第七話 恋とは異なる何か <姉視点>
姉視点
最近、妹が変だ。
まぁ、あの子が変なのは今に始まったことでは無いんだけど、近頃、妙に艶かしい目で私を見てくるのだ。
こっそりと監視されているような気がするので、現在守山家に発生している怪奇現象――毛羽毛現のポチの悪戯――に気付き始めているのかもしれない、とも思ったが、どうやら彼女はポチが見えていないみたいなので、そうではないみたいだ。
とすると、私に何か相談したいことでもあるのだろうか。
悩み……。
まさか、好きな人でもできたか?
もしそうならば、お姉ちゃんが何でも相談に乗るよと、ひたすら親身になってやる必要がある、可愛い妹の為に。
近頃は気温も徐々に温かくなり始めているので、きっと人々の心が開放的になって、冬に溜まっていた鬱憤その他諸々を払い退けようとしているのかもしれない。
おめでたいことに、この間も、結婚が決まった女子大時代のサークルメンバーから結婚式の二次会の運営を任せたいとお願いされたので、凛先輩と能登川先輩、そして彼女と同期だった私の三人で、会場のホテルに打ち合わせに行ってきたし、春というのはそういう季節なのかもしれない。
リビングのソファに座りながら、私はその日のことを思い出した。
生憎、その日は春の嵐だった。
一通り会場の下見を済ませたので、一階の広いラウンジでお茶でも飲みながら二次会の作戦会議をしようという流れになった。
受付で予約をしていないことを告げると、ソファ席まで案内された。
座席に腰かけ、メニューを眺めていると、ホテルのラウンジは特別高級感が漂っている訳でもないのに、不思議と贅沢な気持ちになってくる。
暫くすると制服の白いシャツとエプロン姿が素敵なウェイトレスがやってきた。
「ご注文は何になさいますか?」
「私、ホットココア」
「私も凛先輩と同じのにします」
「じゃあ、私も」
同じホットココアを頼んだ私達三人は、本来の目的である作戦会議そっちのけで、大学時代の新婦との思い出を語り合った。
「いやー、懐かしい話ね」
「そうですね。後は旦那さんが優しい方だったら良んですけど」
「そうねぇ」
私と凛先輩は沁々と言う。
すると、「旦那さん、顔合わせの会の時に滅茶苦茶緊張してたんですって」と、この中では一番社交的で、新婦と一番親交が深かった能登川先輩が、優しく微笑みながら言った。
「そうなの?」
「余りの緊張で喉が渇き過ぎて、その会だけで烏龍茶を四杯もおかわりしたって聞いたわ」
「物凄く飲むわね」
「物凄く飲みますね」
「あと、餡掛けのお椀が出された時に、小さなレンゲが一緒に付いてきたみたいなんだけど、それが緊張で見えてなくて、お箸を持ちながら、どうやって食べようって感じで、じっとお椀を見つめてたらしいの」
「微笑ましいわね」
「微笑ましいですね」
ほうほう、極度の緊張状態になると人は視野狭窄に陥ってしまうのか、なんて私が感心していると、私達の席の傍を、妖艶なオーラを漂わせるゴージャスな和装の女性と、帽子を目深に被ったマスク姿の付き添いの女性が通り過ぎた。
「先輩、今の人見ました? 素敵な着物でしたね」
「見た見た! 眉が麻呂のようだったわ」
「凄かった……。まるで映画から飛び出てきたみたいな感じ」
三者三様の視点だったが、総合的に言いたいことは余り違わないようだった。
「けど、ちょっと不自然じゃなかった?」と、ホットココアのカップを両手で覆うように持っている凛先輩が首を傾げる。
「付き添いの方?」能登川先輩は、いつものおっとりとした表情のまま、自信無さそうな声で答えた。
「確かに美人さんはズカズカと奥まで進んでいくのに、スタッフはそれを無視してマスク姿の付き添いの方を席まで案内してる感じでしたね」
「そう! そうなのよ!」
私がこっそりとゴージャスな和装の女性の方を窺うと、一人の男性と待ち合わせをしていたようで、付き添いの方と三人で何か話し込んでいる様子だった。
先程二次会の会場を案内してくれたスタッフから、「ここは結婚式や二次会にもよく使って頂きますが、一階のラウンジやレストランでお見合いや顔合わせなどをされる方も結構いらっしゃいます」という情報を得ていたので、彼女らはきっとそういう関係なのだろう、と私は思った。
しかし、ここからは何を話しているかまでは聞き取れないものの、何故か着物を来ている方が仲人の様に場を仕切っているし、かといって付き添いの方は帽子もマスクも未だに外していないことから、私はこの考察を打ち消さざるを得なかった。
「多分、和装の女の人、妖怪……なんじゃない?」と、凛さんは訝しそうな表情をしながら、雅やかな和装の女性の方を見ている。
もう一度私がそちらを窺うと、先に待っていた男性の目の下には隈が濃く刻まれていることが分かった。その所為か、男性が酷く疲れているように見えた。
ラウンジの大きな窓に打ち付ける雨が、車道の向こうに聳える駅を形の無い色彩だけの存在に変えてしまっている。
私達が帰る頃には嵐は勢いを弱めていたが、雨自体はしとしとと、いつまでも降り続いていた。
その日の帰り際、能登川先輩が、「みんなで女子力を向上させませんか?」と、私と凛先輩に紙袋をくれた。中身は仰々しい箱に納められたザクロジュースだった。能登川先輩のお迎えの車の中に用意してくれていたみたいで、箱に表記されている外国語を見るに、どこかの国のお土産らしかった。
家に帰ってからその値段を調べてみたら、目が飛び出る程高かった。高級過ぎて、正に法外と言っていい値段だった。
その御膳上等なザクロジュース様は、現在、台所の冷蔵庫の中に鎮座ましましているのだが、私が鋭く目を光らせているというのに、近頃、中身の減りが異常なのだ。
速力が大なのだ。
きっと誰かが飲んでいるに違いないのだ。
妹弟達には低くどすの利いた声で「飲んだら潰す」とキツく言い聞かせたので大丈夫な筈だから、きっと両親のどちらかだろう。
お肌の調子やホルモンバランスを整えてくれるという女性に優しい効能を耳聡く聞き付けた母が、内に秘めた女子力の向上心を幾つになっても衰えさせることなく、私の目を盗んでこっそりと飲んでいるのかもしれない。
夏目漱石の『こころ』の有名な一文では「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」といっているものの、無慈悲に娘の大切にしている物にまで手をつける手段の選らばなさは、人でなしと言わざるを得ない。精神的に克己心のないものは人でなしだ。
仮に父だったならば、奴が心底大切にしている愛しの育毛剤を隠してやろう。お肌の調子か毛根の命か。どちらかを選べ。
私は、毛羽毛現のポチに経緯をざっと説明し、ザクロジュースを飲もうとする輩がいれば私に伝えに来るように言い聞かせ、それと同時に飼い猫のチャッピーとも仲良くするように言い聞かせ、こっそりと台所にスタンバイさせた。
そして、そのまま静かにリビングを出て、向かいの物置部屋の扉の直ぐ裏側で息を潜めた。
スカートの裾に付いたチャッピーの抜け毛を摘まみながら、私は耳に意識を集中させる。
――絶対に尻尾を掴んでやる。