第八話 全ての視線とその行方 <後編>
通された和室は夏の匂いがした。
畳や障子など和室独特の香りとはまた異なる、かといって夏の草花が生けられてる訳でもなく、具体的に何の芳香かと問われれば私は口を噤むことしかできないのだが、私にはこれは夏の匂いだという確信があった。
「すまんねぇ。婆ちゃん、御盆の買い物に出てて」
老人が、民宿時代からずっと現役なのか、先程見た登山客のバックパックですら収納しきれないくらい縦長の電気ポットを奥から持ち出してきた。
「いえいえ、お気遣いなく」
「まぁ、飲んで下せぇ」
そう言うと老人は、重そうな電気ポットから急須、急須から机の際に置かれた二つの湯呑みへと、ゆったりとした動きでお茶を出してくれた。
「ありがとうございます」と、言いつつも老人側の湯呑みが机から落ちないかヒヤヒヤしている私を見て、「婆ちゃんは十二時二十分のバスで帰ってくるんだけど」と、老人は自らの持て成しに不備が無いか心配そうに言った。
部屋の掛け時計を見ると三時十五分を示していた。そんな筈は無いと腕時計を見ると、現在の時間をきっちりと刻んでいて、この民宿を畳むと同時にこの部屋の時間も止まってしまったのかと、私は如何にも在りきたりな妄覚に捕らわれた。
すると、老人は、思い出したように、またしても奥から、一口サイズの栗饅頭を持ってきて、「これも、摘まんで下せぇ」と言った。
窓の外は、まだ真っ白で、庭の木の輪郭だけが浮かび上がっている。
余り知らない人との会話術として、天気の話をすると良いと誰かが言っていた気がするので、私は濃霧のことを老人に話すことにした。
「それは、大変でしたねぇ。昨日の夜、雨が降ったもんで」
「昨晩は麓のホテルで一泊して来たんですけど、やっぱり雨が原因でしたか」
「最近は、台風や何やらで、畑がズブズブで」
「畑をなさってるんですね」
「えぇ。お借りしてる土地も含めて何面か。最近は、蕎麦ぁ、始めました」
「へぇ。蕎麦」
「ただ、畑が湿ってると、蕎麦の出が悪いんでねぇ」
コミュニケーション能力に欠く私は、他者に阿諛することで何とか生活を成り立たせてきていたので、本当にマニュアル通りの会話術しか持ち合わせていなかった。
ただ、最近では、このようなぎこちないやり取りの中にも楽しさを見出だすことができている。
次は最近の健康状態だったな、と私は脳内でマニュアルを思い出しながら道筋を立てて話し出す。
「お身体の調子とかはどうですか? お変わり無くお過ごしでしょうか?」
「二年前の年末によう、正月用の買い物をした帰りに、ついでに町の病院に行ったんだよ。舌の戻りが悪いなんて言ったら、即、救急車を呼ばれてねぇ。そのまま精密検査で、でっかい総合病院に入院って羽目になってしまって。早期の脳梗塞ってことで、二十日くらいで退院できたんだけども」
「え! お正月は病院で過ごされたんですか」
「ええ。年末に病院に捕まったとか言って」と、老人は白い歯を見せて笑った。
「それからは、大丈夫なんですか?」
「あれから段々良くなってくれりゃ良かったんだけども、最近は足の戻りも悪くなって」と、老人は杖をじっと見つめながら言った。「まぁ、その代わりと言っちゃあ何だが、霊感がついてきやがった」
「霊感?」
「誰も信じちゃくれないけど」
老人は、そう言うと、ゆっくり立ち上がり、窓の障子を閉めた。
障子には、沢山の目が貼り付いていた。
一瞬私はドキリとしたが、じっと眺めてみると、私や老人に視線が集中している訳ではなく、勿論目が合う個体もいるのだが、開きっぱなしの扉の奥の廊下を呆然と眺めていたり、親の敵のように天井を睨み付けていたり、それぞれが見たい場所を見ているようだ。何なら、就寝中なのだろうか、目を伏せているものまでいる。
私の表情から察したのか、「見えるのかい、こいつらを」と、老人は驚いたように言った。
「え……、ええ」
「調べたんだがよ。こいつらは目々連というらしい」
「はぁ」
「普通は、って言っても何が普通で何が普通じゃないか分からんが、廃屋の襤褸障子に現れる妖怪みたいでよ。失礼な話よな、廃屋でも襤褸障子でも無いから」
確かに、廃業はしていても立派な建物だと思うし、この障子もまだまだ現役で穴一つ無い。
「ここは居間でも客室でもなくて、俺の親父が亡くなってからずっと空き部屋だったんよ。たまぁにこうやってお茶するだけの部屋さ」
「他の部屋とかには現れないんですか?」
「うーん。稀に居間とか客室だった部屋の障子に一匹二匹迷い混んでる時もあるけど、何故かこの部屋にずっといるんさ」
目々連にとって、この部屋は居心地が良いのだろうか。それとも何か他に理由があるのか。そもそもどうやって移動するのだろう。私は目だけがヒラヒラと蝶のように飛んでいる様子を思い浮かべた。
老人から障子へ視線を移すと、未だに目々連はパチパチとそれぞれのタイミングで瞬きを繰り返していた。対人恐怖症とまではいかないが、私は他人の視線が気になる性質な筈なのに、不思議と目々連のそれは嫌ではなかった。
「なんか純粋な目をしてますよね」
「そうかね。まあ、こいつらは、じっと見てくるだけで、悪さは何もしてこないけど」と、老人は、同じ目線の高さにいる目々連と少しの間見詰め合い、飽きたのか、静かに私の方に視線を戻して言った。
「この目々連は、色んなものを見てきたんでしょうね」と、私が障子を広く眺めながら呟くと、老人は、「何も変わらないのになぁ。ずっと。今も、昔も」と、言った。その目は過去から現在までを見続けてきた目々連と同じように澄んでいた。
老人の家から出て少し傾斜を下った場所に、私の土地があることが分かった。
一時間程、土地についての法律的な手続の話や昔話をした後、外に出てみると、あれだけ濃かった霧はすっかり消えていた。空気が澄んでいて、嶮岨な山際から夏の太陽が見えた。
杖をつく老人に何かあってはいけないと私は老人の側から離れないように歩くが、老人は毎日の作業で慣れているのか、意外にもスタスタとアスファルトの道を下っていく。
私が住んでいる地方では紫陽花といえば六月だけのもので、それは夏の暑さと共に散っていくものである。しかしここでは、八月の半ばだというのに未だに紫陽花が枯れないでいる。しかも、その隣には橙色の秋桜のような花まで咲いており、「最近は、ここらでも三十度超える日も増えてきて」と、言った老人の言葉に、季節の感覚がどんどん惑わされてくる。
「ここですわ」
傍に用水路が流れている私の土地の道路側半分は綺麗な豆畑になっていた。どうやら、ここは蕎麦畑にはされなかったようだ。
「身体がこんなもんで、半分だけ使わせて貰ってます」
畑の奥半分は背の高い雑草が占めており、更にその奥、用水路ギリギリの所には丈夫そうな一本の木が生えていた。
「あの木は何ていう木なんですか? 見たことが無い種類ですが」
「あれは、サワクルミっていって、昔は下駄とか製材して色々使ってた木だったんですわ」
「へぇ、サワクルミ」
「ほっといたら、どんどん大きくなりよって。まだ、そこの光ケーブルに当たらんから良いけど。よっぽど危なくなったら、電力会社が専門家呼んで切り倒すさ」
光ケーブルを一目見ようと湿った芝生に踏み出すと、意外に育っていたのか、ぐっと足が沈みこんだ。
靴擦れの心配が無い抜群のフィット性を誇るヒールと、いくら歩いても疲労が蓄積されないクッション性を持つソール、そして何より、このランニングシューズ一番の売りである、耐水性を一切放棄し、通気性一本に絞りこんだアッパーの全てからじわりと水分が流れ込む。
もはや蕎麦ならば芽が出ないレベルにまで靴下が濡れそぼったが、まぁこの通気性の良さなら直ぐ乾くだろ、と私はお気に入りのランニングシューズに全幅の信頼を寄せた。諦観というよりかは、無我の境地である。楽天的帰結には違いない筈なのに、そこにカタルシスは無かった。
道の反対側では、年季の入った子供飛び出し注意の看板が今にも朽ち果てそうな身体で自らの職責を果たしている。山の紫外線は強いと聞くが、この少年の形を模した看板は長年それを浴び続けてきたのだろう。私なんてこんなに長距離の運転をしたのも久し振りだというのに。私は自分の右腕の運転焼けと白く色褪せた少年の看板を見比べ、まるで対照的だな、と思った。
すると、私の目の前を、下界ではもう余り見かけなくなってしまったサイズの大きなトンボが飛んでいった。
――オニヤンマだ。
私は、その巨大な体躯を持つトンボを見て、小学生の頃、学校の郊外学習で近所の科学センターに行ったことを思い出した。
そこの特設ブースでは、視線を可視化するというアイトラッキングの実験が行われていた。映し出される画面には、アイカメラを装着している人の見ている箇所が、光に誘われる虫のような動きでフラフラと点として示され、その視線が辿った一筋の経路がモダンアートのように残されていた。
その時の草津少年は、他の子供達が「お前どこみてんだよー」とか「ミミズみたいー」などと実験に歓声を上げている中、「オニヤンマくらいおっきな複眼だと、どんな感じに示されるのだろう」と、隅の方で独り思索の渦に飲まれていたのは言うまでもない。
そんな詰まらないことばかり記憶している癖に、この村に私が一度来ているという事実は一向に思い出されずにいたので、私は、「ここは、良い所ですね」と、自分が発したお世辞に、「いつ来ても」と付け加えようか逡巡して、結局止めた。そして、お世辞一つ言うにも微に入り細を穿つ自分に、日頃、人付き合いに気疲れしてしまう原因を見た。
すると、「ここいらは、静かになり過ぎてしまったもんでよ」と、老人は寂しそうに言った。
飛び去ったオニヤンマの複眼には、『今』はどう映ったのだろう。
下界から来た私という存在、何も変わらないと言った老人、そして静かになりつつある村。そのどれもが虫にとっては興味が無いことだと、十把一絡げにされてしまったかもしれないし、虫なりに何か一種の芸術性を見出だしたのかもしれない。
しかし、そう考えると視線はどこへ向かうのだろう。
「民宿とかも、どんどん減っちまって。そこの裏手の建物も、今解体工事やってるだろう」と、老人は杖を指した。
思索の沼に嵌まりかけていた私が慌てて視線をやると、今日は休みで作業をしないのか、壁を大きく失った建物の前に、操手のいないパワーショベルが停まっていた。
自治体から補助金が出るとは言え建物を解体するにはお金が掛かるし、更地にしておくと固定資産税も高くつくと聞いたことがあったので、「畑でもやるんでしょうか」と、私が尋ねると、「そうかもなぁ。学校のグランドみたいに水捌けの為に砂利を敷いてたりしたらまた違うんだろうけど、ここらは敷地掘り返したら、直ぐ山の土が出てくるから」と老人は言った。
ここからは、ウィンタースポーツ用品のレンタルショップやコテージ、民宿などが見えたが、八月ということもあり、そのどれもが暗く扉を閉ざしていた。きっとオンシーズンなら、まだ活気があるのだろうと私が考えていると、「昔のようにはいかないわなぁ」と、隣で老人が呟いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
お土産に沢山の胡瓜と巨大な平鞘隠元、そして数キロの馬鈴薯を頂いた。
「帰り、気を付けて」
「ありがとうございました。奥様にも宜しくお伝え下さい。失礼致します」
また来ます、とは言わなかったが、また来たいと思った。
私は自分を偽善者だと思う。
お世辞だけは伝えるのに、本音は心に秘めておくのだから。
私がトランクに野菜を積み込んでいると、横の山道を集配用の赤い郵便車が下っていった。
「俺も昔は運転免許を持ってたけど、息子がうるさくてよ。返納した」
「皆さん御心配なさってのことですね」
「いやぁ。もし事故があったら、誰が面倒見るんだって」と、白い歯を見せ、老人は笑った。
随分と町の方まで下りてきた気がする。真っ直ぐ伸びる道路には車の一台も見られないが、先程の郵便車は今頃どの辺りを走っているのだろうか。
私が進む一本道の両脇には、地平の彼方まで青々と伸びた夏の稲穂が風に波打っている。牧歌的な田園風景の遠く360度は山脈に囲われていて、木々の複雑な陰影により、その山肌は荒い素材で作られたぬいぐるみのように見えた。
山脈の隙間から中綿がはみ出したかような入道雲がこちらを覗いている。雲脚の緩やかさを眺めていると、私の上空だけ蒼穹が澄み渡っているのに気付いた。
それは、まるで見えない巨大な存在が、「ここ!」と、私に指を突き立てたかのように感じられた。
「ここが世界の中心のような気がする」と、私が柄にもなく感傷的な気分で言うと、トランクで馬鈴薯が数個ゴロリと散らばる音がした。
高速道路に乗り、スピードを上げる。反対車線は、帰省ラッシュか、故障車でもあったか、軽い渋滞が起きているようだ。当たり前のことだが、沢山の車が同じ方向を見ている。
余所見をしている場合ではないと我に帰り、私は自分の進む方向を見る。
すると、追い越し車線を物凄い勢いで大型二輪が走り去っていった。そのフルフェイスのヘルメットが、私にはオニヤンマの複眼に見えた。
――そうだ。きっと目々連もオニヤンマの複眼も、捕らえているのは流れに揺蕩う『今』なのだ。視線はどこまで行っても『今』を追い続けている。
オニヤンマとサワクルミの大木、そしてここでしか嗅げない夏の匂いだけを残して、私は全ての視線とその行方へとアクセルを吹かした。
この第八話は個人的に思い入れの強いエピソードで、読者の皆様に一度に読んで頂きたいと大急ぎで改稿作業を進め、中途半端なタイミングではありますが、なんとか本日中にまとめて投稿することができました。楽しんで頂けていたら幸いに存じます。
ちなみに、第八話の一人称「草津直」は、「第三話 光」「第五話 御神木に祈りを」に登場しているキャラクターで、今後も登場する予定となっております。