気付けないということだ。
ただ、そこは、ぼやっと不確実ままで、人は『信じる』という名の盲目的な思考放棄をしている。
――そういうもんだし、それでいいんだと思う。知らねぇことや不確かなことをどこまでも分かろうと追求するのは辛ぇし、限界がある。とある映画で、投資家が『人は自分に降り懸かる凶事の想定を低く見積もりがち』なんて言っていたが、案外、このことから来てるのかもしれんな。
「そう考えると、人間が日頃不安に思っていることなんて、ほとんどが知らないことや不確かなことなんじゃない?」
「案外そうかもな」
「ヤーチャンは、不安なことってあるの?」
「将来のこと」
――あと、お前のこととかな。
「ハハ! そこは盲目的に信じて下さいませ!」
何かを盲目的に信じるということは、何かを疑うことよりも、楽で幸せなことなのかもしれない。そして、ある程度のところで思考放棄が出来るという普通のことも、案外一種の才能なのかもしれない。占いで言うところのフォアラー効果どうのこうのも、きっと信じた方が楽しいに決まってるから人は信じてしまうのだろう。
「ただぼんやりとした不安でヤーチャンは死んだりしないでね」
書店の狭い通路をぶらぶらと歩いている内に小説のコーナーまで来ていた俺達だったが、その中から自殺してしまった「あ」行の某小説家の見出しプレートを見つけた覚は、少し寂しそうにそう言った。
「安心しな、俺が繊細なのは頭皮だけだぜ」
某小説家は、不確かな未来を追求し過ぎて、生きることに疲れてしまったのだろうか。それとも優秀な余り、悟った未来を憂いてしまったのだろうか。
「僕は思うのさ! 分からない未来のことなんて考えるより、今の幸せだけを重視すべきだと!」
「刹那主義だねぇ」
――俺には無理な話だな。
俺が大きな溜息を一つ吐くと、呼応するように腹の虫が一つ鳴いた。